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Wed, 01 April 2026

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連立政権の教育政策について - アカデミー、フリー・スクールとは

アカデミー、フリー・スクールとは
連立政権の教育政策について

各行政分野のうち、教育は特に連立政権が力を入れているエリアである。その連立政権の教育政策の要となる法律が、7月に成立した「2010年アカデミー法」であり、イングランドの公教育制度に過去数十年で最大の改革をもたらすと言われている。今回は、賛否両論を呼んだ同法を中心に解説する。

イングランドの公立学校の区分

1. 一般の公立校

(1)地域学校(Community school)
イングランドの公立校のほぼ6割を占める。地方自治体が、学校の運営、教師・職員の採用、生徒の入学方針の決定を行う。学校の土地・校舎も自治体が所有する。運営費は、地方自治体が配分する国からの補助金で賄う。

(2) 地方補助学校(Foundation school)
学校理事会(governing body)が、学校の運営、教師・職員の採用、生徒の入学方針の決定を行う。学校の土地・校舎は学校理事会もしくは慈善団体の資格を有する組織(charitable foundation)が所有する。運営費は、地方自治体が配分する国からの補助金で賄う。

(3) 有志団体立補助学校(Voluntary aided school)
大半は宗教系の学校である(カトリック系、英国国教会系など)。学校理事会が、学校の運営、教師・職員の採用、生徒の入学方針の決定を行う。学校の土地・校舎は、ほとんどの場合、教会など宗教関係組織が所有している。運営費は、地方自治体が配分する国からの補助金で賄う。校舎の建設、維持費用等の一部は宗教関係組織等から拠出される。

(4) 有志団体立管理学校(Voluntary controlled school)
「有志団体立補助学校」と同様、大半は宗教系の学校であるが、地方自治体が、学校の運営、教師・職員の採用、生徒の入学方針の決定を行う。学校の土地・校舎はほとんどの場合、教会など宗教関係組織が所有している。運営費は、地方自治体が配分する国からの補助金で賄う。

2. その他の公立校

(1)アカデミー(Academy)
地方自治体の管理下になく、運営費は中央政府から直接、提供されている。教師の給与・待遇、授業カリキュラム、学期期間の設定などで自由裁量を与えられている(ただし、英語、数学、科学については、全国共通カリキュラムに従って授業を行うことが求められている)。法律上の設立形態は「有限責任保証会社(company limited by guarantee)」であり、実際のところは、公立校と言うより、「公費で運営されている独立校(independent school funded by the state)」である。学校の運営、教師・職員の採用、生徒の入学方針の決定を行うのは学校理事会である。学校の土地・校舎に関する権限は学校法人が有する。労働党政権下で、約200の公立校が「アカデミー」に移行した。現政府は今後、更に「アカデミー」を増加させる方針である。

*フリー・スクール(Free school)
「アカデミー」のうち、親や教師のグループ、慈善団体、教会、企業、私立校、大学等が新規に設置する学校。2011年9月から設置予定。「フリー・スクール」の設置を希望するグループ、組織等は、教育省に設置を申請し、審査を受ける。

(2)グラマー・スクール(Grammar school)
学業成績によって入学者を選抜する公立中学校。かつては公立校の形態として主流だったが、現在までに大半が廃校されたか、私立校または選抜をしない公立校に移行している。

*上記は、イングランドの義務教育の学校(小中学校)の分類であるが、これがすべてではない。また、イングランド以外の英国の地域に設置されている学校の形態も含まれる。

Source: Department for Education, direct.gov.ukほか

今年9月から「アカデミー」に移行した学校一覧(一部)

ロンドン
Queen Elizabeth's School(バーネット区)
Kemnal Technology College(ブロムリー区)
Cuckoo Hall Primary School(エンフィールド区)【P】

イングランド南東部
The Westlands School (ケント州)
The Woodgrove Primary School (ケント州)【P】

イングランド南西部
St Buryan Primary School(コーンウォール州)【P】
Broadclyst Community Primary School(デボン州)【P】
Uffculme School(デボン州)

イングランド東部
Watford Grammar School for Boys (ハートフォードシャー州)
Watford Grammar School for Girls(ハートフォードシャー州)
Arthur Mellows Village College(ピーターバラ市)

イースト・ミッドランズ地方
The Giles School(リンカンシャー州)
Northampton School for Boys(ノーサンプトンシャー州)

ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー地方
Heckmondwike Grammar School(カークリース市)
Tollbar Business Enterprise & Humanities College(ノース・イースト・リンカンシャー市)

イングランド北西部
Brine Leas High School(チェシャー・イースト市)
Fallibroome High School(チェシャー・イースト市)
Seaton Infant School(カンブリア州)【P】

*上記は、「2010年アカデミー法」の施行後、現連立政権の呼び掛けに応えて「アカデミー」化を申請した学校のうち、2010年9月に「アカデミー」への移行を果たした学校の一部である。 他に、前労働党政権下で「アカデミー」化が認められた64校も、同じく10年9月に「アカデミー」への移行を果たした。

* 【P】は小学校を意味する。それ以外はすべて中学校である。

Source: Department for Education


全公立校が「アカデミー」への移行申請可

政府は7月下旬、「2010年アカデミー法」を成立させた。同法の狙いは、イングランドの公立校の一形態である「アカデミー」の数を大幅に増やすこと、及び「フリー・スクール」の設置を可能にすることである。

「アカデミー」は、ブレア労働党政権が始めた学校の形態であり、公立校ではあるものの地方自治体の管理下になく、運営資金は中央政府から直接、提供されている。通常の公立校と違って、教師の給与・待遇、授業カリキュラム、学期期間の設定などにおいて自由裁量を与えられている。

労働党政権下での「アカデミー」が、貧困地区にある学業成績の低い学校の改善を目的としていたのに対し、連立政権は、同法によりイングランドのすべての公立校が「アカデミー」への移行を申請することを可能にした(ただし、今年9月からの「アカデミー」への移行には、教育水準監査局「Ofsted」から「最優秀」と判定された学校が優先された)。更に、これまでの「アカデミー」はほぼ中学校のみだったが、今後は小学校も対象となる。

一方、「フリー・スクール」は、「アカデミー」のうち、親や教師のグループ、慈善団体、教会、企業等が設置する学校を指す。「フリー・スクール」以外の「アカデミー」は、その大半が、既存の公立校が移行する形で設立されるが、「フリー・スクール」はすべて新設校となる。カリキュラム等で自由裁量を与えられている点は、他の「アカデミー」と同様である。

同法成立の結果、今年9月から新たに32校の「アカデミー」が誕生した。また、「フリー・スクール」については、政府に提出された申請のうち、16の案に仮承認が下りたことが今月上旬、明らかにされている。

学校運営に自由と柔軟性

政府は、「アカデミー」の数を大幅に増加させる目的を、公立校に学校運営における自由と柔軟性を与え、学業成績の向上を図ることであるなどと述べている。しかし、教育関係者等からは、「アカデミーとそれ以外」という、公立校の二極化を進めるとして懸念の声が上がっている。また、ゴーブ教育相は、今年9月からの「アカデミー」への移行に間に合わせるため、本来は反テロ法の制定などに用いる緊急手段を使って、国会の夏季休暇前に同法を駆け込み成立させた。このため、「過去数十年で最大の教育改革」をもたらす法律であるにもかかわらず、十分な審議時間が取れなかったとして、各党の議員から厳しく批判された。

教育政策不人気との調査結果

こうした背景を反映してか、8月上旬に調査会社ICMが実施した世論調査では、政府による教育改革を支持しない人が42%、支持する人が23%という結果が出た。一方、経済政策では、「支持」が44%、「不支持」が37%との結果になり、教育政策の不人気ぶりが浮き彫りにされた。「未来のための学校建設」プログラムの中止の件でも大きな批判を浴びた政府とゴーブ教育相であるが(「関連キーワード」欄参照)、こうした世論を変えることが出来るかどうかは、「アカデミー」の成否に掛かっているかもしれない。

Building Schools for the Future

「未来のための学校建設」は、前労働党政権が開始したイングランドの公立中学校の校舎改築プログラムである。ゴーブ教育相は7月、同プログラムの中止を発表し、同時に、プログラム参加校のうち、予定通り校舎改築を実行する学校と、改築を取り止める学校のリストを発表した。しかし数日後、同リストに間違いがあり、リスト上では校舎改築が実行されると記されていた複数の学校が、実は改築が取り止めとなった学校であったことが判明。同相は学校関係者などから厳しい批判にさらされた。

(猫)

 

ローマ教皇がやって来る - カトリックと英国のこれまで

ローマ教皇がやって来る
カトリックと英国のこれまで

ローマ教皇ベネディクト16世が今月16日から19日まで、英国を訪問する。1982年、前教皇ヨハネ・パウロ2世の渡英以降、教皇による英国訪問は実に28年ぶり。約600万人の国内のカトリック信者にとっては朗報だが、国民全体で見ると、訪問費用の一部が国民の税金によって賄われることへの反発も出ている。教皇の訪英を目前に控え、英国とカトリックの歩みに注目した。

ローマ教皇のプロフィール
ローマ教皇ベネディクト16世。第265代ローマ教皇(在位2005年4月〜)。バチカン市国国家元首。83歳。ドイツ・バイエルン州出身で本名はヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー。ナチスを嫌っていた警察官の父の下、司祭になることを願っていたが、14歳で、当時ドイツ国内で加入が義務付けられていたヒトラー青年団に入団。戦後、神学校で学び、司祭に。神学博士号を取得し、ボン大学、ミュンヘン大学などで教鞭を執る。2002年、主席枢機卿に任命される。05年、教皇就任。ドイツ人の教皇就任は950年ぶりとなった。「超保守派」と言われ、避妊、中絶、同性愛に反対の立場をとる。

英国の宗教人口内訳

キリスト教徒 4207万9000人 71.6%
イスラム教徒 159万1000人 2.7%
ヒンズー教徒 55万9000人 1%
シーク教徒 33万6000人 0.6%
ユダヤ教徒 26万7000人 0.5%
仏教徒 15万2000人 0.3%
他の宗教信者 17万9000人 0.3%
無宗教 910万4000人 15.5%
無回答 428万9000人 7.3%
合計 5855万6000人 100%*

