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Fri, 29 March 2024

NHKのスタジオにて

祖父から父、そして息子へ 平井家の空気が育んだ「完全なる音楽」

「とんぼのめがね」などで知られる有名作曲家の平井康三郎とヴァイオリニストの母の間に生まれ、ピアニストと結婚。そして妻との間に生まれた2人の息子は指揮者とピアニストになったー。家族が一人残らず音楽家という平井家にあって、オーケストラのコンサート・マスターのごとく一家を束ねる存在、それが日本を代表するチェリスト、平井丈一朗(たけいちろう)である。6月8日、欧州ツアーの一環としてロンドンのウィグモア・ホールで公演を行なう丈一朗と、共演者としてともに各国を巡る次男のピアニスト、元喜に、数々の音楽家たちを育んだ平井家の音の世界について聞いた。(本誌編集部: 村上 祥子、長野 雅俊)

父、丈一朗

平井丈一朗
巨匠カザルスの高弟であり、かつその後継者として日本が世界に誇るチェリスト。
作曲家平井康三郎の長男として東京に生まれ、桐朋学園では チェロを斎藤秀雄氏に師事。
第23回音楽コンクール第1位特賞、第1回文化放送音楽賞特賞、第1回カザルス
国際コンクール特別賞、ソ連作曲家同盟特別賞など数々の内外コンクールで受賞。 www.takeichiro-hirai.com

音と戯れる幼き日々

いつから音楽を始めたのかは、はっきりしない。家の中がいつも音楽で溢れていて、生まれたときから音楽が空気のように、丈一朗を包んでいたからだ。父は有名作曲家の平井康三郎で母はヴァイオリニスト。当時、両親はともに東京音楽学校(現東京藝術大学)で教鞭をとっていた。でも、俗に言う英才教育は、受けたことがない。ただ音楽が好きで、小学校へ行く前からいたずらでピアノを弾いたり、作曲をしていた丈一朗に、父、康三郎が「それじゃあ、教えてやろうか」と本腰を入れたのが、音楽の道に入ることになったきっかけといえばきっかけだった。

とはいえ、多忙な父のこと、仕事の合間に教え、時には丈一朗が練習している部屋の隣からアドバイスの言葉を投げ掛けるという、実に変則的な「教育」だった。しかし小学校卒業時には、専門の作曲家が勉強すべきことはすべて学んでいた。オーケストラや室内楽曲、童謡など、100曲以上を作曲。ラジオやコンサートで自作のピアノ曲を演奏するなどの活動を行い、「少年ピアニスト作曲家」と呼ばれたのもこの頃のことである。

現在の本職であるチェロを始めたのは、中学校へ入学する前後のことだった。理由は、更なる作曲の勉強のため。オーケストラや室内楽の中心を占めるのは弦楽器だ。だから作曲するためには、ピアノだけでは足りない。弦楽器を演奏家として理解する必要がある。こうした考えが、丈一朗を弦楽器の道へと進ませた。そして当時夢中でよく聴いていた20世紀最高のチェリスト、パブロ・カザルスの影響からチェロを選択。それからわずか4年後の高校2年時には日本音楽コンクールで第1位特賞を受賞し、プロの音楽家としてのスタートを切ることになった。演奏活動で多忙を極めるうちに、本来の目的であるはずの作曲に時間を割くことが難しくなったという皮肉な結果を生みはしたものの、このチェリストとしてのスタートが、父康三郎に続くもう一人の師匠との出会いを導くことになる。

「完全なる音楽家」の誕生

丈一朗は19歳のときに、以前から憧れていたカザルスの元に弟子入りをする。スペイン、カタルーニャ地方に生まれ、時のフランコ独裁政権に抵抗し、プエルトリコで亡命生活を送っていたカザルスは、そのとき、80歳。丈一朗は当時たった一人の弟子として、カザルス夫妻とともに3人で世界中を周った。丈一朗はカザルスとの暮らしのなかで、演奏家としての技術のみならず、音楽家としてのあり方を学ぶようになる。世界最高のチェリストにして、作曲家、指揮者、そしてピアニスト。音楽活動が分業化されてしまった現代にあって、カザルスは一人の人間が演奏家であり作曲家でもあった、バッハやベートーヴェン、モーツァルトの時代を今に蘇らせる稀有な存在だった。

