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Fri, 03 April 2026

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英国メディアはどうしてEU を悪く報じるのか

どうして英国メディアは高級紙も大衆紙もこぞって、欧州連合(EU)のことを必要以上に悪く報じるのか。先日、ロンドンで開かれたカンファレンス「欧州の伝え方: 英国メディアとEU」に参加して、考えさせられた。日本でも歴史・領土問題で韓国や中国を悪く報じるメディアがある。ロシアのプーチン大統領がプロパガンダ・ツールとして使う国営国際放送RT(旧ロシア・トゥデイ)の欧米の報じ方と、英国メディアのEUの伝え方を見ていると共通点がある。とにかく悪い話を書きまくり、良い話や伝えなければならない話は完全に黙殺してしまうのだ。悪い話を針小棒大(しんしょうぼうだい)に伝えるのがマス・メディアの習性と言っても過言ではない。しかしその代償は時に計り知れないほど大きくなる。

理屈抜きで反応してしまうニュースがどの国にもある。筆者が産経新聞時代に大阪社会部のベテラン・デスクからたたきこまれたニュースの3要素は「オンナ」「子供」「動物」だ。当時、日本は高度成長を終え、安定成長に入っていた。今や先進国の成長に限界が見え、「貧しさ」や「怒り」「嫌悪」「不安」「屈辱」がニュースの原動力になっている。英国で無条件に読まれるニュースは「英国は孤立している」「英国は置いてけぼりにされている」という文脈だとBBCのロビンソン前政治部長は別の討論会で解説していた。島国根性は日本だけでなく、英国にも根強い。

 

EUのニュースはとにかく分かりにくい。組織や手続きが複雑で、記事の中で説明しようとすればするほど迷路に入り込んでしまう。しかも最高意思決定機関・EU首脳会議の常任議長を務めるトゥスクEU大統領も、行政執行機関・欧州委員会のユンケル委員長も、欧州議会のシュルツ議長も進行役や調整役に過ぎず、ニュースの主役としては軽量級過ぎる。だからEUではなく、ドイツのメルケル首相やギリシャのチプラス首相、英国のキャメロン首相を軸に記事は書かれる。で、EUを担当する英国メディアのブリュッセル特派員は何をするかと言えば、EUと英国の対立をあおり、EUの官僚主義や肥大化をたたく記事を書く。単純化し誇張して書かないとロンドンのデスクには使ってもらえない。

英国の新聞は、経済に強い「フィナンシャル・タイムズ」紙、「エコノミスト」誌から、欧州懐疑派の「デーリー・メール」紙、「デーリー・テレグラフ」紙、労働党支持の「ガーディアン」紙までと非常に幅広い。報道と言論の多様性は一応、保たれているが、通信社の焼き直し記事が多い上、時代はインターネットやソーシャル・メディアの全盛期。フェイスブックの「いいね!」やツイッターのリツイートを通じ、よりバイアスがかかった情報が倍々ゲームで読者を増やしながら無秩序に拡散する。刺激的で極端なニュースだけが拾い上げられて読まれるのだ。

 

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのヒックス教授は2014年の欧州議会選と連動した初の欧州委員長選びについての報道を詳細に調べた。ドイツでは1週間に委員長候補の名前に言及した記事がのべ1799本もあったが、英国は78本。英国で各候補のTV討論を観た割合は7%弱、候補の名前を1人でも挙げることができたのはわずか約1%という有様だった。しかしキャメロン首相が連邦主義者のユンケル委員長誕生阻止に動いたとたん、英国メディアが「ユンケル」という名に言及する回数が急激に増えていた。「キャメロン対ユンケル」「英国の主権VS連邦主義」という対立構図が作り上げられたからだ。

もしEUという欧州統合プロジェクトが第二次大戦の廃墟から始まっていなかったら、英国がEUの前身である欧州経済共同体(EEC)に入っていなかったら、英国の今の繁栄と賑わいがあっただろうか。EU離脱を問う国民投票を控え、英国のメディアも読者も頭を冷やして考えてみる必要がある。「それにしても」とEU英国事務所の広報部長がため息をつく。「能力不足と腐敗のためEUが国際援助で115億ポンドの無駄遣い」(「サンデー・タイムズ」紙)、「英国の洪水被害はEUのため悪化」(「デーリー・メール」紙)と悪意に満ちた報道が氾濫している。英国事務所はウェブページでその一つひとつに丁寧に反論しているが、止まる気配は一向にない。

「英国ニュースの行間を読め!」は本稿が最終回となります。ご愛読いただき、誠にありがとうございました。(編集部)

 

新聞のデジタル化
「ガーディアン・アンリミテッド」の終焉

世界の先頭に立って新聞のデジタル化を進めてきた「ガーディアン」紙(日曜紙は「オブザーバー」)が今後3年間で予算を20%(5400万ポンド)削減して、黒字化を目指す方針を発表した。同紙はいち早く「ガーディアン・アンリミテッド」と銘打ち、無料ですべての記事や写真、映像のコンテンツを閲覧できるオープン・ポリシーを掲げてきた。その看板戦略と決別し、月5~60ポンドのメンバーシップ制を導入するというのだから、かなり大きな衝撃を受けた。新聞のデジタル化をめぐっては「メディアの帝王」ルパート・マードック氏傘下の「タイムズ」紙が2010年6月から「ペイ・ウォール」を導入して有料化に踏み切り、黒字化に成功している。

 

