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第33回 オスカー・ワイルド
オスカー・ワイルド

美神の守護者として、唯美主義、芸術至上主義を標榜してやまなかったオスカー・ワイルド。世紀末の美を牽引した才人文士は、恋愛に関してもひと筋縄ではいかない美学の持ち主だった。芸術に誠実さなど関係ない、つまりは美かそうでないかだと主張したワイルドだったが、恋というものに対してもまた、世間の整える枠や型のはるか外側に真実を見出そうとした。ここに引いた言葉は、歴史悲劇「パドヴァの公爵夫人(The Duchess of Padua)」のクライマックスに登場するセリフだが、ワイルドらしいサビの利(き)いた恋愛の絶対性が謳われている。

恋というものは常に孤独である。愛し合う者同士、ふたりだけの世界に浸りきろうとするのが恋の本能である以上、衆に混じらず、孤独の道を行くが信条なのである。親にも親戚にも会社の人間たちからも歓迎され、周囲の祝福に満ちて結婚するような愛もあるだろうが、悲しいかな、人生の幸福はあっても、身を焼き、むさぼるような恋の陶酔は、どこかおぼろげであるに違いない。灼熱の恋は、周囲から屹立する。逆説めくが、世の常識を越え、指弾を受けるような禁断の恋には、孤独が至福の繭をつくる。仮に、その黄金の巣が永続せず、夢のようにはかないものであるとしても…。

恋にはまた、魂の浄化作用がある。普段着の人間には、日常に流された様々な愚かしさなどがあるに違いないが、恋をすると、人は心にも生き方にも一種のダンディズムというか、居並ぶ人々の群から頭ひとつ突き出るようにして、矜持を高くするようになる。俗を離れて、高貴なる至純の道を志向する。おのずと、神聖な輝きに包まれる。

ワイルドの言葉に戻ろう。ここでのポイントは「罪」という言葉につきる。世間が「罪」とし、白眼視するような恋でも、それが真の恋であるなら「罪」になぞ値しないと、ワイルドは明言したのだ。唯美主義者として超俗の姿勢を貫いたと同様、ワイルドは恋に関しても世の常識になびかず、孤高の光を求めてやまなかった。

それにしても、ワイルドの放つ「罪」という言葉の、なんと妖しい輝きに満ちたことだろう。ビアズリーの絵などに同じく、ここには世紀末美学のロマンのしずくが、めくるめくまでの芳香を放っている。

ロンドン社交界のスーパースターで、演劇界の頂点にも立ったワイルドが、その後、まるで凡俗の世の中からの復讐を一手に受けるように、同性愛ということで「罪」とされ、獄につながれて、果ては社会から追放されるように死に至るのは、なんだか妙に帳尻の合った悲劇を見せられるようで哀しい。

第32回 ロバート・ブラウニング
ロバート・ブラウニング

病弱のエリザベスから真の自分を愛してと懇願され、その彼女と共にイタリアに駆け落ちしたロバート。初めはピサに居を構えたが、後にルネサンスの都・フィレンツェに落ち着いた。至上の愛を貫くふたりは、人間復興の町という格好の舞台を得たのだった。

人間として真に生きることを得たに留まらない。燃え上がる愛のさなかに、それぞれ詩魂のほとばしるままに愛の詩を綴った。エリザベスは詩集「ポルトガルからのソネット」を、ロバートはその名もずばり「男と女」という詩集を世に出す。前回の名言も今回のものも、ともにイタリアで編まれたそれぞれの愛の詩集から引いたものだ。

ふたりの愛の邪魔となるものは何もなかった。生活のための仕事があるわけでもない。愛を純化し、鎧に固めたような黄金生活を、ふたりは生きた。生きることは愛することであり、愛することは生きることだった。まさしく、愛がなければこの世は闇、地は墓と化す。ロバートは、詩の世界でも、エリザベスと愛の谺(こだま)を返し合った。

ブラウニング夫妻に倣うわけではないが、至純の愛を全うしたかったら、手に手をとるようにして、外国にでも脱出すべきかと思う。外国が許されぬなら、山奥にでも籠もるがよい。外界からの干渉を徹底して退け、隔絶されたふたりの世界に浸りきるのだ。朝から晩まで片時も離れず、ひとつ繭にくるまるようにして暮らす。寝ても醒めても、互いの息が届くほどの距離に始終いなければならない。そんなしんどい、息が詰まるとおっしゃる御仁は、失礼ながら、至上の愛には縁のない方だろう。スペインの天才画家ダリは、掠奪愛によって我がものとした新妻ガラと、ホテルの部屋に何カ月も籠もりきり、一歩も外に出なかったという。いかにも奇矯の人ダリらしいエピソードだが、これもやはり愛の砦への籠城だったに違いない。

