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Wed, 01 April 2026

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イギリス新連立政権が緊急予算を発表

緊縮財政で巨額の赤字解消目指す
新連立政権が緊急予算を発表

予算発表5月の総選挙前、保守党は、政権を取った暁には、財政赤字解消と経済再建のため、今年中に大幅な公共支出削減を実施すると述べていた。同党が自由民主党と組んで誕生させた新連立政権はこのほど、緊急予算を発表し、公約通り緊縮財政に踏み切るべく、一連の政策を発表。今回は、その内容について解説する。


新連立政権による緊急予算の内容(一部)
2010年6月22日発表

 税

  • 2011年1月4日より、付加価値税(VAT)を現行の17.5%から20%に引き上げる。
  • 2011年4月より、所得税基礎控除額を、現行の6475ポンド(約86万円)から1000ポンド(約13万円)引き上げ、7475ポンド(約99万円)とする。
  • イングランドの全地域で2011年度、カウンシル・タックスの税率を凍結する。
  • 2010年6月23日より、高所得者を対象に、キャピタル・ゲイン税の税率を現行の18%から28%に引き上げる。

 福祉手当

  • 2011年4月より、年収が4万ポンド(約532万円)を超える世帯に対する税額控除制度(Tax Credit)の適用範囲を制限する。
  • 児童手当の支給額を2011年度より3年間凍結する。
  • 2011年度の児童税控除制度(Child Tax Credit)による手当支給額は、物価上昇率と連動させて増額後、更に子供一人当たり年間150ポンド(約2万円)上乗せした金額とする。2012年度は同様に年間60ポンド(約8000円)上乗せする。
  • 2011年4月より、住宅手当支給額に上限を設定する。4寝室以上の住宅は週400ポンド(約5万3200円)まで、3寝室の住宅は同340ポンド(約4万5220円)まで、2寝室の住宅は同290ポンド(約3万8570円)まで、1寝室の住宅は同250ポンド(約3万3250円)までとする。
  • 2013年4月より、求職者手当(Jobseekers' Allowance)受給者に支給される住宅手当は、求職者手当支給開始から12カ月以降、当初支給額より1割カットする。
  • 妊娠後期の妊婦を対象とした「妊娠期における健康促進手当(Health in Pregnancy Grant)」を2011年1月より廃止する。
  • 2011年4月より、低所得者の妊婦、または低所得者の妻である妊婦などに支給される「シュア・スタート出産補助金(Sure Start Maternity Grants)」の支給を、第一子の出産 時のみに限定する。
  • 子供を持つシングル・ペアレントの就労を奨励するため、2012年度より、これらの者は、子供が5歳以上になった時点で、「所得支援手当(Income Support)」の受給対象から外し、「求職者手当」の対象者とする。
  • 2011年4月より、福祉手当支給額及び税控除制度による手当支給額は、小売物価指数(RPI)ではなく、消費者物価指数(CPI)の上昇率に応じて引き上げる。

 公共部門職員の給与

  • 2011〜2012年度の2年間にわたり、年間給与が2万1000ポンド(約279万円)を超える公共部門の全職員の給与額を凍結する。
  • ただし、年間給与2万1000ポンド以下の職員の給与については、両年度とも、一律に年250ポンド(約3万3250円)の引き上げを行う。

 公的年金

  • 2011年4月より、公的年金支給額は、(1)平均所得の上昇率、(2)消費者物価指数(CPI)の上昇率のいずれかの最も高い数値に沿って引き上げる。いずれの数字も2.5%を下回った場合は、2.5%引き上げる。

 産業

  • 2011年4月より、雇用者に国民保険料(National Insurance)の支払い義務が発生する被雇用者の給与額の下限を引き上げる。
  • 2011年度より、法人税を現行の28%から27%へ引き下げる。その後、2014年度まで毎年1%引き下げる。
  • 2011年度より、小規模企業に対する法人税を20%に引き下げる。

 銀行

  • 2011年1月より銀行特別税を導入する。詳細は今年中に発表する。

 経済成長率等

 
英国の経済成長率見通し
失業率見通し
2010年
1.2%
8.1%
2011年
2.3%
8.0%
2012年
2.8%
7.6%
2013年
2.9%
7.0%
2014年
2.7%
6.5%
2015年
2.7%
6.1%

 政府債務

 
公的部門純債務の
GDP比見通し
公的部門純借入額の
見通し
2010年度
61.9%
1490億ポンド
2011年度
67.2%
1160億ポンド
2012年度
69.8%
890億ポンド
2013年度
70.3%
600億ポンド
2014年度
69.4%
370億ポンド
2015年度
67.4%
200億ポンド

 公的支出

  • 保健・医療及び海外援助の分野を除く政府全省の予算をおよそ25%削減する可能性がある(詳細は10月発表の「支出見直し(Spending Review)」で明らかにする)

VAT引き上げ、住宅手当に上限など

オズボーン財務相は6月22日、緊急予算を発表した。5月に発足した新連立政権による初の予算である。主な内容は、付加価値税(VAT)を現行の17.5%から20%に引き上げるなど。福祉手当については、児童手当の支給額を2011年度より3年間凍結する。住宅手当は、寝室の数を単位として上限を設ける(これまでは上限がなかった)。更に、来年4月より、年収が4万ポンド(約532万円)を超える世帯に対する税額控除制度の適用範囲を制限する。また、年間給与が2万1000ポンド(約279万円)を超える公共部門の全職員の給与額を2年間にわたり凍結する。更に、保健・医療及び海外援助の分野を除く政府の全省の予算が、今後4年間、約25%削減される可能性があると記している。

「不可避」の予算に非難

同相は、予算発表の際、これらの緊縮財政の方針について、英国が抱える巨額の財政赤字を解消するために「不可避」の措置であると述べた。先月の国立統計局(ONS)の発表によると、今年5月末時点での政府の純債務の総額は、国内総生産(GDP)の62.2%にあたる9030億ポンド(約120兆990億円)にも上っている。また、連立政権が5月に新設した独立機関「予算責任局(OBR)」は6月中旬、今年度の政府借入額が1550億ポンド(約20兆6150億円)に達するとの見込みを発表している。同相によると、政府は、次の総選挙までに構造的財政赤字をゼロにし、英国経済への信頼を回復すると共に、経済再建を図りたい意向だという。

しかし、野党労働党や労働組合などからは、政府の方針に対し、一般庶民の家計を圧迫するばかりか、大量の失業者を生み、英国の経済再建を妨げるとの批判が出ている。VAT引き上げが人々の生活費を押し上げることは言うまでもないが、例えば住宅手当の上限設定については、特にロンドンなどの家賃が高い大都市で、家賃を払えずホームレス化する人を増やすと警告する声もある。また、緊急予算発表の約1週間後には、OBRが、政府の公共支出削減策の影響で、今後6年間で、公共部門で60万もの雇用が失われるとの予測を発表している。

10月に各省の予算削減規模発表

しかし、話はこれだけでは終わらない。政府は今年10月、「支出見直し(Spending Review)」を発表し、政府各省の予算の削減規模を明らかにする。前述の通り、緊急予算には、「各省予算が約25%削減される可能性がある」としか記されていなかったが、省の予算削減規模についての最終的な決定内容を明らかにするのが、10月に発表されるこの文書なのである。最近の報道によると、政府は現在、各省に対し、「25%減」及び「40%減」の2つの予算削減案を提出するよう指示しているらしく、大幅な行政費用削減が行われることは間違いないようだ。

「戦後最大」と言われる大幅な公共支出削減の影響は、英国在住者なら誰しも免れ得ない。オズボーン財務相が言うように、国民が「痛み」を被る代わりに、本当に英国に経済再建がもたらされることを願ってやまないが、さて現政権が任期を全うする頃、英国経済はどのような状態に置かれているのだろうか。

Value Added Tax (VAT)

間接税の一種。日本の消費税に近い。課税対象の商品、サービスを提供する企業で、売上高が年間6万8000ポンド(約904万円)を超える企業は、すべてVAT登録を義務付けられている。VATの税率には、標準税率(17.5%)、軽減税率(5%)、ゼロ税率の3段階がある。2011年1月から20%に引き上げられるのは標準税率。ゼロ税率(VAT非課税)の商品とは、食品(外食を除く)、書籍、雑誌、新聞、子供用衣類・靴など。軽減税率は、光熱費などに適用されている。他の欧州諸国のVAT税率は、ドイツが19%、フランスが19.6%など。

(猫)

 

泥沼化するアフガニスタン情勢

英国と国際社会が向き合うジレンマ
泥沼化するアフガニスタン情勢

いまだ出口の見えないアフガニスタン情勢に憤りを感じ始めた国際社会とアフガン政権は、これまでの軍事的解決からイスラム過激派勢力「タリバン」との和解政策へと方向転換し、問題解決の糸口を探り始めた。しかし、アフガン社会に蔓延する汚職体質は根深く、内政改革を約束するカルザイ政権の統治能力は依然として未知数のままである。