産経新聞時代に社長秘書をした筆者は首都圏の夕刊廃止、新聞のデジタル化という核心戦略にかかわった。特にデジタル化では2007年にプロジェクト・マネージャーを務め、在英メディア・ジャーナリストの小林恭子さんのアドバイスを受け、「ガーディアン」紙のオープン・ポリシーを採用した。社内の猛反対を説得するプレゼンテーションも担当した。その後、ロンドンに赴任して12年に独立し、現在はインターネットを中心に執筆活動を続けている。デジタルの世界はまさに日進月歩だが、ようやく新聞のデジタル化にも大きな方向性が見えてきた印象が強い。

紙の新聞の販売・広告収入を食いつぶす形でデジタル化に対応してきた新聞社だが、今回の「ガーディアン」紙の方針転換は、もはやそれが限界に達したことを明確に物語っている。

無料で良質のコンテンツを提供し続けるのは無理がある。原稿の書き手からすると、収入を確保できないと十分な取材ができず、良い記事は書けない。時代が変わっても「コンテンツが王様」という大原則は変わらない。しかし従来通りの手法で書かれた記事は読まれなくなった。新聞を「情報の百貨店」に例えると、媒体として流通を独占している間は良かったが、インターネットの発達でその優位性は完全に失われた。新聞が提供する情報の希少性はなくなり、品ぞろえは豊富だが欲しい読みものが見つからない「情報の百貨店」は集客力を失った。

 

インターネット時代の情報発信には「拡散」「収益」「コンテンツ」を考える必要がある。新聞社だけでこうした問題を解決できなかったことをガーディアン・モデルの敗北は教えてくれる。紙の購読者が減少する中で、「ガーディアン」紙は広告収入も落ち込み1億ポンド以上の損失を出した。同紙はラスブリッジャー前編集長時代にマードック氏の日曜紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」(廃刊)の組織的盗聴事件、告発サイト「ウィキリークス」が入手したアフガニスタン・イラク駐留米軍文書と米外交公電、米国家安全保障局(NSA)や英政府通信本部(GCHQ)の市民監視プログラムを暴露したスノーデン・ファイルを連続スクープし、黄金期を築いた。主張は左寄りだが、コンテンツは非の打ちどころがないほど充実している。しかし「拡散」「収益」という面で新聞社がグーグルやフェイスブック、アマゾンといったネット企業に勝つのは難しくなった。記者に記事は書けてもプログラムは書けない。

日経新聞は「フィナンシャル・タイムズ」紙を1600億円で買収。いずれも経済紙で「情報の百貨店」というよりは「情報の専門店」である。日本国内のデジタル読者を増やし、アジア・マーケットに食い込めるかが勝負の分かれ目になる。だが、どれだけデジタル化にオカネをつぎ込めるのだろう。アマゾンのジェフ・ベゾス最高経営責任者(CEO)は伝統ある米紙「ワシントン・ポスト」を買収、「拡散」と「収益」はネット企業が引き受け、コンテンツは新聞の編集局がデジタル・スタッフと一緒になって展開する新境地を切り開いた。「ワシントン・ポスト」紙はアマゾンの悪い話は書けないという欠点があるが、大きな可能性を示している。

筆者は「タイムズ」紙電子版の有料読者だが、記事というより、映画や劇場、トーク・ショーやレストランの割引サービスの方が魅力的だ。日本の新聞社が洗剤やトイレットペーパー、プロ野球の入場券、液晶テレビまで使って販売部数の維持に必死になる姿と似ていなくもない。

 

コービン党首が終わらなければ、労働党の終わりが始まる

第二次大戦下の宰相ウィンストン・チャーチルは1942年、エル・アラメイン(エジプト)の戦いで英軍がドイツ軍を撃破したのに際して、こう演説した。「これは終わりではない。これは終わりの始まりですらない。が、恐らく始まりの終わりなのかもしれない(Now this is not the end. It is not even the beginning of the end. But it is, perhaps, the end of the beginning)」。それまで英軍が勝利を収めることはなかったが、この戦いを境にドイツ軍に敗北を喫することはなくなった。連合軍の勝利が約束されたわけではなかったが、流れが変わったことをチャーチルは雄弁に語ってみせたのである。

チャーチルの演説を最大野党・労働党の現状に当てはめるとどうなるか。労働党のジェレミー・コービン党首は30時間以上に及ぶ議論の末、1月5日に「影の内閣」の改造を行った。シリア空爆やトライデント・ミサイルによる核抑止政策をめぐって対立する影の内閣のメンバー2人をクビにし、影の国防相を降格。強硬左派のコービン氏は「レッド・ケン」と呼ばれる左派中の左派ケン・リビングストン前ロンドン市長を党国防レビュー(見直し)の共同議長に据え、トライデント反対で党内意見を取りまとめようとしている。コービン氏とは党首選の取材で会ったことがあるが、その柔らかな物腰とは裏腹に原理主義的な平和主義と反核を追求する強固な意志が浮き彫りになってきた。

 

英国のブレア首相と米国のブッシュ大統領(いずれも当時)が二人三脚で強行したイラク戦争が中東・北アフリカの混乱と過激派組織ISを生み落とした側面は否定できない。しかし国際テロ組織アルカイダは2001 年9月の米中枢同時テロ以前から存在していた。影の欧州担当閣外相のパット・マクファディン氏は、国際テロの原因を欧米の外交・安全保障政策の失敗だけに帰することはできないという正論を示したことが影響して解任された。トライデントを支持するマリア・イーグル影の国防相は反トライデント派に差し替えられた。ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用さえチラつかせているというのに、とても正気の沙汰とは思えない。

