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第24回 T. S. エリオット
T. S. エリオット

小さなところで言えば、同期入社の誰よりも早く出世がしたいなどという気持ち。大きなところで言えば、歴史に名を残したい、不世出の英雄でありたいなどという欲望。競争心や名誉欲は人間の業のようなものだろうが、エリオットはそれを諸悪の根源、万難のもとと断じた。

俺が俺が、という肥大した自我。周囲の者に抜きん出て、自分の能力を光り輝かすのだという自惚(うぬぼ)れ。尊大にして過剰な自意識は、他者へのやさしい眼差しを失いがちだ。傲慢が昂じれば、自他の間のバランスが崩れる。はた迷惑とはよく言ったものだ。

向上心や向学心を、否定はしない。今日よりも明日、明日よりも明後日と、自らにより上のレベルを課して努力を続けることは、人として尊い行為である。語学が上達したい、ピアノがうまくなりたい、いい絵を描きたい……これらはすべて、自らに鞭を打つようにして精進を重ねる努力を必要とする。ひと筋の道を懸命に進む人は、みな美しい。

だが、「important」でありたいと望む欲心は、道を究める純粋さに比べると、ずいぶんと生々しく、俗臭芬々としている。自己満足で終わるならともかく、大物志向とは、他者を圧し、高みの座に君臨するのが条件のようなものだから、必ずや周囲を巻き込む。勝手な野望に巻き込まれた方にしてみれば、たまったものではない。

わけても、政治家がこの手のトラウマに捕らわれると、ろくなことがない。イギリスがアメリカに与し、虚構の根拠にすがってまで何故イラクに侵攻したのか、そこには複合的な要因が絡むだろうが、ブレア前首相が歴史に残るような「偉業」を目して「英断」に及んだという面もあったように思う。そもそも戦争や紛争がからむと、イギリスの政治家の頭には、どうしても第2次世界大戦を勝利に導いたチャーチルの亡霊が現れるものらしい。私はこれを「チャーチル病」と称したく思うのだが、45分でイギリスを攻撃してくる大量破壊兵器に備えるとしたあたり、ナチスドイツに対して妥協を拒否した大政治家に自己をなぞらえようとしたような気がしてならない。自己の責任に於いて兵を進めたイラクが今もあのような惨状でありながら、首相を退陣してなお、今度はパレスティナに平和特使としての場を求めるなど、この人の病根は深い。

自分を天下の大人物と誤認した誇大妄想的な幻影は、危険である。独りよがりの使命感もまた危ない。20世紀の2つの大戦の辛酸をなめたエリオットの言葉は、21世紀の現代にも、なお命を失ってはいない。

第23回 ジョージ・バーナード・ショー
George Bernard Shaw

イギリス近代演劇の確立者と言われる劇作家、バーナード・ショーの言葉である。ミュージカル「マイフェアレディ」の原作となった「ピグマリオン」の作者と言えば、一般にも馴染みやすくなるだろうか。辛口の皮肉屋として知られ、一番の愛読書は? と質問されて、銀行の預金通帳さと嘯(うそぶ)いたなど、気難しくも超俗的な人柄を偲ばせるエピソードは多い。虎狩りというものが、人間の側から見るか虎の側から見るかによってがらりと様相を違えるのと同じく、犯罪と正義の定義も、立場や見方によっていくらでも変容し得るとした今回の言葉も、いかにもショー一流のシニカルな炯眼(けいがん)がとらえた世の中の「真実」に相違ない。

ただ、その意味するところをより深く理解しようと思えば、やはりこの劇作家がアイルランド出身であるという事実に行き当たらざるを得ない。イングランドによる長い支配と圧政にアイルランドは呻吟( しんぎん) し、その痛みは、幾重にも屈折した心理が放つ言葉の業火となって過激な熱を帯びるところとなった。皮肉や風刺、自己韜晦( とうかい) 的な諧謔( かいぎゃく) は、「ガリヴァー旅行記」のスウィフト以来、アイルランド文学に一貫して流れる文学的DNAだ。

このショーの言葉に接するたび、私は一人の人物を想起する。ロンドンのビッグベン、国会議事堂の前に堂々と像の立つオリヴァー・クロムウェル。17世紀、王権を倒して市民革命を導いた議会派の中心人物であれば、今も国会に祀られるのは当然と言える。だが その同じ「偉人」が、ピューリタン的情熱に駆られ、カソリック憎しとアイルランドに攻め入り、各地で大虐殺を繰り返したとあれば、話は一気に逆転する。海峡を越えた途端に、「正義」は「非道」にひっくり返る。現にアイルランドでは、クロムウェルは今なお、先祖代々の憎しみを背負うイングランドの「クソ野郎」の代表人物なのだ。