アフガニスタン情勢地図

主な各国兵力とその配置
1 Harrods米国 7万8430人
2 Harrods英国 9500人
3 Harrodsドイツ 4350人
4 Harrodsフランス 3750人
5 Harrodsイタリア 3300人
6 Harrodsカナダ 2830人
7 Harrods日本
今後5年間で最大5億ドル(約450億円)の資金援助を表明
0人
8 Harrodsロシア
ISAF(国際治安支援部隊)への後方支援、軍事輸送支援、諜報活動支援等を実施
0人
ケシの生産量
HarrodsHarrodsHarrodsHarrodsHarrods 非常に多い
HarrodsHarrodsHarrodsHarrods 多い
HarrodsHarrodsHarrods ほどほどである
HarrodsHarrods 少ない
Harrods 非常に少ない
全くない


アフガニスタンとイラクにおける多国籍軍兵士死亡数

イラク
米国 英国 その他
2003 486 53 41 580
2004 849 22 35 906
2005 846 23 28 897
2006 822 29 21 872
2007 904 47 10 961
2008 314 4 4 322
2009 149 1 0 150
2010 39 0 0 39
Total 4409 179 139 4727
アフガニスタン
米国 英国 その他
2001 12 0 0 12
2002 49 3 17 69
2003 48 0 9 57
2004 52 1 7 60
2005 99 1 31 131
2006 98 39 54 191
2007 117 42 73 232
2008 155 51 89 295
2009 317 108 96 521
2010 200 64 58 322
Total 1147 309 434 1890

Sources: Iraq Coalition Casuality Count


アフガニスタン近現代史年表

1979年 旧ソ連軍がアフガニスタンへ侵攻
1986年 旧ソ連対策として、米国がムジャーヒディーン(イスラム戦士)への支援を開始
1998年 旧ソ連軍がアフガニスタンから撤退
1994年 ムジャーヒディーン内部の派閥争いで、パシュトゥー族で形成されるタリバン勢力が台頭
1996年 タリバンが首都カブールを制圧
1999年 国連がタリバンに対し、アルカイダ指導者ビン・ラディン容疑者の引渡し要求、国際線の乗り入れ禁止、及び金融制裁を実施
2001年
1月
国連がタリバンに対し再度ビン・ラディン容疑者の引渡しを要求
10月
米軍主導の多国籍軍によるアフガニスタン侵攻が開始
12月
多国籍軍によるカブール制圧により、タリバン政権が事実上解体
同月、ハーミド・カルザイ氏が暫定行政機構議長に就任
2002年 カルザイ氏がアフガニスタン・イスラム移行政権大統領に就任
2004年 アフガニスタン・イスラム共和国カルザイ初代大統領就任
2006年 NATO軍が南部における軍事行動の統括を担当
2007年 アフガニスタンにおけるケシの生産量が過去最大を記録
2008年 タリバンのメンバー約350人が南部カンダハールの収容所から逃走
2009年
2月
米兵増派を受け、NATO加盟国20カ国が増派を決定
9月
マクリスタル元司令官が、増派がなければ多国籍軍は1年以内に敗北する旨を明言
11月
カルザイ大統領再選
12月
オバマ米大統領が米軍増派(総計10万人)、及び同軍撤退日程等を発表。同月、CIAのダブル・スパイが米軍基地で自爆テロを実行
2010年
1月
各国閣僚級「アフガニスタンに関するロンドン国際会議」開催
2月
駐留米軍等は南西部ヘルマンド州において最大規模 の軍事作戦「Operation Mushtarak」を実施
6月
主要都市カンダハールにおいて「和平ジルガ」が開催 され、アフガニスタン全土の各階層代表等約1600 名が参加。同月、ペトレイアス米中央軍司令官が ISAF兼アフガニスタン駐留米軍司令官に就任
7月
各国閣僚級「カブール国際会議」開催(予定)

終わったはずのアフガニスタン侵攻

本年5月末、アフガニスタン南西部のヘルマンド州に、駐留英軍兵士に紛れて迷彩服に身を包むサッカーの元イングランド代表デービッド・ベッカム選手の姿があった。イスラム過激派勢力「タリバン」の主要拠点の一つである同州で、戦闘が激化する夏を迎える前に、英軍兵士は同選手との束の間の余暇を楽しんだ。  

2001年10月のアフガニスタン侵攻は、同年末、米軍によるタリバンの制圧とカルザイ暫定政府の成立と共に終焉したはずだった。しかし08年7月、米軍当局は、「イラクのアルカイダにリクルートされた外国人戦闘員が、アフガニスタンへ流れている」とし治安の悪化を示唆。そして本年5月、駐留アフガニスタン米軍兵力(9万4000人)が、遂に駐留イラク米軍兵力(9万2000人)を上回り、オバマ米大統領は、「イラク戦争が終焉しつつある中、我々はアフガニスタンに向かっている」と述べた。

カルザイ政権とタリバンの復活

アフガニスタン情勢悪化の背景には、カルザイ政権の国家統治機能の欠如がある。昨年11月、再選を果たしたカルザイ大統領は、自身の就任演説で「まず汚職の対策を推し進める」とし、ガバナンス改革等を誓約した。しかし、これまで繰り広げられてきた政界有力者の不法行為は、アフガン社会全体に汚職体質を蔓延させた。また、一向に改善されない失業率と貧困は、国民とタリバンの距離を縮めさせ、更にはタリバンの復活を許すに至った。  

現在、アフガニスタンにいるタリバン兵士の数は約2万から3万人とも言われるが、アルカイダ的なイスラム原理主義を提唱する者はごく一部の指導者レベルであり、多くの兵士は、むしろ経済的理由や反米感情等により加わったとされる。  

また、ヘロインの原料となるケシ栽培が盛んなアフガニスタンでは、犯罪組織化した「タリバン」と「農民」の間の癒着も問題の一つとなっている。農作物に比して収益が高く、生産が容易であるケシ栽培をタリバンは援護し、その収益で武器を調達し、新たな兵士を雇い、その家族を養う。農民は「タリバン」の保護下でケシを栽培し、飢えをしのぐという一種の社会システムが確立しているという。

泥沼化するアフガン情勢と国際社会

6月末にカナダで開催されたG8サミットにおいても、アフガニスタン支援は主要議題の一つだった。その半面、キャメロン英首相が「(次期選挙開催予定の)15年まで英軍がアフガニスタンに駐留することは出来ない」と明言するなど、兵力の疲弊を懸念し自国兵士の早期撤退を望む各国首脳の意向も見え隠れした。キャメロン首相は、英軍の撤退日程については言及を避けたが、11年7月の米軍撤退開始の時期と並行させる可能性が高い。

当の米軍は、同月、オバマ政権のアフガン政策を侮辱したとして、マクリスタル駐留米軍司令官が更迭される事態が発生。オバマ米大統領は、今般の司令官交代によるアフガン政策への影響や変化はない旨を強調しているが、軍事的解決に限界を感じ始めた国際社会は、タリバンとの「和解と再統合」に向けて、慎重な姿勢を取り始めた。

Taliban

タリバン。語源は、アラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻以降継続していた内戦の中で生まれた学生運動を起源とし、イスラム教の神学校「マドラサ」に通う生徒たちを中心にして94年に発足した。当初はパキスタンの諜報機関「ISI」、サウジアラビア、米国等から資金・軍事面で支援を受けていたとされる。96年〜2001年、タリバン政権は、音楽を始めとする娯楽禁止や女性の教育禁止等、過激主義に基づく政策を実施。01年3月、バーミヤン遺跡爆破は、国際社会によるタリバン非難を高める結果となった。

(吉田智賀子)

 

高級デパート「ハロッズ」が売却

カタールの政府系投資会社が新オーナー
高級デパート「ハロッズ」が売却

緑色の手提げバッグやテディベアの縫いぐるみなどの定番商品でおなじみの老舗高級デパート、ハロッズ。品揃えはもちろん、豪華な店構えや内装で海外からの観光客にも人気が高く、店内はいつも賑わっている。今回は、英国を代表する小売店の一つである同店の売却のニュースについて取り上げる。

Harrods

数字で見るハロッズ

・9万平方メートル 売り場面積
・330 売り場総数
・1500万人 1年間の来店客数
・最高30万人 繁忙期の1日の来店客数
・5000人以上 現在の店員数
・2人 1849年に現在の場所に開店した当時の店員数
(ほかに使い走りを1人雇っていた)
・28店 ハロッズに入っているレストランの数
・6億1500万ポンド アル・ファイド家が1985年にハロッズを所有する「ハウス・オブ・フレイザー」を買収した際の買収額
・15億ポンド アル・ファイド氏が2010年5月、カタール・ホールディングにハロッズを売却した際の売却額

