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第15回 ジョージ・エリオット
George Eliot

名言を構成するロジックには、いくつかの型がある。エリオットのこの言葉は、私流に言うなれば、典型的な「うっちゃり型」となる。つまりは、前半で世の大勢、常識に乗っかっておいて、後半、ぎりぎり土俵を割る寸前のところで、えいやとばかりに相手をひねり倒す。相手の力を充分に呼び込んでいる分、技が決まれば切り返しは見事のひと言に尽きる。常識は木っ端微塵に粉砕され、少数意見に軍配が上がる。

しかもこの言葉の場合、「うっちゃり」はロジックだけではなかった。「ジョージ」と言えば男の名前だが、実はその名を名乗る当人は、メアリー・アン・エヴァンスという本名を持つ女性だった。彼女は、女でありながら、ジョージ・エリオットという男の名で小説を発表し、ヴィクトリア朝を代表する作家のひとりとなったのであった。つまり、これは二重の意味で、世の常識を「うっちゃった」名言なのである。

言うまでもなく、この言葉は、女は(美しくはあっても)愚かであるという非常識が常識とされた時代に発せられた。女性には選挙権もなかったし、高等教育を受けることも、自分の望む職業に就くこともままならなかった。エリオットが敢て男性のペンネームを用いたのも、奇をてらったわけではなく、女の名のままでは出版が思うように果たせなかったからだ。そう思えば、名言の裏側に、女としての憤激が脈打つのが聞こえてくる。

面白いのは、男女平等を言いながら、その等しきところが、人間性の高邁(こうまい)なところではなく、愚かさの部分で「=」記号を結んだ点である。自分らの知的優位性(錯覚だが)にふんぞり返っている世の男どもにひと泡吹かせ、その愚昧(ぐまい)ぶりを思い知らしめるのが狙いだったのだろうが、結果的に、男も女もともに愚かであると認めたことになる。大英帝国の未曾有の発展のさなか、一見した華やかさの陰で、社会には偽善がはびこり、男女ともに人間の闇が噴き出していることに、作家である彼女は目をつぶることができなかったのだろう。

さて、21世紀の現代、社会進出という点においては、女性の権利はずいぶん伸びた。女性の大臣など、当たり前になった。だが皮肉にも、エリオットの言葉は、過去のロジックに埋没していない。愚かなる男ども同様、権利伸張だけでは、女性を賢くし、人間性を豊かにするものでないことを、この19世紀の女性作家の名言は逆照射しているように見えるのだが、いかがであろう。

第14回 エリザベス1世

時は1588年。英国(イングランド)は、大変な国難を迎えていた。世界一の強さを誇る スペイン無敵艦隊が、波涛(はとう)を越えて攻め寄せてきたのだ。イングランドを治めるのは女王・エリザベス1世。未曾有の危機にあたって将兵に、女王自ら檄を飛ばしたのが、上記の言葉である。名言の甲斐があってか、兵士たちは奮戦、イングランドは勝利を収める。

今でこそ、イギリスはヨーロッパを代表する国として大きな顔をしているが、もともとは海を越えた先の島国、ギリシャ、ローマに発した文明がなかなかに届かない辺境の地であった。未開で野蛮な二流国から世界に冠たる大英帝国の幕を開く転換点となったのが、このスペイン無敵艦隊との戦いの勝利だった。女王の言葉が兵士を奮い立たせ、栄光の勝利に導いたのなら、まさにこの言葉こそ、イギリスの今日の地位を築くきっかけとなった大変な名言ということになる。

エリザベスは果敢であった。身を案じる近臣たちの忠告を振り切って、テムズ川河口北岸のティルベリーに置かれた前線基地に赴き、防衛軍を閲兵、演説する。決然としたその態度は、実にかっこいい。コテコテの白塗り化粧と、キンキラキンの絢爛衣装に身を包んだ女王が、遥かに海原を望んで全軍を前に士気を鼓舞する。まるで、映画でも見ているような絵になる光景ではないか。

面白いことに、ここぞという時の決定的な言葉は、男ではダメで、女性の発した鶴のひと声がものをいうことがある。多くの人々を動かして途方もない力を発揮させるのに、女性のリーダーを戴かねばならない場合がある。オルレアンの少女ことジャンヌ・ダルクがそうであったし、自由の女神なども、ドラクロワの絵に描かれた人々を導く女神が片方の乳房を露出させているのに象徴されるように、いかにも女性でなければならなかった。現代のビジネスの世界でも、女社長が颯爽と男の社員連中を使って成功する会社があるが、これなども同様の心理が働くのかもしれない。

