テレビニュースは、怒りと絶望の温床である。画面の出来事に感動を覚えることなど、
滅多にあるものではない。だが、それは稀に見る感動的なシーンだった。2004年、イラ
ク戦争に至る政府の世論操作の思惑を報じて引責辞任に追い込まれたBBC会長のグレッ
グ・ダイク。名物会長を送るのに、千人ものスタッフたちがダイク支持を表明して集ま
り、惜しみない拍手と声援を寄せた。圧倒的に若い社員が中心だった。何故、ダイクが
これほどの人望を得るところとなったのか―。その鍵が、彼がモットーとし、折に触れ
て職員に語ったこの言葉にある。
名言とは、格調高きところにのみ存在するわけではない。人の心をつかむ言葉とは、
時に日常語のなかの日常語、権威に無縁のところから生まれる。「グレッグと呼んでくれ」
という会長就任の挨拶で始まったBBCのダイク時代。「Cut the Crap=くだらないこと
は、やめよう」が、ダイクのスローガンだった。「Crap」という言葉は、「つまらぬもの」
や「愚かな考え」を意味するが、「ごみ」や「クソ」を表すような露骨な用例もある。つまり、
ひと昔前の英和辞書には、載っていないような俗語なのである。ダイクはこの身近な言
葉を旗印に据え、改革を断行していった。機構改正、番組に集中した予算編成、目安箱
のような社員メールの設置、職員の志気とモラルの向上……。まさに、新しいBBCを牽
引する風雲児の趣きだった。
ちなみに、「Crap」という言葉を文学に初めて登場させたのは、サリンジャーの「ライ
麦畑でつかまえて」だった。傷つきやすい青春の彷徨を描いたこの小説が、60年代の若
者の心を捉えて、時代のバイブルのような地位を得たのは、そんなところにも一因があ
ったのだろう。おそらくはダイクが「Crap」を口にする時にも、「ライ麦畑」に象徴される、
既成の価値観に「NO」を突きつけた若者たちの時代の思潮がこだましているはずである。
それにしても、解任劇に際して示された若いスタッフたちの熱狂的なダイク支持は、
印象的だった。少し大げさに言うと、ベルリンの壁崩壊以来、久しぶりにピープルズ・パ
ワーを見る興奮すら覚えた。「海老ジョンイル」の異名をとった某放送局会長の辞任と比
較するまでもなく、日本ではまずありえない類の事件だった。
それはBBCという舞台に限られた小さな出来事であったかもしれない。だが、「Cut
the Crap」というさりげない名言が人々の心を捉え、共感を巻き起こした現代の神話と
して、私は長くこの場面と言葉を記憶していたいと思うのである。