ハロッズの歴史

1834年 チャールズ・ヘンリー・ハロッド氏が、ロンドンのイースト・エンドで、特に紅茶に重点を置いた食品卸売業を開業する。 チャールズ・ヘンリー・ハロッド
チャールズ・ヘンリー・ハロッド氏
1849年 ロンドン西部ナイツブリッジの、現在のハロッズの店舗がある場所で、ハロッド氏が紅茶と食品雑貨の小売店を開店する。
1861年 チャールズ・ヘンリー・ハロッド氏の息子であるチャールズ・ディグビー・ハロッド氏が店を継ぐ。
1883年 火災で店舗を焼失。その後、建て直しを行い、現在も残る豪華絢爛な店舗を完成させる。
1889年 「ハロッズ・ストア・リミテッド」の社名でロンドン証券取引所に株を上場。
1893年 ハロッズ銀行を設立。
1897年 不動産会社「ハロッズ・エステート」を設立。
1898年 世界初のエスカレーターを店内に設置。
1913年 王室御用達店に指定される。
1914年 アルゼンチン・ブエノスアイレスに出店。これまでで唯一の海外支店である(同店は、1960年代にハロッズ・グループを離脱したが、同国ではまだハロッズの名を使って営業している)。
1959年 大手小売グループ「ハウス・オブ・フレイザー」がハロッズを買収。
1985年 エジプト人実業家、モハメド・アル・ファイド氏とその家族が「ハウス・オブ・フレイザー」を買収。モハメド・アル・ファイド氏は会長に就任し、3億ポンドを投入してハロッズの改修を行う。 モハメド・アル・ファイド
モハメド・アル・ファイド氏
1983年 北アイルランドのカトリック系テロ組織「アイルランド共和軍(IRA)」による爆弾事件がハロッズの店舗外で発生。6人死亡、75人が負傷。
1989年 来店客のドレス・コードを導入。サンダル履き、半ズボン着用などでの入店を禁止する。
1994年 アル・ファイド家が、ハロッズを除いた「ハウス・オブ・フレイザー」グループのすべての株を再上場することにより手放す。
2006年 本店の向かいに「ハロッズ102」が開店。回転寿司店「Yo! Sushi」、ドーナツ店「クリスピー・クリーム」などが入っている。
2010年 カタールの政府系投資会社「カタール・ホールディング」がハロッズを買収。

ハロッズ

売却額は推定約2000億円

ロンドンのナイツブリッジにある高級デパート「ハロッズ」が、中東の小国であるカタールの政府系投資会社に売却されたとの ニュースが5月初旬に伝えられた際は、各メディアで大きく取り上げられた。デパートのみならず、不動産会社なども含めた「ハロッズ・グループ」をまとめて売却したものであり、売却額は15億ポンド(約1995億円)相当と伝えられた。同グループのオーナーであるエジプト人のモハメド・アル・ファイド氏には、売却後も名誉会長の地位が与えられるという。

ハロッズは、1834年にチャールズ・ヘンリー・ハロッド氏がロンドン東部で始めた食品卸売業がその前身である。1849年には現在の場所に移り、主に紅茶と食品雑貨の小売店を開業した。その後、火事で店舗を焼失するなどの不運に見舞われながらも急成長を遂げ、1913年には王室御用達店に指定された。モハメド・アル・ファイド氏は、故ダイアナ元皇太子妃と一緒に交通事故死したドディ・アル・ファイド氏の父親であることでも知られており、1985年からオーナーを務めていた。近年は、国内の多くの小売店が不況のあおりを受けて売上不振に悩む中、ポンド安の影響で海外からの買い物客が増え、2008年1月〜12月の収益は過去最高の7億5200万ポンド(約1007億円)に達している。

天然ガス資源背景に潤沢な資金

ハロッズの売却先であるカタールの政府系投資会社とは、同国の政府系ファンドであるカタール投資庁(QIA)傘下のカタール・ホールディングである。報道によると、カタール・ホールディングへの売却は、アル・ファイド氏自身が、ハロッズの長期的成長を支える「ビジョンと財力」を持っているとして、「特別に選んだ」結果であるという。カタールは、豊富な天然ガスと石油資源を背景に近年目覚ましい経済成長を遂げており、潤沢な資金を元手に、世界各国で活発に投資を行っている。英国では、バークレイズ銀行、ロンドン証券取引所、大手スーパーマーケット「セインズベリーズ」の親会社などの株を所有しているほか、ロンドン西部チェルシーの元英軍兵舎、ロンドン中心部の米大使館の建物を買い取るなどしている。今後は、南米や極東、アジアにも投資先を拡大する見込みであり、米国の不動産サービス提供会社が最近発表した報告書では、同国は今年、世界最大の海外不動産への投資主になると予測されている。

中国・上海に出店か

ハロッズの今後について、カタール・ホールディングは、中国・上海での出店を検討していると言われる。ハロッズは、過去にアルゼンチンのブエノスアイレスに出店した以外、これまで海外展開はしていない。また、高級品のオンライン・ストアを新たに立ち上げるほか、既存のロンドン店も売り場面積拡大のため、改装を検討している。

創業百数十年にして、新たな変化を遂げるハロッズ。アル・ファイド氏の広報担当官によると、同氏は今後も、これまで自らが築き上げてきた遺産と伝統が守られることを願っているという。英国を代表する老舗の今後の展開が楽しみである。

Qatar Investment Authority(QIA)

アラビア半島東部に位置する首長国、カタールの政府系ファンド。同政府が、天然ガス、石油からの収益を運営する目的で2005年に設置した。カタールの首相であるハマド・ビン・ジャーシム氏が最高責任者兼会長を務める。財務情報は明らかにされていないが、2007年に米紙に掲載された記事では、資金額は600億ドル(約5兆4402億円)と記されていた。最近は、米銀大手シティグループ株の購入に関心を示していると伝えられている。また08〜09年には、イングランド北部リバプールのサッカー・チーム、エバートンを買収するとのうわさもあった。

(猫)

 

英国の旧植民地、南アフリカとは

W杯開催で新たな注目
英国の旧植民地、南アフリカとは

国際サッカー連盟(FIFA)が主催する、サッカーの世界選手権ワールド・カップが南アフリカ共和国で開催中だ。長年、アパルトヘイト(人種隔離)政策で国が二分されていた南アフリカだが、90年代に隔離政策は終結。アフリカ大陸初のW杯開催を機会に、国際社会へと同国の発展ぶりをアピールしようとしている。

南アフリカ共和国地図

南アフリカとは

公用語 アフリカーンス語、英語、バンツー諸語(ズールー語、ソト語他)など11言語
首都 プレトリア
最大の都市 ヨハネスブルグ
人口 約4900万人
人種構成 黒人79%、白人9.6%、カラード(混血)8.9%、アジア系2.5%
面積 122万平方キロメートル(日本の約3.2倍)
宗教 キリスト教(人口の約80%)、ヒンズー教、イスラム教
通貨 ランド(Rand)(1ランドは約12円)
国内総生産
(GDP)
2767億ドル(約2兆5400億円、2008年IMF調べ)
失業率 22.9%(2008年)
主な貿易品目 輸出 金、希金属、鉱物製品、化学製品、食品、繊維製品、ダイヤ
輸入 機械、自動車類、化学製品、科学機器、繊維製品、プラスチック、ゴム

南アフリカの英雄たち

ジェイコブ・ズマ(南アフリカ共和国大統領)
ズマ2009年5月から現職。アフリカ民族会議(ANC)議長。68歳。ズールー人。小学校を中退し、15歳から働く。ANCの活動家となって、1963年、逮捕・投獄された。釈放後、スワジランド、モザンビーク、ザンビアで反政府活動を続ける。暴力による対立を終わらせることに尽力し、ANCの副議長に就任後、副大統領へ。2005年に汚職疑惑で同職を罷免されたが、無罪判決となり、07年よりANCの議長に就任。汚職疑惑、レイプ疑惑(無罪判決)などにも関わらず、大統領の地位に上り詰めた。

ネルソン・マンデラ
反アパルトヘイト運動の闘士ともいえる人物。91歳。南東部トランスカイ共和国(現在は南アフリカの一部)近郊で、テンブ人の首長であった父の下に生まれる。大学在学中にANCに入党し、反アパルトヘイト運動に参加。1952年、ANC副議長に。62年に逮捕され、64年、国家反逆罪で終身刑を宣告される。90年に釈放。91年、ANC議長に就任し、デクラーク政権と協力して、アパルトヘイト政策解消に向けて尽力。93年にノーベル平和賞を受賞。94年に大統領就任、99年政界引退。ユネスコ親善大使。

デズモンド・ムピロ・ツツ
デズモンド・ツツ南アフリカにおける聖公会のケープ・タウン名誉大主教であり、平和活動家。78歳。ヨハネスブルグの西クレルクスドルプで生まれる。大学卒業後、教師の職を得たが、神学を学ぶように。1961年に司祭になり、62〜66年、ロンドン大学キングス・カレッジで神学を学ぶ。アパルトヘイト撤廃運動を熱心に行い、後に差別を受けた黒人の人権侵害を調査する「真実和解委員会」の委員長を務めた。様々な人種が国家を形成する「レインボー・ネーション」(虹の国、7色の国)という言葉を広めた人物としても知られる。84年にはノーベル平和賞を受賞。

フレデリック・ウィレム・ デクラーク
デクラークネルソン・マンデラと並ぶ、アパルトヘイト廃止の立役者。74歳。1936年、ヨハネスブルグにて、政治家を父とする家庭に生まれる。72年、国民党から国会議員に。郵政相、内相を歴任後、89年に大統領に。それまでの政治路線を変更し、民主化政策に大きく梶を切った。違法とされていたANC、パン・アフリカニスト会議、共産党などの政治活動を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放。アパルトヘイト関連法を全廃させた。93年にノーベル平和賞を受賞。97年、政界を引退。