英国は核保有国であり、国連安全保障理事会の常任理事国でもある。労働党と保守党の2大政党が長らく英国政治を支えてきた。コービン氏が個人的に理想を追求するのは結構だが、労働党が反核平和主義にカジを切ることは英国の外交・安保政策を硬直化させるだけでなく、国際社会にとっても大きなマイナスだ。しかし労働党ではリビングストン氏の下、英国は北大西洋条約機構(NATO)に留まるべきか否かが議論されている。そういうことを本気で議論するならば、第二次大戦の戦勝国として認められた常任理事国のポストを返上してからにしてほしい。

 

影の内閣改造の翌6日、影の外交担当閣外相のスティーブン・ドーティー氏がTVの生中継中に辞任を表明するなど3人が一斉に辞任した。人気ロック・シンガー、デービッド・ボウイの訃報が流れた11日にはキャサリン・マッキネル影の司法相が辞任した。ボウイのニュースがなければ、英メディアは労働党の内紛劇をもっとセンセーショナルに取り上げていただろう。4人の辞任は、強硬左派色をむき出しにしてきたコービン氏の改造への反動である。

野党時代の保守党党首を務めたウィリアム・ヘイグ前外相は「デーリー・テレグラフ」紙に影の内閣を改造する際の野党党首の心得を示している。①改造は反撃のスキを与えないよう夜遅く突然に行うなど奇襲が肝要だ、②有無を言わせず改造をやり遂げる、③更迭や解雇の理由を一々、公の場で説明しない、④引き抜き人事で反対勢力を分断し、勢力を弱める、⑤党内の穏健派や中間層を取り込んで結束を固める、⑥奇襲攻撃としての改造を行う力がない時は首をすくめて時を待つ、ことだそうだ。

ユートピア社会主義は有害な幻想に過ぎない。労働党は既に崩壊の危機に瀕している。5月の地方選、欧州連合(EU)残留・離脱を問う国民投票、トライデントの継続・廃止をめぐって労働党左派と穏健派、右派の対立が決定的になるのは避けられない。強硬左派のコービン党首を斬るしか労働党にとって生き残りの道はない。そうしなければ確実に労働党の終わりが始まるだろう。

 

EU残留・離脱の国民投票、あなたはどちらに賭ける

皆さん、新年あけましておめでとうございます。クリスマスとお正月は楽しく過ごされましたか。

クリスマス翌日の12月26日は「ボクシング・デー」と呼ばれているが、2200万人が街に繰り出し、37億4000万ポンド(約6670億円)の買い物を楽しんだとみられる。かくいう私も出張用のカメラ・バッグとGoProの装着用カメラを買い込み、妻から「また買ったの?」と叱られてしまった。

新聞社の支局長としてロンドンに赴任し、その後、独立して8年半が経つ。2008年のリーマン・ショックで英国の景気とポンドの通貨価値は大幅に下がったが、国内総生産(GDP)の年間成長率が2%を超えるなど英国経済は表面上、元気を取り戻したかに見える。しかし、英中央銀行・イングランド銀行は昨年中に利上げに踏み切らなかった。賃上げペースが弱く、原油価格の下落や財政再建の影響でインフレ率がゼロ%を少し上回る程度だからだ。「フィナンシャル・タイムズ」紙は新年もイングランド銀行は利上げを見送ると予想している。住宅ローンを抱える人には、とても気になるニュースだろう。しかし、上昇する不動産価格と雨後の筍のごとく増える不動産屋を見ていると、また、いつバブルが弾けるかと不安にならざるを得ない。

 

それより心配なのは、早ければ今年6月にも実施される、欧州連合(EU)残留・離脱を問う国民投票だ。日本人の目から見ると馬鹿げているとしか思えないのに、どうしてEUから離脱した方が良いと思う人が英国には多いのか。離脱を唱える人たちの動機は本当に様々だ。

まず、英国伝統の「議会主権」を損なうからだという、保守党内に根強い意見が挙げられる。

英国は「国民主権」というより、有権者に選ばれた議会に絶対的な権限を認めてきた。このシステムの下、2つの大戦と冷戦を勝ち抜いた英国は、EUの本部があるブリュッセルに意思決定の権限を奪われるのを本能的に嫌がっているのだ。

1991年から2014年にかけ、英国にやって来た移民は、差し引きで397万9000人(オックスフォード大学などの調査)。EU拡大によって移民が英国に流れ込み、自分の居場所や取り分が奪われたと感じる高齢者や単純労働者が増えた。外国資本、外国人選手、外国人監督を受け入れたことでリーグは活況を呈しているものの英国人の出番は明らかに少なくなっている、サッカーのイングランド・プレミア・リーグと同様だ。世界金融危機で財政が逼迫(ひっぱく)し、移民に対して社会保障や年金の恩恵を与える気持ちの余裕がなくなっている。

また、シリアやアフガニスタンの難民が大量に欧州に押し寄せ、130人が死亡したパリ同時多発テロで、イスラム系移民に対する潜在的な恐怖心が再び頭をもたげ始めている。

単一通貨ユーロ圏の年間成長率は1.6%で、英国を0.5ポイントも下回っている。先の大戦後、平和と繁栄をもたらしたEUというシステムは今や「低成長」という軛(くびき)に変わってしまった。融通の利かないEUの金融規制に縛られると国際金融街シティの競争力が落ち、HSBCのように本社をロンドンから別の場所に移すことを検討する金融機関が出てくるかもしれない。

