newsdigest
HOME


第51回 アレクサンダー・ポウプ
アレクサンダー・ポウプ

英国は長い歴史を持つ国である。ご先祖様が古いだけではない。英国人は、過去に学ぶことで、歴史を深くしてきたのである。もともとは辺境の二流国だったが、ひとたび国際政治の表舞台に登場するや、ヨーロッパ文明を自らに接木するように摂取した。グルメやファッションなど、官能的な美のジャンルでは遅れを取り戻せなかったが、演劇や文学に代表される言葉がものを言う知性、精神性に関しては、遅れてきたランナーながら、第一線に立つことが可能となった。

ポウプは新古典主義の代表的詩人である。ギリシャ、ローマの規範に理想を見、良識を磨いた。今回とりあげた言葉は、「Ode on Solitude(隠棲の賦)」と題された詩の一節だが、ここにも古典詩に横溢した調和の美への憧憬が満ちている。ギリシャ、ローマの文明が育んだ詩精神は、英国の田園という新たな聖地を得て、幹を伸ばし、枝葉を広げることになったのだ。

ポウプの詩は、充足を重んじ、静謐に安んじる。日々の平安のなかに、祝福を謳う。単なる無為とは違う。そこには、静かな感動がある。さりげない美に心をときめかす、鋭敏な感性が働いている。

この世には、調和がある。神意を受けたかのように輝く大地は、喩えようもなく美しい。森羅万象、すべての命が調和を保ちながら懸命に生き、美に輝いているのだ。そのハーモニーに、自分も和して生きたいと願う。個性の埋没などとは違う。自分というものを大事にしながら、周囲に対して軋み立つことをしない。消極的に見えて、実はなんとも積極的なのである。

この世は美しい。そう感じ、語る人の心には、澄んだ末期の目が光っている。背後に死が控えることを知るからこそ、生は一段と光り輝いて見える。事実、この詩の最後は、「Thus let me live, unseen, unknown; Thus unlamented let me die; Steal from the world, and not a stone Tell where I lie.(かくて人に見られず、知られずに生き、そして悲しまれずに死なしめよ。この世からこっそりと去り、我が眠る場に墓石すらも置かずに)」と結ばれる。

人は生き、やがて死ぬ。私もまた、今は生きているが、いずれ死ぬ。当たり前のことだ。なんら恐れることではない。その日まで、心に調和を保ち、静かな感動に日々を送ろう。つつましやかに、しかし真に命を深くして生きよう。そして、さよならも言わず、そっと退場しよう。生がそのまま死につながっていくように。

風はやさしくそよいでいる。木々の葉が、光と戯れて揺れている。鳥の囀りはずっと続いている。遠くに、羊の鳴き声がする。その命の流れを感じながら、私は静かに目を閉じる。何もかもが、徐々に遠くなっていく。そして、次なるステージに向けて、私は旅立つ・・・・・・。

第50回 トレヴァー・ベイリス
トレヴァー・ベイリス

現代英国の発明家、トレヴァー・ベイリス氏がモットーとする言葉である。電気のないアフリカの人々にも情報は必要だと、電気も電池も必要のない、手巻きラジオ(windup radio)を作ったことで世界的に知られる。企業の商品開発とは全く異なる次元でものごとを発想する、ユニークな発明家だ。

以前、長年勤めた会社を辞める決心をする時、この言葉に後押しされた。潮に流されて死に体でいるより、潮に逆らってでも自分らしく生きたいと、そう思った。とはいえ、とかくしがらみの多い日本人社会である。この言葉の力にすがるようにしてでなかったなら、清水の舞台から飛び降りるような行動がとれたかどうか、わからない。

ベイリス氏の言葉は、一から十までオリジナルということでもないらしい。「Only dead fish float with the current. Live fish swim against it.(死んだ魚だけが流れに浮く。生きた魚は流れに逆らって泳ぐ)」という、もとは誰の言葉かは不明ながら、古い表現もあるようだ。

ヴィジュアルなイメージとしては、死んだ魚が「current(流れ)」にぷかぷか浮いている方が、わかりやすい。だがここは、やはり「tide(潮)」とした方が意味が深い。しかも、ただ「float(浮く)」のではなく、「swim(泳ぐ)」とあるからこそ、メッセージ性がきわだつ。身の回りを見渡せば、いくらでもいるではないか、世の大勢になびいて、すいすいと泳ごうとする奴。本人は世渡り上手と思っているのだろうけれど、そこに本当の自分らしい生き方はない。会社のトップが替わるなどして潮が変われば、一気に高波にさらわれる。

