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Wed, 06 May 2026

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ソーシャル・メディアとうまく付き合うためのQ&A - つながりっぱなしの世界、どうやって過ごす?

ソーシャル・メディアとうまく付き合うためのQ&Aつながりっぱなしの世界、どうやって過ごす?

今日、大量の情報やその中に紛れているフェイク・ニュースが多くの人を悩ませている。コロナ禍でも「お湯を飲むと予防効果がある」、「感染者が空港から脱走した」などの偽情報がソーシャル・メディア上をかけめぐったのは記憶に新しいだろう。本特集の最後に、そんな情報過多社会においてどのように情報と付き合うべきか、ソーシャル・メディア論の専門家である藤代裕之さんにお話を伺った。

ソーシャル・メディアとは

インターネットを介して、誰でも情報を発信・受信し、双方向的なやりとりができるメディア。代表的なものとして、ツイッターやインスタグラムをはじめとするソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、ユーチューブなどの動画共有サイト、ブログ、ラインなどのメッセージング・アプリなどがある。

お話を聞いた人

藤代裕之さん Hiroyuki Fujishiro

法政大学社会学部メディア社会学科教授、ジャーナリスト。徳島新聞社で記者として、司法・警察、地方自治などを取材。NTTレゾナントで新サービスの立ち上げや研究開発支援担当を経て現職。日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)代表運営委員。専門は、ジャーナリズム論、ソーシャル・メディア論。

Q. スマートフォンは生活に欠かせないのに、ずっと一緒は疲れる……これって現代人共通の悩み?
A. スマートフォンは「便利でやや不快なもの」

スマートフォンが手放せない理由の一つは、ずばり「身体的・物理的な距離の近さ」。テレビや新聞などのマスメディアの時代には、特定の場所や時間において情報に触れることが一般的でしたが、スマートフォンならベッド、風呂、トイレ……いつでもどこでも持ち歩けます。

日本人のメディア接触時間は、2019年時点で1日当たり400分を超える日本人のメディア接触時間は、2019年時点で1日当たり400分を超える

一方でNHK放送文化研究所の調査では、日本に住む18~69歳の回答者のうち、およそ8割が「情報が多すぎる」と回答。マスメディアが主流の時代、「ニュースを読む・見る」ことは、新聞を取りに郵便受けに行ったり、テレビのチャンネルを選んだりと能動的な行動に紐付いたものでした。しかしスマートフォンは常時ネットに接続されており、一日中アプリからのプッシュ通知が届きます。この大量の情報に受動的に接し続けなければならない状況が、いわゆる「情報疲れ」や「スマホへの不快感」の原因に。とはいえ、人間は1度手に入れた便利なものからなかなか離れられないので、メディアに対する意識と現実の間で、あらゆる世代の人が揺れ動いているのが現状です。

Q. ネットによって視野が狭くなっている若者が多いと聞きますが、実際のところは?
A. 実は中高年世代よりも若者の方が「合理的かつ冷静」に情報に触れている

「フィルター・バブル」(泡のフィルター)という、ネットの検索結果が利用履歴などをもとにカスタマイズされ、各ユーザーにとって心地良い情報ばかり入ってくる現象があります。それによって利用者の視野が狭まり、似た意見がつながりやすくなるというのですが、これはインターネット黎明期からずっと議論されてきました。

従来、ソーシャル・メディア上の不確実な情報を鵜呑みにするのは若者だといわれてきました。ところが最近の10~20代のメディア接触の仕方は、合理的かつ冷めたものだということが明らかに。彼らの検索行動を調べると、グーグルなどの検索サイトではなくソーシャル・メディアでの「ハッシュタグ検索」を多く利用しています。ハッシュタグ検索では、アルゴリズムを使った検索結果の順位付けもなく、極端なものも含めた意見の「相場観」を知ることが可能。日本の若者が突出することを嫌う傾向にあることから、まんべんなく全体の意見を知ろうとする検索態度が垣間見られます。