Source: 国勢調査2001年
*端数処理により四捨五入した数値

英国におけるカトリックを巡る動き

597年 聖アンドレアス修道院長アウグスティヌスが、布教のために当時のイングランドの7王国の一つ、ケント王国にやってくる。王エゼルベルトに布教の許可を求め、カンタベリーに居住することと説教の自由を認められた。初代カンタベリー大主教となる。
1534年 イングランド王ヘンリー8世の離婚問題をきっかけに、国王を「イングランド国教会の地上における唯一最高の首長」と宣言する国王至上法が定められる。教義内容はカトリックのものとほとんど変わらず。同法に反対するキリスト教徒は迫害、処刑などに遭った。
1605年 イングランド国教会優遇政策の下で弾圧されていたカトリック教徒過激派による火薬陰謀事件が発生。上院議場の地下に仕掛けた大量の火薬を用いて、11月5日の開院式に出席する国王ジェームズ1世を爆殺する陰謀を企てたが、実行直前に露見して失敗。実行責任者の名をとって、ガイ・フォークス事件と呼ぶことも。
1690年 ボイン川の戦い。プロテスタントの王ウィリアム3世率いるイングランド・オランダ連合軍と、退位させられたカトリックの元国王ジェームズ2世率いるスコットランド軍の間で行われた戦い。アイルランドのボイン川河畔で行われた。1745年、ジェームズ2世の子孫が再び国王の座の奪回を狙った戦いを起こすが、翌年、スコットランドのカロデンの戦いで敗退した。
1780年 ゴードンの暴動が発生。カトリック教徒の権利を抑圧する法律を緩和する動きへの反対運動。プロテスタント協会の会長ゴードン卿が中心となって、数万人が参加する抗議デモが起きた。次第に暴動化し、事態鎮圧のために軍隊が出動。300人近くが死亡した。
1829年 カトリック解放法成立。カトリック教徒の差別的規定を撤廃した。
1944年 新教育法により、イングランドとウェールズ地方の中等教育体制が改正。カトリックの中等教育機関が国の教育体制の一環となる。税金によって賄われるグラマー・スクールの登場で、専門職やミドル・クラスのカトリック教徒の家庭が増え、カトリック教徒の社会への融合を促す。
1976年 バジル・ヒューム修道院長がイングランド・ウェールズ地方のカトリック教会の指導者になる。後には枢機卿に任命される。当時、英国で最も人気のある宗教指導者となり、カトリックのイメージを大きく向上させた。
1982年 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が訪英。カリスマ的魅力を持つ教皇を一目見ようと、カトリック教徒、非カトリック教徒の国民が集会に押し掛けた。後年、女性の地位、安楽死、中絶に対する教皇の伝統的考えが、次第に英国内リベラル派の大きな批判の対象となっていく。

教皇の訪問スケジュール
訪問のテーマ:「心が心に語り掛ける」

9月16日
10:30 エディンバラ国際空港到着
11:00 ホリールード宮殿でエリザベス女王と歓迎の儀式
11:40 ホリールード宮殿で歓迎レセプション
13:00 聖アンドリューズ・エディンバラ大主教の邸宅で私的な昼食会
17:15 グラスゴー南西部ベラヒューストン公園でミサ
20:00 グラスゴー空港からロンドン・ヒースロー空港へ
21:25 ヒースロー空港到着
9月17日
8:00 ロンドンの教皇庁大使館で私的なミサ
10:00 トゥイッケナムにある聖メアリー・ユニバーシティー・カレッジで、カトリック教育を祝福。運動場付近で児童や学生たちと交流。ヨハネ・パウロ2世の名前を冠したスポーツ施設の落成式
11:30 同カレッジ内で宗教指導者たちと会合
16:00 ランベス宮殿にカンタベリー大主教を訪問
17:10 ウエストミンスター・ホールで演説
18:15 ウエストミンスター寺院で夕刻の祈り
9月18日
9:00 ウエストミンスターのカンタベリー大主教宅でキャメロン首相、クレッグ副首相、ハーマン労働党党首代行の表敬訪問を個別に受ける
10:00 ウエストミンスター大聖堂でミサ。広場で2500人の若者と交流
17:00 ボックスホールにある聖ピーター老人ホームを訪問
18:15 ハイド・パークで故ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の列福式前夜の祈り
9月19日
8:00 ウィンブルドンにある、教皇庁大使邸宅にお別れ
8:45 ヘリコプターでバーミンガムへ
9:30 バーミンガム到着
10:00 コフトン・パークでジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の列福式とミサ
13:10 聖フィリップ・ネリ礼拝堂を私的参拝
16:45 オスコット・カレッジで、イングランド、スコットランド、ウェールズ地方の司教たちと昼食
18:15 バーミンガム国際空港でお別れの儀式
18:45 空港から帰路へ
22:30 ローマ・チャンピーノ空港到着

Source: www.thepapalvisit.org.uk/2010-Visit/Events-Timeline


英国におけるカトリックへの敵対心

今月16日から4日間の予定で、ローマ教皇ベネディクト16世が英国を訪問する。昨年、ブラウン首相(当時)の訪英招請を受けて実現するもので、前回のローマ教皇の訪問から、28年ぶりのこととなる。

英国では人口の大部分がキリスト教徒だが、英国国教会(チャーチ・オブ・イングランド)の信者が大多数で、ローマ教皇を最高位に置くカトリック教徒は600万人ほどと少数派だ。

英国国教会は、16世紀に当時の国王ヘンリー8世の離婚問題を契機に、ローマ・カトリック教会から離脱する形で発足した。ヘンリー8世はカトリック教の修道院を破壊し、その土地を没収。カトリック教徒にとっては、差別、迫害の時代の始まりとなった。なお、国教会は通常、カトリックから分離したキリスト教諸派「プロテスタント」と分類されている。

カトリックの大国で、絶対王政が続いたフランスやスペインと欧州の覇権争いを続ける中で、プロテスタント国である英国の国民にとって、カトリックといえば単なる宗教の違いのみならず、「国家転ぷくを狙う敵」「絶対王政を成立させようとする布石=止めるべき動き」という見方も出てくるようになった。1605年に発生した、カトリック教徒過激派による火薬陰謀事件は失敗に終わったが、現在でも陰謀の実行責任者の名をとって、「ガイ・フォークスの日」と呼ばれ、イベントが毎年各地で開催されている。そういった背景から、「カトリック教徒=危ないやつ」というイメージは根強く残っている。

カトリック教徒は下院議員になれないなどの制度的差別が撤回されていくのは、1820年代も終わりになってからである。

ベネディクト16世の問題発言

ドイツ出身のベネディクト16世が新教皇になったのは2005年のこと。教皇は避妊、中絶、同性愛に断固として反対の立場をとっており、男女の地位や性に対する考え方がリベラルな英国の社会的価値観とは相容れない一面を持つ。エイズに苦しむアフリカ訪問中に「コンドームはエイズの解決策ではない」と述べたり、イスラム教と暴力を結び付ける発言をしたときは(後者については後に謝罪)、英国内外から批判を浴びた。

また、欧州、米国、オーストラリアなどで明るみに出た、カトリック聖職者による性的虐待問題では、1980年代、ミュンヘン・フライジング大司教だったベネディクト16世が、性的虐待疑惑のあった聖職者をかくまったとする疑いが報道され、世界中に衝撃が走った。

税金の使用に反対の声

今回の訪英にかかる費用は最大で1500万ポンド(約19.5億円)に上るとされ、その約半分をカトリック教会が、残りを国民の税金が負担する。今月上旬、シンクタンク「テオス」が発表した世論調査によれば、76%が「教皇の訪英に税金が使われるべきではない」と答え、79%が訪英に対し「個人的に興味なし」としている。

なんだかお寒い数字だが、ハイド・パークの礼拝イベントには8万人近くが参加する見込み。クールな答えとは裏腹に、訪英を中継するテレビの前に多くの人がかじりつくかもしれない。何世紀も前にカトリックを拒絶した国である英国にやって来るローマ教皇は、果たしてカトリック・フィーバーを起こせるだろうか?

Vatican City

イタリア・ローマ市内にある世界最小の主権国家。イタリア語の名称は「Sato della Cittá del Vaticano」。ローマ教皇庁が統治する、カトリック教会と東方典礼のカトリック教会の総本山。教皇庁トップはローマ教皇で、運営実務は国務長官が務める。公用語はラテン語だが、通常業務はイタリア語が使われる。人口は826人(2009年推定値)で、そのほとんどはカトリックの修道僧である。1929年、独立国家に。軍事力は保持せず、警備はイタリア国家警察が行っている。サン・ピエトロ大聖堂やシスティーナ礼拝堂など、文化遺産の宝庫として知られる。1984年、世界遺産に登録された。

(小林恭子)

 

2010年のGCSEの結果が発表に

大学入学の競争率の高さが影響との声も
今年のGCSEの結果が発表に

義務教育修了時に大半の中学生が受ける中等教育修了試験(GCSE)の結果が、今年も8月下旬に発表された。合格率の上昇など毎年聞かれるニュースのほかに今年は、大学の入学が激戦となっていることや、不況による雇用状況の悪化などの時勢を反映して、GCSE受験者の今後を懸念する声も聞かれた。

GCSEとは

イングランド、ウェールズ、北アイルランドで取得できる学業に関する資格の一つ。ほとんどの人が中学で取得する。GCSE取得の最も典型的な方法は、中学の最後の2年間、自分が選んだ科目のGCSEのコースで学び、中学の最終学年の終わりにGCSEの試験を受けるというものである。生徒は、2年間のコース中、プロジェクトの実施や実験、調査研究なども行い、それらの結果もグレード(成績)の決定に反映される。

生徒は50以上の科目の中からGCSEを取得する科目を選ぶことが可能であり、全部で9〜12科目ほどを選ぶケースが最も多いと言われる。試験後に各生徒に通知されるグレードは、「A*(エー・スター)」、「A」、「B」、「C」、「D」、「E」、「F」、「G」、「U」の9段階に 分かれており、「A*」が最も優秀な成績である。「A*」から「G」までは「合格(pass)」であり、「U」は不合格である。

GCSEは、その後の進学、就職などの際に能力の判断材料とされる、重要な資格である。


2010年のGCSEの結果概要

●「A*」から「G」までのグレードを達成した「合格率」は98.7%
●「A*」から「C」までのグレードの獲得率は69.1%
●「A*」または「A」のグレードの獲得率は22.6%
● 受験者が多かった科目は、英語、数学、デザイン・技術、歴史、地理など
● 外国語の受験者数は引き続き減少しており、フランス語が 昨年比5.9%減、ドイツ語が同4.5%減
● 理系の科目の受験者数が著しく増加し、化学は昨年比 32.2%増、物理は同32.1%増、生物学は28.3%増
● 宗教学の受験者は昨年比3.5%増
● 科目別の「A*」から「C」までのグレードの獲得率は、英語 が64.7%、数学が58.4%

今年のGCSEの各グレード獲得率

Source: BBC
今年のGCSEの各グレード獲得率

* すべての科目の「A*」から「U」までのグレードの獲得率を合算した数字。なお、生徒が受験したGCSEの試験総数は537万4490だった。

GCSEの上位のグレード獲得率の推移

Source : Centre for Education and Employment Research, Buckingham University
GCSEの上位のグレード獲得率の推移