現代は、愛に生きることが難しい時代だ。男女ともに、仕事が待っている。携帯に電話はかかってくる。メールのチェックもある。テレビがふたりの間にたちはだかり、会話を奪う。仲のよい夫婦やカップルはいても、ブラウニング夫妻のような全人格的にして絶対的な愛は、ノスタルジアの対象になってしまった気がする。互いの間に一切の夾雑物(きょうざつぶつ)を認めず、凸凹のぴたりと合わさったまま偕老同穴(かいろうどうけつ)を貫く絶対値としての愛は、21世紀の今ではもはや神話だろう。

フィレンツェに行けば、ブラウニング夫妻の暮らした家は観光スポットとなっている。愛を鎧と固めて巣籠もりすることは難しくとも、やはり人は至純の愛に憬れる。かなわぬ夢と知りつつ、人は夫妻の愛の威光にすがろうとするのかもしれない。

第31回 エリザベス・バレット・ブラウニング
エリザベス・バレット・ブラウニング

19世紀英国を代表する女流詩人で、やはり詩人だったロバート・ブラウニングの妻であったエリザベスの愛の詩の一節。後に桂冠詩人となった夫の方が今では有名だが、エリザベスの生前には、圧倒的に彼女の名声の方が上だった。

引用した句の後には、その微笑や容貌、やさしげな話しぶりのために愛しているなどとは言わないで、と続く。真に人間性への共感に立脚した純粋な愛によって自分を愛してくれと、そう主張しているのである。「nought」は「naught」とも書き、「nothing」の古い言い方であるが、「nought except(それ以外の何ものでもなく)」という限定の強調形が、愛の真実を求め、訴えるエリザベスの気迫をよく表している。

至純の愛、そして永遠の愛を彼女は望んだ。男女が互に、その存在の核に当たる部分に触れ、がっちりと組み合う、そのような愛。人格を尊び、敬い合う高邁な愛。可愛いねとか、きれいだなどと誉めそやす次元に留まる愛は、永続しない。どれほど魅力的であろうと、容貌など時の経過によって否応なく変わるものなのだから……。

また詩の後半ではこうも言っている。憐れみのゆえに愛さないで。憐憫の情の心地よさではダメなのだ。慰みを長くもらえば、涙も出なくなる。その時、愛は消滅する。

エリザベスは15歳の時に脊椎を痛め、以後も病弱だった。詩人としての名声はあっても、自宅に籠もりきりの暮らしだった。ロバートと出会ったのは39歳の時だが、もともとはエリザベスの詩を読んで感動したロバートが手紙を出し、文通からやがて家への出入りを許されるようになり、愛に発展したのだった。憐れみでは嫌、という彼女の真意は、病弱の身を措いては考えられない。

それにしても、愛というものに真剣な時代だった。愛に打算や妥協はありえず、魂そのものでなければならなかった。近頃流行の、限りなく遊戯に近いライトな恋愛など、彼らの辞書にははなから載っていなかった。その突き詰め方の一途さを、つき従うことが難しく感じる向きもあるだろうが、愛の光芒が放つ鮮烈さは、時空を超えて輝いている。

父に結婚を反対されたエリザベスは、ロンドンのマリルボーン教会でロバートと秘かに結婚、1週間後にはイタリアに駆け落ちする。そして夫妻は、エリザベスが現地に客死するまで、仲睦まじくイタリアに暮らした。

至上の愛を欲した人は、愛を人生における至上のものと考え、疑いを持たなかった。信念としての愛に生き、その愛に殉じた。愛に一途に生きた人の言葉は、今もって美しい。

第30回 ウィリアム・シェークスピア
ウィリアム・シェークスピア

借金のかたに要求した1ポンドの肉に対して、血を流さずに取れるなら取れとした名裁きで知られる「ヴェニスの商人(The Merchant of Venice)」。「恋は盲目」とは幾度となく耳にしていながら、シェークスピアのこの劇に登場するとは、なかなかに気がつかないものだ。

さて、この名言の考えるポイントは、どのような人物がこのセリフを口にしたかという点である。すなわち、一見予想されるような、恋の思い出もカビが生えるほどの過去形となり、髪や歯とともに色気もすっかり抜け落ちて、今や皺枯れた声で説教臭いお小言を垂れるのを日課とする老人の口から出た言葉ではないという点である。セリフの主は金貸しシャイロックの娘ジェシカであり、青春を生きる彼女は、燃えるような恋の只中にある。