当たり前のように音の世界の中で生まれ育った丈一朗にとって、カザルスの持つ空気は既視感を覚えさせるものだった。チェロもピアノも作曲も指揮もする、そんな丈一朗を、やがてカザルスが「完全な音楽家」と呼んだのも、当然の帰結と言えるのかもしれない。

丈一朗がカザルスから得たものは、音楽に留まらなかった。高名な音楽家であるだけでなく、平和活動家としても知られたカザルスとの蜜月は、丈一朗の人間性形成の上でも、大きな影響を及ぼした。生涯を通じて反ファシズムの立場を貫き、元は独立国であった故郷、カタルーニャ地方を愛し続けたカザルスは、平和活動を行う上で丈一朗にこう説いた。世界を平和にするには、ただ単に大きな視点から平和を唱えてもだ めだ。まずは家族、親子の関係が大切。そこからすべてが始まり、国を愛し誇りに思う気持ちが、やがて世界平和につながるのだ、と。こうしたカザルスの教えを通し、丈一朗は音楽の持つ力に気付かされる。音楽は、人々に勇気や癒し、幸福をもたらすことができる。国境も言語も宗教も超越したもの、それが音楽だ。だからこそ、世界平和を実現することができるのだ。この思いがその後、丈一朗の音楽人生を支える哲学となった。そしてその哲学は、カザルスの言うところの世界平和の第一歩である家族、丈一朗の2人の息子へと受け継がれていく。

泰然とした長男、活火山のような次男

丈一朗には、2人の息子がいる。長男の秀明と、次男の元喜。秀明は次世代のホープと目される指揮者であり、元喜はロンドンを拠点に活躍するピアニストだ。この2人の息子に対して、丈一朗は自身の幼少期と同じような音の世界を与える。丈一朗のみならず、ピアニストの妻、美那子、そして祖父母も機会があれば指導する、そんな「家の中の音楽教室」が平井家の日常となった。

音に囲まれる日々のなか、息子たちは自然と自らの方向を選んでいく。父からチェロを、祖父からピアノと作曲を学んだ秀明は指揮、そして祖父にピアノと作曲、祖母からヴァイオリンを学んだ元喜はピアノ。結局2人とも、丈一朗と同じチェロを選択することはなかったが、それは丈一朗にとっては取るに足らないことだった。

秀明は幼い頃、かんしゃく持ちでたびたび暴れたが、その一方で全体を冷静に見渡すことのできる子供だった。そんな冷静と情熱を併せ持った子供は、後にオーケストラですべての楽器を見渡し、まとめる役割を持つ指揮者を選んだ。まるで活火山のような激しい情熱の持ち主だった元喜は、ピアノを選択した。さまざまな楽器を深く学んできた元喜のピアノは、誰にも出せないような音を出す。それはときにヴァイオリンやチェロのような音色を奏で、他の楽器と共演した際には独特な調和を生み出す。2人とも互いの性格に合った道を選んだなと、丈一朗は思う。

丈一朗は、息子たちにプロの音楽家になれと言ったことはなかった。演奏家はすべての責任を一人で背負う。演奏のその日に、体調も精神も、最高のコンディションにもっていかなければならない。音楽の素晴らしさを知る一方で、プロの音楽家であることの厳しさを誰よりも実感していたからこそ、音楽は勉強すべきだが、必ずしも音楽家にはならなくてもいいと言ってきた。

そうした丈一朗の言葉を受けた2人は、音楽を愛しながらも普通高校に通い、秀明は米国ロチェスター大学で政治学を、元喜は慶応義塾大学で美術史学を学ぶことになる。父の教育通り、音楽という一つの世界に留まることなく、外の世界に目を向けた2人はしかし、最終的に音楽の世界へ戻ってきた。

秀明はロチェスター大学に通いながら、丈一朗の知らないうちに同大学併設の名門イーストマン音楽院で、指揮をダブル・メジャーとして学んでいた。そして元喜は大学卒業後に、ロンドンの王立音楽院大学院のピアノ科へ。音楽大学を経ることなく大学院へ進むのは、他にあまり類を見ない。将来について相談してきた元喜に対し、その覚悟を問い質した丈一朗は、どうしてもやりたい、という元喜の言葉を聞いて、それならばやれと背中を押した。