南アフリカの主な歴史(中世以降)

1480年代 ポルトガル人航海士バルトロメウ・ディアスが、同国南部の岬、喜望峰に到達
1652年 オランダ東インド会社がケープ植民地を設立する。以降、オランダ移民が増える
1795年 英国がオランダからケープ植民地を奪う。1803年にオランダに戻されたが、1814年には正式に英領に。英語が公用語化される
1879年 ズールー戦争が勃発(英国対ズールー王国)
1880年 第1次アングロ=ボーア戦争 (英国対トランスバール共和国*)
1899年 第2次アングロ=ボーア戦争(英国対オレンジ自由国**、トランスバール共和国)
1910年 南アフリカ連邦が設立
1911年 最初の人種差別法(鉱山・労働法)が成立
1936年 選挙人名簿から黒人有権者を除外する、原住民代表法が制定される
1948年 国民党政権がアパルトヘイト政策を進める
1949年 異人種間の結婚が禁止に
1950年 すべての人種を肌の色で分けて登録する、人民登録法が制定される
1960年 黒人に身分証の携帯を義務付けた法への反対者が殺害された、シャープビル虐殺事件が発生
1961年 英連邦から脱退し、共和制へ。南アフリカ共和国が設立
1962年 国連が、南アフリカの人種差別政策を監視する特別委員会を設置。ネルソン・マンデラ氏に、密出入国と煽動の罪で5年の懲役刑が下される
1970〜80年代 反アパルトヘイト運動が国内外で高まる
1990年 デクラーク大統領がマンデラを釈放
1991年 アパルトヘイト関連法が廃止に
1994年4月 初の全人種参加型となる総選挙を実施
1994年5月 マンデラ政権が成立
1995年11月 全人種参加の地方選挙を実施
1997年2月 新憲法が発布される
1999年6月 総選挙が実施され、ムベキ大統領が就任
2004年4月 総選挙を経て、ムベキ大統領が再任
2008年9月 ムベキ大統領が辞任。代わって、モトランテ大統領が就任する
2009年4月 総選挙を実施
2009年5月 ズマ大統領が就任
2010年6〜7月 W杯が開催される

(注:*、**ともにオランダ系白人のボーア人たちが作った国)


英国の旧植民地としての歴史

19世紀から英領の一部となり、1961年までは英連邦の一部であった南アフリカ共和国と、英国とのつながりは深い。だが、一時は南アフリカの代名詞となっていた「アパルトヘイト(関連キーワード参照)」に象徴される白人対非白人の対立が生まれたのは、そもそも17世紀にオランダがケープ植民地を設立したことに端を発する。以後、オランダから白人移民が流入。その後オランダとの統治権をめぐる戦いを英国が制すると、今度は英国からの移民が増加した。やがて、オランダ系移民を中心とするボーア人(またはアフリカーナー)たちと英国との戦い(ズールー戦争、第1次、2次ボーア戦争)において、英国が勝利を収める。そして、英自治領南アフリカ連邦が発足した。

その後、人口比では少数派の白人住民が圧倒的多数派の黒人住民を支配するという社会形態が定着する。アフリカーナー政党の国民党が48年以降に政権を取得し、差別の制度化が進んだ。公共施設は白人と白人以外の使用が区別され、人種ごとに住む地域が分けられた。人種の違う異性同士が、恋愛関係を結んだ際の罰則を示した法律もあったという。

しかし、80年代以降、アパルトヘイト政策は内外の大非難を浴びるようになり、他国から貿易禁止などの形で経済制裁も受けるようになった。大きな転換期となったのは、91年にデクラーク大統領が差別撤廃を打ち出してから。この後、反アパルトヘイト運動の闘士で獄中にいたネルソン・マンデラ氏が釈放された。94年には全人種参加による初めての総選挙が行われ、初代大統領にそのマンデラ氏が着任した。

アパルトヘイト廃止後の南アフリカ

しかし、これで一件落着となったわけではない。確かに、南アフリカにおける一人当たりのGDPは約1万ドル(2008年)で、アフリカ大陸の国の中では7番目に大きな経済へと成長した。しかし、有色人種と白人の間にはいまだ大きな収入差があり、40%強の住民が1日2ドル相当の収入で暮らしているというのが現状だ(「エコノミスト」調べ)。また世界におけるプラチナの備蓄量の90%、マンガンの80%、クロムの70%を国内に抱え、豊富な鉱山資源を持つ恵まれた国であると同時に、犯罪発生率の高さ、エイズ感染者数の多さではいずれも世界で最高という不名誉な記録も目立つ。そうした両極端の側面を持つのが、南アフリカという国なのだ。

W杯は南アフリカを変えるのか

1994年以前までは、農地の87%を白人住民が所有していた。政府は今後5年以内に、その30%を黒人住民に分け与える政策の実施を予定している。現在までに明け渡されたのはまだわずか6%ほどだが、白人住民からすれば、自分たちの持ち場がどんどん奪われてゆく思いがするような状況だ。

去る4月には、白人至上主義団体の指導者が殺害される事件が起きた。同氏はアパルトヘイト維持を提唱する団体「アフリカーナー抵抗運動」(AWB)の創設者であった。こうした事件は、人種差別の傷跡の深さを思い起こさせる。W杯開催によって、本当に南アフリカの国際的地位を上げることができるのか、未知数な部分も少なくないというのが現実的な見方となるだろう。

Apartheid

アパルトヘイト。アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する。南アフリカ共和国で白人(全人口の約10%)が非白人(黒人、アジア系住民、カラードと呼ばれる混血民)との諸関係を差別的に規定した人種隔離政策。非白人の参政権のはく奪に関する法、白人の入植・定着を助ける土地関係法、白人地域でのアフリカ人の移動・居住を制限する法、職場で白人を保護する労働関係法、人種別教育に関する法、非白人の反対運動を取り締まる治安関係法などがある。これらの政策がすべて解消された1993年まで、南アフリカでは国家的な人種差別が続いた。

(小林恭子)

 

おとり取材で元夫の王子を「売った」
波乱続きの人生、セーラ元妃とは

常に国内外から注目の的であり続けている英国王室。ひところに比べ、スキャンダルの報道は少なくなったように思われるが、最近、王子の元妻がタブロイド紙のおとり取材に引っかかり、一騒動を巻き起こした。しかし、彼女が新聞の紙面を賑わせたのは今回が初めてではなく、これまでにもしばしば醜聞を流していた。

英国王室家系図

セーラ・ファーガソンさん経歴

1959年10月15日、ロンドンに生まれる。現在50歳。父は英陸軍少佐だった。父方の家系は、スチュアート朝のチャールズ2世の私生児の子孫。両親は1972年に離婚し、母親は再婚相手と共にアルゼンチンに移住したが、セーラさんは父のもとに残った。

18歳で秘書学校を卒業後、PR会社、アート・ギャラリー、出版社などで働く。アンドリュー王子とは子供の頃から知り合いだったが、1985年、友人だったダイアナ皇太子妃(当時)に招待され、ウィンザー城で開かれたパーティーに出席したことがきっかけで恋愛関係に発展し、1986年に結婚。結婚と共に、「ヨーク公爵夫人(Duchess of York)」の称号を得る。1988年に長女ベアトリス王女、1990年に次女ユージェニー王女をもうけるも、夫婦は1992年に別居、1996年に離婚した。特にフィリップ殿下(エリザベス女王の夫)などの王室メンバーは、セーラさんの粗野な振る舞いを嫌っていたと言われ、女王の元私設秘書が、セーラさんを評して「下品、下品、下品(vulgar, vulgar, vulgar)」と述べたというのは有名な話である。

離婚後、主に米国で、講演や執筆活動、テレビ出演などの活動を精力的に行う。王子との別居前から執筆していた児童書の「ヘリコプターのバッジー(Budge the Little Helicopter)」シリーズは人気を集め、英米でテレビ化もされた。また、子供のための慈善団体を設置するなど、チャリティー活動に熱心であることでも知られている。

アンドリュー王子とは離婚時から現在まで良好な関係を保っており、2008年以降、同じ邸宅内に住んでいる(ただし生活は全く別々であるという)。2人の娘とも仲が良く、娘と一緒に公の場に出ることも珍しくない。

「50万ポンドですべての道が開く」

エリザベス女王の次男、アンドリュー王子の元妻であるセーラ・ファーガソンさん(50)が先月、タブロイド紙のおとり取材に引っかかり、元夫を「売った」とのニュースは、国内外で大きな関心を集めた。セーラさんは、ビジネスマンを装った「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」紙の記者とロンドンの会員制レストランで面会し、アンドリュー王子を紹介する報酬として50万ポンド(約6750万円)を要求。また、前金として現金4万ドル(約540万円)を受領した。