ここで肝心なのは、男勝りの毅然とした意志。最前線に立って、身を張る覚悟。そして、人の胸を撃つ言葉。この女(ひと)がここまで、と納得させるものがなければマジックは働 かない。英国人相手の交渉事で困ると、故意に泣き出す日本人女性のことを聞いたことがある。涙を見せると、それまで通らなかった理屈が通りやすくなるのだそうだ。国際版「泣き落とし」である。

だが、涙は多少の効果はあっても、かっこよくはない。やはり、訴えるべきは言葉と行動。エリザベス1世はその意味で、21世紀の今から見ても充分に現代的だ。

第13回 オールダス・ハックスリー

実験的手法で知られたイギリスの作家、ハックスリーの言葉である。経験に学べ、経 験こそ人生の師であるといった名言は少なくないが、これもその同類。ただし、出来事 に遭う体験を通して身につくところがなければ、そもそも「経験」とは認められないとし たところに妙味がある。

確かに、日々身にふりかかる出来事を、ただ受け身に流していたのでは、そこから得 られるものは何もない。学習もなく、成長もしない。逆に言えば、生きている限り、遭 遇する出来事は山のようにあっても、その体験から学び、身につくところまで達するよ うな真の「経験」は、意外に少ないということにもなる。

経験を積む、という。身になってこそ、積むと呼ぶに値する。そのような経験を積め ば、人は豊かになるだろう。先方からやって来る出来事を処するだけでなく、身につく 経験を求めて、こちらから出向く場合もある。留学はその典型だ。山や海でのキャンプ に子供を参加させるようなことも、貴重な経験から何がしかの学習効果を期待する親心 があればこそだろう。

だが、ハックスリーの慎重なところは、身にふりかかる出来事への処し方の大事を説 いても、出来事を起こせとは言わなかったことである。経験を求めて諸方に出向くばか りが、「経験」を得る近道であるとは限らないのである。

人は自分が体験した出来事の数を誇りがちだ。旅で訪れたあちこちの国の様子や、波 乱万丈の運命がもたらした事件のあれこれを自慢げに語ることは、気持よいに違いない。 だが、経験の豊かさとは、出来事の数ではないし、事件の大きさでもない。ささやかな 出来事からも、人生の糧となるような「経験」とすることは充分に可能なはずである。世 界漫遊をした人より、窓辺にじっと動かぬ人が「経験」が乏しいとは、言えないのである。

春の終わりからひと月近く旅をして、イギリスの我が家に戻ってきた時、隣家の庭先 の梨の木が小ぶりながらも鈴なりに実をつけているのを見つけて、ひどく感動したこと がある。春先に純白の花を噴き上げるように咲かせていた木が、命をはぐくみ続けて、 いつの間にか可憐な実を熟したことに、私は生きる同伴者の不断の努力を目の当たりに する気がして、人生を教わるように思った。旅の間、いろいろなものを見たし、人にも 会ったが、そのどれよりも、梨の実に得た感動の方が大きく、忘れがたいものとなった。

経験とは、所詮、人の身にふりかかり、その心が感受するものである。感性のキャン パス次第で、名画のような宝ともなれば、落書きにもなってしまうのではないだろうか。

第12回 トーマス・フラー

よほど恵まれた人か、ノーテンキな人でもない限り、人生に不幸はつきものである。 自我というものが近代人の宿業であれば、世が進めば進むほど、おのれの不幸に自覚的 であらざるを得ない。傍目には何ひとつ不満もなく暮らしているかに見える人が、人知 れず、意外なことで悩んでいるものだ。

不幸に学べ、逆境を肥やしとせよ、という類の言葉は多い。功成り名を遂げた人がそ う語れば、いくら自分自身が不幸をくぐり抜けた人だとしても、どこか胡散 うさん 臭く響く。 ローレックスの金時計をはめた太鼓腹の御仁ほど、この手の人生訓を口にしたがるよう だが、自慢話に素直には肯けない。不幸を売り物にするなと反発したくもなるし、不幸 の対極に置かれた「幸福」が見えすいていて、うんざりもする。