最大の理解者にして体現者

そして丈一朗、秀明、元喜のそれぞれが音楽家として活躍する今がある。

どんな世界であれ、親子が同じ分野で活動する場合には、注目を集めると同時に「親ばか」「親の七光り」といったそしりや中傷もついてまわることが多い。しかし平井家では、これまでに幾度となく親子、兄弟共演を繰り返してきた。それは彼らが血の繋がった家族である、という理由からだけではない。

もちろん皆、一人一人違う個性を持っている。しかし、同じ音の世界で生きてきた3人の底流に流れるものは同一なのだ。本物の音楽、これ以上ないという次元にまで音楽を追求することを目指す3人は、皆同じ方向を向いている。だから一緒にできる。

元喜は誰よりもチェロのことを、そして丈一朗のことを理解してくれる。もちろん、練習の最中には互いにうるさいことも色々言うが、根本のところで理解し合っているという確信がある。

親子だからといって、必ずしも分かり合えるわけではない。親子の断絶が取り沙汰されるようになって久しい現代、こういう関係で繋がり合えることは、世界的にも珍しいことだろう。親子で年代が違うから、年齢的にいつまで一緒に共演できるかは分からない。でも、できる限り一緒に音楽を奏でていきたいと願っている。

父、康三郎のつくり上げた音の世界に生き、カザルスの教えを経て形成された丈一朗の「完全なる音楽」。その最大なる理解者にして体現者である息子たちとともに、これからも丈一朗は、技術を越えた音楽の心を、世界の人たちに訴え続けていく。

師匠、カザルスとともに
師匠、カザルスとともに過ごした日々
敬愛する恩師との共演
敬愛する恩師との共演

息子、元喜

平井元喜
ピアニスト。東京生まれ。
桐朋高校、慶應義塾大学を経て、1999年、英王立音楽院大学院ピアノ科卒。
「サー・ジャック・ライオンズ音楽賞」受賞。
これまで世界各地を演奏旅行、BBC・NHKなどに出演。CD録音も多数。
2009年4月、スメタナ・ホール(プラハ)でピアノ協奏曲を演奏し絶賛された。
映画やチェルシー・フラワー・ショウ2008で音楽を担当するなど作曲家としても活躍中。
www.motoki-hirai.com

食卓でのアンサンブル

父の恩師カザルスが死去した年となる1973年、元喜は平井家の次男として東京に生まれた。

父、丈一朗の幼少期がそうであったように、物心がついた時にはもう、元喜はいくつもの楽器を手にしていた。丈一朗との違いは、家庭内の指導者の数が倍増したことだ。祖父にピアノと作曲、祖母にヴァイオリン。さらに兄の秀明は父からチェロを教わる。夕食中に酔った祖父が陽気に歌い出せば自然とピアノやヴァイオリンの伴奏が付き、チェロやヴィオラも加わりピアノ・トリオ、クワルテット、クインテットなど即興演奏が始まるのが日常茶飯事であった。

音楽家ばかりが揃った3世代が同居する家は、至高の芸術空間でもあった。そこには、世界的な音楽家をはじめ、当時メディアの寵児となっていた寺山修司などの詩人、作家、俳優、歌手といった幅広い分野の芸術家が出入りしていた。家に閉じ篭もって個々の楽器における技術習得にのみ時間をかけることを音楽活動と見なす考え方とは、無縁の世界である。そもそも音楽というのは、感動や感情を表現し、そのメッセージを人の心へ直に訴えかける強い力を持ったものだ。だとすれば、他人の気持ちが分かる人間になるため外の世界での豊かな経験が必要であるし、広い文化的教養を身に付けて自己研鑚を積まなければならない。祖父や父、そしてカザルスが構築したそうした深遠な音楽観を、元喜は家庭での生活を通じて受け継いでいく。

外は永遠に広く、中は無限に深く

家族から音楽を強要されたことは、一度もない。「子供は外で泥んこになって遊んでこい!」とさえ言われていた。高校まではサッカー部に所属。突き指への懸念からピアニストにとってはタブーとされるバレーボール部に所属したときや、地元の社会人チームに交じりバスケットボールに興じていたときも、両親からは特に何も言われなかった。