一方、中高年世代はメディアに対して「正しさ」や「真実」を求める傾向が強いです。かつて、テレビや新聞は取材から配信まで一貫して行い、間違った場合はその媒体自ら訂正しました。そのため、基本的に「情報」は信用できるものとして受け取られていたのです。それゆえ彼らが当時の感覚でスマートフォンを使用すると、自分の意見に近い不確実な情報に接触し、フェイク・ニュースに騙される……なんてことも起きています。

インターネットの閲覧履歴に基づくレコメンドの認知

Q. 昨今、世界的にマスメディアへの不信が広がっています。その理由は何でしょうか?
A. 誰もが発信者になれるというメディア環境の変化

元来マスメディアやジャーナリズムは、政府や公権力の監視、あるいは社会的な弱者への眼差しとして、社会の中でも非常に重要な役割を担うものです。昨今のメディア不信の背景には、マスメディア側にも誤報や不祥事などの問題はもちろんありますが、ソーシャル・メディアの発達によって誰もが発信者になれるといった環境変化があるでしょう。

例えば2016年の米大統領選で、トランプ氏がソーシャル・メディアを巧みに利用して勝利したことは有名です。同氏は、「ニューヨーク・タイムズ」紙やCNNのような大手メディアによる情報を「フェイク・ニュース」と攻撃し、支持者と反トランプ派の亀裂を深めました。大手メディアはそういった政治家への有効な対抗策を見いだせないまま、「トランプ氏が○○とツイートした」といった取材や調査を必要としないニュースを流すなど、むしろ世論の分断を助長する面もあります。

無数のユーザーが発信できる今、伝統的なメディアには、しっかりとした調査に基づいた良質な情報発信が求められています。一方で、紙面販売や広告収入の減少など、経済的な苦境を抱えているのも現実。マスメディアが「誠実にいい記事を作ろう」というだけでは解決しません。情報が拡散されることによってアクセス数や広告収入を稼いでいるインターネット・メディアや、ツイッター、インスタグラムなどのプラットフォームなど、「偽情報でもアクセス数が伸びればそれでいい」というビジネスが成立する仕組み自体を変える必要があります。

質の高いニュースほど制作費がかかる一方で、フェイク・ニュースはコストが安い上に拡散力も高いというジレンマがある

Q. 「メディア・リテラシーを身に付けることが大事だ」といわれますが、それがあれば「フェイク・ニュース」を見抜けるのでしょうか?
A. 個人のメディア・リテラシーだけでなく、ソーシャル・メディア環境の整備が急務!

玉石混交の情報を見分けるには、「誰がどんな意図で書いているか」を批判的に考える力、つまりメディア・リテラシーが必要だと、いろいろなところでいわれています。もちろんそれは大切なことですが、メディア・リテラシーがあれば偽情報を見抜けるかというと、私は懐疑的です。

ソーシャル・メディア環境を車社会に例えてみましょう。昔より今の方が、圧倒的に事故数って少ないですよね。道路の整備、車体の安全性能の向上、シートベルトの義務化など、さまざまな理由があります。その上で私たちは「安全に車を運転する方法」を知る必要がありますが、これがメディア・リテラシーに当たる部分です。しかし、今のメディア環境で私たちに求められるのは、「時速300キロの車が走る道で、故障車を見破って事故を防ごう」というくらい難しいもの。

そんな状況下ではまず、情報を売っているメディアや、拡散しているプラットフォームの責任を問うべきでしょう。例えばツイッター社は昨年の米大統領選に際し、誤情報の拡散防止や、情報拡散のスピードを緩めるため、一部仕様を変更しました。まだ実施されていないだけでシステム的・技術的に可能なことや、法整備が必要なことは数多くあります。そうした基盤が整うことで初めて、私たちは「情報を読み解く」ことが可能になるのではないでしょうか。そのため残念ながら、今のところ「誰でもフェイク・ニュースを見抜ける方法」は存在しません。逆に言えば、今のままではメディア・リテラシーがうまく機能しないこと、そのためにプラットフォーム運営者や政策が何をすべきかを言い続けることが、私自身の仕事かなと思っています。