アンドリュー王子は、英国貿易・投資庁の特別大使を務めており、海外から英国への投資促進を目的とした活動を行っている。同紙のウェブサイトでは、セーラさんと記者の密談を隠し撮りしたビデオが公開され、セーラさんが記者に対し、「(50万ポンドを払えば)すべての道が開ける」などと話している様子が明らかにされた。アンドリュー王子は報道後、この件については全く知らないとのコメントを出した。

離婚時に数百万ポンドの借金

セーラさんは、1986年にアンドリュー王子と結婚。当初は、王室に新風を吹き込む存在として歓迎されたが、やがて、浪費癖や贅沢な暮らしぶり、奔放な振る舞いなどがマスコミから批判されるようになった。体重や服装センスなどもタブロイド紙の揶揄の対象になり、更には、アンドリュー王子が海軍勤務で一緒に過ごせる時間が少なかったことが影響してか、男性関係の噂も数多く聞かれた。こうしたことが原因で、夫婦は1992年に別居、1996年に正式に離婚した。

浪費がたたり、セーラさんは離婚時、オーバードラフト(銀行口座の残高を超えた引き出し額)が100万ポンド(約1億3500万円)を超え、それ以外にも数百万ポンドに上る借金があったと言われている。しかし、王室からの離婚慰謝料はわずか年間1万5000ポンド(約202万円)に抑えられたため、セーラさんは以後、借金返済のため、主に米国で様々な活動を行うことになった。テレビ等のメディア出演のほか、執筆活動や講演、更には減量プログラム「ウエイト・ウォッチャーズ」の広告塔なども務め、かなりの成功を収めたが、最近は、「ウエイト・ウォッチャーズ」の契約が終了したことなどが原因で再び経済的に逼迫し、多額の借金を抱えていると言われていた。昨年には、米国に設置していた自身の会社を解散したことが伝えられていた。

自己破産の可能性も明かす

今回の「事件」は、セーラさんのこうした財政的窮状を背景に起きたものであった。セーラさんは今月初旬、この件について釈明すべく、米国で、オプラ・ウィンフリーさんが司会を務めるテレビのトーク番組に出演。不相応に贅沢な生活をしたことで多額の借金ができたなどと語った。離婚以降も良好な関係を保っているアンドリュー王子と2人の娘たちは自分をサポートしてくれていると述べたが、今後は更に困難な道が待ち構えていることを認め、自己破産も考えているとも明かした。王子の妻として、そしてその後も、波乱万丈の人生を送ってきたセーラさんだが、まだしばらくは苦労が続きそうである。

Prince Andrew

エリザベス女王の次男で、セーラ・ファーガソンさんの元夫。ヨーク公爵の称号を持つ。1960年2月19日生まれ、50歳。海軍兵学校で学んだ後、1978年、海軍入隊。1982年に始まったフォークランド紛争でも海軍ヘリコプターのパイロットとして従軍した。現在は、本文で紹介したように、英国貿易・投資庁の特別大使として英国への投資促進のための活動を行っている。若い頃は「プレイボーイ王子」などと呼ばれ、美女好きの遊び人との評判がもっぱらだった。ゴルフ好きで知られており、現在のハンディキャップは「4」と、プロ並みの腕前を持つ。

(猫)

 

イギリス新連立政権と選挙制度改革

英国の歴史に残る政治改革となるか
新連立政権と選挙制度改革

5月に発足した新連立政権は、政治改革の一環として選挙制度の見直しを掲げている。英国議会の歴史上、長年の宿敵同士であった「ホイッグ党派(自由民主党)」と「トーリー党(保守党)」が、今般の政権樹立を機に、連立与党として英国に真の政治改革を導けるか否かが注視されている。


2010年英国総選挙の結果

獲得議席の分布図

獲得議席の分布図

各党の獲得議席数

各党の獲得議席数


異なる選挙制度が実施された場合の予想結果

1単記移譲式投票
Single Transferable Vote (STV)

単記移譲式投票 投票用紙に各選挙区の候補者名が明記されており、有権者は候補者の名前を順位付けする。単記移譲式とは、一般的に「比例代表単記移譲式」のこと。開票に当たり、落選した候補者への票は有権者が表明した選好順位によって残りの候補者に移譲されるため、死票を最小限化する方法とされる。

2代替投票制
Alternative Vote (AV)

Alternative Vote 単記移譲式投票と同様、有権者が候補者の名前に順位付けをして投票する制度。開票に当たり、いずれかの候補者が過半数を占めるまで、当該候補者に対する投票の第2順位以下の票を加算する。その際、最も得票数の少ない候補者は加算の対象から除かれる。

3代替投票制プラス
Alternative Vote plus (AV+)

Alternative Vote plus (AV+)代替投票制と同様の開票システムに加えて、地域レベルで実施される2回目の投票(2回投票制)で、有権者が政党もしくは政党が推薦する候補者を投票する制度。

4比例代表制度
Proportional Representation

Proportional Representation得票率に比例して当選者を決定する制度で、各政党に議席が配分されるため小政党が議席を獲得しやすいとされる。比較的世論を公平に反映できる反面、イデオロギー面等で極端な政党が議席を獲得する可能性があるとされている。


先着順当選制 
First-past-the-post

英国で長年にわたって実施されている選挙制度。相対的最多数を獲得した候補者が、当選する仕組みとなっている。選挙方法は単純で、有権者は投票用紙に記載されている候補者の名前の横に×印をつけるのみ。1832年の第一次選挙法改正で開始されたこの制度は、「多数派支配制度(Majoritarian)」及び「勝者独占制度(Winner takes all)」とも呼ばれる。さらに英国議会では合わせて「小選挙区制」という、各区の議員の定数を1名とする選挙区制度を採用。同制度は多量の死票を生み、多数党に有利になるとされている。

自民党の「連立政権と選挙制度改革」

5月19日、クレッグ自由民主党党首は、副首相就任後の初演説で「(今後実施される選挙制度改革は)選挙権が大幅に拡大された1832年の第一次選挙法改正以来、英国の民主主義制度において最大規模の政治改革になるだろう」とし、選挙制度の見直しに対する確固とした姿勢を示した。自民党は、保守党に提示した連立政権樹立の合意における一つの主要条件として、現在の「単純小選挙区制(「小選挙区・先着順当選制(First-past-the-post)」)を廃止し、得票率に合わせて議席を配分するため中小政党にも勝算がある「中選挙区比例代表制」の導入を挙げていた。

第3党である自民党は、次回の総選挙で第1党の座を目指しており、多数党(保守党、労働党)に有利であるとされる「単純小選挙区制」を廃止する等、選挙制度改革を有用することで、単独一党で過半数の投票数を獲得したいものとみられる。

保守党の「選挙制度の見直しと国民投票」

かかる自民党の主張に対し、キャメロン保守党党首は「より死票を減らす方向での小選挙区制の改正」や「選挙制度改正に当たっての国民投票実施」に合意した。単純小選挙区制を保持したい保守党が、自民党に歩み寄りを見せた主な理由として、財政再建への増税等、国民に負担がかかる歳出抑制の責任を他党と共有しようとする思惑や、国民の間で2大政党制への不満が強まりつつある中、有権者に選挙制度改正の是非を問う国民選挙の実施は避けられないという認識等があったと考えられる。

その結果、政府は5月20日付で発表されたマニフェスト「The Coalition: Our Programme for Government」の政治改革における一項目において、新政権は具体的な選挙制度改革として代替投票制(AV: Alternative Vote)の導入や、選挙区の再編等に関する国民投票を行うことを公約として組み込んでいる。しかし、国民投票の実施は「実施する見通し」としたのみで、明確な日程の記述がない。こうした具体的な詳細が欠如しているのは、いまだ両政党間で妥結に至っていない証左とも解し得る。

選挙制度と政治改革

そもそも、今般の保守・自民連立政権の発足は、本来の各政党が主張する政策・イデオロギーの差異が薄れてきたことを示すものでもあり、また、保守党左派のキャメロン氏と自民党右派のクレッグ氏両者の政策路線は重なるところも少なくないことから、当面、新政権は英国議会本来の「強い政府」を保持する公算が大きい。しかし、中・長期的には、政策等における双方の違いにより連立政権の安定性が脅かされる可能性もある。

また、英国議会制度を見習い、小選挙区・比例代表並立制度を採用した日本は、昨年8月に行われた総選挙で民主党が16年振りに政権交代を実現したが、新政権樹立後8カ月が経過した現在、沖縄県の米軍普天間飛行場移設問題を巡って社民党が連立政権を離脱、ついには鳩山首相の辞任へと発展した。この事象は、政治の迷走を止めるには選挙制度改革だけでは十分でないことを示していると言えるのかもしれない。英国の新連立政権が二の舞を演じないための真の、政治改革が期待される。

Whigs & Tory

「Whigs(ホイッグ党)」は17世紀の英国で形成された政党で、当時の中産階級を代表し、選挙制度・国会・慈善事業等の改革を目指した。一方、反対政党として英国国教徒や地主階級等により形成された「Tory(トーリー党)」は、英国王室と英国国教会の伝統制度や既存特権の維持等を掲げた。1830年頃、ホイッグ党は「自由党」、トーリー党は「保守党」に各々改名し、両党の2大政権は1922年総選挙で労働党が台頭するまで継続。また、1988年、自由党は労働党から離脱した「社会民主党」と合併し「社会自由民主党」を結成、翌89年に「自由民主党」と改名した。