* GCSEに「A*」のグレードが導入されたのは1994年。


合格率は98.7%で23年連続上昇

先月下旬に発表された中等教育修了試験(GCSE)の結果は、「A*(エー・スター)」から「G」までのグレードを獲得した「合格率」の割合が98.7%に達し、23年連続の上昇となった。「良い成績」であるとされる「A*」から「C」の獲得率は69.1%、「A*」または「A」の 獲得率は22.6%と、共に過去最高を記録した。

若者の学業成績が向上しているとの兆候は喜ばしいことではあるが、今年のGCSEの結果にまつわる話題は明るいものだけでは ない。国内の大学、専門学校等の職員の組合である「大学・カレッジ組合(UCU)」は、GCSEの結果が発表された8月24日、「今年は、大学の入学競争率が高いことが災いして、特にGCSEの結果があまり良くなかった多くの生徒が、継続教育カレッジ(「関連キーワー ド」欄を参照)に進学する機会を奪われることになるかもしれない」と警告した。

「ドミノ式」に押し出されるとの懸念

今月9月からの大学入学の競争率が非常に高かった理由の一つは、入学希望者が過去最高の66万1000人に達したためである。また、昨年から国の高等教育予算が減らされ、大学入学者数が政 府によって厳しく制限されるようになったこともある。更に、これとは別に、前労働党政権が決定していた「イングランドの大学の定 員2万人増」の方針を、新連立政権が公共支出削減を目的として「1万人」に半減したことなども理由であった。

こうした背景から、今年は応募者のうち十数万人が大学に入学できないだろうと言われている。UCUは、これらの学生たちの多くが、大学を諦めて職業関連の資格取得を目指したり、来年、大学 に再挑戦するべく、もう一度シックス・フォーム・カレッジに入学することなどが予想されるため、本来ならGCSEを終えた後にこうした学校に入学できるはずの中学卒業生が「ドミノ式」に押し出されることになるだろうと述べているのである。

「ニート」100万人突破か

継続教育カレッジから押し出された中学卒業生たちにとっては、就職の道も容易ではない。不況の影響で、特に若者の就職は非常に厳しい状況にある。英国労働組合(TUC)が先月上旬に発表したところによると、半年以上失業している18〜24歳の若者の数は、英国の3分の2の地域で増加している。こうした状況のため、現在 は英全土で90万人いると言われる「ニート(働いておらず、教育、職業訓練も受けていない者)」の若者が、近く100万人を突破する可能性があるとする声も聞かれている。

継続教育カレッジの入学定員増加を可能にするよう、政府が補助金を増額すべきであるとの声もあるが、財政赤字削減に向けて政府が大規模な公共支出削減を計画している中、その実現の見込みは高いとは言えない。教育も含めた各分野における連立政権の 支出削減の最終決定は、10月に発表される「支出見直し(Spending Review)」で明らかになる。若者たちの将来、ひいては国の将来を決定するのが教育であるからには、教育への投資は、財政赤字削減と同様に重要であると訴える声に対し、現政府はどのように回答するのであろうか。

Further Education

義務教育修了後に受ける教育を意味するが、「高等教育(Higher Education)」と呼ばれる大学(university)での教育は含まれない。日本語では「継続教育」などと訳される。「継続教育カレッジ」に分類される学校には、職業関連の資格取得を目的としたコースを提供する学校、大学の入学者選抜に使われる資格「Aレベル」の取得を目的としたシックス・フォーム・カレッジな どのほか、成人向けコースを提供する学校も含まれる。学校名にはほとんどの場合、「カレッジ(college)」という言葉が含まれている。継続教育を担当する省は、ビジネス・改革・技術省(BIS)である。

(猫)

 

英国人イスラム教徒と英国社会

イスラム教とラマダン月
英国人イスラム教徒と英国社会

8月12日、英国のイスラム社会はラマダン月を迎え、イスラム教徒の義務的実践の一つである断食を開始した。日没まで飲食の一切を絶つ断食は、敬虔なイスラム教徒にとっては一大イベントである。その一方で、英国人イスラム教徒が増加傾向にある中、イスラム教徒と異教徒間の相互理解の欠如などを問題視する声もある。

イスラム教六信五行

六信五行とは、イスラム教の基本的な信条箇条(イーマーン)と義務的実践(イダーバート)を指す。またイスラム法は人間の全行為を規範的に5つに分類しており、それらはすべて①許容されている行為(ハラール)と②禁止される行為(ハラーム)の概念に分けられる。

■ 信条箇条(イーマーン)
イスラム教徒とは、①アッラー(神)、②天使、③啓典、④預言者、⑤来世(最後の審判)、⑥運命(予定)の実在を信じる者。

■ 義務的実践(イダーバート)
イスラム教徒とは、①信仰告白、②礼拝、③喜捨、④断食、⑤巡礼の儀礼を不断に行う者。

イスラム教徒が多く在住する英国内の主な地域

地区名 イスラム教徒数 同地区における
全人口比
タワー・ハムレッツ 7万1000人 36%
ニューアム 5万9000人 24%
ブラックバーン 2万7000人 19%
ブラッドフォード 7万5000人 16%
ウォルサム・フォレスト 3万3000人 15%
ルートン 2万7000人 15%
バーミンガム 14万人 14%
ハックニー 2万8000人 14%
ペンドル 1万2000人 13%
スラウ 1万6000人 13%
ブレント 3万2000人 12%
レッドブリッジ 2万9000人 12%
ウエストミンスター 2万1000人 12%
カムデン 2万3000人 12%
ハリンゲイ 2万4000人 11%

Source: The Muslim Council of Britain(2001年度)

英国内のイスラム教

英国人イスラム教徒数の推移

2004年 187万人  
2005年 201万7000人  
2006年 214万2000人  
2007年 232万7000人  
2008年 242万2000人  

*08年における英国人キリスト教徒の総計は約4300万人

Source: Labour Force Survey


英国におけるイスラム教の歴史
8世紀 英国とアッバース朝(イスラム帝国)間で外交開始。ブリテン諸島にイスラム教徒探検家や商人が上陸。
12世紀 英国人初のアラビア文学博士アデラード(Adelard of Bath)がアラビア文学をラテン語に翻訳。
16世紀 船乗りであったジョン・ネルソンが英国人で初めてイスラム教に改宗。エリザベス1世時代、北アフリカの英国植民地に移住した多くの英国人船乗りがイスラム教に改宗したとされ、アルジェリアだけでも5000人以上に上る。
1600年 東インド会社創設と共に、ムガル帝国(イスラム王朝)から多くのイスラム教徒が渡英。
1636年 オックスフォード大学でアラビア語の教授職を設置。
1641年 イスラム教聖典クルアンをアレキサンダー・ロスが英語に翻訳。
1860年 カーディフに英国初のモスク設立。
1886年 ロンドンに「Anjuman-I-Islam(後に「Pan-Islamic Society」に改名)」が設立。
1887年 ウィリアム・ヘンリー・クイリアム(イスラム名:シェイク・アブドゥラー・クイリアム)がリバプールでイスラム・コミュニティーを発足。同人はその後、オスマン・トルコ皇帝より「Sheikh-ul-Islam of the British Isles(ブリテン諸島のシェイク・イスラム)」の称号を授与される。
1889年 ボパール(現在のインド)のベガム女王の寄与により、ロンドン郊外ウォーキングに「Shah Jahan Mosque」が設立。
1913年 イスラム機関紙「Muslim India and the Islamic Review(後にThe Islamic Reviewに改名)」発行開始。
1914年 ロンドン・モスク基金の援助により、ロンドン各地のモスクなどで金曜礼拝が開始。
1928年 ヘドリー伯爵(イスラム名:アルハッジ・エルファルーク)が「The London Nazamiah Mosque Trust Fund」を設立し、多くの支援金を「The London Central Mosque Fund(ロンドン中心部リージェンツ・パークにある現在の 「Islamic Cultural Centre」)」に寄付。
1933年 ロンドンのベイカー・ストリートで、イスマイル・デ・ヨーク代表主催による 「Muslim Society of Great Britain(大英帝国のイスラム社会)」が、イスラム教徒向けに各種イベントを開催。
1937年 英国人イスラム教徒が、英政府のパレスチナ分割案に対して反対運動を展開。
1941年 在英エジプト大使ハッサン・ナージャット高官の寄付により、ロンドン東部にモスクと「Islamic Cultural Centre」が開設。
1944年 国王ジョージ6世が「Islamic Cultural Centre」設立記念式典に出席。
1962年 英国人イスラム教徒の学生グループにより、「The Federation of the Students Islamic Societies in the UK and Eire(FOSIS)」が設立。
1969年 英国人イスラム教徒の子供支援を目的とした「The Muslim Educational Trust」設立。
1971年 イスラム教徒向け雑誌「Impact International」創刊。
1973年 「The Islamic Council of Europe」ロンドン本部、及び「The Islamic Foundation」が設立。
1976年 「World of Islam Festival」がロンドンで開催。

ヒジュラ暦ラマダン月始まる

ヒジュラ暦1431年ラマダン月1日(西暦2010年8月12日)、英国人イスラム教徒は、日の出と共に飲食を絶った。「断食」の開始である。

ラマダン月(ヒジュラ暦第9月)は、30日間もしくは29日間にわたる。次の新月観測予定日となるヒジュラ暦第10月1日からの3日間には、断食月開けの祭り「イード・アルフィトル」が行われる。またラマダン月は、新月を確認した時点での開始となるため、日本では開始日が英国よりも1日早まるなど、地域毎に時差が生じる。加えて、悪天候で新月が確認できなかった場合や、夏時間を導入しているために日没時間が遅くなる地域などでは、近隣国の新月観測を反映させているところもある。

イスラム教の断食とは、日の出の約2時間前から日没まで断食・禁欲する行為であり、タバコなどの嗜好品も一切許されない。そして日没後、「イフタール」と呼ばれる最初の食事と共に、1日の断食を終える。ただ妊婦や幼児、病人や重労働者など、断食を行うことによって心身に支障をきたす可能性がある人は免除されたり、日にちをずらしたりすることができるなど、実施の仕方については、ある程度の柔軟性を有する。

非イスラム諸国での断食

イスラム教徒の六信五行の一つである「断食」の主な目的は、飢えの体験を通じて貧困の苦しみを理解し、宗教概念を強めると共に、全世界のイスラム教徒が同じ宗教行為を同時期に行うことで、国境や人種を越えた連帯感を養うことなどとされる。ただし飽食時代である今日では、日没後の夜間における飲食の大量摂取が肥満や生活習慣病の原因になっているとの報告がある。また、英国や日本などの非イスラム諸国においては、断食中のイスラム教徒と異教徒間における相互理解不足といった諸問題も懸念される。通常の勤務時間や職場環境はイスラム教徒の断食に不適切とされる一方で、同信仰を持つ社員の業務遅延や生産性の低下といった問題点を指摘する声もある。