これから求められるのは「生活に根ざしたメディア」

大量の情報に溢れる現在、多くの人がメディアとの付き合い方を見直し、どんなメディアを選択するかについて意識的になっている。だからこそ、良質なメディアからフェイク・ニュースを発信するメディアまで、あらゆる新しいメディアに均等にチャンスがあるだろうと、藤代さんは語る。藤代さんが特に可能性を感じているのが、「地に足の着いた、生活に根ざしたメディア」だ。正しさについて論評するばかりではなく、身の回りのもっと違った価値に目を向けら れるメディアが、どの情報を信じていいか分からない時代において、人々の支えとなるのかもしれない。ニュースダイジェストは2021年も引き続き、読者の皆様に寄り添った誌面作りを目指したい。

もっと知りたい人におすすめの書籍

「コロナの情報に疲れた」、「若者の話が分からない」……そんな悩みを抱える人も少なくないだろう。本書では、ソーシャル・メディアが広く普及した後の世界(=アフター・ソーシャル・メディア)で、人々がどのように情報接触を行っているかについて、さまざまな調査データをもとに分かりやすく解説し ている。情報過多社会を生きる私たちにとって、多くの発見が得られる一冊だ。

多すぎる情報といかに付き合うかアフターソーシャルメディア多すぎる情報といかに付き合うか
アフターソーシャルメディア

著者:藤代裕之ほか
発行元:日経BP 2020年6月刊行

 

英独仏三国の識者に聞く - 新聞の強みと日本のジャーナリズム

Web限定インタビュー!英独仏三国の識者に聞く新聞の強みと日本のジャーナリズム

ニュースダイジェスト2021年新年号では、英独仏のメディア事情に詳しい3名の識者に、各国新聞の特徴についてうかがった。ここでは、紙面では語り尽くせなかったインタビュー内容を、余すことなくご紹介する。三つの視点から浮かび上がった、「新聞メディアの強みと、日本のジャーナリズムの課題」とは?

お話を聞いた人

英国

小林恭子さん Ginko Kobayashi

在英ジャーナリスト。英国をはじめとした欧州のメディア事情、政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。英国ニュースダイジェストでは毎号「英国メディアを読み解く」を執筆。

ドイツ

熊谷徹さん Toru Kumagai

在独ジャーナリスト。過去との対決、統一後のドイツ、欧州の政治・経済統合、安全保障問題を中心に取材、執筆を続ける。ドイツニュースダイジェストでは毎号「独断時評」を執筆。

フランス

フィリップ・メスメルさん Philippe Mesmer

ジャーナリスト、ニュースキャスター。Le MondeとL’Expressの在東京コレスポンダントとして活動中。École Supérieure de Journalisme 修士課程修了。

新聞の強みはどのような点にありますか。

小林さん「規制に縛られない自由な報道」

時間をかけて、自分のペースでじっくり集中して読めることでしょうか。また、(英国の)テレビやラジオの報道は、放送網を利用するために英国情報通信庁(Office of Communications)による監査を受けていて、内容の中立性を順守する必要がありますが、新聞にはそのような特定の法律的縛りはありません。事実と情報を流すだけではなく、論説や分析なども多いので、ニュースの背景についてより深く知ることができる点も、新聞の強みだと思います。

熊谷さん「思いがけない情報に出会える」

印刷された新聞の利点は、デジタル化されたメディアよりも、情報を早く吸収できることにあると思います。物理的にページをめくっていくことによって、新しい情報を見つけやすいんですね。

もちろん、デジタル・メディアの場合は、検索すれば知りたい情報がすぐに出てくるという利点がありますが、逆に言えば、検索しない情報は見つけにくい。紙媒体を最初から最後まで読んでみると、あっと思うようなニュースが見つかったということが、これまでに何度もありました。