 

こうした状況を背景に、キャメロン首相は国民投票というギャンブルに打って出た。英国がEUを飛び出せば、米国も日本も中国も相手にしない。そればかりか英国の地方の一つであるスコットランドにも見捨てられてしまうだろう。EUを離脱した場合、GDPは2030年時点で残留した場合より2.2%も小さくなる恐れがあるという。キャメロン首相もEUから出たいわけではない。保守党内の強硬派と、EU離脱と移民規制を唱えて支持率を上げた英国独立党(UKIP)を抑えるために、国民投票という大芝居を打った。ハイリスク・ノーリターンの博打というわけだ。

EU離脱に賭ける人はどうかしていると言わざるを得ない。しかし人間は時に理性ではなく感情で動く動物だ。欧州経済は回復基調に乗ってきてはいるが、投票日直前の大規模テロでパニックが起きたり、難民問題がさらに深刻化したりした場合、賽(さい)の目がどう出るかは誰にも予想できない。

 

 

テロに怯えず、イスラム社会と心の距離を縮めよう

ロンドンの地下鉄レイトンストーン駅構内で5日午後7時ごろ、29歳の男が「これはシリアのためだ」と叫びながら刃物を振り回し、乗降客2人に重軽傷を負わせた。駆けつけた警官がスタンガンを使って男を取り押さえたが、52人の犠牲者を出した2005年の地下鉄・バス同時多発テロの恐怖をよみがえらせた。事件翌日の日曜日、駅改札には警官4人が立っていた。周辺のハイストリートではクリスマス用の電飾がまぶしく輝く。大半の人は忙しそうに行き過ぎる。

ロンドンで2週間にわたって罪に問わないことを条件に違法に所持する銃の放棄を呼び掛けたところ、旧ソ連製の自動小銃AK-47(カラシニコフ)を含む25丁もの銃が回収された。もしパリと同じように自動小銃や自爆ベストを使った犯行だったらと想像するだけでもゾッとする。

英国ではキャメロン政権が過激派組織IS空爆をイラク領からシリア領に拡大したばかりだ。家族の話では、男は奇妙なことを口走るようになっていたが、ロンドン警視庁は事件後すぐに「テロ事件として取り扱う」と発表した。欧米各国はイスラム系移民の若者がシリアやイラクに渡ってISに参加するのを防ぐため、出国管理を強化している。対抗策としてISは欧米で増殖するシンパに対し、それぞれの国に留まり、色々な手段で無差別テロを実行するよう呼び掛けている。

ロシア旅客機爆破、130人の犠牲者を出したパリ同時多発テロに続いて、米カリフォルニア州の公立障害者支援施設でも銃乱射事件が起きた。容疑者夫婦の自宅から約5000発の銃弾やパイプ爆弾などが発見され、オバマ米大統領は「容疑者がテロ組織から指示を受けた証拠はないものの、テロの脅威は新たな段階に入った」と宣言した。IS空爆に参加する国は、自国でテロの現実に直面している。

 

ISの組織形態・指揮系統は、2001年の米中枢同時テロで世界を震撼させた国際テロ組織アルカイダと異なり、融通無碍(ゆうずうむげ)だ。反政府軍、ゲリラ、テロリストと、アメーバのように自在に形を変え、インターネットを通じてあらゆるところで無秩序に増殖する。米国家安全保障局(NSA)や英政府通信本部(GCHQ)の監視プログラムをもってしても、突如として行動を起こす「ローン・ウルフ(一匹狼)」まで監視下に置くのは不可能だ。ロンドンのような国際都市で暮らす私たちはいつテロに遭うか分からないリスクに囲まれている。

運動不足の解消も兼ね、筆者はできるだけ歩いて取材先に出掛けている。地下鉄やバスに乗る時は周りをよく見て、本や新聞は読まない。インターネットを通じた過激化の広がりを研究しているキングス・カレッジ・ロンドンの過激化・政治暴力研究国際センター(ICSR)で開かれた会合に参加した際も、「このセンターがいつテロのターゲットにされてもおかしくない」という話が出た。それが私たちを取り巻く現実である。

 

中東の民主化運動「アラブの春」を発火点に2011年に勃発したシリア内戦の死者は25万人を突破し、難民・避難民は1200万人に達した。シリアのアサド大統領の去就をめぐり米国・サウジアラビア・トルコとロシア・イランが対立し、内戦は悪化のスパイラルから抜け出せなくなり、シリアはISやアルカイダの温床と化してしまった。ソマリアやリビア、イエメンでも統治の手が及ばない危険な「無主地」が広がっている。だが、今年に入って11月までにドイツで難民認定を申請した人が96万人を超えたことからも分かるように、大半の人々は混乱ではなく平和で安定した暮らしを求めている。その意味で私たちはテロリストに対して完全に勝利している。

テロの脅威が強調される米国でさえ、テロで死ぬ確率は交通事故や殺人事件に遭って命を失うリスクよりも低い。実は浴槽で溺死する確率より低いのだ。しかし、パリ同時多発テロを受けたフランス地方選の第1回投票で、移民排斥や反イスラム主義を掲げる極右政党・国民戦線が仏本土13地域圏のうち6地域圏で首位を走るなど、大躍進した。フランスや米国では次期大統領選をにらんで強硬な論調が目立つ。本当に必要なのはこうした過剰反応ではなく、イスラム社会との相互理解を深め、互いに敬意を持って付き合える関係の構築だ。