つまり「恋は盲目」とは、盲目だから用心しろ、慎みなさいというネガティヴな諌(いさ)めの言葉ではなく、恋する者の特権を大胆にも自ら謳歌したポジティヴこの上ない言葉なのである。恋をしているのだもの、世間を統(す)べる物指しなんて私たちには通じないわと、熱い血潮のめぐるまま、胸を張るようにして放たれた、高らかな「解放宣言」なのである。

このような言葉を発するジェシカは、溌剌とした利発な娘に違いない。何しろ、盲目=見えないと嘯く本人には、恋というものの本質がいともクリアーに見えている。理性の目は、「follies(愚かなこと)」をきちんと見分けている。それでいて、恋という情念が翼を得れば、どこまでも天翔(あま)がけるしかないということを、この娘は身をもって知っているのだ。

シャイロックはユダヤ人であるから、通常はその娘もユダヤ教を奉じて、その信徒と結婚するのが決められた道である。しかし、ジェシカが選んだ恋の相手はキリスト教徒であった。ユダヤの娘はユダヤ教を捨ててまで、恋に走る。父シャイロックはユダヤの掟に縛られているが、恋する者の自由の翼を得た娘に、古い掟は通じない。

そう考えれば、この言葉は天下堂々の恋愛宣言、大胆不敵な恋のオマージュとなろう。恋の盲目を言いながら、視界は広々、すかっと開けて、爽やかささえ感じさせる。しかも、若い女性の側からというところが、なかなかに今日的でいい。

おそらく、恋する者だけが口にすることのできる名言が存在するのだと思う。恋が特権的に与える自由は、思慕の情をかきたてるだけでなく、想いにも翼を与えて、言葉に泉を恵むのであろう。「恋におちたシェークスピア」という映画があったが、名言博覧会を地で行く演劇界の巨星は、やはり恋の悦びを熟知した男だったという気がしてならないのである。

第29回 ジョージ・ロバート・ギッシング
ジョージ・ロバート・ギッシング

私は英国のクリスマスが好きだ。地下鉄も全面運休、ひっそりと街が静まり返るあの雰囲気が好きだ。慌しく生活に追われる日常の時間が、魔法にでもかけられたように止まって、静謐が訪れる。キリストの生誕日であるという一宗教的な意味合いを超えて、時が神聖な色合いを帯びてくる。久しく忘れていたような貴重な時間が生まれるのだ。

この日、友人知人が集まって飲み食いに明け暮れるようでは勿体ない。人生の来(こ) し方、過ぎ去った日々を思うべし。離れて久しい旧友を思うべし。鬼籍に入った懐かしき人を思うべし。その孤独にして濃密なる時間こそが、クリスマスの真情なのである。

この言葉は、19世紀後半の作家・ギッシングが、死の年の1903年に出した「ヘン リー・ライクロフトの私記(The Private Papers of Henry Ryecroft )」の中の一節である。ヘンリーという架空の人物に仮託する形で、人生や社会、自然への観照を重ねた限 りなく随筆に近い小説であるが、百年後の今から見ても、納得させられるところが多い。

ギッシングが、「用心深く」クリスマスの孤独を守らなければならなかったのと同様に、いや遥かそれ以上に、21世紀の現代はクリスマスの静寂を堅持するのが難しい。なにし ろ、町は数ヶ月も前からクリスマス商戦に湧きかえっている。テレビは、家族揃ってプレゼントの交換をしてにっこり笑顔といった、ステレオタイプなクリスマスのイメージ を繰り返す。「浄しこの夜(silent night, holy night)」の「silence」も「holiness」も どこ吹く風、クリスマスツリーは今や金のなる木と化してしまった。

実は、昔からの人間の暮らしには、一年を通じて神聖な日、時間が折々に存在し、ク リスマスはその頂点に立つものであった。家庭生活のなかに、自分自身の足元を見つめ る敬虔で厳かな時間が存在したのである。キリスト教国でなくとも、豊穣の恵みを大地 に感謝するような慣わしは、どこの地のどの民族にもあるものだ。神聖の時が人を穏や かにし、慎ましやかにした。自然とも他の人々との間にも、麗しき調和を生んだ。

他人(ひと)様の楽しみをとやかくは言えぬ。青春の只中にある若者たちに、静かにしろと言っても無理だろう。賑やかなクリスマスもあっていい。でも私は、そっと孤独にしておいてくれるクリスマスが好きなのだ。シャンペンも、かつて無償の愛で私を包んでくれ、また私に無償の愛を与えさせてくれた大切な人たちの思い出を噛みしめながら、そっと独り傾けたい。ギッシングの感性を尊びつつ、それこそ用心深く、私はクリスマスの孤独を守りたいのである。

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