もちろん、ショーの言葉は、民族的情熱に駆られた懐の狭い愛国主義に固まったものではない。刃(やいば)を向けられたのは、あらゆる意味での社会的偽善そのものである。少年院の教 戒師の如く、ものごとの本質に目を覆ったまま、したり顔で古い道徳を説くような者には、反発を感じたのだろう。世の中で説かれる正義が内包する偽善に、熱い胸は我慢ができないのだ。まさに虎のように、ショーは吼えざるを得なかったのである。

その意味では、ショーの言葉は、文面上の表層で理解を留めてはいけない。犯罪と正義 の差に懐疑の文言を発した劇作家は、その実、両者の決定的な差を誰よりも知る人だった に違いないのである。

第22回 トマス・フラー
トマス・フラー

歳月を超える名言がある。幾星霜を経て、その価値が色褪せぬばかりではない。まるで、数百年の後のありようを予見し、遥かな後世に向けて発せられたかのように、あまりにも「現代的」な生命力を持つ言葉なのである。今回のこの言葉など、その筆頭格であろう。9.11以来世界中を巻き込んで声高に唱えられる「War on Terror(対テロ戦争)」の時代を見越して、遠い時間の彼方から放たれた鋭い矢のようなものだ。

それにしても、この言葉の「今日性」は衝撃的である。そら恐ろしいくらいのリアリティがある。発言者のトマス・フラーは17世紀、市民戦争の時代の聖職者だが、いかに血で血を洗うような戦いを幾度となく目の当たりにしたにせよ、ここに平然と述べられた「真実」は、400年の歳月を貫き、21世紀の現代にこそ真の輝きを得るような気がしてならない。

「セキュリティ」の確保は、アメリカを先頭に対テロ戦争の時代の世界の指導者によって、毎日のように、しかも焦眉(しょうび)の急として語られる。だが、安全確保の対策を講じることは、なにがしかの敵を想定して、その侵犯から守るということであるから、どうしたって、灰色のものを色眼鏡で影を濃くして見ることになるし、臭いと感じれば、蓋をして封じるにせよ、蓋をこじ開けて中身をさらけ出すにせよ、有無を言わせずという強引さで迫ることにもなる。要するに、力で抑えつけるという姿勢からは免れない。

そこに、落とし穴がある。力を頼みとする限り、必ずや排他性の熱を帯びた盾を構えざるを得ず、対象とされた者たちからすれば、矛を突きつけられたに等しい傷を負い、憤懣を抱えることになってしまう。セキュリティ強化が必死であればあるほど、不愉快の種を撒かれた心は屈折し、どす黒い感情を溜め込んでいく。憎悪の毒がふくらんで爆発すれば、天を突くように聳え立つ繁栄の城、権威の砦(とりで)も、木っ端微塵に粉砕され、倒壊する。

力で抑えつけるだけでは、真の解決はない。しかし、我々にとって真に苦しいのは、既に諍(いさか)いが始まっている時、愛の言葉は空しく、力を頼みに手段を講じざるを得ない点である。要するに、未来には地獄の口がぽっかりと口を開けて待つだけなのだ。

フラーの言葉を「発見」した時、そのあまりの今日的なリアリティに、私は慄然とした。地獄の黙示録を覗くように思った。救いのない分、フラーの言葉は真実を穿っていると言わざるを得ない。世界の指導者たちは、この言葉をなんと聞くだろうか―。

第21回 ウィリアム・シェークスピア
ウィリアム・シェークスピア

名言博覧会の巨艦シェークスピアの劇中、「お気に召すまま」からの一節である。ここ数回、女、そして男、或いは男女の性差を語った名言を扱ってきたが、その締め括りとして、シェークスピアに登場願うとしよう。

日本ではこの訳として、「この世は舞台。人間はみな役者」としてしまう場合があるようだが、ここはやはり「男も女も」という要素は忘れずにいてほしいものだ。心も身体も差があればこそ、あらゆる感情と心理のやりとりーー駆け引きや面当て、馴れ合い、凭(もた)れ合いにしっぺ返しなど、悉(ことごと)くはみな、男女の間に生じる摩訶不思議な磁力なのである。それらが人生の綾をなし、喜怒哀楽、幸不幸も、とどのつまりはここに発しここに極まる。