 

 

シリアの「イスラム国」空爆より重要なのは
政治プロセスだ

英国はこれまで過激派組織「イスラム国(I S)」への空爆をシリア国内に拡大することをためらってきた。しかしISによるロシア旅客機爆破テロやパリ同時多発テロを受け、キャメロン首相はシリア軍事介入について議会承認を得るため、ISと戦う包括的な戦略を下院で示した。ISによる国際テロが中東・北アフリカから欧州に拡大、自国の安全を保障するにはシリア国内にある「ヘビの頭(ISの本拠地)」を叩き潰す必要があると判断したからだ。

超党派の下院外務委員会が「ISと戦い、シリア和平を実現する一致した国際戦略がない限り、シリアに軍事介入すべきではない」という報告書を先にまとめている。これに答える形で、キャメロン首相は「我が国の安全保障を下請けには出せない」と述べ、英国でのテロを防ぐためにシリアでのIS空爆を他国任せにするのは間違っていると下院に理解を求めた。

英国はアフガニスタン、イラク、リビアに軍事介入し、アフガンで456人、イラクで179人の犠牲を出したものの、3カ国とも安定するどころか混迷を一層深めている。だからシリアに新たに軍事介入することには慎重論が強かった。

 

YouGovの世論調査(11月16、17日実施)では「シリアでのIS空爆」に賛成が58%(9月末時点では60%)。「ISと戦うため米英両軍の地上部隊をイラクに派兵する」ことを承認する意見が43%(同40 %)、「シリア派兵」を認める意見が42%に達している。キャメロン首相は2013年8月、シリアのアサド政権が化学兵器を使用した疑いが濃厚となった際、懲罰的攻撃の承認を求める動議を下院に提出したが、予想外の否決にあった苦い思い出がある。

IS空爆をシリア国内に拡大することについても保守党内から30人前後の造反が出ることが予想され、キャメロン首相はパリ同時多発テロの直後も慎重姿勢を崩していなかった。しかし、自国の安全保障のためという空気が強まり、造反議員が20人前後まで減り、最大野党・労働党から20~30人の賛成が見込める状況に変化してきた。オズボーン財務相も財政見通しが上方修正されたことを受け、「支出見直し」で2020 年までに国防予算を340億ポンドから400 億ポンドに増やし、警察予算も実質ベースで維持する方針を表明し、キャメロン首相を後押しした。

 

パリ同時多発テロは、欧州連合(EU)がウクライナ危機に続いて中東・北アフリカでも外交・安全保障で大きな役割を果たす転換点になる可能性がある。フランスのオランド大統領は北大西洋条約機構(NATO) の集団防衛(同条約5条)ではなく、EUの相互防衛条項(EU基本条約42条7項)の発動を求めた。相互防衛条項は、あるEU 加盟国が攻撃されたとき、あらゆる手段を講じて援助する義務を他の加盟国に課している。ドイツのメルケル首相はテロが起きた西アフリカ・マリに650人の部隊を追加派遣し、フランス軍を支援する方針を表明している。英国は欧州の連帯から外れるわけにはいかない。EUが中東・北アフリカの外交・安全保障での役割を強化すれば、米国はアジア回帰政策に一段とウエイトを置きやすくなる。

ロシアがアサド退陣を受け入れる構えを見せるなどシリア和平に向けた動きが見え始めていたが、トルコ領空に入ったロシア軍機がトルコ軍機に撃墜されるなど、不測の事態が起きている。ロシア軍機がシリア国境地帯で反政府の自由シリア軍が支配する難民キャンプにクラスター(集束)爆弾を投下し、その一部がトルコ側に着弾したため、トルコ側が神経を尖らせていた。

シリア和平への道のりは遠く、険しい。シリアは元の「かたち」には戻らない。ISはシリア住民を「人間の盾」にして潜伏し、ゲリラ戦を繰り広げては、国際テロを輸出している。しかし、IS空爆で巻き添え被害を拡大させると、西洋とイスラムの世界終末戦争を喧伝するISの術中にはまる。シリアでのIS空爆は国際社会の結束を示す意味が強く、軍事的な意義はそれほど大きくない。この機会を利用して、米国、サウジアラビア、トルコ、シリア反政府勢力と、ロシア、イラン、アサド政権が交渉テーブルにつきシリア分割案などをまとめられるのか。空爆より政治プロセスが重要なのは言うまでもない。

 

 

キャメロン首相の4つのお願いはEUに届くか

10日朝、シンクタンク・英王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)で講演したキャメロン首相の表情はいつも以上に神妙だった。英国の歴史に残る演説となることを意識してか、黒のスーツに濃紺のネクタイ、光沢のあるワイシャツを隙なく着こなしている。手元のメモに目を落とす回数もできるだけ少なくし、英国が望む欧州連合(EU)の未来像を44分間にわたって淀みなく描き出した。2017年末までに行う、EU残留・離脱を問う国民投票に向けた4つの交渉目標が初めて明らかにされた。講演と同じ内容の書簡がこの日、ポーランド出身のトゥスクEU大統領(EU首脳会議の常任議長)に届けられた。

 