英国社会と英国人イスラム教徒

近年、英国人イスラム教徒の数が増加傾向にある。05〜09年の4年間で英国人イスラム教徒は50万人増加した一方、英国人キリスト教徒数は200万人減少したとする報告もあり、英国内における宗派比率に変化が見られ始めたとも言える。今後、職場や学校、近所のモスクなどで英国人イスラム教徒の信仰行為を目にしたり、イスラム法上認められた食品を取り扱う飲食店に掲げられた「ハラール(Halal)」の看板を目にしたりする機会が更に増えるだろう。

その半面、「名誉殺人(Honour Killing)」と呼ばれる独自の宗教概念や文化が生み出す殺人事件や、イスラム過激派が関与した05年7月7日のロンドン同時多発テロも記憶に新しく、イスラム教を含む異文化・宗派に対する偏見が存在することも否めない。1950年以降、英政府が経済発展などを理由に、多くのイスラム教徒を含む外国人労働者に対して渡英を斡旋し始めてから半世紀以上が経った今、真の異民族・宗派・文化の統合に向けた包括的な対策が求められている。

Islamic Calendar

ヒジュラ暦。イスラム教の預言者ムハンマドが、メッカからメディーナ(共に在サウジアラビア)へ聖遷した年を「ヒジュラ元年」(西暦622年7月16日)と定めたイスラム暦。月の満ち欠けの1周期を基本とする太陰暦で、1年間約354日と計算される。つまり、地球が太陽を1周する周期を基本とする太陽暦を用いる西暦(ユリウス暦)とは、年間約11日間の誤差が生じることになる。また同じヒジュラ暦を採用していても、国や地域によって暦や日付は異なる。サウジアラビア政府は、国家の公式暦としてウンム・アルクラー暦(メッカ暦)を採用。

(吉田智賀子)

 

テレビ局「ファイブ」の買収について

タブロイド紙抱えるメディア会社が新オーナー
テレビ局「ファイブ」の買収について

地上波テレビ局の中でも、BBCやITVなどに比べて番組の話題性が乏しく、これといった特徴に欠けるのが「ファイブ」である。そんな同局が最近、タブロイド紙などを所有する英国のメディア会社に買収された。メディア業界をにぎわしたこの買収のニュースについて、その背景などを解説する。


民放テレビ局「ファイブ」の歩み
1995年 公募の結果、「チャンネル・ファイブ・ブロードキャスティング社」が、英国第5の地上波テレビ局の放送免許を獲得。「チャンネル・ファイブ・ブロードキャスティング社」は、後にBBCの会長となるグレッグ・ダイク氏率いるピアソン・テレビ社、MAI社など4社のパートナーで構成されていた。
1997年 「チャンネル・ファイブ」が開局。開局のセレモニーには、当時大人気だったアイドル・グループ、スパイス・ガールズが参加し、華やかに行われた。開局費用は2億5400万ポンド(約340億円)だった。
1999年 視聴者数増加を狙い、深夜にアダルト番組の放送を開始。
2002年 局のイメージ刷新のため、名称を「チャンネル・ファイブ」から「ファイブ」に変更。
2005年 欧州最大のメディア・グループであるRTLグループがオーナーとなる。
2006年 デジタル・チャンネル「ファイブ・ライフ(Five Life)」及び「ファイブUS(Five US)」が開局。 「ファイブ・ライフ」は後に「ファイバー (Fiver)」に改称。
2007年 カプリンスキーBBCの看板ニュース・キャスター、ナターシャ・カプリンスキーさんが年棒 100万ポンド(約1億3300万円)の契約でファイブに移籍。
2009年 景気後退のあおりでコマーシャル収入激減。年間の営業損失額が830万ポンド(約11億円)に達する。
2010年 リチャード・デズモンド氏率いるノーザン・アンド・シェル社が「ファイブ」を買収。買収額は1億400万ポンド(約139億円)。

ファイブの代表的番組

CSI: クライム・シーン・
インベスティゲーション
(CSI: Crime Scene Investigation)

米CBSの犯罪ドラマ・シリーズ。2005年に「ファイブ」が英国での放映権を獲得。

ネイバーズ(Neighbours)
オーストラリアのソープ・ドラマ。2007年に「ファイブ」が英国での放映権を獲得。

ミルクシェイク(Milkshake)
2〜7歳を対象にした子供番組。「きかんしゃトーマス」「ペッパ・ピッグ」など子供に人気の番組を数多く放映。

ザ・ガジェット・ショー(The Gadget Show)
最新の技術を使った機器(ガジェット)を紹介する番組。

ザ・ライト・スタッフ(The Wright Stuff)
マシュー・ライト司会のチャット・ショー。平日の午前に毎日放映。

フィフス・ギア(Fifth Gear)
自動車情報番組。新車の紹介など。


主要テレビ局の年間平均視聴率(%)

BBC1 BBC2 ITV Channel4 FIVE その他
1997 30.8 11.6 32.9 10.6 2.3 11.8
1998 29.5 11.3 31.7 10.3 4.3 12.9
1999 28.4 10.8 31.2 10.3 5.4 14.0
2000 27.2 10.8 29.3 10.5 5.7 16.6
2001 26.9 11.1 26.7 10.0 5.8 19.6
2002 26.2 11.4 24.1 10.0 6.3 22.1
2003 25.6 11.0 23.7 9.6 6.5 23.6
2004 24.7 10.0 22.8 9.7 6.6 26.2
2005 23.3 9.4 21.5 9.7 6.4 29.6
2006 22.8 8.8 19.6 9.8 5.7 33.3
2007 22.0 8.5 19.2 8.6 5.1 36.7
2008 21.8 7.8 18.4 7.5 5.0 39.5
2009 20.9 7.5 17.8 6.8 4.9 42.1

Source: Broadcasters' Audience Research Board

視聴者シェアは地上波で最低

7月末、地上波民放テレビ局「ファイブ(Five)」が売却され、大きなニュースとなった。これまで同グループを所有していた欧州最大のメディア会社、RTLグループが、リチャード・デズモンド氏率いるノーザン・アンド・シェル社に売却したもので、買収額は1億400万ポンド(約139億円)であった。

「ファイブ」は1997年に開局。番組構成は娯楽系が中心で、自社制作番組のほか、「CSI: クライム・シーン・インベスティゲーション」や「ネイバーズ」、「ホーム・アンド・アウェイ」などの海外の番組を数多く放送している。テレビ局別に平均視聴率を調べる統計では、開局以来、地上波5局の中で常に最下位にとどまっていることが示されており、だいたい4〜6%台で推移している。

ファイブは、2008年から始まった不況の影響によるコマーシャル収入の減少で大きな打撃を受け、昨年の営業損失額は830万ポンド(約11億円)に上っていた。昨年には、やはりコマーシャル収入の低下に悩むチャンネル4との合併話も出ていたが、実現には至らなかった。こうした背景から、RTLグループはファイブの売却先を募ることになり、先月末、ノーザン・アンド・シェル社との交渉がまとまったのである。

2000億ポンドの経費削減策

リチャード・デズモンド氏は、1974年にノーザン・アンド・シェル社を創設。ポルノ雑誌の発行で成功し、財を成した。2000年にはタブロイド紙「デーリー・エクスプレス」、「デーリー・スター」などを発行するエクスプレス・ニュースペーパー社を買収している。

大胆なコスト削減策を実行してきたことで知られるデズモンド氏だが、その評判に違わず、「ファイブ」でも、買収から間もない8月中旬、早くも2000万ポンド(約26億円)の経費削減に踏み切ることを明らかにした。今後、社員300人のうち60〜80人が解雇され、役員は9人中7人が社を去ることになるという。

「トップ・オブ・ザ・ポップス」が復活か

しかし同氏は同時に、今後5年間、計15億ポンド(約2000億円)を「ファイブ」に投資し、番組制作及び宣伝等に充てることも明らかにした。また、2002年に「チャンネル・ファイブ」から「ファイブ」に変更されていた局の名称を、再び「チャンネル・ファイブ」に戻すとの発表もあった。

「ファイブ」の今後の番組についてデズモンド氏は、「コロネーション・ストリート」や「Xファクター」、BBCの時事番組「パノラマ」など他局の人気番組を放送したいとの希望を語っている。また、チャンネル4での放送が今シーズンで終了した実験ドキュメンタリー番組「ビッグ・ブラザー」や、2006年に終了したBBCの音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」を「ファイブ」で復活させることを目論んでいるとも伝えられている。

更には、ノーザン・アンド・シェル社が発行する芸能誌「OK!」のテレビ番組版を制作するのではなどといった推測もある。地味でマイナーな存在の同局であるが、これを機に、BBCやITVといった大手テレビ局と肩を並べる存在となれるのか、デズモンド氏の手腕に期待がかかっている。

Richard Desmond

メディア会社ノーザン・アンド・シェル社所有者。1951年、ロンドン生まれ。中学卒業後、新聞社にクラシファイド欄担当として入社。その後21歳までにレコード店を2店所有。1974年にノーザン社創設。米男性誌「ペントハウス」英国版の出版権を獲得したほか、複数のポルノ雑誌を発行し、成功を収める。同社は2000年、エクスプレス・ニュースペーパー社を買収。また、「Television X」などのテレビのアダルト・チャンネルを所有している。昨年の「タイムズ」紙の長者番付によると、デズモンド氏の資産総額は9億5000万ポンド(約1268億円)。

(猫)

 

反英感情を刺激するBPの原油流出

米国を揺るがした爆発事故から4カ月
反英感情を刺激するBPの原油流出

米南部ルイジアナ州の沖合約80キロのメキシコ湾で、4月20日、石油掘削施設が爆発し、大量の原油が流出した。地元民の生活やビジネス、さらには環境へと大きな影響を与えたこの原油流出によって、英国に拠点を置く国際石油資本大手BPが非難の矢面に立っている。今週は、原油流出事件のこれまでを振り返った。


原油流出事故が起きた場所

世界の海洋における原油流出の主な事例

世界最大の流出
570万バレル
1991年(第一次湾岸戦争勃発)、クウェート

世界最大の流出
490万バレル
2010年4~8月、メキシコ湾
(BPが操業する施設で事故)
 

前回、メキシコ湾で発生した大きな流出
330万バレル
1979年、メキシコ湾
(イストク油田で事故)
 