(吉田智賀子)

 

労働党が新党首選挙を実施へ

総選挙敗北、ブラウン前党首の辞任で
労働党が新党首選挙を実施へ

総選挙の敗北を受けたブラウン前党首の辞任表明に伴い、労働党の新党首選がスタートした。前政権で共に大臣を務めていたミリバンド兄弟が揃って候補に名乗りを上げていることなどが既に大きなニュースとなっており、9月の投票結果発表まで、注目を集め続けることは間違いなさそうである。


労働党党首選のルール
立候補希望者は、労働党下院議員の12.5%(現在の議員数をもとに計算すると33名)の推薦を受けなければならない。労働党下院議員が、立候補希望者のうち誰を推薦するかを明らかにする期間は、今回の党首選では5月24日〜6月9日である。従って、6月9日までに33名の議員の推薦を受けることができなかった者は、立候補の資格を失う。33名以上の議員から推薦を受けた立候補者は、6〜7月に選挙キャンペーンを行う。投票期間は8月16日〜9月22日。「労働党下院議員、労働党欧州議会議員」、「労働党員」、「労働組合、社会主義系グループなど労働党加盟組織、労働党の関連組織」の3つのグループにそれぞれ全体の3分の1ずつの票が与えられる。投票の結果は、9月25日に労働党年次総会で発表される。


労働党党首選の立候補予定者プロフィール


David Milibandデービッド・ミリバンド(44)

ロンドン生まれ。両親はポーランド系ユダヤ人で、第二次大戦中、ナチスの迫害を逃れてベルギーから英国に渡った。父親はマルクス主義の研究者として著名な存在だったラルフ・ミリバンド(既に故人)。

オックスフォード大学で哲学・政治・経済学(PPE)を学び、米マサチューセッツ工科大学で政治学の学位を取得。シンクタンクなどで勤務した後、まだ労働党が野党だった1994年から、トニー・ブレア同党党首(当時)の上級アドバイザーを務め、ブレア派の重要人物として見なされるようになった。2001年の総選挙で下院議員に当選。以降、コミュニティー・地方自治担当相、環境・食糧・農村問題相、外務相などを歴任した。

ロンドン交響楽団のバイオリニストの女性と結婚しており、米国から2人の養子を迎えている。


Ed Milibandエド・ミリバンド(40)

デービッド・ミリバンド氏の実弟。兄のデービッドと同様、オックスフォード大学でPPEの学位を取得した後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で経済学を学ぶ。1997年、ゴードン・ブラウン財務相(当時)のアドバイザーに就任。兄がブレア派だったのに対し、弟はブラウン派の道を選んだ。

2005年の総選挙で、イングランド北部ドンカスター市内の選挙区から立候補し、当選。ブラウン政権が誕生した07年6月、内閣府相及びランカスター公領相に任命される。当時兄は既に外務相の職を得ており、兄弟で閣僚入りしたのは過去70年で初のケースだった。08年10月からはエネルギー・気候変動相を務めていた。

弁護士として働くパートナーの女性との間に一男あり。


デービッド・ミリバンド議員、エド・ミリバンド議員については、5月中に既に、33名を超える労働党下院議員からの推薦を受け、立候補の条件を満たしたことを明らかにしている。


ED Ballsエド・ボールズ(43)

ミリバンド兄弟と同じく、オックスフォード大学でPPEの学位を取得。更に米ハーバード大学で学んだ後、「フィナンシャル・タイムズ」紙の経済担当論説委員を務める。1994年、ゴードン・ブラウン影の財務相(当時)の経済担当アドバイザーに就任。これ以降、ブラウン氏の首相辞任まで、同氏に最も近い側近の一人として活躍した。2005年に下院議員に初当選。07年には児童・学校・家族相に任命される。ブラウン派のイメージが強すぎるため、今回の党首選では、前政権からの変化を望む党員らの支持を得にくいとの見方もある。また妻のイベット・クーパー氏(41)も労働党の国会議員。一時は英国初の「閣僚夫婦」として騒がれた。


Andy Burnhamアンディ・バーナム(40)

リバプールの労働者階級の家庭に育つ。80年代半ば、各地で行われていた炭鉱労働者のストに触発されて14歳で労働党に入党。ケンブリッジ大学で英語の学位取得後、テッサ・ジョウェル労働党議員のリサーチャーなどを経て、1998年よりクリス・スミス文化・メディア・スポーツ相(当時)のアドバイザーを務める。2001年に下院議員に初当選。ブレア派であったが、ブラウン政権でも要職を与えられ、2008年1月より文化・メディア・スポーツ相、2009年6月より保健相を務めていた。ミリバンド兄弟などに比べて知名度が低く、政治家としても幅広い経験に欠けるため、党首立候補はまだ早いとの声もある。


Diane Abbottダイアン・アボット(46)

ロンドン出身。両親はジャマイカ系移民。父は溶接工、母は看護士だった。ケンブリッジ大学で歴史を学んだ後、グレーター・ロンドン・カウンシル(GLC)(*)の広報担当官、ロンドン・ランベス区の広報局長などとして勤務。1982年、ロンドン・ウェストミンスター区の区議会議員に当選。87年にロンドン・ハックニー区の選挙区から下院議員選挙に出馬、当選。英国初の黒人女性の国会議員となる。 BBC1で放映中の「ディス・ウィーク」への出演でも知られる。2003年、ブレア首相(当時)が子供を私立学校に通わせていることを批判する一方で、自分の息子も私立校に入学させていたことが発覚し、批判を浴びたことがある。

(*)グレーター・ロンドン・カウンシル(GLC)とは、1965〜86年まで設置されていたロンドンの広域自治体。


John Mcdonnellジョン・マクドネル(58)

労働党左派の代表格であり、最近まで、同党の左派下院議員のグループである「社会主義キャンペーン・グループ」で会長を務めていた。また現在、労働党の社会主義系グループ「労働代表会議」の会長である。一度就職した後、夜間学校でAレベルを取得し、ブルネル大学及びバークベック大学に進学。ロンドン・カムデン区、ロンドン自治体連合などで勤務後、1980年代には、GLCで副リーダーを務めていたが、リーダーだったケン・リビングストン氏(後のロンドン市長)と衝突したことが原因で同職を離れた。97年より下院議員。2007年の労働党党首選で出馬を試みたものの、議員からの推薦が立候補に必要な数に届かず、断念した。



数カ月にわたる選挙期間

労働党の執行機関である「全国執行委員会(NEC)」は5月18日、同党の党首選挙の日程を発表した。それによると、6、7月に候補者が選挙キャンペーンを行った後、8月中旬から1カ月以上にわたって投票が実施される。投票結果は、9月下旬に開催される労働党の年次総会で明らかにされる。

随分と選挙期間が長いように感じられるかもしれないが、これは、13年ぶりに下野した労働党にとっての新党首選びの重要性を反映していると言えるかもしれない。政党の党首選出において、事を急ぐべきではないことは、過去の教訓が示している。労働党が圧勝し、ブレア政権が誕生した1997年の総選挙後、保守党は、メージャー党首(当時)の後継者選びを急ぎ過ぎ、選挙からわずか6週間後にウィリアム・ヘイグ氏(現在の外務相)が新党首に就任した。しかしヘイグ氏は、期待されたような指導力を発揮できず、同党では、性急な党首選びは間違いであったとの認識が広まった。その後、2001年に続いて2005年の総選挙でも政権復帰を果たせなかった保守党は、今度は党首選のために長期の選挙期間をもうけ、その結果、デービッド・キャメロン氏が新党首に選ばれた。キャメロン氏の選出は、当初の大方の予想を裏切るものだったが、これが保守党の近代化と支持回復、そして今回の選挙での勝利へと繋がったのは、ご存知の通りである。こうした背景もあって、労働党が今回、党首選に数カ月を費やすことは、選挙の敗因と党の将来について十分に議論を行い、候補者を吟味することを可能にする賢明な決断であるとの評価が多いようである。

推薦期間短いとの批判

その一方で、労働党の党首選日程については、知名度の高い議員にしか立候補の機会を与えず、不公平であるとの批判もあった。労働党のルールでは、党首への立候補には、同党の下院議員の12.5%(現在の議員数で計算すると33人)から推薦を受けることが条件となっている。しかし、NECが当初発表していた今回の党首選の日程では、下院議員による立候補者の推薦期間が5月24日から同27日までと非常に短かった。そのため、一部の立候補希望者から、議員の推薦を獲得するための十分な時間が与えられていないとの声が上がり、NECは、推薦期間を6月9日にまで延長した。しかしそれでも、黒人女性のダイアン・アボット議員及び党内左派のジョン・マクドネル議員については、議員からの推薦が立候補に必要な数に満たない可能性が濃厚であると見られており、「40代白人男性、オックスブリッジ*出身、元大臣」という似た者同士の戦いになることが予想されている(付け加えれば、この共通点は、「元大臣」を除けばすべて、キャメロン首相とクレッグ副首相にも当てはまる)。