これまでEUの行政執行機関・欧州委員会のバローゾ委員長(当時)に「英国は国民投票の前にEUと再交渉する、再交渉すると言うが、ついぞ、その内容を聞いたことがない」と皮肉られてきた。キャメロン首相が公表したEUとの再交渉で目指す4つの目標を要約すると――まず、英国を「統合を絶えず深化させる連合(ever closer union)」の例外とし、さらなる政治統合のプロセスに巻き込まないこと。第2に、EU域内からの移民は英国に居住して4年が経たないと福祉手当を受給できないようにする。第3に、英国の議会に属する主権をEUに委譲しない。望まないEU指令を拒否できる「レッド・カード」制を導入する。最後に、単一通貨ユーロ圏(19カ国)に参加しないEU加盟国が不利益を被らないようにする。

欧州問題を扱うシンクタンク、欧州外交評議会(ECFR)が英国以外のEU加盟国27カ国を調査した結果、英国を「統合を絶えず深化させる連合」の例外とすることについて主要国のドイツ、フランス、イタリアなど8カ国が「納得しない」と分析。移民に対する福祉手当の制限については実に18カ国が「納得しない」とみており、「納得する」国はゼロだった。移民の福祉制限は交渉の切り代で、キャメロン首相は最終的に取り下げるという観測記事が早くも出ている。

クチの悪い英国メディアは「たった、それだけ?」(「デーリー・メール」紙)、「限られた要求。ふざけているの?」(「サン」紙)と大見出しを掲げ、欧州統合派から懐疑派に宗旨変えしたローソン元財務相は「首相が捕まえようとしているのは小魚だ」とこき下ろした。先の総選挙で過半数を制し、18年ぶりに保守党の単独政権を樹立したものの、党内から一桁の造反が出るだけで政権基盤が揺らぐ。サッチャー、メージャー時代から欧州問題は保守党の鬼門だった。

キャメロン政権でも、EU国民投票は党内右派に対するガス抜きで、EU離脱を掲げる英国独立党(UKIP)対策の意味合いが強かった。しかし、この夏の難民危機でEU離脱派が再び勢いを増し、再交渉の成果が見込めない割には国民投票で「離脱」と出るリスクがあまりに大きくなってきた。「フィナンシャル・タイムズ」紙のオンライン投票を試してみると、英国は「小さなイングランド」になるという意見が51%。ならないは49%にとどまった。

 

トゥスクEU大統領は「とても、とても厳しい」「12月までに合意ができる保証はない。着地点を見出すのは本当に困難だと言わざるを得ない」と表情を曇らせた。債務危機の後、懐疑派や急進左派、極右政党が急激に増えた状況をみると、キャメロン首相が言うようにEUには改革が必要だ。通貨・金融政策、為替政策などの主権を放棄したため、ユーロを導入したギリシャやポルトガルの民主主義が悲鳴を上げている。ユーロ圏全体を見渡した政策が導入国の実情に適っているとは必ずしも限らないからだ。

ユーロを最終ゴールにEUを一つの船にした場合、生産性の高いドイツが域内の労働力や資本を吸い上げて独り勝ちする。生産性の低いギリシャはアリ地獄へと落ちていく。日本では東京から地方に税金を再配分できるが、EUではドイツの税金をギリシャの医療や福祉に回すことはできない。だから一つの船ではなく、それぞれの加盟国(船)をロープでつなぐ「もやい」構造にして、柔軟性を持たせようというのがキャメロン首相の改革案だ。

欧州の未来を予測するのは難しい。英国がEUを離脱して、スコットランドが英国から独立するシナリオも無視できなくなってきた。

 

 

 

100年の眠りから覚めた上院―タックス・クレジット
削減案にノー

10月26日、オズボーン財務相が主導するタックス・クレジット(英国の所得保障制度の一つ)削減案について上院が2度にわたって「ノー」を突き付け、大騒ぎになった。ご存知の方もおられるかもしれないが、英国は下院(庶民院)と上院(貴族院)の2院制だが、財政に関する法案について下院の可決を上院が否決しないのが英国憲政上のルールである。保守党は総選挙のマニフェスト(政権公約)で社会保障費の上限を引き下げるとうたっていたが、タックス・クレジット削減は明記していなかった。

タックス・クレジットは直訳すると「税額控除」だが、一定の水準に達しない所得を補う制度だ。シンクタンク、財政研究所(IFS)によると、財務相の計画通り、タックス・クレジットを削減すれば実に328万世帯が平均で1300ポンドの所得保障を失う恐れがある。影響があまりに大きいので、上院は「伝家の宝刀」を抜き、財務相に待ったをかけた。「選挙では選ばれていないが、ここでモノを言わなければ存在価値が問われる」という上院の意地があった。オズボーン財務相は秋の予算演説(11月25日)で移行期間の緩和措置を発表する考えを示した。まさに上院議員は「良識の府」「再考の府」の役割を果たしたと言える。

 

タックス・クレジットの前身、ファミリークレジットは1989年に導入され、ブレア労働党政権下の2003年、現在の就労タックス・クレジット(低所得世帯が対象、一定の就労が条件)と児童タックス・クレジット(子供のいる世帯が対象、就労の必要なし)が導入された。労働党が低所得世帯の歓心を買うためにつくり出した「賄賂」という批判もある。02年度にはタックス・クレジットが国内総生産(GDP)に占める割合は0.6%に過ぎなかったが、09年度に1.9%にまで膨れ上がった。グローバル化とICT(情報通信技術)の進展は労働者の賃金を押し下げ、世界金融危機で賃金は大幅にカットされた。タックス・クレジットはいつしか、働いても働いても生活できないワーキング・プア世帯へのクモの糸になってしまった。