原油流出事件の経緯

2010年4月
20日 米ルイジアナ州ベニスの南東部から沖合約84キロのメキシコ湾に設置された石油掘削施設「ディープ・ウォーター・ホライズン」で爆発事故が発生。11人が死亡する。
22日 掘削施設が海底に沈む。
26日 BPが深海ロボットを使って原油の流出を止めようとするが失敗。
30日 流出原油がルイジアナ州の海岸で確認できるようになる。オバマ大統領が米国内での新たな海底石油掘削作業の開始を禁止する。
2010年5月
2日 オバマ大統領が第1回目の現地視察。原油流出と清掃の責任は「BPにある」と発言。
8日 掘削施設に巨大な金属製の箱を置いて原油の流出を止める作戦を開始するが、失敗に終わる。
10日 BPが流出部分にゴルフ・ボールや古いタイヤなどを詰め込む「ジャンク・ショート」作戦を開始。また金属製のドームを被せる「トップ・ハット」作戦の準備を開始。
19日 流出原油が米東岸にまで流れる可能性を海洋学者が指摘。
26日 安全弁に泥を流し込んで原油流出を止める「トップ・キル」作戦をBPが開始するも、3日後に失敗したと報告。
28日 オバマ大統領が2回目の現地視察。
2010年6月
2日 原油流出を巡り、BPに刑事責任を求めるための調査が米国で開始される。
4日 オバマ大統領が3回目の現地視察。
14日 大統領が4回目の現地視察。
15日 オバマ大統領が、テレビ演説で「BPに損害の支払いをさせる」と語る。
16日 原油流出で損害を受けた人を助けるための総額200億ドルの基金をBPが設置する。また株主配当金の支払いを今年は行わないと発表する。
17日 原油流出を巡る問題で、BPのヘイワード最高経営責任者が米下院の公聴会に出席し、質疑応答を行う。
22日 流出部分に泥を入れていく「スタティック・キル」作戦を準備中とBPが述べる。
27日 ヘイワード氏が10月で辞任し、後任は米国人幹部ボブ・ダドリー氏になることをBPが発表。BPの第2四半期の決算が発表される。

(資料:BBC他)


BPの新旧CEO

現CEO: トニー・ヘイワード氏
Tony Haywardイングランド南東部スラウ生まれ、53歳。大学卒業後BPに就職し、北海油田の拠点であるスコットランドのアバディーンを皮切りに、世界各国で働く。採掘・生産部門の責任者として名を上げ、前CEOのブラウン卿に実力を認められる。2007年、BPのCEOに就任。「安全性を最優先する」と就任時に述べた。メキシコ湾沖原油流出事件では、「早く自分の人生を取り戻したい」などといった自己中心的と思われる発言が相次ぎ、米国民の非難の的になった。今年10月に退職予定。

次期CEO: ボブ・ダドリー氏
BPの米国及びアジア担当の業務執行副社長。米ニューヨーク生まれ、54歳。石油会社アムコで働く。90年代はアムコのモスクワ支店で働き、98年にアムコがBPに買収された後、2003〜08年までBPとロシア系石油企業の合弁会社TNK-BPの社長。昨年からBPの経営陣の一員となる。6月からはメキシコ湾での原油流出問題の責任者として処理に当たっている。10月からヘイワードCEOの後を継ぎ、新CEOに就任予定。


原油流出事故で赤字に転落

原油流出4月20日夜、米南部ルイジアナ州沖のメキシコ湾内にある石油掘削施設「ディープ・ウォーター・ホライズン」で、大規模な爆発と火災が発生した。11人の作業員が行方不明となり(後に全員死亡と判明)、水深約1500メートルの海底に伸びる、破損した掘削パイプからは大量の原油が海中に流れた。この作業を委託していたのが、鉱区の採掘権を持つ英国際石油資本(関連キーワード参照)、BPだった。

ガスと原油の流出を止めるため、BPは海底油井の入り口に重液やセメントを注入する「トップ・キル」作戦を含む様々な措置を実施。8月上旬には流出をほぼ止めたが、その時点で既に約490万バレルの原油を流出させていた。BPによる事故の対策費用は61億ドル(約5210億円)に上り(8月9日時点)、原油事故関連で約321億ドルの特別損失を計上。2010年第2四半期決算では、純損益が、前年同期の黒字から171億5000万ドルの赤字に転落した。

非難を浴びる最高経営責任者の対応

この事件で特に槍玉に挙がったのが、まるでこの事故が他人事でもあるかのように、「早く自分の生活を取り戻したい」と発言した、BPの最高経営責任者を務めるトニー・ヘイワード氏の対応ぶりだ。オバマ米大統領が米テレビのインタビューの中で、「(自分がそうする立場にあれば)ヘイワードを解雇する」と発言し、反ヘイワード感情を煽った。さらには、ヘイワード氏が一時英国に帰国した際にヨット・レースを観戦していたことも不評を買った。

オバマ大統領は、BPに対しての厳しい態度を次第に硬化させていく。6月には、ホワイトハウスの執務室からの初のテレビ演説という貴重な機会を使って、被害を受けた地元民への補償に必要な資金を確保するようBPに求めた。翌日、BP幹部は年内における株の配当を見送ることを発表したが、これは大統領との長時間の会談の直後だった。

米国内での反英感情に発展

地元民や惨状を知った米国民、そして米国の政治家からの怒りの矛先は、BPだけではなく、BPが本社を置く英国にも向けられた。反ヘイワード、反BP感情が、次第に英国に対する不信感へとエスカレートしたように思えたのが、「リビア疑惑」だ。1988年に発生した米パンナム機爆破事件の犯人として、事故現場となったスコットランドで受刑中だった元リビア情報機関員が、昨年、病気を理由に恩赦となって本国に帰国した件があった。イングランド地方とは別の司法制度と議会を持つスコットランドの法曹界と政界の判断による恩赦・帰国だったが、一部の米政治家らが、「BPがリビアとの油田開発計画を進めるために、恩赦となるよう英政府に圧力をかけた」と主張するようになったのである。

そのほぼ1週間後、BPは、ヘイワード氏が9月末で辞任すると発表した。後任は米国出身のボブ・ダドリー現業務執行副社長であり、同氏の課題は何よりも企業イメージの回復と被害補償の対応になる。ルイジアナ州の被害地域の地元民や、同地での生活の糧を失った漁業を営む家庭にとっては、まだまだ心が休まらない日々が続くことになるだろう。

International Oil Majors

国際石油資本または石油メジャー。石油の採鉱、生産、輸送、精製、販売までを取り扱う、石油系巨大複合企業全体の総称。第二次大戦から1970年代まで世界の石油生産をほぼ独占していた7企業をイタリアの政治家エンリコ・マッティが「セブン・シスターズ」と呼んだ。70年代 以降、産油国が石油開発に経営参加、国有化を推進し、次第に7企業の独占は崩れた。7社は合併・合理化され、現在は「スーパー・メジャー」(エクソンモービル、シェブロン、BP、ロイヤル・ダッチ・シェル、トタル、コノコフィリップスの6社)と呼ばれる。

(小林恭子)

 

ロンドンで自転車レンタル・スキームが開始

首都ロンドンを6000台が走る
自転車レンタル・スキームが開始

7月末、ロンドンでもいよいよ自転車のレンタル・スキームが始まった。ボリス・ジョンソン・ロンドン市長の念願であったというこのプロジェクトは、地下鉄やバスの利用に慣れたロンドン市民の移動方法を大きく変えることになるのか。今回は、このスキームの仕組みについて解説する。

ロンドンの自転車レンタル・スキームの仕組み

Barclays Cycle Hire Scheme利用者の区分

(1)メンバー
メンバーになるには、ロンドン交通局のウェブサイト(www.tfl.gov.uk)または電話で登録を行わなければならない。 登録にはデビット・カードまたはクレジット・カードの情報が必要。登録すると、「メンバーシップ・キー(Membership Key)」と呼ばれる、自転車を借りる際に使う電子キーが郵便で送られてくる。

(2)カジュアル・ユーザー
登録の必要なし。

利用方法

自転車を借りる
「メンバー」として登録している人は、ロンドン中心部の各地に設置された駐輪場で、自転車が固定されている駐輪機に自分の「メンバーシップ・キー」を差し込むことによって、自転車を取り外し、借りることができる。「カジュアル・ユーザー」は、「自転車アクセス料」を支払った際に配布された5桁の番号を駐輪機に入力することにより、自転車を取り外し、借りることができる。

自転車を利用する
「自転車アクセス料」を払った時間内なら、借りた自転車を返却しても、再び何度でも別の自転車を借りることが可能である。ただし、「自転車利用料」は、自転車を借りる度に発生する。また、1度自転車を返した後、次に借りることができるのは、返却の5分後以降である。

自転車を返却する
「自転車アクセス料」を払った時間内に、駐輪場に自転車を返却する。自転車を返却する駐輪場は、借りた駐輪場と同じである必要はない。

料金

自転車アクセス料(Access Fee)
24時間 1ポンド
7日間 5ポンド (1日あたり71ペンス)
1年間 45ポンド (1日あたり12ペンス)

Boris Johnson
自転車利用料(Usage Charge)
30分まで 無料
1時間まで 1ポンド
1時間半まで 4ポンド
2時間まで 6ポンド
2時間半まで 10ポンド
4時間まで 15ポンド
6時間まで 35ポンド
24時間まで 50ポンド

  • 自転車を借りるには、「自転車アクセス料」と「自転車利用料」の両方を払わなければならない。
  • 1年間の「自転車アクセス料」を払うことができるのは、「メンバー」として登録している人のみ。
  • 「自転車アクセス料」の支払い方法は、「メンバー」の場合、ロンドン交通局のウェブサイトまたは電話で、クレジット・カードまたはデビット・カードを使って支払う。「カジュアル・ユーザー」は、各駐輪場(「ドッキング・ステーション」と呼ばれる)に設置されているターミナルで、あるいはロンドン交通局のウェブサイトまたは電話で、クレジット・カードまたはデビット・カードを使って支払う。
  • 「自転車利用料」は、24時間または7日間の自転車アクセス期間を選んだ場合、それらのアクセス期間が終了した時点で、クレジット・カード及びデビット・カードに課金される。これは「メンバー」でも「カジュアル・ユーザー」でも同じ。「メンバー」として登録しており、1 年間の自転車アクセス料を払っている場合は、月ごとにクレジット・カードまたはデビット・カードに課金されるほか、銀行引き落とし(ダイレクト・デビット)での支払いを選ぶこともできる。
  • 「自転車アクセス料」及び「自転車利用料」の現金での支払いは不可。 オイスター・カードは使用不可。

その他の料金

メンバーシップ・キー 3ポンド
自転車のレンタル時間が「自転車アクセス料」を払った時間を超過した場合の罰金 150ポンド
自転車を破損・故障させた場合の罰金 最高300ポンド
自転車を返却しなかった場合の罰金 300ポンド
  • これらの罰金はクレジット・カードまたはデビット・カードに課金される。
  • 「メンバー」は、「自動更新(Auto-Renewal)」のオプションを選択すれば、自転車レンタル中に利用時間が「自転車アクセス料」を支払った時間を超えてしまった場合でも、自動更新機能が働き、「自転車アクセス料」の更新ができる(最後に支払ったのと同じ種類の「自転車アクセス料」が新たに課金される)。
  • また、「メンバー」で、「自動更新」のオプションを選択していれば、自転車を借りる度に「自転車アクセス料」の支払いの手続きをしなくても、駐輪機(「ドッキング・ポイント」と呼ばれる)に自分のメンバーシップ・キーを挿入するだけで、前回支払ったのと同じ種類の「自転車アクセス料」が課金される仕組みになっている。