*オックスフォード大学及びケンブリッジ大学の併称。

信頼回復と党再建が課題

立候補希望者たちの多くは、労働党の総選挙敗北の原因を、「人々の声に耳を傾けなくなり、昔からの支持者を失ったこと」であると述べている。誰がなるにせよ、労働党の新党首には、人々の信頼回復と党の再建という難題が待っているが、それに果敢に取り組める優れた人物が新党首に選ばれることを期待したい。

National Executive Committee

労働党の執行機関。「全国執行委員会(NEC)」などと訳される。労働党の全体的な方針及び政策策定プロセスの監督などをその役割とする。今回の党首選挙はNECが運営している。NECのメンバーは、労働党の下院議員、欧州議会議員、地方議員、労働党の関連組織である労働組合などの代表者等で構成される。80年代には、党の政策策定に重要な役割を担っていたが、現在この機能は、ブレア政権時代に設置された労働党内の別の組織である「全国政策フォーラム(National Policy Forum)」が受け継いでいる。

(猫)

 

縮小を強いられる英国の大学

今年度の予算が発表
縮小を強いられる英国の大学

2010‐11年度における英国の高等教育機関への予算が3月末に発表されて以来、英国の各大学では、教職員の解雇や人文系学部の廃止といった縮小に向けた動きが見られるようになった。他方で、大学総長の高額な給与がやり玉に挙げられている。保守党と自由民主党による新連立政権がこれから取り組むことになる、英国の大学教育の予算に関する問題を改めて振り返る。

2010‐11年度に予算増減の影響を受ける主な大学

2010‐11年度に予算増減の影響を受ける主な大学

主要国における大卒の学位と給与の関係

*日本の高校に相当する教育機関の卒業者の平均給与を
100とした場合の数値

英国における悪性黒色腫による死亡者数

大学関係者に高給を支給する英国の主な大学

大学名 2008-09年度における大学総長の給与 10万ポンド以上の年収を受け取る職員の数 昨年度における大学総長の給与増額率 過去10年における大学総長の給与増額率
ロンドン・ビジネス・
スクール
47万4000
100名
15%
78%
ユニバーシティー・
カレッジ・ロンドン
40万4000*
311名
15%
137%
リバプール大学
38万6000
112名
20%
188%
インペリアル・
カレッジ
33万9000
227名
n/a
162%
ノッティンガム大学
33万8000
112名
7.7%
103%
オックスフォード大学
32万7000
238名
20%
220%
ロンドン大学
キングス・カレッジ
31万2000
202名
6.8%
100%
ブリストル大学
30万9000
91名
8%
125%

Source: Guardian

*加えて20万ポンドのボーナスを受給


大幅に削減された高等教育予算

英国の各大学機関が現在、教育予算減の影響に苦しんでいる。今年3月に発表された2010年度の国家予算において、大学教育に割り当てられた予算は約74億ポンドで、前年度より5億ポンド(約648億円)の減額が実施されたからである。上図が示すように、科学、工学、技術、数学系の分野を扱う学部では現状維持もしくは予算の上積みも見られた一方、減額措置の影響を最も受けたのが人文、社会、芸術系のコース。とりわけロンドン・ビジネス・スクール、コートールド芸術学院などの単科系の大学への補助金は、10%以上も削減された。

経営危機に直面する大学も

この大幅な予算減により、既にいくつかの大学において、職員削減や学部廃止といった形での影響が出始めている。例えば2007年に開校したばかりのカンブリア大学では、一部キャンパスが閉鎖され、教員200人が解雇に追い込まれた。さらにはロンドンのキングス・カレッジにある、英国で唯一と言われる古文書学のコースが今年の夏限りで廃止されることが決定。またミドルセックス大学では哲学科の廃止が検討されており、英国内外の著名な哲学者が反対運動を繰り広げるなどの混乱が起きている。

予算削減で苦しむのは、もちろん大学側だけではない。ロンドンのキングス・カレッジやウェストミンスター大学、イングランド北部にある名門のリーズ大学などでは、職員数の大幅な削減案が浮上しているが、こうした人員削減策は教育の質の低下につながり、結局は教育サービスの受け手となる生徒たちが損害を被ることになるのだ。

高騰する大学総長の報酬

オックスフォード大学
ラッセル・グループに所属する大学の一つ、
オックスフォード大学

こうした状況を受けて、予算削減への反対を訴えるロビー活動も目立ってきた。中でも大きな議論となっているのが、英国人学生の学費。現在のところ、法律によって年間3290ポンド(約42万8000円)までとの上限が定められているが、英国を代表する20の大学が構成するラッセル・グループ(関連キーワード参照)は、この上限を撤廃することを主張。各大学が自力でより多くの教育費を徴収できるような仕組みを作ることで、予算不足を解決する道筋をつけるべきとの見解を示している。ただ英国の大学を卒業した学生が、卒業時に抱える負債額の平均が2万ポンド(約260万円)を上回るという現状もあり、学生側からの反発が起こることは必至だ。

さらに、大学総長の高額な報酬について、教職員組合、学生組合から疑問の声が上がっている。昨年には、30万ポンド(約3900万円)以上の報酬が支払われた大学総長が12名も存在したという。またゴードン・ブラウン前首相の給与を上回った大学総長は実に80名。予算削減のしわ寄せを学生や教員に押し付けておきながら、自分たちの高報酬だけは何とか維持しようとする総長たちへの不信感は大きい。

保守党と自民党との新連立政権がこうした問題を解決していくのか、もしくは予算削減を続行するのかは、今の段階では分からない。しかしながら、英国の高等教育をめぐる状況が急激に変化していることだけは間違いないだろう。


Russell Group

ラッセル・グループ。英国を代表する20の大学が参加するグループの呼称。ケンブリッジ大学、オックスフォード大学、インペリアル・カレッジ、ノッティンガム大学、エディンバラ大学、カーディフ大学などが含まれる。英国の教育界に対する大きな影響力を持っているとされており、英国の高等教育機関に集まる予算や研究費の総額の3分の2以上は、このラッセル・グループが占めると言われている。英国にはほかにも、「1994グループ」「ミリオン・プラス」といった、異なる大学によって構成されるグループが複数存在している。

(守屋光嗣)

 

日焼けサロンの規制法が成立

18歳未満の利用防止を義務付け
日焼けサロンの規制法が成立

英国のハイストリートでは、「Tanning Shop」などの看板を掲げた日焼けサロンを見つけることが珍しくない。「1分50ペンス」などの格安料金を提示する店も目立つが、つい最近まで利用者の年齢規制がなかったため、10代の少女たちの皮膚がん発病のリスクを高めているなどとして批判されていた。

英国における悪性黒色腫の発症数

英国における悪性黒色腫の発症数

*悪性黒色腫(Malignant Melanoma)とは、最も悪性の皮膚がん。「メラノーマ」とも呼ばれる。 上記は2006年の統計。
Source: Cancer Research UK

英国における悪性黒色腫による死亡者数

英国における悪性黒色腫による死亡者数

*2007年の統計。Source: Cancer Research UK

皮膚がんのリスクがあるとしても、
日焼けマシンを使いたいですか?

日焼けマシーン
*「ガーディアン」紙のウェブサイトが
2009年7月に実施したアンケート調査の結果。


皮膚がんに関する情報

  • 皮膚がんは、「非黒色腫型(Non-Melanoma)」と「悪性黒色腫(Malignant Melanoma)」に分けられる。より深刻で、死亡率が高いのは後者である。
  • 英国における悪性黒色腫の罹患率は、1970年代以降、4倍に増えている。
  • 英国における悪性黒色腫の患者の特徴は、他のがんに比べて比較的年齢が低 いことであり、3分の1は50歳未満である。
  • 英国の15〜34歳のがん患者のうち、最も多いのが悪性黒色腫の患者である。
  • 34歳以下の世代で比較すると、女性の悪性黒色腫の患者の数は男性の2倍に 上る。しかし、男性は、症状が深刻化するまで病院に行かない傾向があるため、悪性黒色腫による死亡者の数は、女性より男性が多い。
  • 英国で、過去25年間、すべてのがんの中で最も発症率が増えているのが悪性黒色腫である。
  • 英国における2008年の皮膚がんによる死亡者数は約2500人。うち悪性黒色腫による死者は2000人以上。
  • 全世界で見ると、悪性黒色腫の発症率が最も高いのはオーストラリアとニュージーランドである。


日焼けは富と健康の象徴

総選挙のため国会が解散する直前だった4月初旬、日焼けサロン利用の規制法として、「2010年日焼けマシン(規則)法(Sunbeds (Regulation) Act 2010)」が制定された。同法は、イングランドとウェールズを対象としており、18歳未満の少年・少女による日焼けマシンの利用を防止することを日焼けサロンに対して義務付けている。

「色白」すなわち「美」であるとの考えが浸透し、「美白」化粧品が売れる日本と違って、英国では、日焼けした肌こそ魅力的であると考えられている。海外旅行が身近になった20世紀以降、日焼けをしていることは、休暇でリゾート地へ行ける金銭的余裕があることの象徴であると見なされるようになり、現在も、透き通るような真っ白い肌が「不健康」や「貧困」を表す一方、褐色の肌は、富とグラマラスなライフスタイル、健康やバイタリティーと同義語であると考えられている。

