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刊行100周年「クマのプーさん」を生んだ英国

刊行100周年「クマのプーさん」を生んだ英国

1926年10月14日に刊行された「クマのプーさん」が、今年で100周年を迎える。また、物語を生んだA・A・ミルン没後70年、愛らしい挿絵を描いたE・H・シェパードの没後50年にも当たる。ヴィクトリア朝の英国で子ども時代を過ごし、第1次世界大戦を経験した2人はどのような時代を生き、どのようにして「クマのプーさん」を生み出したのか。その歩みをたどる。 (文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: 参考: 「クマのプーさん」誕生物語 A・A・ミルンとE・H・シェパードの生涯とその世界/ジェームズ・キャンベル著ほか

1ヴィクトリア朝の子ども時代

アラン・アレクサンダー・ミルンは1882年1月18日、ロンドン北部キルバーンに生まれた。父ジョン・ヴァイン・ミルンはヘンリー・ハウス・スクールという私立校の校長で、ミルンはこの学校で学んだ。当時はまだ公立の中等教育制度が整備されておらず、一般の子どもたちは初等教育を終えると、早くから働き始めることが多く、その先の教育を受ける機会は限られていた。一方で、上流階級の男子は学費も高く格式のあるパブリック・スクールなどに進むことが主流だった。だが19世紀末になると、一般的な中産階級の子どもたちに高い教育を受けさせるための小規模な学校が増えており、ミルンの父が校長を務めたのは、そうした新しいタイプの学校だった。教師の1人には、後にSF作家となる若き日のH・G・ウェルズがおり、幼いミルンはウェルズから理科を教わった。

A・A・ミルン 内省的で静けさを好んだといわれるA・A・ミルン

挿絵を手掛けたアーネスト・ハワード・シェパードはミルンより3歳年上で、1879年12月10日、ロンドン北部のセント・ジョンズ・ウッドに生まれ、リージェンツ・パークの西側や、ブルームズベリーのゴードン・スクエアにある邸宅で育った。父ヘンリー・ダンキン・シェパードは不動産開発で成功した建築家、母ジェシー・ハリエットは水彩画家ウィリアム・リーの娘だった。また、母の祖父ヘンリー・メイヒューは風刺漫画雑誌「パンチ」の創刊者の一人でもあり、家には寄稿者など多くのゲストが訪れた。アーネストは読書や絵画、音楽といった文化的、かつ当時としてはずいぶん自由な空気の中で幼少期を過ごした。

E・H・シェパード ミルンとは対照的に、朗らかで人当たりのよかったE・H・シェパード(写真左はじ)

2読み書きと出版文化

1880年には5~10歳の子どもの就学が義務化された。その後、義務教育の対象年齢は段階的に引き上げられ、子どもたちが学校で読み書きを学ぶ環境が少しずつ整っていった。印刷技術の発達や出版物の低価格化も進み、19世紀後半の英国では、新聞や雑誌、小説など、さまざまな読み物が人々の暮らしに入り込んでいった。子ども向けの出版物もその一つだった。

それまでの児童書には、子どもに道徳や知識を教えることを目的としたものが多かったが、19世紀半ば以降は、子どもが物語そのものを楽しむ作品が増えていく。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」(1865年)、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの「宝島」(1883年)、ラドヤード・キプリングの「ジャングル・ブック」(1894年)など、ナンセンス、冒険、動物や異国を題材にした作品が次々と登場した。20世紀に入ると、ビアトリクス・ポターの「ピーターラビットのおはなし」(1902年)やケネス・グレアムの「たのしい川べ」(1908年)など、現在も読み継がれる名作が次々と生まれている。

ミルンとシェパードも、こうした出版文化の中でそれぞれの道を歩んだ。ミルンは名門ウェストミンスター・スクール、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学び、1906年から風刺雑誌「パンチ」に随筆やユーモア詩などの寄稿を始める。一方、シェパードは叔父が校長を務めるセント・ポールズ・スクールで絵の才能を認められ、へザリー美術学校を経てロイヤル・アカデミー・スクールへ進み、やがて挿絵画家として活動を始める。07年に「パンチ」に挿絵が採用されたことから、文章を書くミルンと絵を描くシェパードは、やがて同じ雑誌を舞台に交わることになる。

3第1次世界大戦とその後

1914年に第1次世界大戦が始まると、2人の人生は大きく揺さぶられる。当時のミルンは、結婚してまだ1年ほど。「パンチ」の副編集長で文筆家としての地位を築き、ロンドンで比較的恵まれた生活を送っていた。もともと平和主義者だったミルンは戦争には反対していた。しかしこれは「戦争を終わらせるための戦争」なのだと考え、英国のために戦うことを選んだ。

戦場での経験は、ミルンの人生観を大きく変えることになる。ソンムの戦いにも参加し、1916年には「塹壕熱ざんごうねつ」により英国へ戻された。戦後も戦争の記憶は消えず、後にミルンは自身の戦争体験を振り返り、戦争を「精神的、道徳的な堕落」とまで表現している。

シェパードもまた、戦争が始まると陸軍に志願した。すでに画家として仕事を得ていたが、1915年から18年まで前線に赴き、砲兵将校としてフランスやイタリアで戦った。それでもシェパードは戦地で絵を描くことをやめず、戦場や兵士たちの姿を数多くスケッチしている。

こうして戦争は、それまでの2人の平和な生活を大きく変えた。戦争の恐怖を経験したミルンが後に描くことになるのは、戦争とは無縁の穏やかな童話の世界だった。そこには、失われた幼年時代への郷愁や、戦争を経験した大人に向けた平和への願いを読み取ることもできる。戦後、「パンチ」の仕事に戻ったシェパードは、1920年代にミルンの子ども向け作品の挿絵を手掛けることになる。ミルンの詩集「クリストファー・ロビンのうた」では、同僚だったE・V・ルーカスの推薦を受けてシェパードが挿絵を担当。ここから2人の協働が始まり、1926年の「クマのプーさん」へとつながっていく。

風刺漫画雑誌パンチとは

1841年に創刊された「パンチ」(Punch)は、政治や社会を題材にした風刺記事や漫画を掲した英国の週刊誌。正式名称は「Punch, or The London Charivari」で、フランスの風刺雑誌「ル・シャリヴァリ」に倣ったものだった。文章だけでなく、社会や政治を風刺する挿絵を多く掲載し、19世紀の英国を代表するユーモア誌へと成長した。現在の意味で使われる「カートゥーン」という言葉の定着にも大きな役割を果たしたとされる。

創刊者の1人であるジャーナリストのヘンリー・メイヒューは、実はシェパードの母方の祖父でもあった。ミルンは1906年から「パンチ」に文章を寄稿し、シェパードも1907年に最初の挿絵が採用されている。2人は後に「パンチ」で仕事をする同僚となり、「クマのプーさん」へとつながる協働の土台がここで築かれた。

風刺漫画雑誌パンチ「パンチ」は1992年まで150年以上にわたり発行された

4クリストファー・ロビンと2人の仕事

第1次世界大戦後、再び文筆家として活動を始めたミルンは、戯曲や小説だけでなく、子どものための詩を書くようになる。そのきっかけの一つとなったのが、1920年8月21日に生まれた一人息子、クリストファー・ミルンだった。 24年に刊行された詩集「クリストファー・ロビンのうた」には、後に「プー」となるクリストファー・ロビンのテディ・ベアが、すでに「テディ・ベア」という詩に登場している。さらに「かいだんをはんぶんおりたところ」や「おやすみとおいのり」の挿絵にも、このクマが描かれた。挿絵を手掛けたのは、ミルンと「パンチ」で仕事をしていたシェパードである。

クリストファー・ロビンのうた

「プー」という名前自体も、実はこの詩集にすでに登場している。クリストファー・ロビンがロンドンの公園で白鳥にえさをやる際、「プー」と呼びかけたことから、その白鳥に「プー」という名前を付いたのだという。詩集の「かがみ」にはこの白鳥が登場し、序文には名前が生まれた経緯も記されている。その後、白鳥はこの名前をテディ・ベアに譲ることになる。やがて、このクマには「ウィニー」というもう一つ別の名前が加わった。これは、ロンドン動物園で当時人気を集めていた雌のアメリカクロクマ、ウィニーに由来する。こうして、クリストファー・ロビンのテディ・ベアは、最終的に「ウィニー・ザ・プー」と呼ばれるようになった。

「クリストファー・ロビンのうた」は英国で大反響を呼び、初版は発行日当日に売り切れ、1924年末までに4万部以上を売り上げたという。米国でも同様の人気で、子どものために書かれた詩集でありながら、自分が読みたくて購入する大人が多いことも明らかになった。25年のクリスマスには、プーが登場する物語の一編が新聞に掲載され、翌年には1冊の本としてまとめられることになる。

5森と絵が生まれるまで

1925年、ミルン一家はロンドンを離れ、英南部イースト・サセックスのコッチフォード・ファームに移り住んだ。家の近くには広大なアッシュダウン・フォレストが広がっていた。ミルンとクリストファー・ロビンはこの森を歩くことを好み、その風景や2人で過ごした時間が、物語の舞台となる「100エーカーの森」のイメージにつながっていく。26年の夏、シェパード一家がミルン一家を訪ね、ミルンはシェパードにアッシュダウン・フォレストを案内した。

シェパードは森を歩きながらスケッチをするだけでなく、写真も参考にしながら挿絵を描いた。クリストファー・ロビンの姿についても、本人をそのまま描いたわけではない。細かった脚はシェパードの息子グレアムの脚を参考にし、長かった髪もグレアムくらいの短さに整えて描いたという。プーのモデルとなったクマについても、クリストファー・ロビンのテディ・ベアだけがモデルだったわけではない。シェパードは、クリストファー・ロビンのクマが少しむっつりした表情をしていることから、自分の息子グレアムが持っていたテディ・ベア「グローラー」に目を向けた。こうして二つのテディ・ベアを参考にしながら、現在知られているプーの姿が出来あがっていった。

ミルンが生み出した物語に、実際の森の風景や子どもたち、ぬいぐるみをもとにしたシェパードの挿絵が命を吹き込み、「100エーカーの森」の世界が少しずつ形になっていった。

100エーカーの森の地図サザビーのオークションに出品された、シェパード直筆の、100エーカーの森の地図

61926年、「クマのプーさん」誕生

こうして1926年、「クマのプーさん」が1冊の本として完成する。10月14日にロンドンで刊行され、米国では21日に発売された。前作「クリストファー・ロビンのうた」の大きな反響を受け、英国で用意された初版は3万5000部。子どものための本としては異例ともいえる部数だった。米国でも人気は急速に広がり、発売から10週間で15万部を売り上げたという。

この本の特徴は、ミルンの文章とシェパードの挿絵が、当時の主流のレイアウトのように別々に収められているのではなく、文章と絵が同じページに配置され、互いを補い合うように作られていることだった。現在では珍しくないスタイルだが、当時としては新しい試みだったという。シェパードの繊細な線で描かれた動物たちや森の風景は、ミルンの文章と一体となって物語の世界を作り上げた。また、2人の仕事には出版の仕組みにも新しい試みがあった。ミルンは、それまで一般的だった一括払いではなく、売り上げに応じて著者と画家に収入が入る印税方式を取り入れることを提案したとされる。印税の配分はミルン80パーセント、シェパード20パーセントとなった。この配分は、後に2人の遺族の間で問題となることになる。

翌27年には詩集「クマのプーさんとぼく」、28年には続編の物語「プー横丁にたった家」も刊行される。ミルンが息子との日々から生み出した物語と、シェパードが現実の森や人物、ぬいぐるみをもとに描いた挿絵。その組み合わせから生まれた4冊は、その後、翻訳や映画、商品へと姿を変えながら、世界中へ広がっていくことになった。

「クマのプーさん」「クマのプーさん」の最初のページ。頭をぶつけながら階段を下りてくるプーさんが描かれている

1926年に米国で刊行された、ミルンとシェパードのサイン入りの1冊1926年に米国で刊行された、ミルンとシェパードのサイン入りの1冊

100エーカーの森

「クマのプーさん」に登場する「100エーカーの森」(Hundred Acre Wood)のモデルとなったのが、英南部イースト・サセックスに広がるアッシュダウン・フォレストだ。ミルン一家が暮らしたコッチフォード・ファームからほど近く、ミルンと息子クリストファー・ロビンが一緒に歩いた森の風景が、物語の舞台となった。現在も「100エーカーの森」として知られ、世界各地からファンが訪れる。森には、物語のエピソードを思わせるスポットがいくつも残っている。プーと仲間たちが「プー棒投げ」(Poohsticks)で遊んだ場所として知られるプー棒投げ橋もその一つだ。約6500エーカーに及ぶ広大な森は、物語の舞台であるだけでなく、希少な動植物が生息する貴重な自然環境でもある。2026年の100周年を記念し、アッシュダウン・フォレストでは新たなウォーキング・ルートも設定された。物語の世界をたどりながら、ミルンが息子と歩いた実際の森を散策することができる。

物語通りの姿で佇むプー棒投げ橋物語通りの姿で佇むプー棒投げ橋

7本から商品へ

1930年、米国の出版・商品化業者スティーヴン・スレシンジャーが、ミルンから米国とカナダにおける商品化などの独占的な権利を取得した。スレシンジャーはプーさんをぬいぐるみや玩具などへ展開し、プーさんは「物語のキャラクター」から、さまざまな商品に姿を変える存在となっていった。ミルンはスレシンジャーの事業からロイヤリティーを受け取る契約を結んでいた。こうしたキャラクターの商品化は今では珍しくないが、当時はまだ新しいビジネスモデルだった。スレシンジャーはプーさんをぬいぐるみだけでなく、レコードやボードゲームなどにも展開し、本のキャラクターをさまざまな形で楽しむライセンス・ビジネスの先駆けとなった。

一方、作品の人気が高まるにつれ、クリストファー・ロビン本人も「クマのプーさん」の世界から切り離せない存在になっていった。ミルンの妻ダフネは、夫の秘書のような役割を担い、クリストファー・ロビンとともに雑誌の取材を受けたり、ミルンの詩に曲をつけたものを歌わせてレコードにしたりした。こうしてクリストファー・ロビン本人も、作品の人気とともに世間に知られるようになっていった。

プーさんグッズの販売は1930年代から始まっていた
Pictorial Press /Alamyプーさんグッズの販売は1930年代から始まっていた

8ディズニーのプーさん

A・A・ミルンが1956年に亡くなると、プーさんの権利は遺族や複数の受益者によって管理されることになった。61年、ミルンの未亡人ダフネとミルン側の信託は、映画や海外での商品化などの契約をウォルト・ディズニー・プロダクションズと結んだ。同時期には、スレシンジャー側もディズニーと契約している。ディズニーは66年に初のプーさんのアニメーション作品「プーさんとはちみつ」を公開し、その後も作品を次々と映像化。映画のプーさんは、シェパードの挿絵とは異なる姿で動き始めた。線画だったプーさんたちは色彩豊かなアニメーションとなり、後にはぬいぐるみや衣料品、文房具など、さまざまな商品にも姿を変えていく。原作のプーさんとディズニー版のプーさんは同じキャラクターでありながら、二つの異なるイメージとして世界に広がることになった。

2001年には、ミルン側の受益者が保有していた将来の印税など の権利をディズニーが買い取り、その額は約3億5000万ドル(約 430億円)報じられた。こうして、プーさんをめぐる権利はさらに ディズニーのもとに集約されていった。

クリストファー・ロビン(写真左)と母親のダフネ(同右)クリストファー・ロビン(写真左)と母親のダフネ(同右)

9「クリストファー・ロビン」という人生

世界中に知られるようになった「クリストファー・ロビン」という名前を、実際に背負って生きたのがミルンの一人息子、クリストファー・ロビン・ミルンだった。幼いころには、自分が有名になったことを楽しんだ時期もあったという。しかし9歳で寄宿学校に入ると、父親の本の登場人物として知られていたため、同級生からからかわれ、いじめの対象となった。後年、自伝「The Enchanted Places」(1974年)などで、父親の名声と自分の幼少期との複雑な関係を振り返っている。

成人後のクリストファーは、ケンブリッジ大学を卒業し、1948年に従姉妹のレスリーと結婚。51年には英南西部デヴォンのダートマスに移り、妻とともに書店を開いた。自分が相続した将来の印税の持ち分を売却し、その資金を娘クレアのための信託基金に充てたという。

56年、ミルンの死去から数カ月後に生まれた娘クレアには、脳性まひがあった。クリストファーは娘のために特別な食器や家具を自ら考案したほか、小さなハタネズミを家に連れて帰り、クレアを楽しませたことも伝えられている。96年4月20日、クリストファーは75歳で亡くなった。その後、クレアは祖父ミルンの著作権印税の売却による資金を受け取り、99年、母とともに「クレア・ミルン・トラスト」を設立。2002年から助成を始め、現在もデヴォンとコーンウォールで障害のある人々を支援している。クレアは12年に56歳で亡くなったが、トラストはその後も活動を続けている。

ミルンが残した「プーさん」4冊

1924年
邦題:「クリストファー・ロビンのうた」
原題:When We Were Very Young
詩集。テディ・ベアが初登場

1926年
邦題:「クマのプーさん」
原題:Winnie-the-Pooh
10編からなる最初の物語集

1927年
邦題:「クマのプーさんとぼく」
原題:Now We Are Six
詩集。プーたちも登場

1928年
邦題:「プー横丁にたった家」
原題:The House at Pooh Corner
10編からなる2冊目の物語集

年表「クマのプーさん」100年史

1879年
12月10日 E・H・シェパード誕生
1882年
1月18日 A・A・ミルン誕生
1906年
ミルンが「パンチ」への寄稿を開始
1907年
シェパードの挿絵が初めて「パンチ」に掲載される
1914~18年
第1次世界大戦。ミルン、シェパードともに従軍
1920年
8月21日 ミルンの一人息子、クリストファー・ロビン誕生
1921年
クリストファー・ロビン、1歳の誕生日にテディ・ベアを贈られる。後の「プー」のモデルとなる
1924年
詩集「クリストファー・ロビンのうた」刊行。クリストファー・ロビンのテディ・ベアが登場。挿絵をシェパードが担当
1925年
クリスマス・イブ、ロンドンの新聞「イブニング・ニュース」にプーが登場する物語「The Wrong Sort of Bees」が掲載される
1926年
10月14日、「クマのプーさん」刊行。プーと仲間たちの物語が1冊の本になる
1927年
詩集「クマのプーさんとぼく」刊行
1928年
続編「プー横丁にたった家」刊行
1930年
米国のスティーヴン・スレシンジャーが、ミルンから米国・カナダでの商品化などの独占的権利を取得。プーの商品展開が本格化
1956年
1月31日 ミルン死去
1961年
ミルン側とスレシンジャー側が、それぞれディズニーと契約
1966年
ディズニー初のプーさん短編アニメーション「プーさんとはちみつ」公開
1976年
3月24日 シェパード死去
1996年
4月20日 クリストファー・ロビン・ミルン死去
2001年
ディズニーがミルン側の受益者が保有していたプーさん関連の将来の印税などの権利を買い取る。約3億5000万ドルと報じられた
2022年
米国で1926年刊行の「Winnie-the-Pooh」がパブリックドメインに
2026年
「クマのプーさん」刊行から100周年。アッシュダウン・フォレストでは「The Big One Hundred」など、100周年を記念するイベントが開催
 

和太鼓+ウクライナ音楽チャリティー・コンサート

和太鼓+ウクライナ音楽チャリティー・コンサート

Joji Hirota’s London Taiko drummersJoji Hirota’s London Taiko drummers

戦禍に苦しむウクライナの人々を支援することを目的に11月1日(日)、ロンドンで和太鼓演奏とウクライナ音楽のチャリティー・コンサートが開催される。

出演は、Joji Hirota’s London Taiko drummers、St. Mary’s Ukrainian School Choir、そしてModus String Quartetの3組。Joji Hirota’s London Taiko drummersは、先に急逝した廣田丈自氏が1980年代初めに設立したグループで、これまでに英国、米国、オーストラリア、中東諸国など世界各地で演奏。2007年にはグローバル・チャリティー・コンサート「ライブ・アース・コンサート」のウェンブリー公演でオープニング演奏を行った。