この名言のポイントは「refine」=「磨く」にある。トーマス・フラーという人は、英国 国教会の牧師であった人だが、著名人でない割には、残した名言が多い。聖職者らしく、 なかには説教臭がたつ場合もあるが、この言葉では人生の真実を客観的に見つめ捉えた 分、説得力がある。単純な成功への手引きとなっていないところが、厳しくも、尊い。

磨いた玉は、美しく輝く。不幸のなかでも自分を磨いた人は、おのずと輝き出す。そ の容姿、態度、言葉遣い、思想など、どこかしら美しいのである。

逆に、成功者は往々にして美しくない。はっきり言って、醜い場合が多い。不幸をく ぐり抜けて尚、自分を磨き得ず、真の幸福に達していない人は少なくないものなのだ。 幸せと不幸と、秤 はかり にかければ、どうしたって後者の方が主張が強い。日々感謝して生き よと、宗教は教え諭すのかもしれないが、情報ネットワークの只中に身を置く現代人は、 おのれも他人も映し出すいくつもの鏡に囲まれているようなものだから、中世の人のよ うな単純さに生きるわけにはいかない。

不幸を離れ得ぬのが人生なら、私は、いささかなりともそこからおのれを磨きたい。 無論、磨いたからといって、成功が転がり込むわけではなかろう。だが、不幸の反対は、 必ずしも成功ではない。幸福とは、究極的にはおのれ自身の充足にあるはずだ。

不幸につぶされてはいけない。自堕落もやけっぱちも、人生に二日酔いは禁物だ。不 幸の反対を成功と考えると、あくせくして落ちつかない。運よく成功を得たとしても、 尚、充足は訪れない。だが、「磨く」ことを本分とするなら、尻が据わる気がする。

私は世間がイメージするような幸福からは遠い。だが、成功に憧れるより、自分を磨 いた先に輝くであろう何がしかの光に、魅せられてならないのだ。

第11回 グレッグ・ダイク

テレビニュースは、怒りと絶望の温床である。画面の出来事に感動を覚えることなど、 滅多にあるものではない。だが、それは稀に見る感動的なシーンだった。2004年、イラ ク戦争に至る政府の世論操作の思惑を報じて引責辞任に追い込まれたBBC会長のグレッ グ・ダイク。名物会長を送るのに、千人ものスタッフたちがダイク支持を表明して集ま り、惜しみない拍手と声援を寄せた。圧倒的に若い社員が中心だった。何故、ダイクが これほどの人望を得るところとなったのか―。その鍵が、彼がモットーとし、折に触れ て職員に語ったこの言葉にある。

名言とは、格調高きところにのみ存在するわけではない。人の心をつかむ言葉とは、 時に日常語のなかの日常語、権威に無縁のところから生まれる。「グレッグと呼んでくれ」 という会長就任の挨拶で始まったBBCのダイク時代。「Cut the Crap=くだらないこと は、やめよう」が、ダイクのスローガンだった。「Crap」という言葉は、「つまらぬもの」 や「愚かな考え」を意味するが、「ごみ」や「クソ」を表すような露骨な用例もある。つまり、 ひと昔前の英和辞書には、載っていないような俗語なのである。ダイクはこの身近な言 葉を旗印に据え、改革を断行していった。機構改正、番組に集中した予算編成、目安箱 のような社員メールの設置、職員の志気とモラルの向上……。まさに、新しいBBCを牽 引する風雲児の趣きだった。

ちなみに、「Crap」という言葉を文学に初めて登場させたのは、サリンジャーの「ライ 麦畑でつかまえて」だった。傷つきやすい青春の彷徨を描いたこの小説が、60年代の若 者の心を捉えて、時代のバイブルのような地位を得たのは、そんなところにも一因があ ったのだろう。おそらくはダイクが「Crap」を口にする時にも、「ライ麦畑」に象徴される、 既成の価値観に「NO」を突きつけた若者たちの時代の思潮がこだましているはずである。

それにしても、解任劇に際して示された若いスタッフたちの熱狂的なダイク支持は、 印象的だった。少し大げさに言うと、ベルリンの壁崩壊以来、久しぶりにピープルズ・パ ワーを見る興奮すら覚えた。「海老ジョンイル」の異名をとった某放送局会長の辞任と比 較するまでもなく、日本ではまずありえない類の事件だった。

それはBBCという舞台に限られた小さな出来事であったかもしれない。だが、「Cut the Crap」というさりげない名言が人々の心を捉え、共感を巻き起こした現代の神話と して、私は長くこの場面と言葉を記憶していたいと思うのである。

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