GDP成長率が2%を超え、経済の回復が堅調になってきたことから、オズボーン財務相は「高福祉、単純労働、低賃金」の下降スパイラルを「低福祉、技術労働、高賃金」の上昇スパイルに転換する大胆なビジョンを描く。最低賃金を引き上げ、生活賃金を導入する代わりに、タックス・クレジットをカットして44億ポンドの福祉予算を削減する。下院図書館の報告書によると、改革しなければ20年度、最低賃金で週35時間働く低所得世帯(片親、子供2人)の福祉手当を含めた全収入は2万3738ポンド、タックス・クレジットは8132ポンドで34.3%を占める。改革を断行すれば全収入は2万1700ポンドに下がるものの、タックス・クレジットも4753ポンド(同21.9%)に抑えることができる。かなり痛みを伴う改革だ。閣僚など、保守党内部からも批判が出ている。しかし、経常赤字、財政赤字の「双子の赤字」を抱える英国は国債の消化を海外に頼る割合が多く、財政赤字をこれ以上、膨らませるわけにはいかない。オズボーン財務相と上院の衝突は、英国の政治が健全に機能している証でもある。

 

1909年、ロイド・ジョージ蔵相が提出した財政法案をめぐって自由党政府と上院の保守党が激しく対立し、上院は長年の慣習に従わず法案を否決してしまった。下院と上院の正面衝突。しかし民主的な正統性は、選挙のない上院ではなく、有権者に選ばれた下院にある。2度にわたる総選挙が行われ、下院を通過した金銭関係法案は上院に送付して1カ月で成立すると定められた(11年議会法)。それ以来、上院が下院を通過した金銭法案を否決したことは一度もない。

上院は、タックス・クレジット削減で影響を受ける低所得世帯に対する緩和措置と財政研究所の試算への評価が出るまで待つことを求めている。しかし、保守党の下院議員は上院の反乱を「憲法違反」と激しく批判している。上院の構成は保守党249議席、労働党212議席、自由民主党111議席、無所属176議席など計826議席。金銭法案について上院の反乱を防ぐため、保守党の上院議員を150人以上、新たに指名する裏ワザも取り沙汰されている。しかし「意地悪な政党」という暗いイメージが残る保守党は慎重に議会運営を進めていく必要がある。

 

「労働者の党」になった保守党―生活賃金は吉と出るか

保守党の年次党大会で次の首相の座を狙うオズボーン財務相、メイ内相が肩幅より広く両足を広げて立つポーズを見せ、「米女性シンガー、ビヨンセを真似している」と冷やかされた。メイ内相は英国に押し寄せる不法移民を迎え撃つためファイティング・ポーズを取っているように見えた。キャメロン首相の右腕オズボーン財務相は、経済・財政政策をめぐる党内の批判をはね返すように「さあ、来い」と仁王立ちしてみせた。

18年ぶりの単独政権樹立を受けて行われた7月の予算演説で、オズボーン財務相は来年4月から25歳以上の労働者を対象に1時間当たり7.2ポンド(約1323円)の法定生活賃金を全国一律に導入し、2020 年までに9ポンド(約1654円)に引き上げると表明した。生活賃金とは衣食住をまかなえ、人並みの生活ができる賃金のことだ。しかし法的に拘束力を持つ生活賃金を導入すると、逆に小さな企業が雇用を手控え、景気回復の足かせになると労働党でさえ手が出せなかった政策だ。それだけに大きな波紋を広げた。

最低賃金を政府に勧告する独立機関・低賃金委員会のノルグローブ議長は党大会に合わせ、「フィナンシャル・タイムズ」紙のインタビューに応じ、「10月から最低賃金が時給6.7ポンド(約1231円)に引き上げられるが、小さな会社に大きな影響が出るだろう」と反撃の狼煙(のろし)を上げた。法定生活賃金の導入について低賃金委員会に事前の相談はなく、連絡があったのは予算演説の2 ~3日前だった。議長の言葉の端々には明らかに怒りがにじんでいた。

 

最低賃金でフルタイム働いても人並みの生活はとてもできない。その差額を埋めるため、政府が手当を支給する「タックス・クレジット」と呼ばれる制度が英国にはある。働いていない人に就労を促すインセンティブになる側面もあったが、世界金融危機以降、労働者の賃金を低く据え置く企業の活動を事実上、政府がタックス・クレジットで下支えする状況が続いてきた。景気回復と原油価格の下落もあって実質賃金がようやく上昇に転じたのを見計らって、オズボーン財務相は大きな賭けに出た。批判はある。法定生活賃金を導入する一方でタックス・クレジットを削減するオズボーン財務相は、18歳以上の住民が一律に支払う人頭税(ポール・タックス)の導入で失敗したサッチャーと同じ轍(てつ)を踏むという声も上がる。しかし保守党は福祉ではなく賃金で働く者に報いる社会を目指すという未来を描く。

FT紙や日経新聞などの経済紙やエコノミストは最低賃金の引き上げには否定的だ。大手スーパーのテスコは2020年までに5 億ポンド(約917億円)のコスト増になると悲鳴を上げる。テスコを含む大多数のスーパーでは自動精算機が導入されている。従業員の労働生産性を高めるためだ。清掃、宿泊・接客など最低賃金で働く単純労働者の生産性を高めるのは難しいという現実もある。しかしオズボーン財務相は法定生活賃金の導入で6万人の失業者が出るかもしれないが、全体で100万人の雇用増になると強気のシナリオを抱く。時給9ポンドは英国における賃金の中央値の60%に相当し、380万人が対象になる。企業規模が小さくなるほど最低賃金で働く労働者の比率は高くなり、昨年10月時点で10人未満の会社では12.2%、250人以上の会社は3.8% だった。