St. Mary’s Ukrainian School Choirは、戦争勃発後の2022年春、ロンドンに避難した子どもたちで設立。キャサリン妃に招かれてウェストミンスター寺院のクリスマスキャロル・サービスで歌ったほか、ダウニング街10番地でも公演。英国のオーケストラ「シティ・オブ・ロンドン・シンフォニア」とも共演するなど活躍。今回は平和を願うウクライナ語のオリジナルソングや「イマジン」など英語の歌を披露する。

St. Mary's Ukrainian School ChoirSt. Mary's Ukrainian School Choir

Modus String Quartetは、ロンドンを拠点とするウクライナ人の弦楽四重奏団で、様々な場で演奏活動を続けており、ウクライナの音楽を演奏する。

主催は、ウクライナへ日本の桜を贈る企画を進めているJUSPI(日本・ウクライナ桜平和イニシアチブ)。来春、支援物資とともにウクライナに桜を届ける計画で、コンサートの収益は企画のために使用される。

Ukraine support TAIKO CONCERT

日時: 2026年11月1日(日)13:30開演(開場 13:00)

会場: St. Mary’s Church, Putney
Putney High Street SW15 1SN
最寄り駅:Putney Bridge

料金
前売 当日
大人 £15 £20
5〜16歳 £10 £15
5歳未満
※5歳未満は大人の膝の上で鑑賞
無料
チケットを購入する
 

寝台列車で旅する欧州 - 眠っている間に知らない国・都市へ

眠っている間に知らない国・都市へ 寝台列車で旅する欧州

夜の駅から列車に乗り込み、車窓から沈みかけた太陽を見つめ、がたごとと揺られながらベッドで眠りに落ちる。そして、朝目覚めるころには全く別の景色の中を走っている。そんなロマンある寝台列車の旅が、ここ欧州で再び人気が高まってきている。本特集では、一度は衰退した寝台列車が、なぜ今人々を惹きつけているのかをひも解きながら、人気路線をご紹介。きっとあなたも寝台列車に乗って、旅に出てみたくなるはず! (文:英国・ドイツニュースダイジェスト編集部)

ロマンを運ぶ寝台列車の小歴史

参考:National Park Service「A Brief Overview of the Pullman Story」、Focus on Belgium「Georges Nagelmackers, the inventor of luxury trains」、Wagons-Lits Diffusion、Verein Freunde der MITROPA e. V.、Publications Office of the European Union「Research for TRAN Committee - Passenger night trains in Europe: the end of the line?」、AP「Climate-conscious travelers are jumpstarting Europe’ s sleeper trains」

米国で生まれた寝台列車

寝台列車が初めて登場したのは、19世紀前半の米国といわれている。しかし、当時の車両は窮屈で居心地が悪く、快適さとは無縁だった。そこに目を付けたのが、米国人の発明家で実業家のジョージ・プルマン(1831-97)だ。プルマンは快適で優雅な宿泊施設を備えた列車のアイデアを思いつき、1864年に寝台列車「パイオニア」を製造した。

1858年頃のプルマン社の寝台列車1858年頃のプルマン社の寝台列車

この全く新しい寝台列車を米国で体験したベルギーの実業家ジョルジュ・ナゲルマケールス(1845-1905)は、欧州を走る豪華列車の実現に着手する。1870年代の欧州では、国境を越える場合、何度も列車を乗り換える必要があった。ナゲルマケールスは、スピード・豪華さ・快適さの三つを信条に掲げ、1872年にリエージュで会社を設立。パリからオーストエンデまでの寝台列車の運行から始まり、その後ケルン、ウィーンを結んでいった。

豪華で快適な寝台列車の黄金時代

事業が成功すると、ナゲルマケールスは1876年に国際寝台車会社(CIWL)を設立し、国と国を結ぶ特急列車を次々と走らせた。そして1883年には、パリからコンスタンティノープル(現イスタンブール)までのおよそ3000キロを走らせる、かの「オリエント急行」を誕生させたのだった。

1898年のCIWLのカタログ1898年のCIWLのカタログ

その後、寝台列車は豪華旅行の代名詞となり、1914年ごろにはCIWLは1600両の列車を運行していた。1922年には青い車体がトレードマークの「ル・トラン・ブルー」が登場し、当時の著名人や王族たちはこぞってCIWLを利用したという。

一方、CIWLに対抗するため、ドイツ、オーストリア、ハンガリーの鉄道局は、寝台列車および食堂車を運営する「ミトローパ」を1916年に設立した。ミトローパは中欧の国々を結び、看板列車の「ラインゴルト急行」では、ウェイターが食堂車の石炭ストーブで鹿肉ステーキを調理してふるまい、乗客に特別な体験を提供。食堂車はミトローパの名物となった。

1937年ごろのミトローパの食堂車1937年ごろのミトローパの食堂車

環境保護の観点から再び人気に

第2次世界大戦後、寝台列車は引き続き運行されていた。しかし、かつて一晩かけて移動していた距離が数時間で到達できるようになり、1990年代以降は格安航空会社や長距離バスが台頭し、さらにリーズナブルなホテルが登場してきたことで、寝台列車は次第に人々から必要とされなくなっていく。そして、2000年代以降は寝台列車の多くがその姿を消した。

ところが、最近になって寝台列車が再び注目されている。その背景の一つに、環境問題がある。2018年の気候変動ストライキで「飛び恥」という言葉が生まれ、二酸化炭素の排出量が多い飛行機ではなく電車を使うことがトレンドとなったが、特に環境保護を意識する若者の利用者が目立っている。Trainlineによれば、2023年の寝台列車予約数はコロナ禍前の2019年に比べて147パーセント増加。欧州連合(EU)は航空便に代わる移動手段として、寝台列車を含む鉄道への投資を積極的に行っているほか、国ごとに運行会社を支援する動きも見られる。かつて豪華な旅の体験を提供した寝台列車は、サステナブルな選択肢として息を吹き返したのである。

寝台列車の衰退期にも運行していたオーストリア国鉄(ÖBB)のNight jetは、今では欧州最大のシェアを誇る。さらに新興企業が登場し、新たな路線が次々と開通している。次項目からは、そんな欧州の国々を走るオペレーターをご紹介する。

寝台列車を利用するメリット

1. リラックスできる
飛行機の旅のようにチェックインや荷物検査など、空港で長時間過ごしたり、車の旅のように誰かが運転したり、渋滞に巻き込まれたりすることはなく、寝台列車は眠っているだけで目的地にたどり着ける。

2. 環境に優しい
飛行機での移動と比べて二酸化炭素排出量が少なく、飛行機の最大10分の1に抑えることができる。環境に優しい移動の選択肢として、近年人気になっている。

3. 宿泊費を節約できる
特に大都市ではホテル代が高騰しており、近年旅行予算を圧迫している。目的地までの往復に寝台列車を利用すれば、2泊分の宿泊費を節約することができる。

参考:Deutschlandfunk Kultur「Gemütliches Abenteuer: Liebeserklärung an den Nachtzug」


寝台列車オペレーターをピックアップ! 欧州各地を結ぶおすすめ路線

西は英国、東はウクライナまで、寝台列車に乗れば、欧州に散らばる主要都市の多くへと旅することができる。もちろん飛行機よりは時間はかかるが、列車の旅らしい昔ながらのロマンを体験できるのも醍醐味だ。路線図を眺めながら、ぜひ次の旅行計画を考えてみて。

おすすめ路線

欧州寝台列車路線マップ
https://back-on-track.eu/night-train-map/


1 Nightjet
(ÖBB /オーストリア連邦鉄道)

Nightjet

欧州最大の寝台列車オペレーターで行く

ハンブルク~ウィーン
Hamburg - Wien


Nightjetの車内

Nightjetは、寝台列車の衰退期にÖBBがドイツ鉄道(DB)の寝台列車サービスの一部を引き継ぎ、2016年に「ストレスではなくリラックスを」をモットーにスタートさせた新たなブランド。現在はアムステルダム、ブリュッセル、ローマ、ハンブルク、ベルリンなど、欧州の25都市以上を結ぶ欧州最大の寝台列車オペレーターとなった。2023年に導入された新型車両では、専用バスルーム付の個室、カプセル型のミニキャビン、4人用コンパートメントや車椅子利用者向けのバリアフリー対応車両など、さらに快適さを追求。月曜から木曜の利用であれば、割安なチケットを入手しやすい。

https://nightjet.com

Nightjetの車内

Nightjetの車内

注目の目的地:ウィーン

ウィーンといえば、シェーンブルン宮殿や国立歌劇場など観光スポットが豊富だが、ショッピングを楽しみたい人にはノイバウ地区がおすすめだ。もともとハプスブルク家の厩舎だったアート複合施設「MuseumsQuartier」(写真)をはじめ、小さなお店が立ち並ぶノイバウガッセではオーストリア発ブランドも多く見つかる。近隣の水族館「Haus des Meeres」の展望レストラン「360° Ocean Sky」ではウィーンを一望できるので、ぜひ足を運びたい。

ウィーンにあるアート複合施設「MuseumsQuartier」

2 Caledonian Sleeper
(カレドニアン・スリーパー)

Caledonian Sleeper

遥かなハイランド、アウトドアの首都へ

ロンドン~フォート・ウィリアム
London - Fort William


カレドニアン・スリーパー

ロンドン・ユーストンを夜に出発し、スコットランド西部のフォート・ウィリアムへ。英南部の大都市からスコットランドのハイランド地方へ向かうこの路線は、国境を越えずとも車窓の風景が大きく変わっていくのが魅力だ。朝になると、山や湖が連なるウェスト・ハイランド線へ入り、雄大な自然の中を進んでいく。2段ベッドの「クラシック・ルーム」、専用シャワー室付の2段ベッド「クラブ・エンスイート」、専用シャワー室とダブルベッドを備えた「カレドニアン・ダブル」などの個室があり、上位客室では朝食やルームサービス、スコットランド製のバス・アメニティーが付く。また体力に自信のある方には寝台のない「シーテッド・コーチ」も。

www.sleeper.scot

カレドニアン・スリーパーの車内

カレドニアン・スリーパーの車内

注目の目的地:グレンフィナン・ヴィアダクト

アウトドアの盛んなフォート・ウィリアムから列車で約30分のグレンフィナン・ヴィアダクトは、1901年に完成した21連アーチの鉄道橋。ハイランドの山々を背景にした美しい姿が、映画「ハリー・ポッター」シリーズでホグワーツ特急が渡る橋として登場し、世界的に知られるようになった。春から秋にかけては蒸気機関車「ジャコバイト」が橋を渡る姿も見られる。周辺には、1745年のジャコバイト蜂起にゆかりのある記念碑があり、映画の舞台だけではなく歴史も楽しめる。

グレンフィナン・ヴィアダクト

3 Intercités de nuit
(SNCF /フランス国鉄)

Intercités de nuit

南仏を彩る「バラ色の街」へ

パリ〜トゥールーズ
Paris - Toulouse


Intercités de nuit 停車駅

フランス国鉄が運行する夜行列車「Intercités de nuit」の人気路線は、首都パリのオステルリッツ駅から南仏トゥールーズを結ぶ。宵闇に包まれたフランスをゆるやかに南下し、目覚めれば「バラ色の街」の名にふさわしいレンガ造りの街並みが車窓の外に広がる。寝台は1等が4人用、2等が6人用のコンパートメント。枕と掛け布団はもちろん、飲料水、アイマスク、耳栓まで一通りそろい、女性専用コンパートメントも追加料金なしで予約可能。食堂車の連結はないものの、事前のオンライン注文や車内販売で軽食と飲み物を楽しめる。さらに1等利用者には、終着のトゥールーズ・マタビオ駅でシャワーが無料で使えるといううれしい特典も。

www.sncf-connect.com

カレドニアン・スリーパーの車内

注目の目的地:トゥールーズ

フランス南西部、ガロンヌ川沿いに広がるトゥールーズは、レンガ造りの建物が街を彩ることから「ville rose」(バラ色の街)の愛称で親しまれる。中心部には市庁舎と劇場が入る壮麗なキャピトルが立ち、世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成資産であるサン・セルナン聖堂や、世界遺産のミディ運河も見逃せない。ガロンヌ川沿いを散歩した後は、白インゲン豆と肉をじっくり煮込んだ郷土料理カスレも味わいたい。

トゥールーズ

4 MÁV
(ハンガリー国鉄)

MÁV

温泉都市まで湯めぐりの旅

チューリヒ~ブダペスト
Zürich - Budapest


チューリヒ~ブダペスト 停車駅

ハンガリー国鉄は、首都ブダペスト発着・経由の夜行列車を毎晩運行している。計8路線でスイス、ドイツ、オーストリア、チェコ、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアの主要都市を結んでいるほか、夏季限定でクロアチア、スロベニアなどのアドリア海方面も追加運行する。乗り換えを利用すれば、フランスやイタリアへのアクセスも可能だ。車両は、寝台個室(シングル、2人用、3人用)のほか、リーズナブルな4~6人向けのクシェット、座席タイプから選べる。お得なチケットを手に入れるには通常1カ月前、ハイシーズンやクリスマス休暇期などは2~3カ月前が狙い目。

https://jegy.mav.hu

注目の目的地:ブダペスト

ハンガリーの首都ブダペストは、言わずと知れた温泉都市。市内には100以上の源泉があり、オスマン帝国時代からの歴史的な浴場からモダンなスパまでそろう。必ず訪れたいのが、宮殿のような建物にぐるりと囲まれたセーチェニ温泉(写真)。屋外浴場では、日中にはチェスを楽しむ人、夜は音楽とライトで彩られる「スパーティー」が開催される。また市内の指定された温泉は飲用も可。日本の温泉街とはまた違った雰囲気で湯めぐりが楽しめそう。なお、水着とビーチサンダルを持って行くのをお忘れなく。

ブダペスト

5 VR
(フィンランド国鉄)

フィンランド国鉄

夏は白夜、冬はオーロラの旅へ

ヘルシンキ~ロヴァニエミ
Helsinki - Rovaniemi


フィンランド国鉄 停車駅

フィンランド国鉄「VR」は、首都ヘルシンキから北部ラップランドへの夜行列車を毎日運行する。夏は太陽が完全に沈まない白夜の中を走り、冬は車窓から雪化粧に包まれた森、そしてオーロラが見えることも。そんな北欧ならではの自然の美しさが味わえるのが、この路線の魅力の一つだ。寝台列車には、専用トイレとシャワーが付いた2段ベッドキャビンのほか、3段ベッドキャビンや連結可能な4人用キャビンがあり、今年から新デザインの車両が順次導入されている。食堂車ではサーモンのスープやミートボールなど、北欧らしいメニューが楽しめる。

www.vr.fi/en/night-trains

カレドニアン・スリーパーの車内

注目の目的地:ロヴァニエミ

ラップランドに位置するロヴァニエミは、北極圏の大自然に囲まれた都市で、サンタクロース村(写真)があることでも知られる。厳冬期から白夜まで八つの季節があるといわれ、それぞれの季節に美しい風景や旬のグルメが楽しめる一方、年中いつ訪れてもサンタクロースに会うことができる。オーロラのシーズンには観測ツアーも多数開催されている。フィンランドの建築家アルヴァ・アアルトが設計した市民センターや、北極体験ができるアルクティクム科学センターなども。

ロヴァニエミ


European Sleeper 乗車体験レポート1泊4日でミラノに行ってきた!

欧州内で少しずつ路線を拡大している、寝台列車界の超新星「European Sleeper」。シンプルな車両デザイン、ミニマムなサービス、サステナブルな理念で、リーズナブルな価格を実現させ、若者を中心にじわじわ人気を得ている。そんな同社が今年9月に開通させたばかりのブリュッセル~ミラノ線に、ドイツニュースダイジェストのスタッフが乗車!その旅の様子をお届けする。(取材:ドイツニュースダイジェスト編集部、取材協力:European Sleeper)

European Sleeperとは?

European Sleeper

寝台列車の黄金時代を復活させることを目標に、2021年に誕生したオランダとベルギーのスタートアップ企業。現在はパリ~ベルリン、ブリュッセル~プラハ、ブリュッセル~ミラノの3路線を運行しており、今後はデンマーク、スウェーデン方面やバルセロナへの路線も計画している。寝台車は3人用のコンフォート、4~6人用のクラシックがあり、最低価格49.99ユーロから利用可能。女性専用部屋や座席タイプのBudgetもある。

www.europeansleeper.eu

European Sleeper

利用した区間

ケルン~ミラノ
Köln - Milano


European Sleeper 停車駅

1日目

22:30 ケルン中央駅出発

月曜夜、少し早めにケルン中央駅へ。夜食用のおやつを購入し、ホームで電車を待った。そして、予定時刻より15分ほど遅れてEuropean Sleeperのミラノ行きが到着。車両は古いタイプだが、内装は新しく清潔感がある。発車から約20分後、乗車券の確認。同時にオプションで注文していた朝食の希望時間帯(6~11時)や飲み物の種類(コーヒーや紅茶など)を聞かれた。23時、本日最後のアナウンスで、各車両の担当者が紹介される。夜間も対応してくれるとのことで、安心だ。

European Sleeperとっぷり日が暮れたケルン中央駅から乗車

00:30 就寝

今回利用した3人用のコンフォートは相部屋だった。ブリュッセルから乗車していたベルギー人2人が同室で、どちらもミラノの環境保護に関する学会に参加予定だという。飛行機に比べて二酸化炭素排出量が少ないため、寝台列車を選んだらしい。ベッドは中段と上段があり、はしごを取り付けて昇り降りできるようになっている。ベッドメイキングは乗車時にすでに終わっていて、すぐに横になれるのがうれしい。共用洗面所で歯磨きをして、ベッドへ。各ベッド脇には読書灯があり、それぞれのタイミングで就寝した。

European Sleeper上段ベッドからの眺め。
横になっている時の方が座っている時よりも揺れを感じやすかった。
体が大きい人には少し狭いかもしれない

04:42 突然のノックで起床

「コンコン」とドアをノックする音で目覚める。電車は停車しており、場所を確認するとスイスのバーゼル駅。パスポートコントロールだった。全ての車両をチェックするため、1時間ほど停車。再び列車はミラノへ向かって走り出し、また眠りに落ちた。

2日目

08:00 朝のアナウンス&朝食

8時、朝のアナウンスで起床する。ぐっすり……というわけではなかったが、空調はちょうどよく、思ったよりも眠ることができた。耳栓やアイマスクがあってもいいかもしれない。体をほぐすため、一度廊下へ。車窓からは朝日に照らされた険しい山並みが見え、いかにもスイスらしい景色が広がっていた。その後、8:30頃に朝食セットが届き、朝ごはんタイム。

European Sleeper

European Sleeper車窓からの美しい風景は電車旅の醍醐味

European Sleeperルガノ湖の対岸に見えたカンピョーネ・ディターリアはイタリアの飛び地として知られる

12:06 ミラノ・ガリバルディ駅到着

13時間半の長旅が終わり、ついにミラノ・ガリバルディ駅に到着! ミラノ中央駅からは地下鉄で2駅の位置で、中心地へのアクセスもスムーズだった。そのまま予約していたホテルへ向かい、チェックイン。

3日目

15:45 ミラノ・ガリバルディ駅出発

あっという間の滞在に名残り惜しさを感じながら、予定時刻から2時間ほど早く出発。発車時刻変更については、数日前にメールで通知がきていた。夕飯は提供されないので、何か購入して乗車するのを忘れずに!

