ニュースダイジェストの制作業務
Fri, 04 September 2026

小林恭子の
英国メディアを読み解く

小林恭子小林恭子 Ginko Kobayashi 在英ジャーナリスト。読売新聞の英字日刊紙「デイリー・ヨミウリ(現ジャパン・ニュース)」の記者・編集者を経て、2002年に来英。英国を始めとした欧州のメディア事情、政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。著書に「英国メディア史」(中央公論新社)、共著に「日本人が知らないウィキリークス」(洋泉社)など。

「息ができない」手錠をかけられた18歳
ノヴァク事件が揺るがす英国の警察と社会

18歳の大学生ヘンリー・ノヴァクさんが英南部サウサンプトンで刺殺された事件が、大きな波紋を広げています。瀕死の状態で「刺された」、「息ができない」と訴えていたノヴァクさんに警察官が手錠をかけ、加害者として扱っていたことが明らかになったからです。

ノヴァクさんはサウサンプトン大学の1年生でした。昨年12月3日夜、友人たちと外出した帰り道、兄の配達の仕事を手伝った後で自宅近くの車に向かっていたヴィックラム・ディグワ(当時22歳)に出くわしました。ディグワはシク教徒で、腰に大型の儀式用短剣を下げていました。ノヴァクさんはスマートフォンを向けながら「悪い人なの?」と声をかけました。ディグワは「俺は悪い男だ」と返し、ノヴァクさんの携帯電話を奪いました。その後、二人の間でもみ合いになったとみられていますが、何が起きたのかを知る直接の目撃者はいません。もみ合いの中でディグワのターバンが落ちたようです。ターバンの着用はシク教徒の男性にとって宗教的義務であり、それを乱されることは重大な侮辱とみなされます。ディグワは短剣を抜き、ノヴァクさんを5回刺しました。鎖骨裏の重要な静脈を切断する致命傷となりました。


その後、ディグワは兄とともに「人種差別的な攻撃を受けた」と通報します。母親は凶器を自宅に持ち帰りました。警察はその説明を前提に現場へ到着し、地面に倒れていたノヴァクさんを加害者と判断しました。公開された警察のボディ―・カメラ映像には、「息ができない」、「刺された」と訴えるノヴァクさんに後ろ手に手錠をかける様子が映っています。午前0時37分、ノヴァクさんは路上で死亡しました。裁判では、傷があまりに重く、たとえ直ちに治療を受けても救命は困難だったと認定されています。しかし遺族は、被害者である息子が最後まで犯罪者のように扱われたことに強い怒りを示しています。警察も対応について謝罪し、現在は独立警察行為局(IOPC)が調査を進めています。

なぜ警察官はノヴァクさんの訴えを信じなかったのでしょうか。注目されているのが、地元警察が導入していたDEI(多様性・公平性・包括性)研修です。少数民族への適切な対応を求めるこの研修が、警察官の判断に影響した可能性が指摘されています。

6月2日の判決後、事件は急速に政治問題化しました。リフォームUK党のナイジェル・ファラージ党首は「二重基準の警察行政」(Two-Tier Policing)の証拠だと主張し、サウサンプトンでは極右活動家が主導する抗議デモが暴力的な騒乱に発展し、警察官11人が負傷しています。

しかし父マーク・ノヴァクさんは一貫して冷静でした。「息子の死を分断や憎悪のために利用しないでほしい」と訴え、三つの具体的な改革を求めて動いています。儀式用ナイフの刃渡り上限の法制化とオンラインの販売規制、警察への説明責任、そしてディグワへの終身刑(最低21年)の見直しです。

一連の政治論争を追いながら、私は次のことも気になりました。シク教コミュニティへの影響です。サウサンプトンでは事件後、シク教徒への暴言や嫌がらせが増えていると報じられています。裁判官はノヴァクさんの「悪い人なの?」という言葉を「いたずらっぽいものだった」と認定しました。もちろん、殺害行為を正当化する余地はまったくありません。でも、スマートフォンを向けながら見知らぬ相手に声をかけるという場面を読んだとき、外国人として英国で暮らす私は複雑な気持ちになりました。外見や服装の違いから好奇の目で見られたり、ときに不用意な言葉を向けられたりする経験は、移民や少数民族の多くが共有しているものだからです。なぜあの夜、この悲劇は起きたのでしょうか。警察の対応は死に寄与したのでしょうか。検死審問は2027年に予定されています。その結論を待ちながら、警察の判断だけでなく、多様な人々が共に暮らす社会における相互理解についても、改めて考える必要があるのかもしれません。

キーワード

Two-Tier Policing(二重基準の警察行政)

警察や司法が人種問題への配慮を優先するあまり、白人には厳しく、少数民族には甘い対応をしているという主張。統計上は黒人が白人よりはるかに高い割合で職務質問や身体的拘束の対象となっており、制度全体を「白人差別」と説明できるかについては議論がある。英国では2024年夏の暴動以降、この言葉が政治的な争点として定着。

 
お引越しはコヤナギワールドワイド 日系に強い会計事務所 Blick Rothenberg 24時間365日、安心のサービス ロンドン医療センター 不動産を購入してみませんか LONDON-TOKYO

JRpass totton-tote-bag