実は劇中のセリフでは、この後、人生を7つの幕に分けて、赤ん坊から、老いによって再び赤子状態に回帰するまでの各段階が述べられるが、喜劇調の長口上よりも、冒頭に置かれたこの短い2行の方が遥かに深く、人生の真理を穿(うが)っている。

芝居には、筋からセリフまでを決める劇作家がおり、舞台のすべてを司る演出家がいる。いや、具体的なそれらの存在を超えて、劇そのものの織り成す運命や命の律動がある。人の人生もまた然り。男女の愛憎劇はもとより、人が生き、事をなす行動、活動のすべては、己自身はどれほど一生懸命に、全身全霊で打ち込んだとしても、それはどこか大いなる運命の神の掌の上で躍らされているようなものなのだ。しかもそれは、男も女も、おしなべて従わざるを得ない宿命なのである。その意味では、人としての道に、男女の差などない。

男女の違いを述べた「名言」には、どこか相手の性をなじるというか、殊更に差を言い立てて鬱憤を晴らすといった、尻の穴の小さいところがなきしもあらずなのだが、そこへ行くと、さすがにシェークスピア、宇宙的な運命論のなかに男女ともに解放させている。我らの魂が肉体を離れて、星座の神々に見守られながら、星々のきらめきに満ちた宇宙を遊泳するようではないか。この大きさは、全くシェークスピア独自の世界である。

身近なところに、似た言葉を見つけた。「天に軌道のある如く、人はそれぞれ運命というものを持っております」--。寅さん十八番の啖呵売(たんかばい)の名セリフだが、ここに漂う東洋風の諦念は、シェークスピアには無縁だ。どこまでも己自身を貫き、個々の生を燃焼させる。たとえ、運命の糸に操られる身であっても、ぎりぎりのところまで獅子奮迅の努力を続けてやまないのだ。この名言には、激しく燃えた後の熾(お)きを見るような、叡智の静けさが満ちている。

第20回 T.S.エリオット
T.S.エリオット

アメリカに生まれ、40歳を前にイギリスに帰化した詩人のT.S.エリオット。20世紀のモダニズムを代表する詩人も、感性としてはアメリカよりイギリスの方がしっくりきたらしい。今回のこの言葉にも、そんなエリオットの英国流儀が生きているように思う。

確かに、日常的な次元から見ても、男はずぼらというか、要するに忘れやすく、女は執拗なまでに昔の記憶を追っている。結婚記念日を憶えていたかどうか、妻が夫を難詰して、年ごとに夫婦喧嘩の種となる家庭もあることだろう。結婚記念日以外にも、初めて互いにを打ち明けた日、キスをした日、結ばれた日と、やたらとその種の「記念日」を記憶し、 思い出にすがるように生きている女(ひと)までいる。大切な日をいとも簡単に忘れてしまう夫に、 歯ぎしりするような苦い感情を抱く。甘い思い出は褪(さ)めずとも、現実の伴侶との間には、昔日の親密さはもはやない。忘れるかどうかは別として、蜜月時代の絆はとうに過去形と化している。

また、政治家ややり手の経営者などを見ていると、なるほど男とは過去など振り返らず、常に新たなチャンスを狙うことを宿命づけられているのかと思える時がある。後ろを向かず、前のみを見て進むような生き方を、己の人生哲学として誇らしげに語る男もいるが、社会的にも、男のそうした猪突猛進的な性癖を許容し、後押しする土壌がある気がしてな らない。

逆に、女性の方は、過去の出来事や縁を後生大事に生きることが暗黙の美徳とされている。例えば、不幸にして配偶者に死に別れた場合、男ならば新たな妻を娶ることは当たり前とされるが、女ならば亡き夫の菩提を弔い孤閨(こけい)を守って生きることを周囲から期待され強要されかねない。エリオットの言葉も、こうした社会性をもう少し汲み取るならば、「男は忘れ得るが、女は思い出に浸らされる」と訳し直した方がよい場合もあるだろう。 さて、私も男の端くれだが、健忘症的部分はあるにせよ、忘却を性(さが) として生きているとは、どうしても思えない。むしろ、生きている限り忘れ得ぬ人生の場面や光景をいくつも抱えている。愛惜も懐旧も、郷愁もある。未練はなくとも、悔恨はある。過去をきれいに払って生きるなど、私の辞書にはない。

人として真に忘れ得ない事柄は、男も女も忘却の河に流すことはできない。たとえば戦争で子を亡くした親は、愛する我が子を忘れ得るだろうか。「move on」とよく言われるが、男女差に関係なく、簡単には「move on」できない心を、私はより人間的に感じてならないのだが、どうであろう。

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