European Sleeper

4日目

08:06 ケルン中央駅到着

帰りはほぼ定刻で到着。1泊4日は正直おすすめできないが(笑)、今回利用した便は週3回往復しているため、現地での宿泊数を増やせばより充実した滞在になりそうだ。とはいえ、一晩で違う国へ行けるお得感と達成感はハマりそう。次回の寝台列車旅はどこに行こうか……。(完)

27 hours in Milano
ミラノ駆け足滞在記

今回の滞在は約27時間。初ミラノということで、まずは王道の「ドゥオーモ」ことミラノ大聖堂やショッピングアーケード「ガッレリア」を訪れた。驚いたことに、ミラノ料理が食べられるレストランはことごとく入れず。どこも予約必須で、平日だから大丈夫だろうと甘く見ていたのが失敗だった。

ドゥオーモ

そんななか、最後にトライしたお店が翌日のランチで席を押さえてくれることに。翌日、無事にミラノ名物のオッソブーコ(仔牛すね肉の煮込み料理)が添えられたリゾット・アッラ・ミラネーゼを食べることができた。最後は食の複合施設「イータリー」などでショッピングをして、駆け足の滞在が終了。

リゾット・アッラ・ミラネーゼ左:ショッピングアーケード「ガッレリア」
右:リゾット・アッラ・ミラネーゼ

寝台列車旅を動画で!

ドイツニュースダイジェストのInstagram アカウントで、European Sleeperに乗車した様子をリール動画で公開予定。
https://www.instagram.com/pickup_doitsu/

 

カウンシル・フラットの光と影 - 英国公営住宅の建築事情

英国の住宅事情 カウンシル・フラットの光と影

1960〜80年代に建てられたブルータリズム建築を筆頭に、公営住宅の多くはその建物の無骨さや古さから、かつて低所得者向けの安っぽい住居と思われていたイメージを離れ、今やレトロでおしゃれな存在と一部の人々から認識されている。だが一方で、その背景には建物の老朽化や地域の再開発によって公営住宅が壊されていき、昔からの住人たちがジェントリフィケーションの波を受け行き場を失いつつあるという問題もある。そして2026年の現在、英国はより切実な社会賃貸住宅の不足に直面している。まずは、公営住宅がどのように生まれ、変遷してきたのかを歴史的・文化的な面から振り返りたい。
(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Municipal Dreams: The Rise and Fall of Council Housing by John Boughton、英国の公営住宅の歴史と政策に関する調査研究報告書 by一般財団法人 住宅改良開発公社ほか

ロンドン西部のタワー・ブロック、トレリック・タワーロンドン西部のタワー・ブロック、トレリック・タワー

カウンシル・フラットとは

カウンシル・フラットは、英国の地方自治体によって建てられた低所得者向け公営住宅で、カウンシル・ハウス、カウンシル・エステートなどとも呼ばれる。割安な家賃で、低所得者のほか、失業者、シングル・マザー、生活保護対象者などが優先的に入居できる仕組みだ。一戸建てから高層のタワー・ブロックまで、時代や地域によりさまざまな種類があり、その多くは1919年の住宅法改正後から1980年代にかけて建設された。以来カウンシル・フラットの建設は大幅に減少しているといわれている。

もともとカウンシル・フラットは、1875年の公衆衛生法で定められた地方都市のスラム解体政策の一部であり、当初の目的は労働者階級の暮らしを向上させ、同時にスラムをなくすことで近隣の土地の価値を上げることだった。その後、第2次世界大戦による住居の破壊、急激なインフレーション、兵士の復員による新婚世帯の増加などが原因で、深刻な住宅不足が起きる。これを受けた政府は1946年、住宅法を制定し公営住宅の建設を積極的に推進。51年までに英国全土で約90万戸のカウンシル・フラットが建設された。やがて1960年代に入ると、再び都市部のスラム解体政策に重点が置かれるほか、核家族化に伴う若年層・高齢者用住宅の建設も開始。住居の大量供給のためカウンシル・フラットの高層化も進んだ。こうして、53年時点の公営住宅におけるタワー・ブロックの割合は2割以下だったのに対し、1961年から66年にかけては約4割と、大幅に増加した。しかし80年代以降、住宅政策は大きく転換し、公営住宅の建設・保有をめぐる自治体の役割も変化していくことになる。

Right to Buyの功罪

マーガレット・サッチャー首相率いる保守党政権が1980年の住宅法によって導入したのが、Right to Buyという制度。公営住宅の住人が、現在居住する物件を市価より安い値段で購入できる権利を与えるもので、この制度によって英国の持ち家率は飛躍的に上昇した。この制度は現在も改定されながら続いているる。現在、一戸建ては3年の居住で35パーセント、フラットは50パーセントの割引から始まり、居住年数に応じて最大70パーセントまで上がる。ただし現在は地域ごとの上限額があり、割引は1万6000~3万8000ポンドまで。ロンドンでは原則1万6000ポンドが上限となる。一方で、入居者に住宅を売却するということは、公営住宅の数が減ることでもある。売却された住宅が、その後も公営住宅として使われ続けるとは限らない。新たに建設される住宅の数が売却数に追いつかなければ、公営住宅のストックは徐々に減っていくことになる。実際、1980年に制度が始まってから2025年3月までに、英国では200万戸を超える社会住宅がRight to Buyによって売却された。2024~25年度だけでも、9000戸を超える社会住宅が売却されている。

ロンドンなどの都市部では、1980年代に買い取られ民営化された元公営住宅が、立地の良さや建築デザインの面白さから高額で売りに出されたり、月数千ポンドで貸し出されたりという事態になり、高額所得者と生活保護受給者が隣同士で暮らすことも珍しくない。戦後、労働者階級のために建てられた公営住宅は、現在大きな過渡期を迎えているといってよいだろう。

新しい波がやってきた?

Right to Buyの仕組みは自治体に大きなひずみをもたらした。新たな公営住宅建設には政府からの資金援助が望めず、借入金にも厳しい制限があることから、自治体は従来とは異なる方法で公営住宅建設の費用を捻出する必要があった。そこで、地方自治体は所管の住宅建設会社を設立。民間の土地開発業者のように、個人向け住宅を建設・販売し、その収入を公営住宅建設費に充てるというスタイルを編み出した。その一例が、ロンドン東部のショーディッチ・パーク近くに立つ2棟の豪華マンションだ。全198戸の最上階には、デービッド・チッパーフィールド卿が設計した195万ポンド(現在の円換算だと約4億725万円)のペントハウスが鎮座する。地元のハックニー・カウンシルが開発し、収益は隣地の公営住宅再建に充てられるのだという。

このような動きはロンドンだけに限らない。すでに英国の地方自治体の3分の1以上が独自の住宅建設会社を設立した。1980年の住宅法によって力を奪われていた地方自治体は、ほぼ40年ぶりに、再び自分たちで公営住宅を建設し始めたところだ。英中部のシェフィールドでも、2029年までに最大1000戸の新たな住宅を供給する計画で、現在建設中のニュー・ステッド地区では77戸をすべて社会賃貸住宅として整備するという。また、これから建てられる公営住宅は、戦後すぐ、粗末な建材で作られたものとは異なり、人にも環境にも優しいパッシブ・ハウス(省エネ・ハウス)であったり、遊び心にあふれたデザインだったりと、これまでの公営住宅のイメージを覆すものになりそうだ。

英国文化とカウンシル・フラット

カウンシル・フラットは、単に家賃の安いフラットが集まっている場所ではない。そこでは多くの人々が暮らし、地域のコミュニティーが生まれ、英国の音楽や映画などの文化にも影響を与えてきた。例えば、英中部マンチェスターのヒューム・クレセンツは、1970年代に建設された巨大な公営住宅だった。設計上の問題や老朽化などから次第に荒廃し、80年代には家賃が徴収されなくなるほどの状況に陥った。しかしその一方で、空いた住宅には学生やアーティスト、ミュージシャンらが集まり、クラブや音楽の拠点も生まれた。荒廃した巨大住宅群が、マンチェスターのカウンター・カルチャーを育てる場所の一つになったのである。

カウンシル・フラットには長く、「犯罪」「貧困」「荒廃」といった負のイメージもつきまとってきた。特に戦後に建てられた高層住宅は、英国映画やテレビの中で、いわゆる「荒れた公営住宅」の象徴として描かれることも少なくなかった。ところが近年、その建築そのものを見直す動きも広がっている。むき出しのコンクリートや大胆な構造を持つ建物は、ブルータリズム建築として再評価され、保存や修復の対象となるものもある。一方で、建築としての評価が高まることが、もともとそこで暮らしてきた人々の生活とは別の文脈で語られてしまうという問題も指摘されている。カウンシル・フラットを見れば、英国の住宅政策だけでなく、そこで暮らしてきた人々の生活や、階級、文化、そして建築に対する社会の価値観の変化まで見えてくる。

英国の住宅問題、いま何が起きてる?

かつては「低所得者のための住宅」として建てられたカウンシル・フラット。だが2026年現在、英国では住宅不足が深刻化し、住む場所を確保できない人々が増えている。社会賃貸住宅の不足に加え、住宅の安全性や老朽化、維持・修繕の問題も浮上。住宅の供給を増やすだけでは解決できない課題が積み重なっている。英国はいま、どのような住宅問題に直面しているのだろうか。

1. 住む家がない

英国ではいま、住宅不足が深刻な社会問題となっている。イングランドでは2025年、社会住宅(social housing)の入居待ち世帯が130万を超えた。一方、住まいを失った人々を受け入れる一時的な居住先(temporary accommodation)で暮らす世帯も増えており、26年3月末時点で13万5580世帯、その中には17万7530人の子どもが含まれている。

こうした状況の背景には、低所得世帯が長期的に住み続けられる社会賃貸住宅(social rent homes)の不足がある。住宅問題を支援する慈善団体シェルターは、イングランドでは今後10年間、年間9万戸の社会賃貸住宅が必要だと試算する。しかし24~25年度に実際に供給されたのは、約1万2000戸にすぎない。1960年代には地方自治体だけで年間平均12万戸を建設していたことを考えると、その落差は大きい。

政府は26年、今後10年間で390億ポンドを投じる「社会・アフォーダブル住宅供給プログラム」(Social and Affordable Homes Programme)を発表し、地方自治体による住宅建設の再活性化にも乗り出した。

「ホームレス」=路上生活、ではない

英国でいう「ホームレス」は、路上で暮らす人だけを指すわけではない。住まいを失い、自治体から一時的な居住先を提供されている世帯も含まれる。ホテルやB&B、民間のフラットなどで暮らしながら、恒久的な住居をの提供を待つ人たちもいる。一時的な居住先に入れず、友人や親族の家を転々とする人なども、広い意味でホームレスに含まれる。

路上のテント2026年8月19日、バーナム首相はクリスマスまでに路上生活者を路上から救うキャンペーンを開始した

2. 「安い家」が足りない

ここで分かりづらいのが、社会住宅にはいくつかの種類があることだ。低所得者が比較的安い家賃で長く暮らせる社会賃貸(social rent)は、政府の算定方式に基づいて家賃が決められる。一方、アフォーダブル・レント(affordable rent)は市場家賃の最大80パーセントまで設定できる。「アフォーダブル=手頃な価格」と呼ばれていても、低所得の家庭にとっては、決して安いとは限らない。つまり、「物件がある」ことと、「無理なく払える価格の住宅がある」ことは別の問題なのである。

しかも社会賃貸の住宅は今も減り続けている。2025年3月末までの1年間で、イングランド全体では約4100戸減少。地方自治体が保有する住宅だけを見ると、約7000戸も減った。その背景の一つが、1980年に導入されたRight to Buyだ。制度によってカウンシル住宅が大量に売却された一方、売却分を補うだけの社会住宅が建設されてこなかったことが、現在の住宅不足につながっている。24~25年度だけでも、Right to Buyなどによって9236戸の社会住宅が売却された。

3. 安全な家が必要

家が見つかれば、それで安心というわけでもない。2017年のグレンフェル・タワー火災は、社会住宅において安全な住環境がいかに重要かを英国社会に突きつけた。その後、社会住宅の安全性や管理に対する規制が強化され、2023年には社会住宅(規制)法(Social Housing (Regulation) Act)が成立した。

さらに2025年10月には、深刻なカビや湿気への対応を強化する「アワーブの法」(Awaab's Law)が施行された。これは、英中部マンチェスターで、公営住宅のカビによる呼吸器疾患で、20年に2歳で亡くなったアワーブ・イシャク(Awaab Ishak)君の名を冠したものだ。

グレンフェル・タワー火災とは

2017年6月14日未明、ロンドン西部の高層住宅グレンフェル・タワーで火災が発生し、72人が死亡した。グレンフェル・タワーは、低所得者向けの社会住宅として1972~74年にかけて建設されたカウンシル・フラットである。火は一室から建物の外壁へ燃え広がり、わずか数時間のうちにほぼ建物全体を覆った。その後の調査では、外壁の改修に使われた建材や防火対策だけでなく、建築規制、建物の管理、行政の対応など、さまざまな問題が明らかになった。

メモリアルのシートが張られたグレンフェル・タワーメモリアルのシートが張られたグレンフェル・タワー

4. 住宅問題は政治問題

住宅を巡る問題が広がれば、政治も無関係ではいられない。その象徴ともいえるのが、バーナム首相が打ち出した大規模な住宅建設計画だ。政府は26年8月、今後10年間で390億ポンドを投じる住宅供給計画を発表。最初の約96億ポンドを33の自治体や住宅協会などに配分し、7万戸を超える住宅の建設を進める。供給される住宅の約60パーセントは社会賃貸となる見込みだ。「全ては良い住まいから始まる」と語るバーナム首相は、自治体によるカウンシル住宅建設を再び増やそうとしている。ただ、第1弾では約40パーセントが社会賃貸以外の住宅にも充てられることになり、深刻な社会住宅不足に対して、これで十分なのかという疑問も出ている。

一方、住宅不足は移民や難民を巡る政治的対立とも結びついている。亡命申請者の受け入れにホテルなどが使われてきたことから、「移民に住宅を奪われている」といった主張も広がった。しかし、英国の住宅不足は移民だけが原因ではなく、社会住宅の不足や住宅建設の停滞が長年積み重なった結果でもある。

建築から見るカウンシル・フラット

ロンドンの公営住宅は、時代ごとの住宅事情や政策、都市計画を反映しながら、さまざまな姿で建てられてきた。戦前の集合住宅から、戦後の庭付き住宅、1960~70年代に数多く登場した高層のタワー・ブロックまで、住宅政策の変化を映し出す8棟を紹介しよう。

1 世界一古いカウンシル・フラット BOUNDARY ESTATE
バウンダリー・エステート

BOUNDARY ESTATEかつての悪名高いスラムが落ち着いたエリアに

ロンドン東部ショーディッチ・ハイ・ストリートとベスナル・グリーン・ロードの間にある公営住宅。緑の美しい円形公園アーノルド・サーカスの周りに配置された、ヴィクトリア朝の赤レンガ造りの建物で、1890年、悪名高いスラム、オールド・ニコルの跡地に建設された。当時盛んだったアーツ&クラフト運動の影響を受けており、ロンドンで最初の、そしておそらく世界で最初のカウンシル・フラットといわれている。

Calvert Avenue, London E2
Shoreditch High Street駅

2 灰色の美、タワー・ブロック BALFRON TOWER
バルフロン・タワー

BALFRON TOWERインパクト大の無機質なフォルム

1960年半ば、ハンガリー出身の建築家エルノ・ゴールドフィンガーによってデザインされた、26階建てのタワー・ブロック。余計な装飾を排した打放しのコンクリートと直線が強調されたブルータリズム建築は、伝統的な建築物が多く残る当時のロンドンにあって、いかに挑戦的なデザインだったか想像できる。同じくゴールドフィンガーがロンドン西部に建築したトレリック・タワーも、同様の構造を持つ。

St. Leonards Road, London E14
All Saints DLR/ Langdon Park DLR駅
https://balfrontower.co.uk

3 ブルータリズム低層住宅の見本 ALEXANDRA ROAD ESTATE
アレクサンドラ・ロード・エステート

ALEXANDRA ROAD ESTATEまるで一つの町のような迫力の520戸

第二次世界大戦後の英国で活躍し、集合住宅のパイオニアと呼ばれる米国人建築家、ニーヴ・ブラウンによる迫力満点の低層住宅。1978年に完成し、その後、重要建築物として1993年にGradeII指定を受けた。520戸の住宅のほか、学校やコミュニティー・センターを併設し、屋根部分は緑いっぱいの公園になっている。印象的な外観から多くの映画作品のロケ地ともなっており、2014年の英米合作映画「キングスマン」では、主人公エグジーの実家として登場した。

Rowley Way, London NW8
South Hampstead駅
https://alexandraandainsworth.org

4 モダニズムの極致 BEVIN COURT
べヴィン・コート

BEVIN COURTの階段鮮やかな赤は、1954年のオリジナル・カラーを2014年に復元したもの

ロシアから亡命し英国で活躍した建築家バーソルド・リュベトキンが、戦後間もなく手掛けたモダニスト建築。従来の公営住宅のイメージを打ち破るモダンなデザインでありながら、景観を壊さず周囲との調和を図るのがリュベトキン・スタイル。かつて亡命中のレーニンが滞在していたことから、敬意を表し「レーニン・コート」と名付ける計画があったものの、戦後英露の関係が悪化し、反共産主義の英外相アーネスト・べヴィンの名が冠された。

Cruikshank Street, London WC1X
Angel / King's Cross St.Pancras駅
https://historicengland.org.uk/listing/the-list/list-entry/1246687

5 眺望を第一に作られた住まい DAWSON'S HEIGHTS
ドーソンズ・ハイツ

DAWSON'S HEIGHTS近隣の住民からは「戦艦」と呼ばれる公営住宅

古代メソポタミアの神殿やピラミッド、または要塞に例えられることの多い1964~72年建設の公営住宅。12階建ての2棟から成り、鉄道建設時に除去された捨石の集積された小高い丘の上に建てられている。298戸のうち3分の2からは、南北両方向のパノラマ・ビューが楽しめる。ロンドン南部ランべスのリーガム・コート・ロード建築などで知られるスコットランドのデザイナー、ケイト・マッキントッシュが手掛けた。

Overhill Road, London SE22
ナショナル・レールForest Hill駅
https://trodgersjohns.wixsite.com/dawsonheightsproject

6 イアン・フレミングに嫌われた建物 TRELLICK TOWER
トレリック・タワー

TRELLICK TOWERノッティング・ヒル・ゲートに近く立地もよい

ジェームズ・ボンドの生みの親として知られる作家、イアン・フレミングは、建築家エルノ・ゴールドフィンガーのタワー・ブロックが気に入らず、ボンドの敵役をゴールドフィンガーと名付けた、とする説もあるが、その確かな証拠はない。地上31階建て、高さ98メートルのトレリック・タワーは、共産圏の建築を思わせる無機質さと威圧感を持ち合わせ、バランスの悪い渡り廊下もインパクト大。今や近隣のランドマーク的存在で、観光客が訪れるほどだ。

Golborne Road, London W10
Westbourne Park駅
https://historicengland.org.uk/listing/the-list/list-entry/1246688

7 建設時はトラブル続き BRUNSWICK CENTRE
ブランズウィック・センター

BRUNSWICK CENTRE外観はクリーム色に塗られるはずが、自治体の資金不足で図らずもブルータリズム風になったという逸話も

ロンドン中心部、ラッセル・スクエア駅前のショッピング・センターに隣接する低層住宅。大規模な集合住宅としてユーストン・ロードまで延びる予定だったが、国防省が関連施設の移動を拒んだことから土地を買収できず、こぢんまりしたものに。1972年に完成し、当初は公営ではなく一般向けテラス・ハウスとして販売されたが、入居者が集まらず公営住宅用に払い下げられた。デザインはパトリック・ホジキンソン。

Marchmont Street, London WC1N
Russell Square駅
https://brunswick.co.uk

8 住人からも愛される集合住宅 DUNBOYNE ROAD ESTATE
ダンボイン・ロード・エステート

DUNBOYNE ROAD ESTATE向かい合わせの長屋のようなスタイル

アレクサンドラ・ロード・エステートの設計で知られるニーヴ・ブラウンが手掛けた、公営としては初の低層集合住宅で、1967年に完成。住宅71戸にスタジオとショップが付き、各戸には共同のガーデンを見下ろす大きなテラスがある。プライバシーと公共性のバランスが程よく、同時代の建築家が目指した高層の住宅とは真逆のデザイン性を持つと評価されており、住人からの人気も高いという。重要建築物としてGradeII指定を受けた。