メスメルさん「読者の知性に訴える『確かな情報』」

新聞の持つ真面目なイメージは、ほかのメディアにない強みだと思います。特に、ソーシャル・メディアや個人ブログなどによる情報発信が増えた結果、フェイク・ニュースが問題になっている現在においては、「信頼に足る情報」を確実に届ける新聞の存在意義が大きいといえるでしょう。

新聞記者は、見聞きした情報を丸ごと信じることはありません。手掛かりとなる情報をもとに、取材やリサーチを通じて深堀りし、ファクトを確かめます。このプロセスが重要であり、オンライン・メディアなどにはない特徴です。

現在はビジュアルの時代ともいわれており、写真や動画といったイメージがニュース視聴者に与えるインパクトが大きいですが、私はこの傾向にも懐疑的です。

私の通ったジャーナリズム学校の講師が言ったことで、印象に残っている言葉があります。「イメージは感情に訴え、言葉は知性に訴える」というものです。言葉を用いて情報発信する新聞は、読者が冷静に状況を把握し、判断を下すために重要な存在だと考えています。

日本の新聞に必要なことは何でしょうか。

小林さん「権力との距離を保ち、市民の側に立った報道を」

新聞の役割は民主主義を守ることなので、日本の新聞はもっと市民の側に立った報道が必要です。そして権力に対する監視をもう少し厳しくしていただきたい。政治家に「メディアは怖い、用心しなくては」と思わせ、緊張感を持たせるような記事を書かなければいけません。昨今の日本の政治を見ていても、もしこれが英国であれば、菅政権はもうとっくにメディアからボコボコに叩かれているはずです。

英国の新聞の特徴は、思い思いの政治的見解を展開することですが、日本の新聞は不変不動、つまり報道の中立性を重視していますね。偏向報道をしないように作る側が心掛けているし、読むほうもそれを期待している。ですから日本ではよく「偏った報道だ」という言い方で批判が起こります。しかしその分、紙面はどっちつかずになり目立った意見が掲載されないともいえるかもしれません。

英国では、政府が政策を発表すると、新聞は市民の視点から報じます。「市民の生活にとってその政策はどうなのか」と、必ず批判的に物事を見ています。これは例えば性犯罪の報道などでも同じで、被害者の側に立った記事になり、「被害者にも悪い点があったのでは」などという、公平を装った報道にはならないわけです。

また、日本のメディアは、大企業について「企業の言うことにも一理あるのではないか」という姿勢で報道することがありますが、英国では、政治家や大企業などの権力者の言うことは最初から「おかしいことがあるかもしれない」と疑った目で見ている。権力の監視を役割としているのです。

取材方法も、日英で大きく違います。2011年に東日本大震災で原発事故が起きたとき、日本の新聞界は「危険だから行ってはいけない」という政府の言葉を守り、現場に足を踏み入れませんでした。しかし英国のチャンネル4などは行ってしまった。これは、与えられたものを報道するだけではなく、一歩踏みこんで自分たちで判断するということを意味します。人種差別に関する問題なども、当事者に話を聞くだけでは分からないことは、潜入取材で自らが当事者になることで記事を書く。公益のためにはかけ引きや危険も辞さず、情報をもぎ取るくらいのやり方です。それに比べると日本はおとなしいですね。特に政治に関しては、日本は政権がなかなか変わりませんから、一定の政党、政治家と仲良くなることで情報を流してもらう形になってしまいがちです。

熊谷さん「複雑な出来事を解説するクオリティー・ペーパーを」

日本にもドイツのような高級紙(クオリティー・ペーパー)ができてほしいですね。これは、日本のマスコミ関係者や新聞記者の間でもよく話されています。

ドイツ語の動詞に「einordnen」という日本語には訳せない言葉があります。これが意味するのは、出来事や事件を解析して、さらにそれにどういう意味があるのかを解説すること。ドイツでは、新聞を読んで単に新しい情報を入手するだけではなく、「einordnen」することが新聞の一番重要な機能なのです。日本の新聞には、この「einordnen」が足りないと感じています。