その他

  • 1日24時間、自転車のレンタルが可能。
  • 「カジュアル・ユーザー」の利用は8月末から開始。現在は「メンバー」として登録した人しか利用できない。
  • 1回ごとの「自転車利用料」の支払い可能時間は最大24時間。
  • 観光客など英国非在住者でも、「カジュアル・ユーザー」として利用が可能。
  • 駐輪場は、地下鉄のゾーン1とほぼ重なるロンドン中心部のエリア内に、約300メートル間隔で約400カ所設置されている。
  • 自転車レンタルの予約はできない。
  • 「メンバー」及び「カジュアル・ユーザー」として本スキームを利用できるのは18歳から。
  • ただし、「メンバー」または「カジュアル・ユーザー」は、最大3人までの14歳以上の者を、自分の「追加ユーザー」とすることができる。「追加ユーザー」の「自転車アクセス料」及び「自転車利用料」は、「メンバー」または「カジュアル・ユーザー」が負担する。
  • 駐輪場で自転車を返却しようとしたが、すべての駐輪機に自転車が駐輪されており、自転車を返却できない場合、別の駐輪場への移動を可能にするため、自転車の利用可能時間が無料で15分間延長される(時間延長のための操作は駐輪場のターミナルで行うことができる)。使用されていない駐輪機がある近くの駐輪場の場所は、駐輪場に設置されているターミナルに示されるインタラクティブ・マップで知ることができる。
  • 駐輪場に自転車がない場合(すべて貸し出しされている場合)は、駐輪場のターミナルに示されるインタラクティブ・マップで、利用可能な自転車が駐輪されている近くの駐輪場の場所を知ることができる。
  • 本スキームで貸し出される自転車は、本スキーム専用の駐輪場以外の場所に駐輪してはいけない(自転車に鍵は付いていない)。

Source: Transport for London

最初の30分は利用料無料

フランス・パリなど、自転車のレンタル・スキームを実施している自治体の例は数多くある。カナダのモントリオール市の例に倣ったというロンドンのスキームでは、合計6000台の自転車がレンタルされており、「ドッキング・ステーション」と呼ばれる駐輪場は、ロンドン中心部に約400カ所設置されている。自転車の車体に大きく「BARCLAYS」と書いてあることからも分かるように、バークレイズ銀行がスポンサーとなっており、2500万ポンド(約33億7500万円)を拠出しているという。

スキームの利用には、「自転車アクセス料」と「自転車利用料」の両方を払う必要がある。「アクセス料」は、24時間なら1ポンド(約135円)で、「利用料」は、最初の30分は無料である。「アクセス料」を支払った時間内ならば、何度でも自転車を借りることができる。つまり、24時間の「アクセス料」を払い、上手に駐輪場から駐輪場の間を移動して、すべての自転車の利用時間を30分以内にとどめれば、1日わずか1ポンドで、ロンドン内を快適に移動できることになる。

長時間の利用は割高

利用者の区分には、登録を必要とする「メンバー」と、登録を必要としない「カジュアル・ユーザー」がある。どちらのステータスでも料金は変わらないが、「メンバー」になると、「アクセス料」を1年分まとめて払うことができる。現在は、「メンバー」のみが同スキームを利用することが可能であり、「カジュアル・ユーザー」の利用は8月末からとなっている。

このように、普段自転車を利用しない人でもペダルを漕ぎたい気持ちにさせる魅力的なスキームであるが、一つ指摘されていることは、自転車の利用時間が長時間にわたる場合の「利用料」が高いことである。例えば、4時間までの「利用料」は15ポンド(約2025円)、6時間までなら35ポンド(約4725円)、1回ごとの最大利用可能時間である「24時間まで」を選んだ場合、なんと50ポンド(約6750円)にまではね上がる。これは、同スキームが主に短い距離の移動を対象にしているためであり、ロンドン交通局(TfL)の広報官は、「長時間にわたって自転車を借りたい人は、民間の自転車レンタル会社を利用してほしい」と述べている。

ロンドンの新たなシンボルに

自転車レンタル・スキームの実施は、自身も自転車好きなことで知られるボリス・ジョンソン・ロンドン市長の市長当選以来の念願であったらしい。同市長は、2025年までに、ロンドン市民の自転車利用を2000年比で400%増やしたい意向であり、今回のスキームの開始にあたっては、公共交通機関の混雑解消や健康増進など、自転車の利点を市民にアピールしている。

ロンドンの広域行政を担当するグレーター・ロンドン・オーソリティー(GLA)の交通政策局長であるクルビア・レンジャー氏は、同スキームで使われている青色の自転車を、赤いバスや黒塗りのタクシーと同様のロンドン名物にしたいと意気込みを語っている。ともあれ、ロンドン住民ならば1度は試してみたいスキームであると言えるだろう。

Boris Johnson

ロンドン市長。1964年6月19日生まれ、46歳。父方の曽祖父は、オスマン帝国時代のトルコで内務大臣を務めた経験もあるトルコ人ジャーナリストだった。また、父方の祖母の祖先はハノーバー朝の王ジョージ2世である。オックスフォード大卒。「デーリー・テレグラフ」紙の記者、「スペクテーター」誌の編集長などを務めた後、2001年に下院議員に初当選。08年のロンドン市長選で現職のケン・リビングストン氏を破り、当選。サイクリング好きで知られており、自前の自転車にまたがり、颯爽と移動する姿はメディアでもしばしば取り上げられている。

(猫)

 

「核」を巡る世界の動向 英仏独が挑むイランの核開発問題

「核」を巡る世界の動向
英仏独が挑むイランの核開発問題

核兵器の原料であると共に、国民生活の維持・向上や経済の発展に必要なエネルギー資源の供給源でもある「原子力」。第二次大戦後、この二面性を持つ原子力を様々な形で利用してきた国際社会は、21世紀に入り、「イラン対英仏独米露中」という新たな核開発を巡る世界情勢の中で、打開策を見い出せずにいる。

イランの主要原子力施設

国連安保理による「対イラン制裁決議」
2006年7月「1696号」 イラン核開発に関する決議
2006年12月「1737号」 イランに対する制裁を決定(核物質・装置輸出入禁止、資産凍結制裁等)
2007年3月「1747号」 イランに対する制裁延長を決定
2008年3月「1803号」 イランに対する制裁延長を決定
2008年9月「1835号」 イランに決議遵守を要請
(ウラン濃縮中止要求等)
2010年6月「1929号」 イランに決議遵守を要請(武器禁輸、渡航拒否、 記入制裁、貨物検査の強化等)

イランの核開発問題年表

2002年   イランの反体制派組織の暴露により、イランが国内で大規模原子力施設を建設しているとの疑惑が浮上
2003年 2月 国際原子力機関(IAEA)の視察により、イラン国内における大規模原子力施設の建設が発覚
10月 英国、フランス、ドイツ(EU3)がイランの核兵器所有阻止に対する対策実施を宣言。当時「Big 3」と称されたジャック・ストロー英外相、ドミニク・ド=ビルパン仏外相、ヨシュカ・フィッシャー独外相により、EUの対イラン政策方針が決定
2004年   EU3とイランの間で「パリ合意」締結
2005年   イランがウラン転換活動の一部を再開。IAEA理事会は、イランがIAEA保障措置協定に「違反(non-compliance)」していると認定
2006年 1月 イランが「平和的原子力エネルギー計画に関する研 究開発」の活動開始を決定
4月 イランが3.5%の濃縮ウラン製造の成功を発表
6月 EU3、米国、ロシア、中国の6カ国合意としてイランに対する包括的提案を提示
2007年 4月 イラン大統領アフマディネジャドが、イランは核燃料を産業規模で生産可能であると言明
5月 IAEAが、イランは核兵器を3〜8年間で生産可能であると発表
10月 米国がイランに対する制裁措置を強化(過去30年で最も厳しい制裁)
2008年 2月 イランが新宇宙センターの開設記念としてロケット1基を発射。西洋による宇宙計画の支配に対抗
7月 イランが長距離弾道ミサイル「シャハブ3」を開発。イスラエル等は射程内であると言及
2009年 9月 イランの新たな濃縮施設の建設が発覚
10月 EU3+3(米・露・中)とイラン間で、イラン製低濃縮ウランの再濃縮・加工の国外移送等を協議
11月 イランに対して新たな濃縮施設の建設中止等を求めるIAEA理事会決議が採択
12月 アフマディネジャド大統領が約20%ウラン濃縮実施を宣言
2010年 1月 EU3+3がイランに対する追加措置の検討を開始
2月 イランがウラン濃縮実施開始をIAEAに通報
5月 イラン、トルコ、ブラジル間で「イラン製低濃縮ウランの国外移送」が合意
6月 欧州理事会がイランの付随措置を宣言、続いて米議会が対イラン制裁法案を可決
7月 EUが新たな対イラン制裁の発動を決定(制裁対象に、初めて石油・天然ガス産業を追加)

核開発を巡る世界動向年表

1938年 独が初めて核分裂現象を発見
1945年 米国が核実験に成功、広島と長崎に原爆投下
1949年 旧ソ連が原爆実験に成功
1952年 英国が原爆実験に成功
1953年 第8回国連総会が開催、アイゼンハワー米大統領が「Atoms for Peace」演説を行う
1957年 国際原子力機関(IAEA)の設立
1960年 仏が核実験に成功
1963年 米国、旧ソ連、英国間で「部分的核実験禁止条約(PTBT)」が発効
1964年 中国が核実験に成功
1968年 「核不拡散条約(NPT)」署名解放(1970年に発効)
1974年 インドが「平和的利用」として核爆発実験を実施
1979年 南アフリカとイスラエルによる核爆発実験実施疑惑が浮上
1991年 イラクによる核兵器開発計画の実施が発覚
1992年 北朝鮮による核兵器開発疑惑が浮上
1995年 NPTの無期限延長が合意
1996年 核兵器の実験的な爆発を全面的に禁止する「包括的核実験禁止条約(CTBT)」成立
1998年 インドとパキスタンが相次いで核実験を実施
2002年 イラクが核兵器を含む大量破壊兵器所持、また は製造計画を再開しているとの疑惑が浮上
2003年 北朝鮮がIAEA査察員の退去を要請。黒鉛減速型原子炉等の施設の再稼働を開始
2006年 北朝鮮が核実験を実施

IAEA
2010年4月現在の加盟国は151カ国。09年12月以降、日本の天野之弥氏が事務局長を務める。IAEAの主な権限は、(1)原子力の平和的利用のための研究、開発、実用化における物資・施設等の提供、援助(2)情報交換の促進(3)科学者・専門家の訓練(4)原子力の軍事的利用防止(5)人命及び財産に対する危険を最小にするための安全上の基準を設定、採用する等