Dunboyne Road, London NW3
Gospel Oak/Belsize Park駅

BRUTALISM ブルータリズム

1950年代~60年代に見られた建築様式。打放しコンクリートなどを用いた荒々しい仕上げが特徴で、直線の強調された力強いデザインが多い。英都市計画家のアリソン&ピーター・スミッソンによって名付けられた。

 

知っているようで知らない英国のスパークリング・ワイン。

知っているようで知らない英国のスパークリング・ワイン。

英国のスパークリング・ワイン

近年、英国産スパークリング・ワインは国内外で評価を高め、日本をはじめ世界各地に広がりつつある。雨がちな気候でビールやパブのイメージが強い英国だが、気が付けばフランスのシャンパンにも引けを取らない上質なスパークリング・ワインを生み出す産地へと成長している。今回は、そうした躍進を支えるワイナリーにスポットを当てるとともに、ラベルの読み方や保存方法など、英国ワインを楽しむための基本知識も紹介する。 (文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.thetimes.com、www.johnlewispartnership.co.ukほか

気候変動の恩恵

昨年2025年は、英国のワイン業界にとって記録的な年となった。乾燥した春の到来でブドウの新芽が例年より早く展開し、6、7月には英南部で4回もの熱波を記録するほどの猛暑に見舞われた。これにより、英国史上最も早く、成熟度も高いブドウの収穫となった。25年の収穫量は前年比39パーセント増となり、成熟度の指標となる積算温度も過去5年平均を上回るなど、量だけでなく品質にも恵まれた年になった。

こうした変化の背景にあるのが気候変動だ。これまで英国の冷涼で雨の多い気候は、ワイン造りの障壁とされてきた。ところが近年の温暖化によって生育条件が改善し、今や英国南部のワイン造りを後押しする要因となっている。実際、イングランド南部は現在、フランスのシャンパーニュ地方が1970~80年代に享受していたのと近い気候条件になっているとの指摘もある。皮肉なことに、2026年にはシャンパーニュ地方が記録的な猛暑と干ばつに見舞われる一方、同じ温暖化が英国のブドウ栽培には追い風となっている。

フランスの生産者も英国へ

この可能性にいち早く目をつけたのが、他ならぬシャンパンの本場フランスだった。英国南部の白亜質の土壌は、海峡の下を通って仏北部まで連なる地層の一部で、シャンパーニュ地方にも同じ白亜質の地質が広がる。2015年、名門テタンジェは英国のワイン会社などと共同で、英南部ケントに69ヘクタールの土地を取得。そのうち40ヘクタールにシャルドネ、ピノ・ノワール、ピノ・ムニエを植え、英国産スパークリング・ワインの生産に乗り出した。

同じく名門ポメリーも、17年にハンプシャーで40ヘクタールの土地を取得。シャンパンの生産者が自ら英国に進出するという動きこそ、英国スパークリング・ワインの可能性を物語っているのではないだろうか。

なぜ赤ワインはまだ少ないのか

イングランドとウェールズのワイン生産量の内訳を見ると、スパークリング・ワインが全体の69パーセントを占め、残るワインのうち赤はわずか14パーセントにとどまる。背景には、英国ワイン業界が歩んできた歴史がある。2000年代初頭、生産者たちはシャンパーニュ品種を安定して完熟させられることに気づき、赤ワイン造りの難しさに挑むよりも、得意とするスパークリング・ワインに力を注ぐ道を選んだ。もっとも近年は、赤ワイン造りに取り組む生産者も現れている。

ぶどう

英国の人気ワイナリー8選

英国各地のワイナリーの中から、実力と個性を兼ね備えた8社を厳選した。ここで紹介したワインは、どれも現地の直売所やオンラインで購入できる。自分好みの一本を見つけてみてはいかがだろうか。

1. Nyetimber ナイティンバー

Nyetimber 1086 2014
£150/750ml
https://nyetimber.com

1986年、米国から移住したモス夫妻がウェスト・サセックスのナイティンバー地所を購入し、88年からシャンパーニュ品種を植樹。当時は英国でこれらの品種が完熟するとは考えられず、農業省の専門家から「ブドウではなくリンゴを植えるべき」と助言されたという。夫妻はその常識を覆し、92年に発表した最初のブラン・ド・ブランが97年に国際コンクールで金賞を受賞。英国スパークリング・ワインを世界に知らしめる先駆けとなった。写真の「1086」は、ナイティンバー地所が1086年の土地台帳「ドゥームズデイ・ブック」に記録された年にちなむ最高峰の1本で、特に優れた年のブドウだけを使って造られる。リンゴやパイナップルを思わせるジューシーな酸味にナッツやビスケットの熟成香が重なり、長い余韻が楽しめる。

2. Langham Wine Estate ランガム・ワイン・エステート

Langham Wine Corallian Classic Cuvée NV
£34.95/750ml
https://langhamwine.co.uk

農家の息子として育ったジャスティン・ランガムが、農業以外の事業を模索し、父の趣味でもあったワイン造りを志したことから始まった。世界のワイン産地を巡り、ブドウ栽培を学んだ後、2009年にドーセットの畑にシャルドネ、ピノ・ノワール、ピノ・ムニエを植樹。コーラリアン層に由来する石灰岩と、フリント(火打ち石)が混じる土壌が広がる南向きの34ヘクタールの畑で、低介入の伝統的な製法にこだわる。2020年には国際ワイン&スピリッツ・コンペティション(IWSC)で「Sparkling Wine Producer of the Year」を受賞し、家族経営ながら英国屈指の生産者として知られる。写真の「コーラリアン」は、畑の地質にちなんで名付けられたシャルドネ主体の1本で、樽熟成による繊細なナッツ香とミネラル感が特徴。海風を感じさせる引き締まった塩味とシャープな酸味が融合する。

3. Gusbourne ガスボーン

Gusbourn Sparkling Rosé Twenty Twenty
£55 / 750ml
https://gusbourne.com

創業者のアンドリュー・ウィーバーは、南アフリカ出身の整形外科医。1991年のFAカップ決勝で負傷したサッカー選手ポール・ガスコインの膝を治療したことでも知られる。ワイナリーを持つという長年の夢を実現するため、2004年に1410年まで記録を遡る歴史ある地所ガスボーンにブドウを植え、ワイン造りに乗り出した。英国のスパークリング・ワインではノン・ヴィンテージが一般的なのに対し、ガスボーンは自社畑のブドウだけを使い、全量をヴィンテージ・ワインとして造る。ケントとウェスト・サセックス、それぞれの土壌の個性を生かすことにもこだわっている。写真の「スパークリング・ロゼ」は、白中心のラインナップの中でも評価の高い一本で、繊細なピンク色と赤い果実のアロマが特徴の人気銘柄。

4. Balfour バルフォア

Balfour Blanc de Blancs 2018 マグナム
£120 / 1500ml
https://balfourwinery.com

きっかけは、夫妻のお気に入りだったピンク・シャンパン「ビルカール・サルモン」への憧れだった。2002年、バルフォア=リン夫妻はケントのハッシュ・ヒースの敷地に、わずか5エーカーの試験的なブドウ畑を造った。「売れなければ、自分たちで飲めばいい」という気軽な気持ちだったというが、04年収穫のブリュット・ロゼが07年のインターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)で金賞とトロフィーを獲得し、一躍、英国スパークリング・ワインの新星として注目を集めた。同ワインはその後、ブリティッシュ・エアウェイズのファースト・クラスで提供される初の英国スパークリング・ワインとなった。写真の1本は、「デカンター」誌の最高栄誉「Best in Show」を受賞した、シャルドネ100パーセントの複雑な味わいが特徴。

5. Harrow & Hope ハロー・アンド・ホープ

Harrow & Hope Brut Reserve NV
£34 / 750ml
https://harrowandhope.com

英国大手ワイン通販「レイスウェイツ」の創業者の息子、ヘンリー・レイスウェイトが2010年に設立したワイナリー。仏ボルドーとオーストラリアで経験を積んだ後、英国に戻り、ロンドンにほど近いテムズ川沿いのチルターン・ヒルズに理想的な土地を見つけた。シャンパーニュ品種に適した石灰質土壌にはフリントが多く、耕作は困難を極めたといい、整地用の農機具「ハロー」を2台壊したことから、「ハロー・アンド・ホープ(希望)」という名前が生まれたという。2019年には英国ワイン業界団体WineGBの「Winery of the Year」を受賞。写真の「ブリュット・リザーヴNV」は同社の看板商品で、クリーミーな口当たりに、熟した風味と爽やかさ、複雑さが調和した、長い余韻が特徴。

6. Rathfinny ラスフィニー

Rathfinny 2020 Classic Cuvée
£38 / 750ml
https://rathfinnyestate.com

創業のきっかけは、ある夜の余興だったという。ヘッジファンド運用者として成功していたマーク・ドライバーは、友人10人とシャンパン6本、英国産スパークリング・ワイン6本をブラインド・テイスティングで飲み比べた。結果は英国産の圧勝。この体験から、2010年、妻サラとともにサセックスにある600エーカーの農地を購入し、ワイン造りに乗り出した。ドライバーは栽培学を学び直し、広大な単一畑でブドウ栽培から醸造まで手掛ける、英国最大級の単一畑ワイナリーへと育て上げた。2023年にはB Corp認証も取得。写真の「クラシック・キュヴェ」は、同社を代表する1本。

7. Ridgeview リッジヴュー

Ridgeview Bloomsbury NV
£35 / 750ml
https://www.ridgeview.co.uk

元ソフトウェア起業家のマイク・ロバーツが、妻クリスティーンとともにサセックスのディッチリングでワイン造りを始めたのは1990年代半ば。当時、英国ではドイツ系品種が主流だったが、サウス・ダウンズの地下にシャンパーニュ地方と同じ白亜質の地層が続くことに着目し、シャルドネ、ピノ・ノワール、ピノ・ムニエに賭けた。当時、英国産ワインは「English」というだけで敬遠される風潮があり、同社は長年、ラベルにその文字を目立たせなかったという。転機となったのが2010年、「デカンター」誌のワールド・ワイン・アワードでトロフィーを受賞したことだった。ロバーツは「英国ワインの父」と呼ばれ、2011年に大英帝国勲章(MBE)を受章。写真の「ブルームズベリー」はシャルドネ主体の看板ブレンドだ。

8. Breaky Bottom ブレイキー・ボトム

Breaky Bottom 2010 Seyval Blanc Cuvée Koizumi Yakumo
£84 / 750ml
www.breakybottom.co.uk

1974年、英国のワイン造りがまだ黎明期だったころ、ピーター・ホールがイースト・サセックスの谷間にブドウを植えたのが始まり。現在ではシャルドネやピノ・ノワールなども栽培するが、看板品種はセイヴァル・ブラン。完熟しても酸味を保つ特性に可能性を見いだし、95年にはセイヴァル・ブラン100パーセントのスパークリング・ワインを造り始めた。「コイズミ・ヤクモ」の名を冠した2010年のヴィンテージは、ピーター・ホールの高祖叔父にあたるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)にちなんだもの。セイヴァル・ブラン100パーセントで、長期の瓶内熟成によって、柑橘や梨、焼いた洋菓子を思わせる香りと、鮮やかな酸味が重なる。2014年にはインターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)で金賞を受賞した。

いまさら聞けないワインの6つの基本

店頭やオンライン・ショップ上で、ワインの種類の多さに戸惑ってしまう人も多いはず。味の好みは人それぞれだとしても、知っておいたら少しは役に立つかもしれない六つの豆知識をご紹介。

1「English」と「British」は 何が違う

ブドウ畑

「English Wine」は、イングランドで収穫したブドウを使って造られたワイン。一方、「British Wine」は一般に、海外から輸入した濃縮ブドウ果汁などを英国で発酵させて造るワインを指す。両者は原料が異なるため、ラベルを見る際には区別しておきたい。なお、英国には産地や原料などを定めたPDO(保護原産地呼称)やPGI(保護地理的表示)の制度があり、「English」「Welsh」などの名称も保護されている。

2Brutは辛口のこと?

ブドウ畑

「Brut」(ブリュット)「Extra Dry」「Demi-Sec 」(ドゥミ・セック)などは、スパークリング・ワインに含まれる残糖量の目安。Brutは辛口、Extra Dryは名前からは意外だがそれより甘く、Demi-Secはさらに甘い。英国産スパークリング・ワインではBrutが主流で、食事に合わせやすいのも特徴。すっきりした辛口が好みならBrut、少し甘みのある味わいを試したければExtra Dryなど、ラベルの表示を手掛かりに選んでみよう。

3「NV」はたいしたことないのか

ワイン樽の貯蔵庫

ラベルに「NV」(Non-Vintage)とあるのは、質の低いワインという意味ではない。複数の収穫年のワインをブレンドし、生産者が目指す安定した味わいを毎年再現するためのものだ。一方、年号が記載された「ヴィンテージ」は、その年に収穫したブドウの個性を楽しむワイン。ヴィンテージだから必ずしも上質というわけではなく、NVは生産者の基本の味を知りたいとき、ヴィンテージはその年ならではの味わいを楽しみたいときに選ぶとよい。

4「Blanc de Blancs」って白ワイン?

ブドウ畑に置かれた摘まれたばかりのブドウ

「Blanc de Blancs」(ブラン・ド・ブラン)」はフランス語で「白の中の白」を意味し、白ブドウだけで造ったスパークリング・ワインを指す。英国ではシャルドネ100パーセントのものが多い。一方、「Blanc de Noirs」(ブラン・ド・ノワール)は黒ブドウだけを使ったもの。ピノ・ノワールやピノ・ムニエなど黒ブドウを使っても、果皮から果汁を早く分離することで白いワインに仕上げる。ロゼは黒ブドウの色素などを利用して淡いピンク色にしたものだ。

5「Cuvée」とは何か?

白いシャツに黒ベストを着た男性がグラスに白ワインを注ぐ様子

ワインのラベルでよく見かける「Cuvée 」(キュヴェ)は、フランス語で、もともとは醸造したワインなどを指す言葉。現在は、生産者が品種や畑、収穫年の組み合わせなど、特定のワインを仕上げるために選んだブレンドや、そのワインそのものを指すなど、使われ方はさまざまだ。「最高級」という意味ではなく、生産者が独自に名付けた商品名に使われることも多い。つまり「Cuvée」と書いてあっても、それだけで高級品というわけではない。

6スプーンを入れると、泡は抜けない?

白いシャツに黒ベストを着た男性がグラスに白ワインを注ぐ様子

開栓したスパークリング・ワインの瓶口に、金属製のスプーンの柄を差し込んで冷蔵庫に入れると、泡が抜けにくい。そんな昔ながらのおまじないがある。欧州では広く知られた方法だが、実験ではスプーンによる効果は確認されていない。泡を保つには、瓶内の二酸化炭素が逃げないよう専用のストッパーでしっかり栓をし、冷蔵庫で冷やすのが確実だ。とはいえ、今もスプーンを使う人がいるのは、それだけ長く親しまれてきた方法だからともいえる。

 

英国のピクニック最新事情 - 木陰を探して、夏を楽しむ

木陰を探して、夏を楽しむ 英国のピクニック最新事情

近年、英国でも夏の暑さが年々厳しくなり、「晴れているから公園へ」という楽しみ方にも少し工夫が必要になってきた。それでも、木陰で本を読み、友人と軽食を囲み、芝生でのんびり過ごす時間は、この国ならではの夏の風景だ。今回の特集では、英国のピクニック文化や歴史をたどりながら、暑い日でも快適に過ごすコツ、お勧めスポットまで、この夏役立つ情報をご紹介する。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部、Shoko Rudquist)

参考: https://hauntedpalaceblog.com、https://www.fortnumandmason.com、https://parksforlondon.org.uk

David Hockney

意外と知らないピクニックの始まり

単純に屋外で食事をするだではなく、家族や友人らと集って周りの景色を楽しみながらお弁当を広げるいわゆる「ピクニック」が、いつ頃から人々の生活に定着したのか、ご存知だろうか。実はこの風習は、17世紀のフランスで生まれたといわれている。フランス語の動詞piquer(つつく、摘む)と名詞nique(少量)が結びついたものと考えられている。ピクニックという言葉が初めて登場するのは1649年の風刺劇で、主人公の「ピクニック」は英雄であり大食漢として描かれている。17世紀後半には流行の最先端を行くパリでピクニックが広まり、参加者がそれぞれ料理を持ち寄って楽しむ屋内の宴会を指す言葉として使われるようになった。「pique-nique」という言葉が確認できる最も古い印刷物の一つは、1692年に刊行された「Origines de la Langue Françoise」(フランス語の起源)である。

自然に触れ合うことが上流階級の間で流行しはじめた自然に触れ合うことが上流階級の間で流行しはじめた

ただし、この頃の「ピクニック」に、外で食事をするという意味は全くなかった。あくまで室内で開かれる、洗練された社交の場を指す言葉だったのだ。この言葉が英国に伝わったのは18世紀半ばのこと。フランス革命を逃れ、ロンドンにやってきた貴族たちが持ち込んだこの文化は、19世紀初頭には「ピクニック・ソサエティー」の誕生などを背景に、社交界で親しまれるようになっていく。「屋外で、景色を楽しみながら」という現代のピクニックのイメージが定着するのは、自然との触れ合いや田園風景を愛でることを重視した19世紀初頭のロマン主義の影響による。1815年に出版されたジェーン・オースティンの小説「エマ」には、ボックス・ヒルでのピクニックの場面が登場するので、当時すでに、景色を楽しみながら屋外で食事をするピクニックは、英国の上流・中流階級の夏の社交として親しまれるようになっていたことがうかがえる。

古いモノクロのイラスト

ピクニック・ソサエティーとは

1801年、ロンドンでフランス革命による亡命貴族や親仏派の英国人ら約200人によって結成された社交クラブ。ロンドン中心部のトッテナム・ストリートで宴会を開き、参加者には料理1品とワイン6本を持参することが義務付けられていたという。晩餐やアマチュア演劇を楽しむ自由な集まりとして人気を集めた。現在のような屋外でのピクニックとは異なるが、「ピクニック」という言葉や文化が英国で広く知られるきっかけの一つとなった。

ピクニック・ソサエティー

英国のピクニック文化を知るQ&A

フランスから伝わったピクニックは、英国で独自の発展を遂げた。ハンパーの誕生やヴィクトリア朝の食文化などの発展の歩みを当時の楽しみ方とともにたどってみよう。

Q1.「ハンパー」とは?

A. 元来は籐などの植物性の繊維で編んだ籠のことをハンパー(Hamper)と呼んでいたが、時間とともに、ピクニック用の食器や食料を詰める籠のことを指すようになったとされている。語源は古フランス語の「hanaper」(杯を収めるための入れ物)にさかのぼるともいわれ、英国ではもともと、玩具やリネンの収納、また旅行かばんの意味として使われることが多かった。ピクニック用ハンパーの生みの親といわれている高級食料品店フォートナム&メイソン(F&M)でも、当初は顧客の旅行用収納ケースとして売られていた。

現在の形のハンパーの販売が開始されたのは、1738年のこと。1707年創業のF&Mが、当時の英国の特権階級の人々を顧客としていたなか、コーンウォールやバースといった地方の邸宅に向かう顧客から、「食料品などを詰めて持ち運べる籠がほしい」という声が寄せられたのが始まりだった。ただ、当時はまだ、外で食事をとるという行為は下品なことだと考えられており、上流階級の間ではあり得ないこととされていた。以来ハンパーは、単なる収納用品から「贈答品」としての性格も帯びるようになり、今日でもクリスマスや特別な機会の贈り物として人気を保っている。

ハンパー

Q2.昔のピクニックでは何を食べていた?