日本では事実を中立的に報道し、あとは読者が判断するというスタンスが基本です。しかしながら、この世の中には複雑な出来事が多すぎるため、事実を提示しただけでは一般の人が判断できないことが多いんですね。ドイツ人は理論性を好む傾向にあるので、一般の人が理解できるように出来事の歴史的・政治的背景を解説してくれることを新聞に望んでいます。昨今、世界では右派ポピュリズムが勢力を拡大しています。特に若者たちがその主張の問題点を自分の頭で考えられるようにするには、やはり「einordnen」が重要だと思います。

日本の新聞記事に比べて、ドイツの記事は圧倒的に長いです。日本では、できるだけ記事をコンパクトにしないと受け入れられないと思うのですが、ドイツの新聞ではよく取材したものに関しては丸1ページを割いており、記者の取材力と筆力を感じますね。また、一流の経済学者や歴史学者、政治学者が一面を使って評論を書くこともあります。ホットな話題でなくても、例えば第一次世界大戦や第二次世界大戦が現代の政治に及ぼしている影響といったトピックも。ちょっとした本を読むくらいの内容量があり、読むのは大変なのですが、非常に勉強になります。

今の日本には高級紙と呼べるものはありませんが、月刊誌「FACTA」など一般的な新聞には載らないような内容を伝える雑誌が発行されています。現在は関心のある人だけがそういった雑誌を購読しているような状況ですが、時間と費用をかけてでも物事の背景をきちんと解説するような高級紙が、これからの日本に必要だと思います。

メスメルさん「独立独歩の姿勢で、市民の意見形成に貢献を」

日本の新聞は、もっと独立した存在であるべきです。今の新聞は、政府をはじめとする権力からの干渉を許し過ぎています。官邸での記者会見などを見ていると、政府側の誘導に従って、当たり障りのない質問をしているだけで、突っ込んだ質問をする記者はほとんどいません。メディアの経営層が政府に取り込まれているからだと思いますが。ジャーナリストらしい取材をしていると思えるのは、東京新聞の望月衣塑子記者くらいですね。

紙面を見ても、一面を飾るニュースはほぼ横並びで、各紙の特色が見えません。まるで同じ新聞を読んでいるような気になります。もっと自由に取り上げるネタを選んでもいいと思いますね。紙面上でもっと活発な議論を展開することも必要でしょう。新聞が読者に対して具体的な「イデア」(考え方)を提供し、「こうあるべきだ」という提案をするべきです。読者が自分なりの意見を形成するための助けにならなくてはいけません。民主主義国家の言論機関として、それこそが新聞の使命なのですから。

最近は、ソーシャル・メディア上でマスメディアを「マスゴミ」と呼ぶような風潮もありますが、これはマスメディアの記者たちが積み重ねている地道な取材・調査活動のような舞台裏が、一般の人たちに知られていないからという面もあると思います。

これに対しては、米「ニューヨーク・タイムズ」紙が良い試みをしてます。トランプ政権によるマスメディア攻撃が始まっていた2018年、自社の記者たちの日常を映したドキュメンタリー番組である「ザ・フォース・エステート」(The Forth Estate)を公開したのです。「新聞記事が多くの時間と労力をかけ、時には命の危険を冒して作られているという事実をきちんと説明してこなかったことが、信頼不足につながっている」という反省のもとに制作された番組で、視聴者からは「記者たちが地道な取材活動や真剣な議論を繰り返し、悩む様子を観て、彼らも私たちと同じ人間なのだということが分かった」といった感想も出ています。日本の新聞社も、もっとありのままの姿を見せ、等身大の存在として理解してもらう試みをしてみるといいのではないでしょうか。

マスメディアは、市民に寄り添うパートナーとしての情報提供を

お三方のインタビューを通して、新聞やジャーナリズムにとって欠かせない、いくつかの共通ポイントが見えてきた。

まずは、権力との適切な距離を保ち、民主主義国家における「第四の機関」としての役割を果たすことだ。その時その時の政権や大企業と癒着することなく、主権者である市民の利益を考えた報道をすることが求められる。それに伴っては、独立した報道機関の存在意義をしっかりと示し、「新聞が権力批判をするのは政治家叩きがしたいからではなく、民主主義国家を構成する機能としての役割を果たすためだ」という事実を、丁寧に伝えていくことも必要だろう。