 

強欲なバンカーが引き起こした金融危機と経済危機を克服するため膨大な税金が投入され、何の咎もないのに割りを食ったのは福祉や賃金がカットされた低所得者層だ。その後の英中銀・イングランド銀行の量的緩和で不動産や株式を持つ富裕層の資産は膨れ上がった。グローバリゼーションとICT (情報通信技術)の進展で賃金はずっと下方圧力を受けている。英国では民間消費が国内総生産(GDP)の65%を占める。賃金がインフレ率を上回って上昇しなければ消費は増えず、英国経済の好循環は戻らない。

2001年、市民団体「ロンドン・シチズンズ」が雇用者に生活賃金の支払いを求めて運動を始めた。メンバーの移民は賃金が低すぎて1日に2回働くダブルワークを強いられ、子供と過ごす時間も奪われたからだ。1200社以上が自主的に生活賃金を導入している。オズボーン財務相の挑戦はさて吉と出るか、凶と出るか。筆者は前者に賭ける。

 

労働党はコービン登場を「富の再分配」論議につなげよう

今年も年次党大会のシーズンがやってきた。注目は何と言っても「グロテスクなまでの不平等にはもううんざり」と訴えたジェレミー・コービン氏が新党首に選ばれた労働党の党大会だ。

英国は独自の核抑止力を持つ国連安全保障理事会の常任理事国で、米国との「特別な関係」を誇る同盟国。労働党はその英国で計37年近くも政権を担ってきた。反米、反NATO(北大西洋条約機構)、反核、反欧州連合(EU)、反君主制のコービン氏が二大政党の片方を率いるというのだから、おもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎになった。

コービン氏には「強硬左派」「極左」「時代遅れの社会主義者」というレッテルがはられ、キノック元党首からは「有害なトロツキー派がコービン氏を支持した」とまで指摘されている。

産経新聞ロンドン支局長として赴任した2007年7月から英国政治をウォッチしているが、次第に展開を予想するのが難しくなってきた。ブレア労働党政権が誕生した1997年以降、保守党はスコットランド地方でほとんど議席が取れなくなり、単独政権はもはやあり得ないと思い込んでいた。地域政党・スコットランド民族党(SNP)の台頭や、EU離脱を唱える英国独立党(UKIP)の支持者拡大で労働党の支持基盤が崩壊し、保守党は5月の総選挙で18年ぶりに予想外の単独政権を樹立。そして「オールド・レイバー」をより極端に左巻きにしたコービン氏が労働党党首になった。秩序と安定を好む英国政治が激変しようとしている。

 

保守系の「デーリー・テレグラフ」紙、「デーリー・メール」紙は連日「コービンたたき」に忙しい。市場主義を信奉する「エコノミスト」誌や「フィナンシャル・タイムズ」紙も、「銀行や鉄道、エネルギー産業の再国有化」を訴えるコービン氏には厳しい。世論調査会社Ipsos MORIがコービン氏に満足か、不満足かを調べたところ、労働党支持者の中では満足が41ポイントも上回ったが、全体では不満足が3ポイント上回った。歴代党首は就任時の世論調査で、マイケル・フット(1980~83年)の2ポイントを除くと、満足が16~20ポイント不満足を上回っており、コービン氏のマイナス3ポイントはけた外れに低い。

「ニュー・レイバー(旧ブレア派)」の重鎮ピーター・マンデルソン氏は、コービン氏では次の総選挙が勝てないことが明らかになればコービン氏を党首から引きずり下ろす、と号令をかけたとも受け止められる微妙なコメントを発表した。5年前の党首選でエド・ミリバンド氏ではなく、兄のデービッド氏が選ばれていれば、こんな展開にはなっていなかったかもしれない。しかし世界金融危機による英国経済の構造変化がコービン党首を生み落としたのではないか。

 

国民統計局(ONS)の調べでは、英国の1930万人、すなわち3人に1人が2010年から13年の間に少なくとも1度は公式貧困基準(可処分世帯所得の中央値の60%未満)を下回っていた。EU平均は25%だ。世界金融危機で強欲な銀行を救うため財政出動を強いられ、社会保障がカットされた。失業率の上昇を抑えるため、低賃金の雇用形態が増えた。その一方でイングランド銀行(中央銀行)の量的緩和により、持てる者の富はさらに膨らんだ。

コービン氏が唱える「国民のための量的緩和」、イングランド銀行が「国民投資銀行」の発行する債券を購入し、社会政策の原資に充てるという政策を経済界、エコノミストは激しく非難している。しかし、220億ポンド(約4兆330億円)の運用資産を誇るヘッジファンドの共同創業者はコービン氏のアイデアに理解を示した。グローバリゼーションと財政難で課税強化と社会保障という「富の再分配」メカニズムが使いづらくなっている。次に金融危機が起きたとき、持てる者をさらに裕福にする従来の量的緩和より「国民のための量的緩和」の方が正しく使えば有効に機能するというわけだ。

コービン氏は労働党の希望というより、平等と公正な社会を実現できなかったことに対する左派の反動のあらわれとみることができる。コービン氏の政策には首を傾げるところが多いのは確かだ。しかし党大会で醜い内紛を繰り広げるよりも、いかに富の再分配と経済成長を両立させるかの政策論議を始めることが大切だ。

 
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