A. ちょうどヴィクトリア朝時代に当たるこの時代、ピクニックは特権階級の人々が郊外の邸宅の庭などに集まり、食事を楽しむためのものとなっていた。当時のベストセラーであったミセス・ビートンの家政読本にもピクニックの心得が紹介されているが、その内容はもはや軽食とは呼べないもので、実質的には屋外での晩餐会に近かった。持ち寄られる食事の内容は、パンにバター、ハムやチキン、ハード・チーズ、サラダ、そしてホット・ウォーター・クラスト(Hot Water Crust)と呼ばれる英国ならではのパイ生地を用いたポークやキジのパイ、桃やぶどうなどのフルーツや、乾燥フルーツがぎっしり詰まったケーキ、「スモール・ビアー」と呼ばれたアルコール度の低いビールの一種など。ポート・ワインやシェリー酒といった甘めの酒も好まれた。

ピクニックの様子

こうした豪華な食事の裏には、大勢の使用人による労力があったことも忘れてはならない。クーラー・バッグなどない時代なので、内部にわらを敷き、バターは冷たいレタスの葉に包むなどして温度調節を工夫したという。また、携帯用として最適な竹を使った使い捨てのカトラリー類も開発された。ちなみに、ひき肉でゆで卵を包み丸い形に整えた「スコッチ・エッグ」は、実はピクニックのために生まれた料理ではない。1730年代、旅人向けの携帯食として考案されたもので、英国でピクニックが流行する約1世紀も前から類似の食品は存在していた。ポケットサイズで食べ応えのあるこの一品は、やがて屋外での食事に欠かせない定番として定着していった。優雅に見えるピクニックの背景には、こうした入念な準備と、既存の携帯食を巧みに取り込む工夫が積み重ねられていたのだ。

果物やチーズ、スコッチエッグ

Q3.ピクニックはどのように人々の娯楽として広がった?

A. 19世紀も終わりに近づくと、競馬やポロといった屋外のスポーツ観戦時にもピクニックが楽しまれるようになった。特に1780年に始まったエプソム・ダービーは、19世紀半ばにはロンドン市民にとって一大日帰り行楽となり、観戦とともに食事を楽しむピクニックが定着した。1838年にはダービー当日、ロンドンのナイン・エルムズ駅に列車を目指す人々が殺到し、駅が機能不全に陥るほどの混雑となったという記録も残っており、鉄道の発達がこうした行楽の裾野を大きく広げたことが分かる。

同様に、テムズ川沿いで行われるヘンリー・ロイヤル・レガッタでも、階級によって楽しみ方に違いがあった。上流階級は川沿いの白いテントで正式な昼食会を開いた一方、庶民は川岸に腰を下ろし、思い思いのピクニックを広げて観戦を楽しんだ。同じ会場でも、階級に応じて異なるピクニックの形が並存していたことになる。

こうしたさまざまな需要に応えるため、食料品店では目的地や移動手段に合わせたハンパーを用意するようになった。20世紀に入ると、自動車の普及に伴って車のトランクに収まる仕様のハンパーも登場し、第1次・第2次世界大戦を挟んで鉄道網や道路網がさらに整備されると、労働者階級も含めたより幅広い層が郊外や海辺への日帰り旅行を楽しめるようになった。ピクニックは、かつて特権階級だけのものだった「特別な社交の場」から、誰もが気軽に楽しめる屋外レジャーへと、時代とともにその姿を変えていったのだ。

自家用車でピクニックへ自動車の普及が、ピクニックをより身近なレジャーへと広げた

今どきのピクニック、暑さ対策は万全に!

近年、英国の夏は年々厳しさを増している。木陰でのんびり、という従来のピクニックのイメージも、今や暑さ対策なしには語れない。ヴィクトリア朝の人々がシャンパンやロブスターを囲む優雅なピクニックを楽しんでいたのに対し、現代の英国のピクニックには、保冷剤やクーラー・バッグ、日差しを避けるための工夫が欠かせなくなりつつある。ここでは、道具・食べ物・コツの三つの視点から、夏場のピクニックを快適に乗り切るためのポイントを紹介する。

道具

まず押さえておきたいのが、下に敷くブランケット。英国の芝生は見た目以上に湿っていることが多いため、裏面が防水加工になったものを選びたい。次に必須なのが、クーラー・バッグと保冷剤だ。バターやチーズ、卵料理は気温が上がるとすぐに傷んでしまうため、夏場は特に念入りな温度管理が求められる。凍らせたペットボトルを保冷剤代わりに使うのも手軽な工夫の一つだ。ただ、特別な道具を買いそろえなくても、ブランケットは家にあるシーツや毛布で十分代用できる。使い捨ての食器やカトラリーより、繰り返し使えるものを持参する方が洗う手間はかかるが結果的にエコで経済的。

もう一つ覚えておきたいのが「風対策」。ロンドンの公園は意外と風が強く、ブランケットの端が固定されていないと、あっという間に飛ばされてしまうのでご注意を。

  • 防水加工のピクニック・ブランケット
    古いシーツや毛布でも代用可
  • ブランケットを固定する重し
  • クーラー・バッグ、保冷剤
  • 折りたたみ式のタープやサンシェード
    大きな木陰が見つからないときの強い味方
  • 繰り返し使えるカトラリー・セット、割れにくい食器
  • 虫よけスプレー
    シトロネラ系のキャンドルも人気
  • 折りたたみ傘、またはポンチョ
    英国の空模様は変わりやすい

ピクニックの道具:ブランケットや敷物とキャンドル

食べ物

傷みやすい生ものや乳製品は避け、常温でも比較的安心なメニューを選ぶのがコツだ。サンドイッチの具材は、マヨネーズをたっぷり使ったものより、酸味が強いピクルスや塩気のあるオリーブなどを取り入れたものがお勧め。具材を詰め込み過ぎず、食べ切れる量を用意すると衛生面でも安心だ。また、個包装のスナックも良いが、量り売りの果物や野菜を持っていくと、ゴミも減らせて一石二鳥。ぶどうやミニトマトなど洗うだけで食べられるものの方が傷みにくく扱いやすい。

ロンドン市内には数千カ所の無料給水スポットがあり、専用アプリ「Refill Return」で最寄りの給水スポットを検索できる。ペットボトルを買い足す代わりに、マイボトルに給水しながら移動するのもスマートだ。ピクニックの定番でもあるワインやビールなどのアルコール類は、暑い日には脱水を進めやすいので要注意。ロンドンの公園の中には飲酒が制限されている区域もあるため、事前に自治体のウェブサイトなどで確認しておくと安心だ。

ピクニックの食べ物洗うだけで簡単に食べられる果物や野菜が便利

マイボトルに給水とピクルスのサンドイッチ

コツ

優雅さだけでは夏を乗り切れない時代だからこそ、ちょっとした工夫と、公園を気持ちよく使う意識が、快適な夏のひとときを支えてくれる。道具や食べ物の準備に加えて、以下のような行動面の心がけも意識してみたい。

  • 気温が最も上がる正午〜午後3時のピークタイムを避ける。夕方からのピクニックもお勧め。英国の夏は21時ごろまで明るいため、暑さが和らいでからでも十分楽しめる
  • 日焼け止めや帽子は必携。近年は英国でも紫外線対策への意識が高まりつつあるので、さまざまな日焼け止めが手に入る
  • 公園の噴水や水遊び場の近くを選ぶと、涼を取りながら過ごせる
  • ゴミは持ち帰りを基本に。公共のゴミ箱が混雑していることも多い
  • 使い捨てBBQは火災防止のため使用を禁止している公園が多い。利用前に公園のルールを確認しておこう

公園で椅子に座ってくつろぐカップル多くの人が楽しむ公園だからこそ、周囲への気配りを忘れずに

ゴミだらけの公園ピクニックの思い出と一緒に、ゴミも持ち帰りたい

今行きたい! ロンドンのピクニックスポット6選

納得のいくグッズとお弁当の準備が整ったら、あとはお気に入りのスポットを探すだけ。ロンドンには、趣の異なる公園や緑地が街中から郊外まで点在している。それぞれの魅力を比べながら、自分だけのお気に入りを見つけてみよう。

Kensington Gardens
ケンジントン・ガーデンズ

Kensington Gardens

ハイド・パークの西に位置し、故ダイアナ元妃なども暮らしたケンジントン宮殿を有する王室ゆかりの庭園。広々とした芝生と大きな木々があり、クラシックな英国らしい雰囲気を味わえる。19世紀半ばまでは、単に園内を散歩するだけでもドレス・コードがあったという。

London W2 2UH
[Lancaster Gate / Queensway駅から徒歩1分]
0300 061 2000
www.royalparks.org.uk/visit/parks/kensington-gardens

Greenwich Park
グリニッジ・パーク

Greenwich Park

「グリニッジ標準時」における経度0度の地点である「グリニッジ天文台」のある公園だが、丘の上からロンドンの景色を一望できる人気スポットでもある。歴史と自然が調和した空間で、海事博物館やプラネタリウムも近く、子ども連れでも飽きずに一日遊べる。

London SE10 8QY
[Cutty Sark for Maritime Greenwich駅より徒歩5分]
020 8294 2548
www.royalparks.org.uk/visit/parks/greenwich-park

Regent's Park
リージェンツ・パーク

Regent's Park

ロンドンの街中で、週末の一日を目いっぱい効率良く楽しめる。まっすぐに伸びる並木道、その数8000本という色とりどりのバラが咲き乱れるローズ・ガーデン、運河、スポーツ広場、そして見事なイングリッシュ・ガーデンと、さまざまな魅力が詰まった公園。

London NW1 4NR
[Regent's Park駅より徒歩5分]
0300 061 2300
www.royalparks.org.uk/visit/parks/regents-park-primrose-hill

Kenwood House
ケンウッド・ハウス

Kenwood House

ロンドン北部にある広大な公園ハムステッド・ヒースの、北端にあるエリア。ケンウッド・ハウスは、小高い丘の上に建つ美しいカントリー・ハウス。芝生や木陰が多く、静かに読書を楽しみたい人にぴったりだ。夏には野外コンサートが開かれることもある。

Hampstead Lane, London NW3 7JR
[Archway駅からバス]
020 8348 1286
www.english-heritage.org.uk/visit/places/kenwood/

Alexandra Palace
アレクサンドラ・パレス

Alexandra Palace

高台からロンドン市街を一望できる人気スポット。コンサートやフードイベントなども数多く開催される。敷地内にはペダルボートが楽しめる湖や子ども向けの遊び場がある。夕暮れ時には、ロンドンの街並みを眺めながら過ごすひとときも格別だ。

London N22 7AY
[Alexandra Palace駅より徒歩5分]
020 8365 2121
www.alexandrapalace.com

Morden Hall Park
モーデン・ホール・パーク

Morden Hall Park

草地やエドワード朝時代のバラ園、木々に囲まれ、鳥のさえずりやせせらぎが心地よく響く園内では、都会の喧騒を忘れ、思いがけない発見を楽しむことができる。ワンドル川沿いに並んでいた邸宅の面影を今に伝える、数少ない場所の一つ。

Morden Hall Road, London SM4 5JD
[Morden駅より徒歩5分]
020 8545 6850
www.nationaltrust.org.uk/visit/london/morden-hall-park

 

UCL創立200周年 - 英国高等教育の歴史 - 大学は誰のために生まれたのか

UCL創立200周年 英国高等教育の歴史大学は誰のために生まれたのか

英国の高等教育は、オックスフォードやケンブリッジに代表される中世の大学から、19世紀の新しい大学、そして20世紀以降の大学の大衆化へと、大きく姿を変えてきた。この特集では、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の創立200周年を機に、英国の大学がどのように門戸を広げ、社会の中でどんな役割を担ってきたのかをたどる。そして現在、大学に進学することには、どんな意味があるのだろうか。 (文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.cambridge.org、https://about.ucl.ac.uk/ucl-timeline、www.ox.ac.uk/about/the-university/historyほか

そもそも大学の起源とは?

今でこそ大学は、義務教育や中等教育を経たその先にある学びの場として捉えられているが、最初期の大学はどのような存在だったのだろうか。西欧では11~12世紀、中世の都市化と学問の発展を背景に、現在の大学につながる教育・研究の共同体が形成されていった。

大学が成立する以前から、教会や修道院、司教座聖堂には聖職者を育成するための学校が存在していた。一方、11世紀以降、ローマ法の復興や医学・哲学などの学問の発展、都市の成長によって、高度な知識を学ぶ場への需要が高まった。こうした複数の流れを背景に、教師や学生が自ら共同体を形成し、特定の学問を専門的に学ぶ「大学」が生まれていった。

その代表が、法学で知られたボローニャと、神学・哲学などの中心地となったパリである。ボローニャ大学は、創立年を1088年とするのが慣例となっており、現在も西欧最古の大学とされる。ただし、明確な創立年が記録されているわけではなく、学生たちの自発的な組織から徐々に形成されたと考えられている。オックスフォード大学でも、1096年にはすでに教育が行われていたことが確認されている。

なお、イスラム圏にはそれより早くから高度な学問を行う教育機関が存在した。エジプトのアズハルは970~972年に建設・開設され、975年ごろには本格的な教育が始まったとされる。ただし、これを欧州の大学と同じ意味で「世界最古の大学」と位置づけるかについては、大学の定義によって見解が分かれる。

大学の学生像

中世の大学はラテン語で「ウニベルシタス」(universitas)と呼ばれた。これはもともと「全体」「共同体」「組合」などを意味する言葉で、現在の英語Universityやドイツ語Universitätの語源となっている。大学とは、最初から現在のような独立した校舎や組織を備えた教育機関だったのではなく、教師と学生が集まってつくる一種の共同体・組合だった。

12~13世紀の欧州では、都市化が進むとともに、教会や国家の運営に必要な高度な知識を持つ聖職者や法律家への需要も高まった。大学では、自由七科(リベラル・アーツ)、つまり、文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、音楽、天文学を基礎に、法学、医学、神学などが学ばれた。パリでは神学、ボローニャでは法学が特に発達するなど、大学ごとに特色も生まれていった。

当時の学生の多くは聖職者身分と深い関係を持っていた。特にパリ大学では、教授・学生の多くが聖職者であり、学問を修めることは聖職者としてのキャリアや、法学・医学などの専門職への道にもつながっていた。また、中世の大学に集まったのは、必ずしも貴族の子弟ばかりではなかった。むしろ、都市の市民層や比較的裕福な農村出身者など、学問を通じて聖職者や法律家、医師などの専門職を目指す人々も多かった。身分社会のなかで、学問は出自とは別に、知識や資格によって社会的地位を得る一つの手段でもあったのだ。

転機は16世紀

英国の大学の性格が大きく変わっていくのは、16世紀以降である。宗教改革を経て、オックスフォード大学とケンブリッジ大学は英国国教会と深く結びつき、聖職者や国家の人材を育成する役割を強めていった。同時に、貴族やジェントリ層の子弟が両大学で学ぶようになり、大学は次第に上流・中上流層の教育機関としての性格を定着させていった。

16世紀の大学の様子を描いた銅版画16世紀の大学の様子を描いた銅版画

広がっていく大学

中世の聖職者や専門職を目指す人々から、貴族やジェントリ、そして女性や幅広い階層へ。英国の大学は、誰に開かれるべきかを巡って、時代とともにその役割や門戸を変えてきた。伝統的な大学に加え、19世紀以降、新たな理念を掲げる大学も次々と登場する。

中世~19世紀前半

中世以来、イングランドではオックスフォードとケンブリッジが長く大学教育の中心を占めてきた。その長い歴史のなかで、両大学は次第に国家を担うエリートの教育機関としての地位を確立していった。

University of OxfordUniversity of Oxford オックスフォード大学

オックスフォード大学

■ 創立: 1096年
■ 学生数: 2万6000人
■ カレッジ数: 43
■ 卒業生の英国首相: 31人
■ ノーベル賞受賞者: 76人
■ www.ox.ac.uk

英語圏で最も古い大学。明確な創立年はないが、1096年にはすでにオックスフォードで教育が行われていたことが確認されている。12世紀後半、欧州各地で大学が発展するなかで成長を続け、1167年には、ヘンリー2世が英学生のパリ大学への留学を禁じたことで、さらに発展したとされる。13世紀には現在のカレッジにつながる教育共同体が形成され、これを中心に学生の生活や教育を支える独特の制度が発達した。カレッジは寄付された土地や財産を基盤とする独立した組織として発展し、現在のオックスフォードを特徴づける制度となっている。

16世紀以降は貴族やジェントリの子弟も多く学ぶようになり、英国の政治・行政・宗教を担う人材を育てる教育機関としての性格を強めていった。英国の首相をはじめ、多くの政治家、官僚、聖職者、学者を輩出している。

現在は43のカレッジを擁し、長い歴史と伝統を持ちながら、世界有数の研究大学として国際的な教育・研究を担っている。

University of CambridgeUniversity of Cambridge ケンブリッジ大学

ケンブリッジ大学

■ 創立: 1209年
■ 学生数: 2万4927人
■ カレッジ数: 31
■ 卒業生の英国首相: 15人
■ ノーベル賞受賞者: 126人
■ www.cam.ac.uk

英語圏で2番目に古い大学。1209年、オックスフォード大学を離れた学者たちがケンブリッジに集まったことが大学の起源とされる。13世紀には最初のカレッジであるピーターハウスが設立され、その後、カレッジを中心とした教育・生活の仕組みが発展した。現在も31のカレッジと学部・学科からなる独特の組織を維持している。

16世紀以降は、オックスフォードと同様に貴族やジェントリの子弟が多く学ぶエリート教育機関として発展した。一方で、17世紀のニュートンをはじめ、ダーウィン、マクスウェルら、科学史に名を残す研究者を数多く輩出。20世紀にはDNAの二重らせん構造の解明など、自然科学・医学の分野でも世界的な研究拠点となった。英国の首相や政治家、文学者、科学者など、各界に多くの人材を送り出している。

現在は世界有数の研究大学の一つで、2万4000人を超える学生が学ぶ。大学とカレッジがそれぞれの役割を担いながら教育・研究を行う伝統は、800年以上を経た現在にも受け継がれている。

カレッジと学部はどう違う?

オックスフォード大学を例にとると、学生は専攻する学部・学科とは別に、ユニバーシティ・カレッジ、クライスト・チャーチ・カレッジなど、43あるカレッジのいずれかに所属する。カレッジはもともと中世の学生寮として発達したもので、現在は学生の居住や生活を支えるほか、少人数制の個別指導(チュートリアル)も担う。異なる分野を学ぶ学生が同じカレッジで生活するのも特徴だ。カレッジは学生自身が希望して出願することができるが、大学側が割り当てる場合もある。

ちなみにケンブリッジ大学のカレッジでは、トリニティー・カレッジ、キングズ・カレッジ、クライスト・カレッジなどが有名。カレッジごとに歴史や雰囲気、規模なども異なる。

パブリック・スクールって何?

イートンカレッジ

英国のパブリック・スクールは、名称から想像する公立学校ではなく、歴史ある私立の中等教育学校を指す。イートン校、ハロー校、ウィンチェスター校などが代表例で、もともとは寄宿制を中心に、男子の教育を担ってきた。

18~19世紀には、こうした学校からオックスフォード、ケンブリッジ(以下Oxbridge)へ進学し、卒業後に政治、行政、法律、聖職などの世界へ進むというエリート層の教育ルートが形成された。パブリック・スクールとOxbridgeがひと続きの教育システムとして機能したことは、両大学の社会的地位をさらに高める要因となった。こうしてOxbridgeは、英国の政治・社会を担う人材を送り出す機関としても地位を築いていった。

19世紀半ば~20世紀初め

19世紀、英国の大学は大きな転換期を迎えた。UCLをはじめ、従来の大学とは異なる理念を掲げた高等教育機関が登場し、大学は限られたエリートのための場から、より幅広い人々に開かれた教育の場へと変わっていった。

University College London (UCL) ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン

ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン

■ 創立: 1826年
■ 学生数: 約5万1000人
■ 学部・学科: 11学部
■ ノーベル賞受賞者: 33人
■ www.ucl.ac.uk

1826年創立。Oxbridgeが長く英国の高等教育を担っていた時代に、従来の大学とは異なる理念を掲げて誕生した。創立時は「London University」と称し、宗教による入学制限を設けず、より幅広い人々に高等教育を提供することを目指した。背景には、急速に成長するロンドンの中産階級の若者に、近代的な教育を提供しようという考えがあった。

1828年に最初の学生を迎えると、ユダヤ教徒、カトリック、非国教徒など、宗教上の理由からオックスフォードやケンブリッジで学ぶことが難しかった学生も受け入れた。また、法学、医学、化学、数学、工学、外国語など、社会の変化に対応した実用的・専門的な科目を重視した。医学教育では、34年にノース・ロンドン病院(後のユニバーシティ・カレッジ病院)を設立し、大学での医学教育と臨床を結びつけた。46年には同病院で英国初のエーテル麻酔による手術も行われている。法律家、医師、科学者、技術者など、近代社会を支える専門人材を育てる新しい大学の姿を示した。

女性の教育にも早くから道を開き、1832年には女性が授業を受けた記録が残る。78年には女性を正式に受け入れ、学位取得も認めた。こうしてUCLは、宗教や性別によって大学教育から排除されてきた人々にも門戸を広げ、英国の高等教育のあり方を変えていった。

なぜ女性は学位を取れなかった?