また市民の利益を考えるにあたっては、複雑な事象や問題を中立的に報道するだけでなく、背景なども含めて分かりやすく説明し、市民生活にはどのような影響があるのか、といった解説を提供することも重要だ。

メディアは、権力の暴走を食い止め、私たち一人ひとりの手から主権が奪われることを防ぐための重要なツールだ。ソーシャル・メディアを利用したポピュリズムが蔓延する現代こそ、「一般の人々に寄り添うパートナー」としてのマスメディアの在り方が、ますます求められている。

 

皮肉とユーモアたっぷりのカリカチュア

ニュースを視覚的に読み解く皮肉とユーモアたっぷりのカリカチュア

欧州の新聞には、社会や個人の過失、欠陥などを批判した風刺画「カリカチュア」の掲載が多く見られる。ニュースの詳細が分からなくても、一目で万人に理解させるこの手法は、描き手のシニカルな態度と卓越したユーモアがあってこそなせる技。ここでは欧州におけるカリカチュア事情を簡単に紹介しよう。

皮肉とユーモアたっぷりのカリカチュア英国の「ガーディアン」紙に掲載された、スティーヴ・ベル氏による作品。2020年4月、英国内で増え続ける新型コロナウイルスの感染者数に対し、政府ができるソーシャル・ケアの最終プランを描いた。同氏は、ボリス・ジョンソン首相の顔をお尻の形に描くことで有名だ
参考:https://www.belltoons.co.uk/bellworks/index.php/leaders/2020/4488-150420_SOCIALCAREPLAN

皮肉とユーモアたっぷりのカリカチュアドイツでは毎年カリカチュア大賞を開催しており、2020年の金賞はヴォルフ=リューディガー・マルンデ氏が受賞。洗車やヴィーガン・スナックの販売で生き残ろうとするガソリンスタンドを通じて、ドイツの車社会の危機を描いている

参考:caricatures&caricature「Political Caricature and International Complications in Nineteenth-Century Europe」、visual-arts-cork.com「Caricature Art」、BBC「Political cartoons: Britain's revolutionaries」、Political Cartoon Gallery「The Greatest British Political Cartoon of All Time」、Deutschlandfunk「Deutscher Karikaturenpreis 2020 Weniger ist mehr」

美術界から生まれたカリカチュア

カリカチュア(Caricature)の始まりは、「実在の人物の特徴を誇張して描いた肖像画」で、美術分野に限られた手法だった。語源はイタリア語の「Caricare」(誇張する)。1590年代のイタリア人画家アンニーバレ・カラッチが、誇張して描いた肖像画のスケッチに対して、最初にこの言葉を使っている。当時のイタリア美術界では、人体比や色彩を誇張した技巧的表現を特徴とするマニエリスムが展開していた。それまでの盛期ルネサンスで到達した「調和のとれた表現」を、ユーモアをもって分解していく作業がカリカチュアだったのだ。

この手法が欧州各地に広まり、18世紀後半から19世紀半ばにかけて、英国ではジェームズ・ギルレイ、トマス・ローランドソン、ドイツではヴィルヘルム・ブッシュ、フランスではシャルル・フィリポンなど、日常生活や政治を風刺する画家が次々に誕生する。テレビやラジオがない19世紀の欧州で、カリカチュアは識字率の低い貧困層にとって情報源になった一方、政府にとっては脅威の存在でしかなかった。特に自国で他国を嘲笑する風刺画が出回ることは、外交上の不都合以外の何ものでもない。各国で対応にばらつきはあるものの、1815~1914年の間、政治批判のカリカチュアは英国を除くほとんどの国で政府による検閲の対象になった。