「原子力の平和的利用」という概念

核開発問題に対する国際的な取り組みは、既に半世紀以上前から始まっている。とりわけ、1953年、アイゼンハワー米大統領(当時)が国連総会で行った「Atoms for Peace(原子力の平和的利用)」演説を契機に、原子力を国際的に管理するための機関「国際原子力機関(IAEA)」創設に向けての気運が高まった。

そもそも、この「原子力の平和的利用」は、当時米国が直面していた国際政治状況から生まれた概念であるとも言える。1945年、核実験成功を遂げて世界初の核保有国(核兵器国)となった米国は、同年8月、長崎・広島の原爆投下を実施。その後、旧ソ連と英国が次々と原爆実験を成功させる等、それまで核兵器を独占所有していた米国の立場が変化していった。

1957年、米国の提言を基にして「IAEA」が発足し、国際原子力機関による原子力の平和利用の促進と新たな核兵器国の出現防止を目指したものの、1963年にはフランス、そして1968年には中国が各々核実験を成功させる等、核の拡散に歯止めを掛けるには至らなかった。

冷戦時代の核開発とその打開策

冷戦下における米ソ両超大国は、「相互確証破壊(Mutual Assured Destruction、MAD)」に基づく核戦略を展開させる等、核兵器を外交の切り札として利用すると共に、核による全面戦争を回避しようという試みを通じて、その恐怖の均衡を保とうとした。

しかし、1962年のキューバ危機により、米ソ間における核戦争勃発危機が発生。同勃発を回避すべく、翌63年には、米国、旧ソ連、英国間で「部分的核実験禁止条約(PTBT)」が発効されたが、当時、既に核実験を成功させていたものの地下核実験の技術を有していなかったフランスと中国が、同条約への署名を拒否。その打開策として1968年に締結された「核不拡散条約 (NPT) 」では、米・旧ソ・英・仏・中の5カ国を「核兵器国」と定め、それ以外の「非核兵器国」への核兵器の拡散防止を目指すとした。その一方で、1970年代にはインドが核爆発実験を実施している。また1990年代には、イラクや北朝鮮による核兵器開発計画の実施疑惑が浮上する等、第三世界における核の拡散がみられるようになった。

「EU3」とイランの核開発問題

国際社会が新たな核問題に直面したのは2002年、イランによる過去18年間の未申告核活動が発覚した時だった。翌03年、EU主要国の英国、フランス、ドイツからなる通称「EU3」は、イランが核兵器国となることを全面的に阻止する旨を発表。これは、1979年のイラン革命後、対イラン外交が滞っていた米国に代わり、EU3が国際社会を代表してイランとの核問題の交渉責任を担う姿勢をいち早く示したものだった。

当時、EU3は、対イラン対策を通じてEU内部の安定・成長協定等の強化、及び国際社会における主導権確保等の目論見があったとみられる。これまでEU3+3(米・露・中)は、イランに対し「圧力」と「対話」の双方的なアプローチを取ってきたが、イラン側もその都度独自の提案を提示する等、依然として双方の主張は平行線を辿っている。

核拡散防止条約
(Nuclear Non-Proliferation Treaty、NPT)

1968年7月1日、核不拡散、核軍縮、及び原子力の平和的利用等を目的として成立した条約に対する署名を開放。70年3月5日の発効以降、加盟国が増加し、本年5月現在における締約国は190カ国に上る。ただし、「核兵器国*」の米、露、英、仏、中は核の保有が認められており、また、核保有国であるとされるインド、パキスタン、イスラエルの3国はNPT非締約。
*1967年1月1日以前に核兵器その他の核爆発装置を製造、且つ爆発させた国を指す。該当国は、IAEAと原子力施設リストの提出等を約束する「ボランタリー・オファー保障措置協定」を締結している。

(吉田智賀子)

 

ピーター・マンデルソン氏が回想録を出版

労働党政権の「ナンバー・スリー」
マンデルソン氏が回想録を出版

1997年から13年間続いた労働政権が終わって2カ月余りの今月中旬、早くも同政権の要として活躍していた人物が、回想録を出版した。出版直前には高級紙で抜粋記事が連載された効果もあって世間の注目度は高く、当然のごとくベストセラーとなっているが、さて、その内容はどのようなものなのだろうか。


The Third Manピーター・マンデルソン氏回想録
「第三の男 - ニュー・レーバーでの日々
(The Third Man: Life at the Heart of New Labour)」から抜粋


チャールズ皇太子について

「彼(チャールズ皇太子)は国民にどう思われているか? 私は言った。『あなたは、ご自分が考えるより、国民から愛情、同情、尊敬を受けていると思います』。しかし、と私は付け加えた。『一部の国民は、あなたが自己憐憫にひたっていて、むっつりした、精気に欠ける人だと感じています。このことは、あなたが国民に与える印象に悪い影響を及ぼしています』。私は言い過ぎたかと心配になった。カミラ(・パーカー・ボウルズ)は明らかに心配そうな表情で皇太子の方を見ており、一方の皇太子は、驚いた様子だった」

(1997年のダイアナ元妃の死の数週間前、マンデルソン氏がチャールズ皇太子の公邸での昼食に招待された際に関する記述)


トニー・ブレア氏とゴードン・ブラウン氏の
対立について

「我々は、ゴードンがトニーを首相職から引きずり下ろしたいと考えているという事実に向き合わなければならなかったのだ」

(2003年、マンデルソン氏を含むブレア首相の側近が、「テディベア作戦」と称し、ブラウン財務相の権力弱体化を狙って財務省分割を画策していたことについて)

「トニーは、『ゴードンは全体を見渡す能力に欠け、被害妄想的だ』と言った。トニーにとっての問題は、こうした性格のため、ゴードンは首相としての適性に欠けるのではないかということだった。トニーはこの点について、確信が持てなかった」

(ブレア政権第2期の2003年に関する記述)

「トニーは私にこう言った。『僕が今までに経験した中で最も醜いミーティングだった。むき出しの、あからさまな脅迫に直面しなければならなかった』」

(2006年3月、ブレア首相が年金制度改革案についてブラウン財務相とミーティングした後、マンデルソン氏に述べた言葉)


ブラウン政権下でのブラウン首相と
アリスター・ダーリング財務相の対立について

「予算発表の日が近付いてくるにつれ、アリスターは我慢の限界に達していった。彼はこう言った。『ゴードンが僕のことを信頼していないのは分かっている。もう彼は、自分の思い通りにやるために、エド(・ボールズ児童・学校・家族相)を財務大臣にすればいいんだ』」

(2009年の予算発表前、アリスター・ダーリング財務相がマンデルソン氏に言ったとされる言葉)


イラク戦について

「軍事作戦の準備が進むにつれ、戦争について私と同様の懸念を持つ者は、戦争に100%乗り気ではないとトニーが感じる者たちと、トニーの頭の中で一緒くたにされた。その2つのグループの間の境界線が、トニーの心の中であいまいになっていた」

(2002年に関する記述)

「それは米国の義務だ。米国次第だ」

(イラク戦開戦前の2003年、マンデルソン氏が、ブレア首相に対し、イラクの戦後処理について聞いた時のブレア首相の答え)


2010年総選挙後の連立交渉について

「分かってください。私はあなたに個人的な敵意などはありません。しかし、あなたが威厳を持って首相職を辞任しない限りは、連立政権を妥当なものとし、住民投票で選挙制度改革を可決させることはできないのです」

(2010年総選挙の連立交渉で、ニック・クレッグ自由民主党党首がブラウン首相に言ったとされる言葉)

*文中、「首相」「財務相」などの肩書きは、発言が行われた当時のもの

ピーター・マンデルソンピーター・ マンデルソン氏
プロフィール

1953年10月21日、ロンドン生まれ。56歳。父はユダヤ人を対象にした新聞の広告部長だった。ロンドン北部の公立校からオックスフォード大に進学。卒業後、テレビ局のプロデューサーとして勤務。1979〜1982年には、ロンドン南部の区で区議会議員も務めた。1985年、労働党の広報部長に就任。敵対勢力の中傷を意図したメディア戦術や選挙キャンペーン術に長けることから、「スピン・ドクター」と呼ばれたほか、陰険さをイメージさせる「暗闇の王子(Prince of Darkness)」とのあだ名も付けられた。

1992年の総選挙で下院議員に初当選。1997年の総選挙で労働党が政権を獲得すると、無所任相(Minister without Portfolio)として入閣。1998年7月、貿易・産業相に任命されるが、住宅購入のため下院議員から融資を受けていたことを下院に申告していなかったことが発覚し、同年12月に辞任。1999年10月、北アイルランド相として内閣に復帰するが、インド人実業家の英国パスポート取得で便宜を図った疑惑が浮上したことを受け、2001年1月に辞任。2004年11月、欧州委員会通商担当委員に就任し、下院議員を辞任。

2008年10月、ブラウン首相の要請を受け、ビジネス・企業・規制改革相に就任し、英政界に復帰。ブラウン氏とは犬猿の仲として知られていたため、このニュースは驚きをもって伝えられた。同時に上院議員に任命される。なお、マンデルソン氏は、2000年に同性愛者であることを公にしている。

ニュー・レーバーの立役者

労働党政権の重鎮として知られていたピーター・マンデルソン氏が、前政権の内幕を綴った回想録を今月15日に発表した。マンデルソン氏は1980年代以降、後に首相となるトニー・ブレア氏、ゴードン・ブラウン氏と共に労働党の近代化を推進し、「ニュー・レーバー」の立役者の一人であった。労働党が政権を獲得した1997年以降は、ブレア、ブラウン両首相の下、政権の中枢として活躍。「第三の男」という回想録のタイトルには、労働党政権において自分は、主要人物2人(ブレア、ブラウン)に次ぐ重要な位置を占めていたという意味が込められていると思われる。なおマンデルソン氏は、1994年の労働党の党首選でブレア氏を支持して以来、ブレア氏とは非常に近しく、側近の一人であったが、ブラウン氏とは犬猿の仲であった。

「狂っていて、凶悪で、危険」

同書の中で特に大きな関心を集めているのは、ブレア氏とブラウン氏の対立に関する記述である。両氏が首相職を巡って対立していたというのは有名な話であるが、同書によるとブレア氏は、首相時代の2003年、当時財務相だったブラウン氏に、「2005年の総選挙の前に首相職を譲る」と約束したが、これを守らなかった。激怒したブラウン氏は、ブレア氏曰く「マフィアのような、攻撃的で、粗暴な」態度で同氏に怒りをぶつけ、後にブレア氏はマンデルソン氏に、「ゴードンは、狂っていて、凶悪で、危険で、救いようがない」と語ったほどだったという。

同書によるとまた、これと同時期、ブレア氏の追い落としを狙うブラウン氏の勢力を弱めることを狙いとして、財務省を2つの省に分割する「テディベア作戦」と名付けられた計画が、ブレア氏の側近の間で考案されていた。しかし悩んだ末にブレア氏がこの案をブラウン氏に切り出したところ、ブラウン氏はきっぱり拒絶。ブラウン氏の反対を押し切るほど自分の立場は強くないと考えたブレア氏は、ここで諦めてしまったらしい。