19世紀後半、オックスフォードやケンブリッジでは、女性のためのカレッジが設立され、女性も講義を受けたり試験を受けたりできるようになった。しかし、試験に合格しても正式な学位は与えられなかった。学位は単なる修了証ではなく、大学内での権限や政治的影響力にも関わる、大学の正式な構成員として認められることを意味していたためだ。

当時の大学は男性中心の制度であり、女性が同じ資格を得ることへの抵抗も根強かった。オックスフォードでは1920年、ケンブリッジでは48年になって、ようやく女性にも学位が授与されるようになった。女性に「学ぶ機会」を与えることと、「大学の一員」として認めることには、大きな隔たりがあったのである。

ロンドン大学の現在

17の高等教育機関からなる連合体で、世界190カ国以上から約4万人の学生が学ぶ。1836年の設立当初から、高等教育へのアクセスを広げることを理念の一つとしてきた。20世紀には通信による教育にも力を入れ、場所にとらわれず学べる高等教育の先駆者となった。現在も、構成校による対面教育に加え、世界各地の学生にオンライン・通信教育を提供している。構成校は以下の通り。

Birkbeck / Brunel University London / City St George's / Courtauld Institute of Art / Goldsmiths / King's College London / London Business School / LSE / London School of Hygiene & Tropical Medicine / Queen Mary University of London / Royal Academy of Music / Royal Central School of Speech and Drama / Royal Holloway / SOAS / UCL / University of London Institute in Paris / Royal Veterinary College

ロンドンに生まれた新しい大学の仕組み

UCLに続いて1829年には、英国国教会の伝統を背景にキングス・カレッジ・ロンドン(King's College London)が設立された。宗教的背景は異なるものの、両校はいずれも19世紀のロンドンで生まれた新しい高等教育機関だった。36年には、UCLとキングス・カレッジ・ロンドンを中心にロンドン大学(University of London 下記コラム参照)が設立された。ただし、現在の一般的な大学とは異なり、当初は独自のキャンパスで一貫した教育を行う大学というより、試験を実施し、学位を授与する機関としての性格が強かった。その後、ほかの高等教育機関も加わり、複数の教育機関からなる連合型の大学へと発展していった。

キングス・カレッジ・ロンドン

各地に広がる新しい大学

19世紀後半になると、UCLに見られたような従来の大学とは異なる高等教育の動きは、ロンドン以外にも広がっていった。産業化が進む地方都市では、地域の市民や産業界からの支援を受け、科学や工学など、社会や産業を支える人材を育てる高等教育機関が設立されるようになった。1851年に設立された、マンチェスター大学の前身となるオーエンズ・カレッジをはじめ、バーミンガム、リーズ、リヴァプール、シェフィールド、ブリストルなどにも大学へと発展していく高等教育機関が誕生した。

こうした動きは「市民大学運動」(Civic University Movement)と呼ばれ、大学を都市の発展や市民生活と結びつける理念を持っていた。これらの「大学カレッジ」は当初、独立した大学ではなく、ロンドン大学の試験によって学位を取得したり、複数の大学からなる連合大学に所属したりしていたが、20世紀初頭にかけて次々と独立した大学へと発展していく。これが後に「赤レンガ大学」(Red Brick Universities)と呼ばれる大学群である。

Oxbridgeとは異なる背景から生まれたこれらの大学は、地域社会や産業界との結びつきを持ちながら発展した。

大学進学の拡大

1960年代以降、英国では大学へ進学する人が急速に増え、高等教育は一部のエリートのためのものから、より多くの人が進学するものへと変わっていった。大学の数や学生数が増え、1990年代にはポリテクニックも大学へ移行。高等教育は大衆化の時代を迎える。

20世紀半ば〜

1. 大学に行く世代の登場

第2次世界大戦が終わると、英国社会は大きな転換期を迎えた。戦後生まれのベビーブーマー世代が成長し、1950~60年代には若者の人口が増加。戦時中に抑えられていた教育や生活水準の向上への期待も高まった。1945年に発足した労働党政権は、NHSの創設など福祉国家の整備を進め、教育もまた、社会的な機会を広げる重要な手段と考えられるようになった。

1944年教育法による中等教育の再編も進み、義務教育を終えた後も学ぶ若者が増えていった。一方、戦後復興から産業の高度化へと進むなか、科学者、技術者、教師、医師など、高度な知識や専門技能を持つ人材への需要も急速に高まった。大学は、一部の階層の子弟が進む場所から、社会全体に必要な人材を育てる場所へと、その役割を変え始めていたのである。

しかし、1960年代初めの高等教育はまだ少数者のものだった。1962年にフルタイムの高等教育へ進んだ若者は同世代の8.5パーセント、大学だけに限れば4パーセントにすぎなかった。大学へ進むかどうかは、家庭の社会的・経済的背景にも大きく左右されていた。

この時代、英国社会そのものも大きく変化していた。戦後生まれの若者が社会の中心へと成長し、音楽やファッションなどの新しい若者文化が広がる一方、ベトナム戦争や核兵器、社会階級などをめぐる議論も活発になった。大学生の数が増えるにつれ、学生たちもこうした社会の変化を担う存在となり、英国各地の大学で抗議活動や大学占拠などが起こった。大学は若者が社会のあり方を考え、既存の価値観に異議を唱える場所にもなっていった。

2. 能力があれば高等教育へ

こうした時代の変化を背景に、1963年に政府が「ロビンズ報告」(Robbins Report)を発表した。報告書は、高等教育は能力と適性を持ち、学ぶことを希望するすべての人に開かれるべきだという考え方を示した。

これは、単なる大学の定員増が目的ではなかった。戦後の英国で広がっていた、教育によってより多くの人に社会的な機会を開こうとする考えとも重なり、高等教育をより幅広い層に開いていく大きな転換となった。その後、大学の新設や定員の拡大が進み、大学へ進む若者は増えていった。大学卒業は、従来の上流・中上流層だけでなく、より幅広い家庭の出身者にとっても、専門職に就いたり、社会的な地位を高めたりするための道となっていった。

1960年代には、高等教育の拡大に合わせて、新しい大学も各地に設立された。1961年創立のサセックス大学を皮切りに、ヨーク大学、イースト・アングリア大学、ウォリック大学、ランカスター大学、ケント大学などが相次いで開学。いずれも中世以来の伝統を持つ大学とは異なり、現代的な教育・研究を掲げて設立された「新大学」(New Universities)である。こうした大学の多くは、主要な大都市や伝統的な学都ではなく、大学を持たなかった地域にも設けられた。多くの新大学には現代建築を取り入れたキャンパス型の設計が採用され、学際的な教育や新しい研究分野にも力を入れた。大学が戦後社会の新しい需要に応じてつくられるものになったことを象徴している。

3. 広がる「もう一つの進学ルート」

ただし、それでも増え続ける進学希望者を大学だけで受け入れることは難しかった。そこで重要な役割を担ったのが、工学、商業、デザイン、教育など、職業や産業との結びつきが強い教育を行っていたポリテクニックである。1960年代後半から各地に整備されたポリテクニックは、伝統的でアカデミックな大学とは異なる高等教育のルートとして、若者だけでなく、働きながら学ぶ人にも学習の機会を提供した。大学に進むことだけが「高等教育」ではないという選択肢が生まれたことも、戦後の教育の裾野を広げるうえで重要だった。

こうして大学やポリテクニックで学ぶことは、少しずつ特別なものではなくなっていった。学生の出身階層も広がり、大学は、親と同じ職業や社会的地位を受け継ぐためだけでなく、自身で専門や職業を選び、社会的な上昇を目指す場所でもあった。

4. 大学の役割も変わる

大学に求められるものも変化した。従来のアカデミックな大学が学問を追究し、国家や社会のエリートを育てることを主な役割としてきたのに対し、戦後の大学には、経済を支える人材の育成や、より多くの人に教育の機会を与えることが期待されるようになった。

一方、1980年代のサッチャー政権下では、公共部門に効率性や競争を重視する考え方が広がり、高等教育もその影響を受けた。大学は教育・研究の成果や資金の使い方、運営の効率性をこれまで以上に問われるようになり、政府の関与も強まった。長く大学の伝統として重視されてきた自治との関係も、次第に変化していく。

そして1992年、ポリテクニックなどが大学として認められたことで、高等教育はさらに大きく拡大する。戦後のベビーブーマー世代から始まった社会の変化は、やがて「大学とは、一部の伝統的なエリートが進む場所」という従来のイメージそのものを変えていったのである。

大学の卒業式

ポリテクニックから大学へ

1992年の継続・高等教育法(Further and Higher Education Act)によって、ポリテクニックは大学として独立し、自ら学位を授与できるようになった。その多くが19世紀以前にルーツを持つ学校・カレッジを統合してできたもので、実務・職業教育を中心とした教育機関だった。

代表的なポリテクニックの例

1992年以前の名称 1992年以降
Leeds Polytechnic Leeds Metropolitan University
→ 現 Leeds Beckett University
Manchester Polytechnic Manchester Metropolitan University
Sheffield Polytechnic Sheffield Hallam University
Thames Polytechnic University of Greenwich
Polytechnic of Central London University of Westminster

大学は「みんなのもの」になったのか現代の大学について知る9つのこと

かつては一部の階層に限られていた英国の大学教育は、戦後の拡大を経て、いまや多くの若者が進学するものとなった。大学の数も学生数も大きく増え、海外からも多くの学生が集まる。一方で、授業料、大学間の序列、家庭の経済状況による進学格差など、大学が広く開かれたからこそ生まれた新たな課題もある。現在の英国の大学はどのような姿になっているのか。九つのキーワードから見てみよう。

1進学率

—— 大学へ進む人はどれくらいいる?

かつては一部のエリートに限られていた大学進学は、戦後大きく広がった。政府統計によると、2025年、イングランドでは18歳の約3人に1人(32パーセント)が大学やカレッジなどの高等教育(Higher Education)へ進学した。さらに19歳までに見ると、約45パーセントが何らかの高等教育に参加している。

2授業料

—— 大学はいくらかかる?

1998年、ブレア労働党政権がそれまで学生本人の負担が原則なかった大学の授業料に、年間最大1000ポンドの授業料を導入した。その後、授業料の上限は次第に引き上げられ、イングランドの大学では現在、標準的な学部課程の授業料上限は年間1万ポンドに近い。授業料は大学の主要な収入源の一つとなっている。

3学生ローン

—— どうやって授業料を払う?

高額な授業料を支払うため、イングランドでは学生向けの公的ローン制度がある。在学中に全額を払う必要はなく、卒業後、所得が一定水準を超えると返済が始まる。ローンは所得連動型となっており、一定期間が過ぎて完済しなかった場合は残額が免除される仕組みだが、多くの卒業生にとって長期的な経済的負担となっている。

4大学の序列

—— 大学には「格」がある?

英国では大学間の序列が社会に深く根付いている。Oxbridgeなど歴史的に特別な地位を持つ大学を頂点に、研究力や入学難易度などによる評価も大学ごとに異なる。一方、大学にはそれぞれ得意分野や特色があり、同じ大学でも学部や学科によって強みは違う。大学選びでは、単純なランキングだけでは測れない違いも重要になる。

5留学生

—— なぜ英国には多い?

英国の大学には世界各地から学生が集まる。英語圏であることに加え、長い歴史を持つ大学や世界的な研究実績も魅力となっている。多様な文化や価値観が持ち込まれ、留学生は英国の大学を国際的な学びの場にする一方、留学生の授業料は国内学生より大幅に高く、大学財政とも深く結びついている。

6教育格差

—— 大学は本当に平等?

高等教育の門戸が大きく広がった一方、家庭の経済状況や親の学歴などによって、大学への進学率や進学先には依然として差がある。特に上位大学では、恵まれた社会的背景を持つ学生の割合が高いことが課題となっている。そのため、コンテクスト入試(Contextual Admissions)という仕組みが積極的に導入されている。

7キャリア

—— 大学は就職に有利?

大学は学問を学ぶ場であると同時に、職業への入口としての性格を強めている。専門職に就くために学位が必要な分野も多く、学生側にも、将来の就職や収入につながるかを考えて進学先を選ぶ傾向がある。一方、学位だけで安定したキャリアが保証されるわけではなく、大学の費用対効果も問われている。

8研究大学

—— 大学は何を研究している?

大学は学生を教育するだけでなく、新しい知識を生み出す研究機関でもある。英国には、医学、科学、工学、人文・社会科学など、莫大な研究予算や国際的なネットワークを持ち、幅広い分野で世界的な研究成果を上げる大学が数多く存在する。研究は大学の評価だけでなく、産業や社会の発展にも影響を与えている。

9大学の自治

—— どこまで守られている?

英国の大学は長く、政府や外部から一定の距離を保ちながら教育・研究を行う「大学の自治」を重視してきた。しかし1980年代以降、政府による資金配分や評価、質の管理などへの関与が強まり、大学の運営にも競争や効率性が求められるようになった。自治と公的な責任のバランスは、現在も議論が続いている。

 

デービッド・ホックニー 1937-2026 春は、まだ終わらない

春は、まだ終わらない デービッド・ホックニー
1937-2026

1960年代初頭、ロンドンでポップアートの旗手として頭角を現し、以降は春のような光と色彩の画家として活躍を続けたデービッド・ホックニー。ホックニーは6月11日、ロンドンの自宅で静かに息を引き取った。88歳。老いてなお制作意欲は衰えず、晩年はiPadを使った創作にも果敢に挑み続けた。生涯「見ること」をやめなかった、ホックニーの軌跡をたどる。
(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.hockney.com、www.serpentinegalleries.org、www.pacegallery.com、www.thedavidhockneyfoundation.org、the guardian、BBCほか

David Hockney

デービッド・ホックニーとは

デービッド・ホックニー(David Hockney、1937年7月9日〜2026年6月11日)は、英国出身の画家・舞台美術家・写真家。英北部ブラッドフォードの労働者階級の家庭に生まれ、ロイヤル・カレッジ・オブ・アーツ在学中の1960年代初頭にポップアートの旗手として頭角を現した。1964年に渡米し、ロサンゼルスのプールや光を描いた作品群で世界的名声を確立。以後も油彩、フォトコラージュ、舞台美術、iPadによるデジタル創作と、60年以上にわたり表現手法を更新し続けた。

2026年6月11日、英画家のデービッド・ホックニーがロンドン中心部マリルボーンの自宅で88歳で息を引き取った。89歳の誕生日を1カ月後に控えてのことだった。故人の遺志に従い葬儀にはパートナーのジャン=ピエール・ゴンサルベス・デ・リマ氏と大甥のリチャード・ホックニー氏のみが参列。広報担当者は「20世紀と21世紀の現代美術における、最も重要な人物の一人」であったと発表し、その人生を貫いたモットーとして「Love Life」(人生を愛せ)という言葉を紹介している。

訃報を受け、各方面からホックニーを惜しむ声が相次いだ。チャールズ国王は「芸術と絵画の世界の巨人であり、生粋のヨークシャー・マンであり、多くの人々にとって親愛なる友人であり、インスピレーションの源だった」との声明を発表。かつて国王主催の昼食会に鮮やかな黄色いサンダルで現れたエピソードにも触れ、「その天賦の才を、デービッドはいつもあの愛すべき黄色いクロックスと同じくらい軽やかに身にまとっていた」としのんだ。

友人でもあった現代画家のトレイシー・エミンは「偉大な芸術家であり、素晴らしい人だった。その芸術の力で、英国らしさというもののイメージそのものを変えた人」と語り、スターマー首相も「英国で最も愛された芸術家の一人」への哀悼の意を表明した。体制に逆らいながら、その率直で気取らないヨークシャー・マン気質は体制からも愛された。ホックニーは半世紀を優に超えるキャリアの中で、何を見つめ、何を描き続けてきたのか ── その軌跡を振り返ってみよう。

1 ヨークシャー ➤➤➤ ロンドン 「若くして時代の寵児に」

ホックニーは1937年7月9日、英国北部ヨークシャーの工業都市ブラッドフォードに、労働者階級の家庭の5人きょうだいの4番目として生まれた。53年からブラッドフォード美術学校に学び、59年にはロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アーツ(RCA)へ進学。当時の英国はようやく戦後の重苦しさを脱しつつあった時期で、若者たちの間には新しい表現を求める空気が広がっていた一方、同性愛はまだ違法とされていた時代でもあった。美術界では米国の抽象表現主義が主流だったが、ホックニーは次第にこれと距離を置き、自らの同性愛をも隠さずモチーフに取り込みながら、具象的でユーモラスな作品を大胆な色彩で描くスタイルへと転じていく。この転換を後押ししたのが、客員講師として招かれていた、のちに「ポップアートの父」と呼ばれる画家リチャード・ハミルトンだった。

61年、ロンドンで開催された「ヤング・コンテンポラリーズ」展には、ホックニーと共にR・B・キタイ、パトリック・コールフィールド、ピーター・ブレイクら同世代のRCAの学生たちが名を連ねた。のちに「英国ポップアートを世に送り出した展覧会」と評されるこの一連の動きの中にホックニーはおり、20代前半にして早くも、時代の寵児としての地位を確立していたことになる。同展で画商ジョン・カスミンの目に留まり、63年、カスミンが自身の画廊を開くと、ホックニーはその最初期の所属アーティストとなって初個展を開催している。また、NYも訪れアンディー・ウォーホルやデニス・ホッパーといった米国のアーティストたちと会う機会も得た。

この頃、後年まで続くホックニーのトレードマークの一つである脱色ブロンドの髪も誕生した。RCAの友人たちと「ブロンドの方が人生を楽しめる」と謳う米国のヘアケア・ブランド、クレイロールのテレビCMを目にしたホックニーが、その場の勢いで髪をブリーチしたのが始まりだった。

絵筆とパレットを持つホックニー(横顔)の白黒写真まだ髪の黒かった18歳のホックニー

ブラッドフォードの街並みの白黒写真紡績工場が立ち並ぶブラッドフォードの街並み

2 ロンドン ➤➤➤ ロサンゼルス 「ポップアートから、光の画家へ」

転機は1964年、27歳の年に訪れる。ホックニーは陰鬱な英国の空を離れ、同性愛に寛容な自由な空気と明るい光を求めて単身ロサンゼルスへと渡った。ホックニーを待っていたのは、それまで写真でしか見たことのなかった、乾いた光と青いプール、ヤシの木が並ぶ開放的な街だった。この光景への衝撃は、以後の画業を決定づけるほど大きなものだった。

渡米後まもなく、アイオワ・シティを車で通りかかった際、ある眼鏡店で分厚いべっ甲柄の丸眼鏡を見つけて即座に購入したという逸話が残る。「もっとプロフェッショナルに見られたかった」という理由からだったというが、以後この丸眼鏡は脱色ブロンドと並んで、ホックニーのトレードマークとして生涯身につけ続けられることになる。