ベイリス氏はテムズ川の浮島に、愛犬と住んでいる。テムズの流れは、潮の満ち引きに応じて、流れの方向を変える。上げ潮となれば、砂塵や泥濘を巻き上げるようにして、下流から途方もない勢いで水を押し上げる。そして引き潮の時間になれば、川は何食わぬ顔をして、上流から下流へと水を運ぶ。潮は変わる。世の勢い、大勢というものも、そうしたものだ。そのことをベイリス氏は知って、潮に乗じて泳ぐような生き方を否定したのだろう。我が道を行く美しさ、つつましくも真に自分らしく生きる凛乎とした生き方を、私はこの人のこの言葉に学んだ。

実は、過去に一度だけベイリス氏本人と会ったことがある。着古したよれよれのジャケットを着て、とても風采が上がるようには見えなかったが、快活として、清々しさを感じさせた。パイプを離さず、煙に巻くという言葉そのもののような冗談を延々と放ち続ける姿は、飄々(ひょうひょう)として、自由の風をまとっていた。英国の持つ最も健やかな精神が、そこに輝いていた。

第49回 ジョナサン・スウィフト
ジョナサン・スウィフト

生粋の皮肉屋のスウィフト。「vision」を論ずるに、わざわざ「invisible」という否定形を持ち出して構文を組み立てるあたりにその片鱗が窺えるものの、意外にも(?)、まともな観照である。巨人国や小人国、果ては空飛ぶ島や馬の国など、「ガリヴァー旅行記」に繰り広げられた世界を見れば、その悉(ことごと)くが、現実には見えるはずのないものを「幻視」することで、隠れた真実を明らかにするものである。スウィフトは、いかにも「ヴィジョン」の達人であった。

スウィフトの言に従って、身の回りの「ヴィジョン」を見てみよう。例えば、「テレヴィジョン」。

自分の目の届く範囲内では直接に見ることのできないものを、電波によって伝え、見せてくれるのが、テレヴィジョンの本質だと理解できる。BBCの顔、自然番組のスペシャリストのアッテンボローのリポートで、世界の果ての珍しい風景やそこに棲む動物でも見せてくれれば、なるほどこれがテレヴィジョンだと納得する。或いは、報道管制が厳しく少しも様子のわからないチベット情勢についても、中国当局の目を盗んででもカメラを入れ、見えるようにするのが、テレヴィジョンなるものの使命である。そんじょそこらの、掃き溜めの屑のような日常を垂れ流していては、テレヴィジョンの名がすたろうというものだ。

さて、テレヴィジョンも然りであるが、現代は「ヴィジョン」があまりにも日常化してしまって、すいぶん安っぽくなってしまった。「ヴィジョンがない」、「ヴィジョンを持たなければダメだ」と、社内会議では何とかのひとつ覚えのようにその言葉が繰り返されるが、そのうち、明日の夜の献立を考えることさえ、「ヴィジョン」と言われるようになるかもしれない。スウィフトが語ったような奥深い「ヴィジョン」は、すっかり「invisible」になってしまった感がある。

では、そのヴィジョンなき時代に、ヴィジョンを持つにはどうすればよいのか? 皮肉にも、まず手始めに、テレヴィジョンをとめることだ。日常に氾濫する、垂れ流しのイメージに惑わされてはならない。誰の目にも見えるところに、真実はない。目を閉じ、耳を澄まそう。すると瞼の奥に、水底に宝物を探すようにして、見えてくるものがある。それまでは闇に覆われていたものが、次第にはっきりと姿を現し始めるのだ。

さあ、目を開けよう。世の中は全く違った色をしていることだろう。万物に降り注ぐ光の加減までが、神々しい輝きに満ちているではないか。ヴィジョンを得るとはそのようなことだ。スウィフトの言葉は、21世紀のヴィジュアル時代にも、少しも色褪せていない。

第48回 ウィリアム・シェークスピア
ウィリアム・シェークスピア

青春の愛の聖典と呼ぶべき「ロミオとジュリエット」から、有名な夜のバルコニーのシーン。ロミオが庭に来ているとは知らずに、ジュリエットの口から愛の独り言が洩れる。「おおロミオ、ロミオ。あなたは何故ロミオなの?」。この天下に知られた名セリフのすぐ後で、今回の言葉が登場する。キャピュレット家の令嬢ジュリエットにとって、問題となるのは、自分の愛した男が背負う、モンタギュー家のロミオという名前だけ。愛するかの人は、家同士が対立するモンタギュー家の一員でなくても、間違いなくかの人なのだから。

世の常識のレベルで言えば、名前というものは大切なものである。いい加減に扱えるものではない。自分の名前を間違って呼ばれて、嫌な気にならない人はいないだろう。名前がかように大切なのは、そこに個人のアイデンティティが宿るからだ。私の知人の英国人で、いくらたっても私の名前が正しく発音できない人がいて、だったらチャールズとでもウィリアムとでも英国名をつけて呼んでくれと冗談半ばに提案したところ、それはダメだとして、言いにくそうに顔を歪めながら何度も我が名を練習していた。おそらく、かつて世界中の植民地で現地の子供を英国流の名前で「教育」してしまった過去への悔恨や反省があるのだろう。我が名の発音はその後も進歩しなかったが、その志、精神や大いによしである。