中学生の頃から音楽の仕事を頼まれることも多かった一方、高等教育では慶應義塾大学哲学科へと進み、美学美術史学を専攻する。まだ自分のやりたいことが定まっていないからとりあえず普通大学を受験した、というのも進学理由の一つではあったが、そもそも一流の音楽家たちが家庭内に揃った元喜にとって、わざわざ音大へ通って音楽教育を受ける必要がなかった。それよりも映画、写真、絵画、文学、舞台芸術、といった芸術に触れている方が好奇心旺盛な元喜には楽しかった。だから家族から「鉄砲玉」と言われるくらい家を空けてとことん外で遊んだし、逆に数カ月間、家に篭もって本を貪り読んだりもした。外の世界が永遠に広く見えて、自分の内面は無限に深くなり得ると感じた。

その自由な時間は、いわば第3世代の音楽家として生まれ育った元喜だったからこそ、許された贅沢だったのかもしれない。プロの音楽家になる厳しさを骨の随まで知り尽くしている平井家の大人たちは、同じ苦労を子供たちにはさせたくないと願っていたし、また同時に広い世界を知ることの重要性を説く懐の深さを持っていたからだ。

気軽な理由と重い事実

青年期の元喜にとってはまだ、音楽家として生きていくことは、数ある将来像の一つに過ぎなかった。無論、音楽を何よりも愛してはいたが。

大学生のときには、映像と音楽に携わる仕事がしたくてメディア業界を中心に就職活動を行い、大手放送局から内定まで取り付けている。ただちょうどその頃、海外コンサート・ツアーの仕事を打診された。詳細を聞くと、就職を希望していたとある企業の最終面接日と日程が重なっている。このとき元喜は「旅もできるし、未知の世界を写真に撮れる」という安易な理由でこの面接を断り、コンサートの仕事を引き受けるという選択をした。動機こそ不純なものだったけれども、ともかく他のオファーを蹴って、音楽の仕事を選び取ったという確固たる事実は残った。後年、この決断が結果的に人生の転機となってしまったことに気付く。

恐らく、このとき元喜は音楽家になったのだ。

その後ロンドンへと渡り、王立音楽院大学院で生まれて初めて家族以外の人物から指導を受ける。同院を卒業後はピアニストとして頻繁に内外でコンサートに出演するほか、レコーディングやCDのリリース、日英両国での音楽番組への出演に加えて、作曲家としては広島を題材にした平和ドキュメンタリー映画の音楽を担当したり、絵本・朗読・映像とのコラボレーションを行ったりするなど、文化事業にも積極的に関わってきた。

父とは、プロとしての共演を始めてから20年近くになる。一緒に演奏する度に、毎回父のチェロの音色が新鮮に鳴り響くことに驚く。元喜にとって、父との共演を通じて学ぶことの大きさは計り知れない。音楽を通して心と耳でコミュニケーションがとれる2人のリハーサルに言葉はほとんど必要ないが、一般の個人レッスンや音楽学校では決して学べない「奥義」のようなものを常に発見し、吸収してきた。

元喜はかつて、家族一同が音楽家という特殊な家庭環境には何かが欠落しているように感じることがあった。それは、例えば父親とキャッチボールをした経験がないといった些細な事柄ではあったが、そうしたことの積み重ねが、幼少期から青年期へかけての元喜に外の世界への憧れを人一倍強く持たせた。

現在の元喜に迷いはない。今では自分の育った音楽的家庭環境を素直に受け入れ、音楽に純粋に打ち込める幸福に心から感謝している。「音楽を通して人を幸せにする」という使命を胸に、精進を重ねる毎日だ。

祖父、康三郎と
祖父、康三郎とピアノに興じる秀明(写真右)と元喜(同中央)
平井家の音楽家たち
平井家の音楽家たち。
左から丈一朗、秀明、康三郎、美那子、元喜

平井丈一朗(チェロ)&平井元喜(ピアノ)欧州ツアー2009 ロンドン公演

日時 2009年6月8日(月)19:30
会場 Wigmore Hall
36 Wigmore Street, London W1U 2BP
最寄駅 地下鉄Bond Street / Oxford Circus駅
チケット £22、£18、£14、£10
Box Office 020 7935 2141
  www.wigmore-hall.org.uk
曲目 ベートーヴェン「チェロソナタ第5番ニ長調作品102‐2」、シューマン「幻想小曲集作品73」、バッハ「アリオーソ」、カザルス「鳥の歌(カタロニア民謡)」、平井丈一朗「無伴奏チェロ幻想曲“北斎”」、平井康三郎「平城山( ならやま )」ほか
 

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