ロサンゼルスでホックニーはアクリル絵具を本格的に用い始め、平坦で鮮やかな色面によって水面の揺らぎや光の反射を捉える独自の技法を確立する。プールに浮かぶ人物や、ガラス張りの邸宅を描いた一連の作品群は、まさにこの時期に生まれた。中でも代表作「とても大きな水しぶき」(A Bigger Splash 1967年)は、水しぶきという一瞬の動きを、静止した絵画の中に閉じ込めるという逆説的な構図で高く評価され、ホックニーの名を世界的なものにした。

「光と色彩の画家」としてのホックニーの原点は、まぎれもなくこのロサンゼルス時代にある。以後、拠点を英国に戻してからも、ホックニーはこの街で得た光への感受性を生涯にわたって作品に持ち込み続けることになる。

プールサイドに立つ腕を組んだホックニー1964年、ロサンゼルスにスタジオを構えたホックニー

白黒写真:黒い大きな丸メガネをかけたホックニー丸眼鏡が生涯のトレードマークに

ホックニーの有名な絵「A Bigger Splash」- 飛び込み板のある水色のプールに大きな水しぶき、背景には、青い空、平屋の建物と折り畳み椅子、向かって右に背の高い椰子の木が2本「とても大きな水しぶき」(1967年)

3 パリ ➤➤➤ ヨークシャー 「遠くを見ることで、故郷を新しく見る」

ホックニーとパリの関係は、パブロ・ピカソへの敬愛から始まった。RCA在学中の1960年、テートで開催されたピカソの回顧展に足繁く通い、計8回も鑑賞したと伝えられる。73年にピカソが没すると、ホックニーは追悼版画集への参加を依頼され、一時的にパリへ移住。ピカソ専属の名版画職人アルド・クロムランクのもとで、シュガーリフト・アクアチント技法を修得しながら、亡き巨匠への敬意を込めた作品を次々に制作した。76〜77年に手がけた版画集「ザ・ブルー・ギター」(The Blue Guitar)も、ウォレス・スティーヴンズの詩とピカソの絵画への二重のオマージュとして知られる。のちの1981年、ホックニーはニューヨーク・メトロポリタン・オペラで、1917年にピカソ自身が舞台美術を手がけたバレエ「パラード」を含む3本立ての舞台美術を依頼された際、意識的にピカソの手法を踏襲している。欧州の美術史との対話を経て、ホックニーの中で絵画と舞台という二つの表現が結びついていった時期だったといえる。

ロンドン・ロサンゼルス・パリを行き来する生活のなかで、ホックニーは友人やパートナーを写実的に描いた「ダブル・ポートレート」の連作にも取り組み始めた。等身大近くで描いたこれらの作品「クラーク夫妻とパーシー」(Mr and Mrs Clark and Percy 1970-71年)や「芸術家の肖像画 —プールと2人の人物—」(Portrait of an Artist(Pool with Two Figures)1972年)などは、移動を重ねる生活の中で出会った人々への、ホックニーなりの記録でもあった。

1978年、ホックニーは15年に及ぶ欧州と米国を行き来する生活を経て、再びロサンゼルスに定住する。しかし90年代に入ると、母の見舞いのため3カ月おきにヨークシャーへ通うようになり、97年、病床にあった旧友ジョナサン・シルヴァーに背中を押される形で、次第に故郷の風景そのものを描くようになっていく。2004年、久しぶりに向き合ったヨークシャーの光について、ホックニーは「違う光を見ることは、とても良いことだと思う」と語り、屋外での制作に没頭していった。07年に完成した「ウォーター近郊の大きな木々」(Bigger Trees Near Warter)は、50枚のキャンバスから成るホックニー史上最大の作品で、母の家の屋根裏で連日制作を重ね、ヨークシャーの春の予兆をとらえるため、木々が芽吹く前のわずか6週間で描き上げられた。各カンバスをどう組み合わせるか、全体像を確認するためにデジタルカメラやパソコンを駆使して制作されたといわれている。少年時代に見慣れていたはずの故郷の風景が、世界を巡り歩いた末の目で見返すことで、まったく新しい絵画になったともいえる。

ホックニーの有名な絵「Mr. and Mrs. Clark and Parcy」「クラーク夫妻とパーシー」(1970-71年)

ホックニーの有名な絵「Portrait of an Artist (Pool with Two Figures)」「芸術家の肖像画 —プールと2人の人物—」(1972年)

ホックニーの有名な絵「Bigger Trees near Warter」「ウォーター近郊の大きな木々」(2007年)

4 ヨークシャー ➤➤➤ ノルマンディー 「最後の創作の地」

2019年、80歳を過ぎたホックニーは、静けさを求めて仏ノルマンディーの農家「ラ・グランド・クール」に移り住んだ。4エーカー(東京ドームのグラウンドの約3分の1)の敷地には池と小川、納屋を改装したアトリエがあり、モネが「睡蓮」を描いたジヴェルニーからも遠くはない。ロサンゼルスの乾いた光、ヨークシャーの移ろう空、生涯を通じて場所ごとの光を追い求めてきたホックニーが、英国に戻る前に選んだのはこの静かなフランスの田園だった。

20年、新型コロナウイルスの流行で世間がロックダウンに入ったとき、ホックニーの生活はほとんど変わらなかった。もともと人里離れた農家で創作に没頭する日々を送っていたからだ。むしろこの隔離期間を、ホックニーは好機として捉えた。友人でもある美術評論家マーティン・ゲイフォードと電話やメールでやり取りを重ねながら、毎朝庭に出てはiPadでその日の光と季節の移ろいをスケッチし、送り続けた。この往復書簡的な記録は、のちに「Spring Cannot Be Cancelled」(春は中止にできない)という1冊にまとめられている。世界が立ち止まっていた時期に、ホックニーはただ一人、庭の中で春が巡り続けることを描き続けていた。

この日々の記録の集大成が、全長90メートルに及ぶパノラマ・フリーズ「ノルマンディーの1年」(A Year in Normandie 2020-21年)だ。100点以上のiPad画によって、農家の庭に訪れる四季の移ろいを1年かけて描いたこの作品は、バイユーのタペストリーや中国の絵巻物からインスピレーションを得た構成で、歩きながら鑑賞することで時間の経過そのものを追体験できる仕掛けになっている。88年の生涯をかけて世界を回り、「見ること」をやめなかった画家がたどり着いたのは、自宅の庭という最も身近な風景だった。

ホックニーの有名な絵「A Year in Normandie (detail)」鮮やかな緑のなかにある大きな木やフランスの民家、牧草ロールがいくつもある風景「ノルマンディーの1年」の一部(2020-21年)

ホックニーの有名な絵「A Year in Normandie (detail)」鮮やかな緑のなかにある大きな木やフランスの民家、牧草ロールがいくつもある風景「ノルマンディーの1年」の一部(2020-21年)

マーティン・ゲイフォード、デービッド・ホックニー共著「Spring Cannot Be Cancelled David Hockney in Normandie」
マーティン・ゲイフォード、デービッド・ホックニー共著
Thames & Hudson、2021年刊、280ページ
ロックダウン下のノルマンディーでの対話と、iPadドローイング約30点を収録

ホックニーをめぐるABC

A卒論の代わりに絵を描いた

RCAの卒業条件だった、実在の女性モデルを描くライフ・ドローイングの課題をホックニーは拒否。代わりに、米国のボディビル雑誌から男性像を模写した絵に、自ら描いた骸骨のスケッチを組み合わせて提出した。併せて課された小論文の提出も拒み、「絵だけで評価されるべきだ」と主張。前代未聞のこの対応に、学校側は規則そのものを変えてまでホックニーを卒業させたという。若干24歳にして、すでに型破りぶりを発揮していた。

B溺愛の対象はダックスフント

ロサンゼルス時代から大の愛犬家として知られたホックニー。飼っていたダックスフント2匹、スタンリーとブーギーは幾度となく作品のモデルとなり、キャンバスのそばで眠る姿が何枚も描かれた。あまりの溺愛ぶりに、のちに「David Hockney's Dog Days」という画集にまでなっている。「主題は犬ではなく、この小さな生き物たちに対する愛情なんだ」だそう。

C100億円の値が付いた

2018年、ロサンゼルス時代の代表作「芸術家の肖像画—プールと2人の人物—」がニューヨークのオークションに出品され、9030万ドル(当時のレートで約100億円)で落札。それまでジェフ・クーンズの彫刻が保持していた記録を大きく更新。存命作家の作品としては、当時史上最高額を記録した。しかしわずか半年後、当のクーンズが1986年の彫刻「ラビット」を9110万ドルで売却し、記録を奪還している。

D女王の肖像画を断った

2011年、エリザベス女王の肖像画制作を依頼されたホックニーは、これをやんわりと辞退した。その理由を問われ、「女王はきっと『素晴らしい題材』になるだろうが、自分は知っている人を描く方が好きなんだ」と答えている。さらにBBCラジオの取材には、「依頼されたとき、私は女王の国でもあるイングランドの風景を描くのに非常に忙しかったからね」とも語った。

E禁煙法に一人で抗議

2005年、飲食店での喫煙を禁止する法律の制定が議論された際、ホックニーは労働党大会に自らプラカードを持って乗り込んだ。掲げた文言は「DEATH awaits you all, even if you do not smoke」(タバコを吸わなくとも、死はあなた方全員を待っている)。政治家に人生の楽しみを決めさせたくないとの信念のもと、生涯チェーンスモーカーであり続けた。

F喫煙を理由に禁止されたポスター

2025年、パリのルイ・ヴィトン財団で大規模な回顧展が開催された際、その宣伝用ポスターが、パリの地下鉄構内への掲示を禁止される一幕があった。理由は、ポスターに描かれたホックニーが煙草を持っていたから! 公共交通機関でのタバコ関連の描写を禁止するフランスの法律に違反しているとのことだが、ホックニーはこの決定を、「完全なる狂気」と非難した。

エキシビション情報

David Hockney: A Year in Normandie and Some Other Thoughts about Painting

ノルマンディーの1年

本展は、生前のデービッド・ホックニー本人との緊密な協力のもと企画された。中心となるのは、ホックニーの代表作の一つであるパノラマ・フリーズ「ノルマンディーの1年」。仏ノルマンディースタジオで繰り広げられた四季の移り変わりを、「バイユーのタペストリー」にインスピレーションを得た手法で捉えた壮大な作品だ(このタペストリー自体も、9月から大英博物館で公開予定)。サーペンタイン・ギャラリーでの展示において、この作品はケンジントン・ガーデンズを取り巻く自然との対話を生み出している。

Serpentine North Gallery
2026年8月23日(日)まで

West Carriage Drive, London W2 2AR
Lancaster Gate / Knightsbridge駅
Tel: 020 7402 6075
月 12 –18時 火~金 10 –18時 土・日 10 –19時
無料
www.serpentinegalleries.org

 

音楽の都オーストリアで楽しむ野外コンサート

ウィーンやザルツブルクだけじゃない 音楽の都オーストリアで楽しむ野外コンサート

音楽の都オーストリア。その名を聞いて思い浮かぶのは、ウィーンの国立歌劇場やザルツブルク音楽祭だろう。しかし、この国の音楽はホールの中だけにとどまらない。中世の城の敷地内にある野外ステージ、湖上に浮かぶ舞台、ローマ時代の採石場を舞台にしたオペラなどさまざまな顔がある。本特集ではニュースダイジェスト編集部員が、ウィーン近郊のニーダーエスタライヒ州からブルゲンラント州を縦断し、知られざるオーストリアの音楽文化を体験。コンサート・ホールとは一味違う、この国の夏の楽しみ方をご紹介する。 (文:英国ニュースダイジェスト、取材協力: オーストリア大使館観光部)

オーストリアの地図

オーストリアの地図

首都ウィーンを取り囲むように広がるのが、オーストリア最大の州・ニーダーエスタライヒ州。「低地オーストリア」を意味し、国内では比較的標高の低い地域が広がる。一方、ブルゲンラント州はその東に位置し、ハンガリーと国境を接するオーストリア最東端の州。広大な平原やブドウ畑、湿地や湖沼地帯が広がる。どちらの州もウィーンから鉄道で約30分~1時間半とアクセスしやすい。

アクセス:ロンドンからウィーンへ直行便で約2時間半。ウィーンを起点に、ニーダーエスタライヒ州、ブルゲンラント州へは鉄道や車で約30分~1時間半。

ニーダーエスタライヒ州
お城の敷地内で開かれる
グラーフェネック音楽祭

2026年8月14日(金)~9月6日(日)
www.grafenegg.com

ウィーンのフランツ・ジョセフ(Franz Josefs)駅から約1時間。ニーダーエスタライヒ州の北西の町グラーフェネック(Grafenegg)に、歴史的なグラーフェネック城❶❷がある。15世紀に築城された後、幾度かの変遷を経て現在は英国チューダー様式の意匠を取り入れた優美なネオゴシック建築として知られる。敷地内の広大な庭園には現代的だが自然と調和した野外ステージ「雲の塔」(Wolkenturm)❸があり、夏の間はコンサートが開かれる。中でも毎年8~9月に開催されるグラーフェネック音楽祭は、ザルツブルク音楽祭に次ぐ質の高い演奏で国内の音楽ファンを魅了。今年は第20回を迎え、芸術監督を務めてきたピアニスト、ルドルフ・ブッフビンダーが退任する節目の年でもある。

グラーフェネック❶ 音楽祭の舞台としても知られる古城、グラーフェネック

城の内部城の内部❷ 光の入り方が印象的な城の内部

ピクニック❸ 会場の外ではピクニックもできる

取材では、夏の訪れを告げる「真夏の夜のガラ・コンサート」❹を鑑賞。演奏はニーダーエスタライヒ州を本拠とするトーンキュンストラー管弦楽団が担当し、フランス出身の指揮者ファビアン・ガベルがタクトを振った。地元の人々が体を揺らしながら気軽に音楽を楽しむ姿に、クラシック・コンサートにありがちな堅苦しさはない。

真夏の夜のガラ・コンサート❹ 真夏の夜のガラ・コンサート

ベートーヴェン没後200周年にあたる来年、2月13日にはグラフェネックにて名誉指揮者の佐渡裕さんがトーンキュンストラ―管弦楽団を指揮する。

グラーフェネック城の敷地内にはミシュランのビブグルマンに選出された「モルヴァルド・グラーフェネック・レストラン」(Mörwald Grafenegg Restaurant)があるほか、16棟のコテージ❺も用意されている。コンサートの後に慌ただしく帰るのではなく、テラスでワインを片手にプライベートな夜を過ごし、そのまま宿泊できる空間だ。翌朝は、32ヘクタールの敷地内をのんびりと散策。芝生で思い思いに過ごす人々の姿も印象的で、肩ひじ張らずに欧州の夏を満喫できる。コンサート開催日ならウィーンから片道50分のシャトルバスも運行され、音楽と建築、ワイン、グルメを一度に楽しめるのが魅力だ。

緑が見える大きな窓のある部屋❺ ゆっくり滞在できるコテージ。早朝には窓の外に野ウサギの姿も

ブルゲンラント州
湖の風に吹かれながら
メルビッシュ湖上音楽祭

2026年7月16日(木)〜8月22日(土)
www.seefestspiele-moerbisch.at

ブルゲンラント州の魅力は、ハンガリー国境近くの町、メルビッシュのノイジードラー湖(Neusiedler See)にある。ヨシ原に囲まれた浅い湖❻で、ウィーンから車で約1時間と、手軽に行けることから「ウィーンっ子の海」とも呼ばれる。豊かな自然が広がり、ラムサール条約の登録湿地にも数えられている。その水上に、欧州最大級の野外舞台が現れるのが、メルビッシュ湖上音楽祭(Seefestspiele Mörbisch)だ。

周囲にはヨシの草原が続く❻ 周囲にはヨシの草原が続く

毎年夏、湖面に張り出した特設ステージでオペレッタやミュージカルが上演される。これまでにも「ウエストサイド・ストーリー」「王様と私」といった作品がかけられてきたが、今年の演目は日本でもたびたび上演されているミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」(La Cage aux Folles)❼。ゲイのカップルを主人公に、あるがままの姿を受け入れることの素晴らしさをコメディー・タッチで描いた作品だ。取材では、芸術監督で主演の一人でもあるアルフォンス・ハイダー氏の案内で、バックステージツアーに参加した❽。同氏は本作のテーマについて、「寛容、平等、そして自由への賛歌」であると語る。同性愛嫌悪や排除の動きが再び勢いを増す今の世界で、オープンであること、自分らしくあることの力を示す物語だという。象徴的なテーマ曲は「私は私」(I Am What I Am)。

La Cage aux Folles❼ ミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」(La Cage aux Folles)

取材陣を案内するアルフォンス・ハイダー氏(写真右)❽ 取材陣を案内するアルフォンス・ハイダー氏(写真右)

南仏リヴィエラのナイトクラブが舞台❾のため、幅60メートル、総延長1000メートルの大階段、中央には直径10メートルの回り舞台が設置されている。手動で動かす金色のケージや、鮮やかなムービング・ライトも配置され、舞台に躍動感が生み出されるデザインだ。湖面に浮かぶ巨大な舞台装置と6000人規模の客席が一体となるスケール感が、この湖上音楽祭の最大の魅力の一つといえる。また、客席上部まで上がると、湖の向こうにはハンガリーの景色が広がる❿。湖一つ隔てて隣国と向き合うこの眺めは、八つの国と国境を接するオーストリアならではのものだ。

取材当日は舞台でリハーサルが行われていた❾ 取材当日は舞台でリハーサルが行われていた

湖の向こう岸はハンガリー❿ 湖の向こう岸はハンガリー

ブルゲンラント州
圧巻の舞台セット
ザンクト・マルガレーテン音楽祭

2026年7月15日(水)〜8月22日(土)
www.operimsteinbruch.at

ブルゲンラント州の二つめの音楽祭は、ウィーンから70キロほど離れたザンクト・マルガレーテンの採石場(Oper im Steinbruch Sankt Margarethen)⓫が舞台だ。ローマ時代から切り出されてきた石灰岩の岩壁を、そのまま天然の音響装置に見立てた野外オペラが、毎年夏に上演される。きっかけは1991年、この地で開かれたロシア民謡合唱団のコンサートだったという。教会音楽にも通じる歌声が岩壁に響き渡る様子に感銘を受けた地元関係者が、本格的なオペラ上演を思いついたのが始まり。96年、ヴェルディの「ナブッコ」で始まったこのオペラ祭は、初年度は観客数1万1000人だったが、2025年には8万人を超える規模に成長した。

採石場という立地をぞんぶんに活用した会場⓫ 採石場という立地をぞんぶんに活用した会場

今年の演目はプッチーニの「トスカ」⓬。実際に足を運んで驚いたのは、舞台セットの規模だ⓭。岩壁を背景に組み上げられたセットは、コンサート・ホールでは決して見られないスケール感で、オペラに詳しくなくても、その迫力だけで十分に楽しめる。ローマのサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂、ファルネーゼ宮殿、サンタンジェロ城などが再現され、芸術監督のダニエル・セラフィン氏の話を聞いていると、玄人がじっくり音楽に向き合う場というより、誰もが気軽に「すごい」を体験できる、間口の広いエンターテインメントを目指しているようだ。ちなみに、セラフィン氏は、先に挙げたメルビッシュ湖上音楽祭の芸術監督を長年務めたハラルト・セラフィン氏の息子でもあり、2019年にこの採石場オペラの芸術監督に就任している。メルビッシュ湖上音楽祭同様、夏の野外で涼しく音楽鑑賞するにはぴったりの場所だ。

今年の演目はプッチーニの悲劇「トスカ」⓬ 今年の演目はプッチーニの悲劇「トスカ」

採石場を利用した印象的な舞台セット⓭ 採石場を利用した印象的な舞台セット

観客席は4670席観客席は4670席

舞台セットローマのバロック様式をイメージしたステージ・デザイン

舞台衣装第1幕のクライマックス、「テ・デウム」のシーンで使われるコスチューム

舞台衣装出番を静かに待つ仮面たち。大聖堂を舞台にした第1幕のフィナーレに登場する

また、この採石場から切り出された石は、ウィーンのシュテファン大聖堂やリンク通りの建物にも使われてきた。運営は、ハプスブルク家に仕えた名門貴族の流れを継ぐエスターハージー財団。同財団はワイン醸造も手がけており、幕間に振る舞われるワインも名物の一つ。