更に同書では、ブラウン氏が首相になった後の2009年末、労働党の支持率が低迷し、総選挙敗北の見込みが濃厚となる中、マンデルソン氏が、他の閣僚2人と、次の選挙のスローガンは「Fucked、 Finished、Futile(滅茶苦茶で、終わっており、無益)」にしようと冗談を言い合っていたという事実なども明かされている。

ブレア氏は同書に「激怒」

政権交代からわずか2カ月後にこれほど暴露的な内容の回想録を出したことについては、当然のことながら労働党内から強い批判の声が出ている。現在行われている労働党党首選の候補者からは、「過去の派閥主義を脱して党が未来に向けて進むべき時期に不適切」との声が上がっている。これに対し当のマンデルソン氏は、「同書に盛り込まれた内容は、労働党の党首選で議論されている党の将来に関連する内容である」として、今のタイミングでの出版を弁護している。

報道によると、同書の出版についてブレア氏は「かんかんに怒っている」と言われている。今年9月には同氏自身の回想録も出版されるが、その内容も今から楽しみである。

Memoir

「回想録」を意味する英単語。「Autobiography(自伝)」は、その多くが、出生から現在までの自らの人生を語るスタイルであるのに対し、回想録は、著者が選んだ期間の出来事を追想して書くという形式が多い。回想録の書き手は、政治家など公の立場にいる人から、一般庶民まで様々である。英国の政治家による有名な回想録には、サッチャー元首相による「サッチャー回顧録 ── ダウニング街の日々(The Downing Street Years)」などがある。また現在、ブレア元首相のほか、ブラウン前首相、その夫人のセーラさんも回想録を執筆中であると伝えられている。

(猫)

 

「タイムズ」紙のサイト有料化計画

大いなる実験の行方は?
「タイムズ」紙のサイト有料化計画

「タイムズ」紙と「サンデー・タイムズ」紙の電子版記事が、この7月から全面的に有料化された。新聞の発行部数の慢性的下落や、広告収入の落ち込みに苦しむ英国の新聞界は、どこも台所事情が厳しい。新聞の存続をかけて、電子版有料化に踏み切った両紙の動きは、果たして成功するだろうか。

英米における主な新聞の電子版課金体制
平均発行部数 電子版の購読者数 有料化の仕組み
米ウォール・ストリート・ジャーナル
200万部 100万人 無料記事と有料記事の組み合わせ
米ニューヨーク・タイムズ
95万部 課金は
来年から実施
メーター制(一定本数以上は有料)となる予定 (2005~07 年、有料購読制「タイムズ・セレクト」実施)
英フィナンシャル・タイムズ
40万部 12万7000人 登録後、月10本まで無料。それ以上は有料に
英タイムズ
35万部 未発表 7月から全面有料化。1日で1ポンド、1週間で2ポンド
英サンデー・タイムズ
110万部 未発表 7月から全面有料化。1日で1ポンド、1週間で2ポンド

*発行部数はおおよその数字。「フィナンシャル・タイムズ」の数字は全世界での部数。ほかは主に自国内。

英主要紙サイトの月間ユニーク・ユーザー*数(2010年4月)
新聞名 月間平均ユーザー 前月比 前年同月比
メール・オンライン 4050万677人 3.40% 75.00%
ガーディアン 3190万127人 -4.41% 16.70%
テレグラフ 3022万7486人 -0.10% 26.60%
インディペンデント 987万1286人 -1.21% -5.38%
ミラー・グループ・デジタル 932万9485人 -7.28% 8.52%

*あるウェブサイトを特定期間のうちに訪れた人の数。
(英ABC 調べ)(「タイムズ」、「サンデー・タイムズ」は有料化移行のため、計測に参加していない)

英国における主要新聞の発行部数(2010年6月)
新聞名 発行部数 前月比
(%)
前年
同月比
(%)
平日・日刊有料紙
サン 297万9999部 1.50 -1.60
デーリー・メール 290万2643部 0.10 -4.93
デーリー・テレグラフ 68万1322部 -2.45 -18.45
タイムズ 50万3642部 -2.28 -14.77
フィナンシャル・タイムズ 39万1864部 -2.00 -4.88
ガーディアン 28万6220部 -4.74 -14.82
インディペンデント 18万7135部 -3.79 -6.62
日曜紙
ニューズ・オブ・ザ・ワールド 282万8800部 -1.05 -6.27
メール・オン・サンデー 190万8995部 -0.50 -7.29
サンデー・テレグラフ 50万8706部 -0.80 -17.41
サンデー・タイムズ 108万5724部 -2.87 -10.30
オブザーバー 32万6821部 -3.95 -20.28
インディペンデント・オン・サンデー 15万7135部 -4.30 -3.29

(英ABC 調べ)

「タイムズ」紙のこれまで

1785年 「デーリー・ユニバーサル・レジスター」紙が創刊。3年後に「タイムズ」に改名
1806年 紙面に初めてイラストを掲載する
1807年 社内最初の外国特派員が任命される
1814年 所有者ジョン・ウオルター2世が、蒸気機関を使った高速印刷機を導入する
1830年 ある貴族を「自殺」とした検死結果は、上流社会がスキャンダルを隠すために仕組んだ隠ぺい工作だと指摘した社説が、非常に迫力のある文章で書かれていたため、「雷が落ちるように怒鳴る」新聞=「サンダラー」という愛称が付けられる。1831~32年に、選挙法改正に向けて国民に行動を起こすように促した、怒鳴る口調からこの愛称が付いたとする説もある
1868年 発行部数が、ロンドンのほかの日刊紙の総発行部数の3倍となる6万部に
1902年 経営危機に陥り、ノースクリフ卿が所有者に
1914年 1ペニーに価格を下げ、発行部数が16万6000部に急増する。第一次大戦の勃発で、部数は27万8000部に増加
1922年 ノースクリフ卿が亡くなり、ジョン・ジェイコブ・アスター(後のアスター卿)が買収
1926年 ゼネラル・ストライキの間、発行を続けた唯一の新聞となる
1966年 既に「サンデー・タイムズ」紙を所有していたトムソン卿が、 「タイムズ」紙を買収する。広告のみだった1面に、初めてニュース記事が載る。英国の新聞では初めて裸の女性の写真を使った広告を出し、世間を騒がせる
1978年11月 労働争議により、発行がほぼ1年間停止される
1979年11月 印刷再開
1980年 トムソン卿が「タイムズ」紙を売却に出す
1981年 ニューズ・インターナショナル社が買収
1985年 創刊から200周年を迎え、エリザベス女王がオフィスを訪問する
1994年 記事の一部や要約がオンライン掲載されるようになる
1995年 欧州他国での印刷開始
1996年 「タイムズ」紙のウェブサイトがサービス開始
2000年 紙面とウェブサイトのデザインを刷新
2003年 「コンパクト判」と通常の「ブロードシート判」の平行発行開始
2004年 コンパクト版のみの発行となる
2005年 国際版の発行開始
2007年 ウェブサイトのデザインを刷新
2010年7月 「タイムズ」紙と「サンデー・タイムズ」紙のウェブサイトの閲読を全面有料化

(資料:「 タイムズ」)紙

英紙として初の試み

高級紙「タイムズ」とその日曜版「サンデー・タイムズ」のウェブサイトが、この7月から全面的に有料制となった。両紙のウェブサイトで記事を閲読したい人は、今後、1日で1ポンド(約132円)もしくは1週間で2ポンドの料金を払わなければならない。一部の記事に限らず、ウェブサイト上の記事すべてにわたる閲覧を有料化するのは、英紙では初めての試みだ。

閲読有料化の理由を、両紙は「良質なジャーナリズムの維持に必要」、「生き残り戦略」と説明する。日本同様、英国でも昨今は新聞 の発行部数が慢性的に下落。読者も広告主もネットに移動する傾向が続いていることもあり、両紙は既存のビジネス・モデルからの脱却を狙っているのである。

有料化モデルが根付くのか

両紙によるサイト閲読有料化の決断は、英国の新聞界では大きな実験となろう。というのも、各紙がウェブサイトを開設し始めた1990年代半ば以降、主要紙の大部分が、過去記事を含めて無料でニュースを提供してきたからだ。さらには動画が豊富なBBCのオンライン・ニュース、世界中のニュース・サイトから瞬時に記事を拾ってくるグーグル・ニュースなど、無料で読めるニュース記事は、既にネット上に氾濫している。

一方で英各紙はここ数年、ウェブサイトの拡充に力を入れてきたが、サイトが生み出す利益は、紙媒体における発行部数の落ち込みや広告収入の下落による損失を埋めるには程遠かった。業界筋によれば、大手紙のデジタル収入は総収入の数パーセントを占めるに過ぎず、アクセス数を急激に拡大させた「デーリー・テレグラフ」 紙でも「10~20%の間」(同紙スタッフ談)。そこで、有料化モデルに脚光が集まったわけである。

経済紙では一定の成功

有料化モデルに関して、既に成功例はある。有料と無料の記事を混在させたサイト作りをしている米経済紙「ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)」の有料購読者は、現在約100万人。英国では経済紙「フィナンシャル・タイムズ(FT)」が、約12万人の有料購読者を持つ。いずれも経済紙であり、専門性を持つ媒体だが、一般紙では、米「ニューヨーク・タイムズ」が過去2年間、有料購読制を取って成功していた。サイト閲読のユーザー数拡大のために購読制を一旦止めてしまったものの、来年から新たな購読制を実施する予定だ。

「WSJ」、「タイムズ」、「サンデー・タイムズ」は、いずれも「メディア王」と呼ばれるルパート・マードック氏が経営する米メディア大手ニューズ・コーポレーション社の傘下にある。一方で、左派系高級紙「ガーディアン」は「民主主義に反する」などとして、有料化反対の姿勢を示してきた。ただ同紙編集長は、「何が何でも有料化反対という原理主義者ではない」との発言をしている上、携帯電話での閲読向けの有料アプリも販売しており、さらにはメディア、アートなど得意分野を「有料の壁(Paywall)」に入れる可能性もある。

果たして、マードック氏の「実験」は成功するのか。ライバル他紙が成り行きを注視している。

Newspaper of Record

直訳すると、「記録の新聞」。①政府の公的記録や法的通知を行う新聞(例えば17世紀に創刊された、政府発行の新聞「ロンドン・ガゼット」など) を指すとともに、②「信頼に足る報道を行う新聞」という意味がある。「タイムズ」紙は、19世紀に「Newspaper of Record」と呼ばれた。政府や新聞の所有者の意見に左右されない独自の意見を社説の形で広く世の中に問い、また発行部数や報道の質で他紙を圧倒。欧州他国の知識層の間でも広く読まれた「タイムズ」は、上流階級が読む新聞として名声を築いた。

(小林恭子)

 
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