10代少女の日焼けサロン利用目立つ

日焼けを魅力的であると捉えるのは特に若い女性に多く、一年中肌を小麦色に保ちたいばかりに、日焼けサロンに通う人が少なくない。しかし、日焼けサロンに設置されている日焼けマシンは、肌に人工的に紫外線をあてるため、皮膚がんとの関連が常に指摘されてきた。世界保健機構(WHO)の下部組織である国際がん研究機構(IARC)は昨年7月、日焼けマシンの使用による発がんリスクを、たばこやアスベストと同程度のレベルに引き上げている。

さらに英国における日焼けサロンの問題の一つは、年齢規制がないために、背伸びをしたい年頃のティーンエイジャーの少女たちの利用が少なくないことであった。がん研究の助成機関である「英国がん研究(Cancer Research UK)」が以前発表した調査結果によると、イングランドにおける11〜17歳の少年・少女の日焼けサロン利用率は平均6%であった。しかし、大人も含めて日焼けサロンの利用率が特に高いイングランド北西部リバプール市及び同北東部サンダーランド市では、15〜17歳の日焼けサロン利用率がそれぞれ50%近くに達するという統計も出ている(日焼けサロン利用率は全般に貧困地域で高い)。また、IARCの調査では、30歳以前に日焼けマシンの使用を開始すると、将来皮膚がんを発症する確率が75%も高くなることが分かっている。

無人施設の規制は後回しに

冒頭で述べた新法は、こうした状況を受け、ティーンエイジャーの日焼けサロン利用を禁止することを目的に制定された法律であった。スコットランドでは既に昨年末、同様の法律が施行されており、それに続くものとなる。

なお、新法は、従業員が配置されておらず、客が日焼けマシンに硬貨を投入することによって自由に利用できる無人日焼けサロンの規制について、将来、二次立法の制定によって実施すると規定するにとどまったため、不十分であるとの声も聞かれる。無人施設では、当然のことながら10代の少女たちの利用を防ぐことが不可能であり、せっかくの新法も効果が半減する。これについては、新連立政権による早期の対応が期待されるところである。

Instant Tan

ローション、クリームまたはスプレー状の化粧品で、体に塗ったり、吹き付けることで、日焼けした時と同様に肌の色を変えることができる。日光浴や日焼けマシンを使用し、皮膚がんを発病するリスクを冒さなくても小麦色の肌が手に入るため、若い女性などに使用者が多い。「Sunless Tanning」、「Self Tanning」、「Fake Tanning」などとも呼ばれる。インスタント・タンをエアブラシで客の体に吹き付けるサービスを提供するサロンもある。ロレアル、ランコム、クラランスなどの大手から小規模メーカーまで様々な商品が販売されている。

(猫)

 

取り沙汰される婚前契約

英国でも法制化されるか
取り沙汰される婚前契約

結婚を目前に控えた2人が、慰謝料の支払いを含む離婚時の手続きや条件などを事前に定める「婚前契約」のあり方をめぐって、英国の法律関係者たちの間で議論が交わされている。英国全域ではまだ一般的な制度となっていないが、近い将来にイングランド及びウェールズでも制度化されるとの動きも見られているという。


婚前契約とは

婚前契約英語圏では「Prenuptial Agreement」と呼ばれ、「婚前同意書」と訳されることもある。米国やフランス及びドイツなどの欧州諸国では既に制度化されているが、英国ではスコットランドを除いて、まだ法的な拘束力を持つ文書としては認められていない。

婚前契約書作成における基本事項

  • 契約を締結するにおいては、遅くとも結婚式の21日前までに当事者が署名を行う。
  • 契約書作成に当たり、それぞれの当事者は別々に専門家のアドバイスを受けるのが望ましい。
  • 署名を行う前に、お互いの経済的情報をすべて開示しておく。
  • 署名は強制ではなく、両者の合意の下に行うことが大前提となる。

イングランド及びウェールズにおける離婚率

イングランド及びウェールズにおける離婚率
Sources: Guardian


イングランド及びウェールズにおける離婚の発生年齢

イングランド及びウェールズにおける離婚の発生年齢
Sources: Guardian


英国で注目を浴びた離婚劇

1996年8月 チャールズ皇太子と故ダイアナ妃の離婚が成立。
2006年7月 保険業界で働くジョン・チャーマン氏とベヴァリー夫人の離婚について、裁判所は慰謝料として、英国では史上最高額となる4800万ポンド(当時のレートで約100億円)の支払いを命じる。
2008年2月 元モデルのスーザン・サングスターさんによる、「婚前契約は無効」との訴えが棄却される。
2008年3月 ポール・マッカートニー歌手ポール・マッカートニーとヘザー・ミルズの離婚が確定。慰謝料は約2500万ポンドと報道されている。この2人は婚前契約を締結していなかった。
2008年10月 マドンナとガイ・リッチー映画監督ガイ・リッチーと歌手マドンナが離婚。
2008年11月 政府が「イングランドとウェールズにおいて婚前契約が制度化されるのは、2012年以降になる」との見通しを発表する。
2009年7月 ドイツ人女性カトリン・ラトマッハーさんによる、フランス人の元夫と結んだ婚前契約は有効であるとの主張を、裁判所が認める。
2010年3月 ラトマッハーさんの前夫による控訴の最終答弁が行われる。

世間を騒がせた離婚裁判

米国のハリウッド俳優に関する結婚・離婚報道などで度々耳にする「婚前契約」が、英国市民の間にも少しずつ浸透してきている。きっかけの一つになったのは、婚前契約の有効性が問われた、2008年のある裁判。過去に3回の離婚を経験している元モデルのスーザン・サングスターさんが、4番目の夫との14カ月の結婚生活に終止符を打つことを決意した際に、夫が資産を隠していたとして、「結婚が失敗に終わってもお互いに慰謝料などの金銭を要求しない」という婚前契約は無効であると主張したのである。彼女は敗訴したが、この裁判の内容が大々的に報じられたことで、これまで一般市民にはあまり馴染みのなかった婚前契約の概念がより身近に感じられるようになった感がある。

婚前契約は法的に認められるか

3月下旬、ロンドンの最高裁判所に、ドイツの製紙業界で名を馳せる名家の出身で、資産総額が1億ポンド(約135億円)とみられるカトリン・ラトマッハーさんが現れた。彼女のフランス人の前夫が、「結婚生活が終わったときにお互いの資産を要求しないという婚前契約は有効」という判決を不服として起こした控訴審の最終答弁に出席するためである。報道によれば、ラトマッハーさんは、「婚前契約は自分の家族が長年の勤労で築き上げてきた資産を守るためのもの。実家の資産は、私たちの結婚生活の行方とは関係なく守られるべきである」と主張した。

カトリン・ラトマッハーさん夫婦それぞれの出身国であるフランスとドイツといった欧州諸国では婚前契約が既に制度化されているのに対して、2人が結婚した地となったイングランドにおいては、婚前契約が法的な拘束力を持っていない。よって、離婚訴訟において婚前契約の存在が議論の俎上に乗った場合、その法的有効性をどれだけ認めるかは個々の裁判によって大きく異なる。このような状況下で、一部では「離婚訴訟をするならイングランド」との評判が立てられているという。

増加する婚前契約

政府は現在、イングランドとウェールズにおいて婚前契約が制度化されることがあれば、それは2012年以降になるとの見通しを示している。一方で、結婚・離婚を専門とする弁護士の元へ寄せられる婚前契約に関する問い合わせの件数は急増しているという。

「デーリー・テレグラフ」紙によると、とりわけ仕事を持つ女性たちからの問い合わせが突出している。他の先進諸国の例に漏れず、英国では企業の最前線でキャリアを磨いたり、自ら起業し資産を増やしたりする女性が増えている。そのような女性たちにとって、「婚前契約」は、万が一にも結婚生活が暗転した際に、結婚の前後で時間を明確に区切るために有用との認識が広がっている、というのがメディアの分析だ。もしそうであるとすれば、このような認識は、男性側にも有効であることになろう。他方、このような潮流は、社会が構築される中で伝統的、また歴史的に大切な役割を担ってきた結婚の意味を弱めるとの危惧もまた根強い。人生の区切りとなるにせよ、伝統を破壊するにせよ、婚前契約は、社会的に重大な意味合いを持つ可能性があることには間違いないだろう。

Something 4

サムシング・フォー。結婚式当日に花嫁が身に付けるべきとされているものの総称。Something Old(祖父母または父母の所有物。家族の絆を象徴する)、Something New(何か真新しいもの。未来への希望を象徴する)、Something Borrowed(幸せな結婚生活を送っている人などからの借り物。幸運のおすそわけを象徴する)、Something Blue(青いガーターやリボンなど。貞節を象徴する)の4つの「Something」を指す。英国ではビクトリア朝時代からこの習わしが受け継がれているという。

(守屋光嗣)

 
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