ブルゲンラント州
クラシックだけじゃない
ノヴァ・ロック・フェスティバル

www.novarock.at

ノヴァ・ロック・フェスティバル(Nova Rock Festival)⓮は、ブルゲンラント州の東部に位置するニッケルスドルフ(Nickelsdorf)で、毎年6月に開催されている野外フェス。2005年のスタート以来、ハード・ロックやヘヴィ・メタル、パンク・ロックがメインだが、親子で来ている観客も多く、オーストリアで愛されているフェスの一つであることが伺える。地元の食材やメニューにこだわった屋台が立ち並ぶほか、バンジーやローラー・ディスコを始めとしたアトラクションも数多く、移動式遊園地、バーベキュー・エリア、ノイジードラー湖畔にある美しい町ポダースドルフ(Podersdorf am See)へのシャトルバスなどが出ている。フェスの合間に湖で泳いでリフレッシュすることも可能だ。

Nova Rock Festival⓮ 暗くなればなるほど盛り上がる会場

Nova Rock Festival

今年のヘッドライナーは、北欧のメタル・バンド、ヴォルビート(Vol beat )、英国のベテランであるザ・キュア(The Cure)とアイアン・メイデン(Iron Maiden)、同じく英国からオルタナティブ・メタルのブリング・ミー・ザ・ホライズン(BMTH)が出演した。2027年は、6月10日(木)〜12日(土)に開催予定。出演者の詳細は、順次ウェブサイトで発表されるので確認しよう。

Nova Rock Festival米バンドのジ・オフスプリングが登場

コウノトリの飛来地 ルストの魅力

ルスト地図

ノイジードラー湖の西岸、メルビッシュから北へ車で15分ほどの場所に、ルスト(Rust)という小さな町がある。人口はわずか2000人足らず。かつてハプスブルク帝国最大の地主といわれたハンガリー貴族エスターハージー家が治め、同家のもとでワイン醸造が盛んに行われてきた。ウィーンからは電車とバスを乗り継いで約40分〜1時間半ほどで到着できる。

歩いてすぐに回れるほどのコンパクトな旧市街には、グレーをまぶしたパステル・カラーの壁に、切妻屋根を載せた家々が軒を連ねる⓯。ハンガリー風といわれる家々が立ち並ぶ旧市街には、ワインを楽しめるレストランや直売店⓰が点在し、町全体がワイナリーのような雰囲気。昼食には、ミシュラン・ビブグルマンの食堂「キルヒェンヴィルト・ルスト」(Kirchenwirt Rust)⓱へ。地元産の赤ワインが名物なので、ぜひ一杯試してみていただきたい。

コンパクトな旧市街⓯ コンパクトな旧市街

ワインの直売所⓰ ワインの直売所 ⓱ 食堂「キルヒェンヴィルト・ルスト」(右写真)

白アスパラガス白アスパラガス(シュパーゲル)の旬は4~6月中旬

もう一つの名物は屋根の上の住人、コウノトリ⓲だ。春になると、煙突や煙突近くの台座に次々と巣がかけられる。2024年には86羽のヒナがここで誕生し、130羽近いコウノトリがルストの旧市街の屋根の上を飛び交ったという。童話の世界のようにかわいらしい街並みと、空を見上げれば必ず一羽は目に入るコウノトリ。ワインと鳥、両方を楽しみに、気軽に立ち寄ってみたい町だ。

コウノトリ⓲ 屋根の上の住人、コウノトリ

 

欧州で味わうB級グルメ

その一口に歴史がある欧州で味わうB級グルメ

フィッシュ・アンド・チップス、カリーヴルスト、ファラフェル……。欧州の街角で食べるその味は、なぜその土地に生まれ、なぜ今も愛されるのか。本特集では、産業革命をはじめ、二度の世界大戦や東西分断、移民労働者など、「B級グルメ」の源流をたどる。さらに旅先で頬張りたい欧州の名物B級グルメを、その味が生まれた歴史や背景、発祥地をめぐる論争と合わせてご紹介。次の旅行がもっとおいしくなること間違いなし! (文:英国・ドイツニュースダイジェスト編集部)

欧州の「B級グルメ」はこうして生まれた

参考:Demographia / Old Bailey Online、BBC「Eating on the hoof: London's long history of street food」、Henry Mayhew, 「London Labour and the London Poor」、LeMO「Leben in Trümmern」、DW「Von der Currywurst zum Insektenburger」

産業革命と路上食文化の誕生

手軽で安くて、どこか懐かしい。世界中で愛される欧州の「B級グルメ」の原点をたどると、19世紀の産業革命に行き着く。工場労働者が都市に押し寄せたこの時代、労働者たちは昼食のために家へ戻る余裕などなかった。ヴィクトリア時代のロンドンでは、人口がわずか60年ほどで3倍に膨れ上がり、路上には数万人の行商人や露天商がひしめいた。エンドウ豆のスープ、温かいウナギ料理、ミートパイ。こうした腹にたまる一皿が、工場と寝床を往復する労働者たちの命綱となったのだ。産業革命は蒸気機関だけでなく、「路上で食べる文化」をも生み出したのである。

赤みを帯びた古いロンドン写真。貝売りのストールに集まる人たち1877年、ロンドンの貝売り。牡蠣やツブ貝などの貝類は、安くて栄養のある庶民の味として人気を集めた

20世紀に入ると、前世紀に芽生えた路上食文化は都市の風景に根を下ろしていく。英国ではフィッシュ・アンド・チップスの店が1930年代には3万5000軒に達した。ウィーンでは、オーストリア=ハンガリー帝国時代に復員兵士たちが移動式の調理台でソーセージを売り始めたのをきっかけに、ソーセージ・スタンドの文化が街角に広がっていった。しかし2度の世界大戦中は、各国で食料配給制が敷かれ、市民の食卓は厳しく統制された。

第2次世界大戦が終わると、欧州各地の軽食文化は新たな局面を迎える。とりわけ荒廃が激しかったドイツでは、がれきの合間に即席の食事処が立ち並んだ。設備投資がほとんどいらないこうした屋台や小店は、荒廃した街が再び動き出すための燃料のようなものだった。やがて各国で経済が上向き始めると食肉消費が伸び、ベルギーとフランスを発祥とするフライドポテトが肉料理の付け合わせとしても定着し、その文化が周辺諸国にも広がっていく。

温かい食事を求めて集まる人々の様子を写した古い白黒写真戦後のベルリンで温かい食事を求めて集まる人々。荒廃した都市では、移動販売や簡易食堂が人々の空腹を満たす貴重な存在だった

鉄のカーテンの向こう側で愛されたグルメ

冷戦時代に突入すると、西側で軽食文化が花開く一方、東側では事情がまるで違った。共産主義体制のもと、ポーランドでは国家が食の生産から流通までを握り、民間の外食産業はほとんど芽吹く余地がなかった。人々は市場の片隅や個人的なつてを頼りに食をやりくりし、国営の軽食スタンドが暮らしを支える数少ないよりどころだった。

ハンガリーは「グヤーシュ共産主義」(ハンガリーの代表的な煮込み料理になぞらえた呼称)と呼ばれる比較的穏やかな体制のもと、小さな食の商いが部分的に許されたものの、日常の食卓を担ったのは国営のセルフサービス食堂や缶詰・冷凍食品であり、街角で自由に食を商う風景は限られていた。

チェコスロバキアでも選択肢は乏しく、ヴァーツラフ広場に並ぶソーセージ・スタンドのような軽食売り場や国営の大衆食堂が、庶民にとって数少ない外食の場だった。だからこそ、制約のなかで生まれた味には独特の強さがある。フランスから持ち込んだバゲット技術で即席のピザ・トーストを作り上げたポーランドのザピエカンカ、中世から続くパン窯の伝統を揚げ物に転じて夏の湖畔の名物にしたハンガリーのラーンゴシュ。乏しい食材と限られた自由のなかで磨かれたこれらの一品は、体制が変わった今もなお東欧の街角で愛され続けている。 冷戦時代に突入すると、西側で軽食文化が花開く一方、東側では事情がまるで違った。共産主義体制のもと、ポーランドでは国家が食の生産から流通までを握り、民間の外食産業はほとんど芽吹く余地がなかった。人々は市場の片隅や個人的なつてを頼りに食をやりくりし、国営の軽食スタンドが暮らしを支える数少ないよりどころだった。

ハンガリーは「グヤーシュ共産主義」(ハンガリーの代表的な煮込み料理になぞらえた呼称)と呼ばれる比較的穏やかな体制のもと、小さな食の商いが部分的に許されたものの、日常の食卓を担ったのは国営のセルフサービス食堂や缶詰・冷凍食品であり、街角で自由に食を商う風景は限られていた。

チェコスロバキアでも選択肢は乏しく、ヴァーツラフ広場に並ぶソーセージ・スタンドのような軽食売り場や国営の大衆食堂が、庶民にとって数少ない外食の場だった。だからこそ、制約のなかで生まれた味には独特の強さがある。フランスから持ち込んだバゲット技術で即席のピザ・トーストを作り上げたポーランドのザピエカンカ、中世から続くパン窯の伝統を揚げ物に転じて夏の湖畔の名物にしたハンガリーのラーンゴシュ。乏しい食材と限られた自由のなかで磨かれたこれらの一品は、体制が変わった今もなお東欧の街角で愛され続けている。

ポーランドの伝統的なミルク・バーで行列する人々ポーランドに残る伝統的なミルク・バー。共産主義時代、安価な大衆食堂は欠かせない食の場だった

移民の波と異国の味

一方、同じ時代の西側では、まったく別の力がB級グルメの地図を塗り替えようとしていた。戦後復興から高度成長へと向かう欧州に、決定的な彩りを加えたのが移民の波だった。1960年代以降、ドイツにはトルコ人労働者が渡り、1970年代にはベルリンの路上でドネルケバブのサンドイッチが売られ始めた。英国にはインドや西インド諸島からカレーやジャークチキンが、フランスには北アフリカからクスクスやメルゲーズが持ち込まれた。異国の味は各地の屋台の風景を変え、やがて街に根付いていった。

そして現在、健康志向やヴィーガン需要の高まりを受けて、ファラフェルやベジケバブが台頭し、欧州のB級グルメは変化し続けている。安さと手軽さの裏には、労働、統制、戦後復興、移民という歴史の地層が何重にも折り重なっている。街角の味とは、いつの時代もその社会の姿を映す鏡なのかもしれない。

旅先で味わいたい!欧州のB級グルメ図鑑

編集部が厳選した欧州9 カ国のB 級グルメを、その特徴や背景とともにご紹介。路上や市場のカウンターで手渡される一皿こそが、旅の記憶に深く刻まれることも。高級レストランでは出会えない、その土地ならではの味を楽しんで!

参考:National Federation of Fish Friers、BBC「Why are Cornish pasties still so popular?」、So Dutchie「Why do Dutch people eat raw herring… and love it?」、Belga News Agency「Belgian inventions: Frites」、berlin.de「Döner Kebab ist eine Berliner Erfindung」、OÖNachrichten「Wir sind die Erfinder der Original-Käsekrainer」、Culture. pl「Polish Food 101 – Zapiekanka」、Radio Prague International「Utopenec: a Czech pub classic」、HungaryToday「Lángos – The Most Ancient of Hungarian Foods」、Tasting Table「This Spanish Seafood Sandwich」

UK英国 Fish and Chips
フィッシュ&チップス

フィッシュ&チップス

サクサクの衣をまとった白身魚と太めのチップス(フライドポテト)に、塩とモルトビネガーをたっぷり振って食す英国の国民食。19世紀、鉄道網の発達で新鮮な魚が内陸にも届くようになり、産業都市の労働者の間で爆発的に広まった。第2次世界大戦中も配給制の対象外だったため、人々の空腹を満たし続けた。フィッシュ・アンド・チップスの店は今も全英に約1万500軒を数え、その数は英国最大のチェーン店であるグレッグスと比べても約4倍、マクドナルドの約7倍に上る。

UK英国 Cornish Pasty
コーニッシュ・パスティ

コーニッシュ・パスティ

肉とジャガイモ、タマネギ、スウィード(カブの近縁種)をパイ生地で半月形に包んで焼き上げるコーンウォール地方の名物。もとは14世紀に上流階級が食べていたが、18世紀頃から労働者の食卓にも広まり、とりわけ19世紀のスズ鉱山の隆盛とともに坑夫たちの弁当として定着した。素手で持てるよう縁を厚く編み込み、ヒ素で汚れた手が食材に触れないよう持ち手として使ってそのまま捨てたという伝承が残っている。2011年には欧州連合(EU)の地理的表示保護(PGI)を取得。

スペイン国旗スペイン Bocadillo de Calamares
ボカディージョ・デ・カラマレス

ボカディージョ・デ・カラマレス

カリッと揚げたイカのリングをバゲットに挟んだだけの、潔いほどシンプルなマドリード名物。内陸の都市マドリードでイカのフライが一般的になったのは、沿岸部から安価なイカが大量に流通するようになったことが背景にある。マヨール広場周辺のバルに入り、カウンターで注文すれば数分で出てくる気軽さも魅力。レモンをひと絞りするだけで、衣のサクサク感とイカの弾力がパンの柔らかさと絶妙に調和する。昼下がりの生ビールとの相性は抜群だ。

ハンガリー国旗ハンガリーLángos
ラーンゴシュ

ラーンゴシュ

イースト入りの生地を揚げたハンガリーの伝統的なストリート・フード。名前はハンガリー語で「炎」を意味する「ラーング」に由来し、かつてはパン窯の火でフラットブレッドとして焼き上げていた。現代ではサワークリームとすりおろしチーズをたっぷり載せて、揚げたてを食べるスタイルが定番。ブダペストの中央市場や夏のバラトン湖畔の屋台で最も頻繁に出会える。表面はカリッと、中はもちっとした食感で、酸味の効いたクリームとチーズの塩気が絶妙に重なる一枚だ。

フランス国旗フランスFalafel
ファラフェル

ファラフェル

ひよこ豆をすりつぶしてスパイスを加え、カリッと揚げた中東生まれの一品。パリでは、マレ地区のユダヤ人街リュ・デ・ロジエがファラフェルの聖地として知られる。1979年創業の「ラス・デュ・ファラフェル」をはじめとする名店が軒を連ね、行列が絶えない。ピタパンに揚げたてのファラフェル、ナス、キャベツ、フムスを詰め込んだサンドイッチを、通りに立ったまま食べるのがパリ流だ。北アフリカや中東からの移民が育んだこの味は、今やパリを代表するストリートフードの一つ。

ドイツ国旗ドイツCurrywurst
カリーヴルスト

カリーヴルスト

ぶつ切りにした焼きソーセージに甘辛いトマトベースのソースをたっぷりかけ、カレー粉をまぶして紙皿で提供するカリーヴルスト。復興期の労働者たちの間で広まり、いまやドイツ全土で年間8億本以上が消費される国民食である。本場ベルリンでは皮なし(ohne Darm)タイプを小さな木のフォークで突き刺し、カレー粉の山を崩しながらいただく。考案者ヘルタ・ホイヴァーは1959年にソースを「Chillup」として商標登録しているが、発祥の地をめぐっては別の物語もある。

ドイツ国旗ドイツDöner Kebab
ドネルケバブ

ドネルケバブ

1972年、トルコからの労働者であるカディル・ヌルマンが、ベルリン動物園駅前の屋台で回転グリルの肉をパンに挟んで売り出したのが、ドイツ式ドネルケバブの原型とされる。故国の味を手軽に再現したいという移民労働者の思いから生まれ、今やドイツ最大級のファストフードに成長。たっぷりの野菜、ヨーグルト・ソース、そして薄切り肉がフラットブレッドからはみ出すボリューム感がたまらない。深夜の駅前やクラブ帰りにかぶりつくのが、ドイツのナイトライフの定番だ。

オーストリア国旗オーストリアKäsekrainer
ケーゼクライナー

ケーゼクライナー

豚肉のソーセージの中にエメンタールチーズの角切りを忍ばせ、グリルで焼き上げるウィーンの名物。1960年代後半にオーバーエスターライヒ州の料理人らが考案したとされる。かぶりつくと、中からとろりと溶けたチーズが溢れ出す。購入する場所はウィーン市内の路上に点在するソーセージスタンド。この屋台文化自体が2024年にオーストリア・ユネスコ委員会の国内無形文化遺産目録に登録された。溶けたチーズの熱さに顔をしかめながらも、かぶりつく手が止まらない。

オランダ国旗オランダHaring
ハーリング

ハーリング

塩漬けのニシンを街角の屋台でそのまま頬張る、オランダを代表するストリートフード。14世紀に内臓処理と塩蔵の技法が広まり、漁師のウィレム・ボイケルスゾーンが考案したといわれている。保存性を増したニシンは、黄金時代のオランダを支える交易品となった。尾をつまんで頭上に掲げ、上を向いてそのまま口に運ぶのが伝統的な食べ方だが、実際には刻みタマネギとピクルスを添えた一口大の切り身を爪楊枝で食べるのが一般的。白パンに挟んだ「ブローチェ・ハーリング」も人気だ。

ベルギー国旗ベルギーFrites
フリッツ

フリッツ

「フレンチフライ」の名で世界に知られるが、発祥を巡ってベルギーは強い自負を持つ。17世紀、ムーズ川流域で冬場に小魚が獲れず、代わりにジャガイモを揚げたのが始まりとされる。低温でじっくり火を通し、高温で二度目を揚げて外はカリッ、中はホクホクに仕上げるのがベルギー流。街角の「フリチュール」と呼ばれる専門屋台でコーン型の紙袋に盛られ、マヨネーズなどの多彩なディップとともに供される。2014年、このフリッツ屋台文化はベルギー国内の無形文化遺産に。

ポーランド国旗ポーランドZapiekanka
ザピエカンカ

ザピエカンカ

バゲットを縦半分に割り、マッシュルームとチーズを載せて焼き上げ、ケチャップをたっぷりかける「ポーランド式ピザ・トースト」。1970年代、ギェレク政権下でフランスからバゲット製造のライセンスが導入されたことで広まった。とろけたチーズとマッシュルームの旨み、甘酸っぱいケチャップがたまらない。限られた食材で満足感を生んだ社会主義時代の庶民の知恵が詰まった一品で、クラクフ・カジミエシュ地区ノヴィ広場の丸い建物に並ぶ屋台群はその聖地となっている。

B級グルメ「発祥地論争」は終わらない

B級グルメには、しばしば「うちが元祖だ」という発祥地論争がつきまとう。記録が乏しいからこそ土地の誇りと物語が絡み合い、真相はいっそう味わい深くなる。

英国のフィッシュ・アンド・チップスは、そもそも別々の文化から生まれた二つの食べ物だ。フライドフィッシュは16 世紀にユダヤ系移民がロンドンに持ち込み、チップスは産業革命期のイングランド北部で労働者の腹を満たしていた。この二つを一皿に合わせたのは誰かというと、1860年頃にロンドンのイーストエンドで店を開いたジョセフ・マリンと、1863年にランカシャーのモスリーで売り始めたジョン・リーズの二人が名乗りを上げているが、決定的な証拠はいまだない。

ドイツのカリーヴルストはさらに入り組んでいる。1949年にベルリンの屋台でヘルタ・ホイヴァーがカレー粉入りソースを考案したとされるが、ハンブルクの作家ウーヴェ・ティムは「194 7 年に子どもの頃、ハンブルクで食べた」と主張し、自身の小説にも登場させた。さらにルール地方も炭鉱労働者のソウルフードだと譲らない。ベルリンには記念プレートが、ハンブルクには架空の発明者を称える銘板が、ルール地方には地元愛を歌った一曲があり、この論争の決着は見えそうにない。とはいえ、こうした正解のない論争が続くのは、それだけ多くの街がこの味を愛している証拠にほかならないだろう。

 
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