名前は大切。だが同時に、人として肝心なのは中身だよというような気持、覚悟が一方にあると、生き方に余裕が生まれて、元気が出る。名前だけじゃない。国籍、人種、大胆に言えば、これらは皆、「外面(そとづら)」でしかない。人は、「外面」は選べない。モンタギュー家に生まれるもキャピュレット家に育つも、自分の意志のあずからぬ運命としか言いようがない。だが、「外面」を超えて、大事なものが人間にはある。それが、本質というもの。ジュリエットの言う如く、バラの花の芳香は、「Rose」と呼ぼうが「薔薇」と記そうが、その美しさの本質に変わりなどない。肝心なのは、薫ること。本質を磨き、輝くこと。

ロミオとジュリエットの愛は、それぞれが属した「家」という「外面」を超えた。たとえ現実には、死によって幕を下ろすことになっても、心に壁を認めぬふたりの至純の愛は、シェークスピアの筆によって、永遠の生命を得た。名前が代表する「外面」に縛られることなく、人は本質にこそ輝き、自由に生きたいものだ。

第47回 ジョン・ラスキン
ジョン・ラスキン

随分前のことになるが、世界の文学の故郷を訪ねる日本の新聞の連載ルポで、起伏に乏しい英国の田園風景のなかを長時間ドライブし続けて退屈であったとする文章を読んだ覚えがある。この記者が目的地まで専用飛行機にでも乗って飛んだなら、そして、移動時間の短縮によって生まれたフリータイムをショッピングや観劇にでも費やすことができたなら、そんな感想は漏らさなかったろう。これと同じ感覚で、我々も長距離バスや鈍行列車の旅は、退屈=「dull」だと思い込みがちである。

だが、注目。ラスキンは、まさにその反対を言った。駆け足の旅こそ「dull」だと主張する。普通の感覚ではない。ターナーやラファエル前派の美術を支持した批評家は、世の常識に惑わされぬ鋭い目と、独自の感性の持ち主であった。

旅とは、小さな発見の連続である。風景や自然にも、風俗や人情にも。車窓に躍り、戯れる光の微妙な変化にさえ、発見のときめきがあるものだ。発見は感動を伴う。旅とは、感動する心の軌跡である。感動の機会を奪われれば、旅はただの移動になってしまう。そして、移動が旅の意味を失って、ただの移動に堕した時、それは「退屈」以外の何物でもなくなるのだ。

私は、まあこれは貧乏が必然的になせる業でもあるのだが、パリにもアムステルダムにも、バスで出かけたことがある。すると、道中に見えてくるものが実に多いことに気づかされた。夜のドーヴァー海峡を越える時には、各国(とりわけ東欧)のプレートをつけた大型トラックの多さに、欧州経済の最前線を見る気がした。飛行機でもユーロスターでも何度も往復したロンドン~パリだが、道中に得る発見や感動に関しては、こちらの旅の方が遥かに収穫が大きかった。

「タイムイズマネー」を説いたのは、米国のベンジャミン・フランクリンだったが、時間を経済性のみで計るこの手の考えが、20世紀を頂点とする米国の繁栄を築き、今もなお、世界はその延長上に成長を目する。

だが、まさしくその20世紀の到来を拒否するかのように世を去った(1900年に逝去!)ラスキンという英国の巨星に、私はこの国が長く大切にしてきたものを教えられる気がする。ガーデニングや茶を啜るひと時にも通じる、大袈裟でない静かな感動、人としての穏やかなる心の昂ぶりである。

長旅を「退屈」としか感じられない感性が世を牛耳ると、それこそ世界は感動を忘れた「退屈」の墓場と化す。ラスキンが美術批評から後に社会思想家として社会改良の理想を説き、実践するようになるのは、当然の道だったのかもしれない。

<< 最初 < 前 1 2 3 4 5 6 次 > 最後 >>

RESULTS 1 - 9 of 51

小野琢正さん作・サイン入り絵葉書セットをプレゼント
eBOOK THIS WEEK
この言葉 名言に想う
バックナンバー
PROMOTION
クルマのことならおまかせください JEM
日経新聞をパソコンで!
リッチモンド・ファーマコロジー 治験ボランティア
Japan Travel Centre
from News Digest
ご意見・ご感想
リンクダイジェスト
定期購読のお申込み

英国ニュースダイジェストに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
 Copyright ©2005-2010 Eikoku News Digest Ltd. All Rights Reserved. Do not duplicate or redistribute in any form.