独自路線派、慎重派、そして過激派

2020年は新型コロナウイルスを扱うカリカチュアが多数登場した英独仏の3国。しかしカリカチュアの扱いは、近隣国同士でありながら大きく異なる。

まずは、英国のカリカチュア。前述の通り英国ではこれまで政府の検閲が行われなかったが、その理由は人々が自国の支配者を笑うことで政治への不満を抑え、社会を安定させることを狙った政府の戦略にあった。そのような基盤の上に成り立つカリカチュアは、政治家を知るのに「(公式の肖像画より)よっぽど有用だ」とされ、むしろ題材になることを名誉に感じる政治家もいるほど。

対するドイツは、掲載内容に関してはかなり慎重派。政治家、移民問題、環境問題などを積極的に取り上げる一方、イスラムを題材にした作品は、2015年にパリで起きたシャルリー・エブド襲撃事件以降、避けられがちに。また、教育関係者の中には、生徒たちにムハンマドのカリカチュアは見せたくないと考える人も多い。

この路線と真逆を行くのがフランスだ。カリカチュアは同国における言論の自由、議論の自由、表現の自由の象徴の一つとして揺るぎない地位を確立している。また、新聞や雑誌に関しては、「皮肉な表現方法も、思想や意見を話し合うための手段」と考えることから、表現の自由が尊重される傾向がある。ただし、その自由は無制限ではなく、特定の人を中傷することや差別的発言、戦争犯罪を称賛することは法的に禁止されている。

 

英国・ドイツ・フランスのメディア解剖 - コロナ時代の「情報力」を身に付ける

コロナ時代の「情報力」を身に付ける 英国・ドイツ・フランスのメディア解剖

欧州では長い歴史の中で、新聞社や公共放送がメディアの中心的存在を担ってきたが、昨今、私たちを取り巻くメディアの様相は大きく変化している。特にコロナ時代になり、情報を意識的に取捨選択することがますます必要になった。2021年最初のニュースダイジェストでは、英独仏の新聞やカリカチュア、さらにはソーシャル・メディアの視点から、今日のメディアのあり方を徹底解剖! 情報とうまく付き合い、困難な時代を生き抜くためのヒントを探る。(文:英国・ドイツ編集部)

全ての「メディア」はローマに通ず
紀元前ローマから始まった新聞

世界最初の「新聞」を発行したのは、共和政ローマ期の政治家カエサルだといわれる。元老院の議事録を中心に、催事やよもやま話も織り交ぜたこの新聞は、掲示板に張り出される形だった。その後、手書きのニュースレターは存在していたが、新聞といえるものの登場は印刷技術の発明まで待たなくてはならない。

活版印刷技術が早く実用化したドイツでは、世界で1番に週刊紙「リレーション」(Relation)(1605年)を発行。フランス初の定期発行された新聞は「ラ・ガゼット」紙(La Gazett)(1631年)、英国ではオランダから輸入された英字新聞が1620年代にあったものの、最初の英国新聞として知られるのは「オックスフォード・ガゼット」紙(Oxford Gazette)(1655年)だ。ドイツの新聞が他国より先に発達したのは、技術的な理由だけでなく、国家が分裂状態にあり、印刷物への検閲が緩かったためだといわれている。この時代、各国では王室や国王を攻撃する新聞などは処罰の対象になった。

報道の自由を求める闘いは17世紀に始まり、最終的に英国では1695年に「権利の章典」として実を結ぶ。フランスではヴォルテールらの啓蒙思想が広まり、フランス革命へと発展。ナポレオンが「新聞によって王朝が終結した」と語ったほど、この時期には次々と新聞が誕生し、世論形成に大きな役割を果たしたのだ。新聞の基本的な役目は19世紀まで変わらなかったが、印刷技術の発達によって大量印刷が可能に。やがて、マスメディアに進展していくのだった。

参考:European History Online http://ieg-ego.eu MITTELDEUTSCHER RUNDFUNK www.mdr.de 小糸 忠吾『新聞の歴史―権力とのたたかい』 (新潮選書)

世界報道自由度ランキング2020
欧州は比較的メディアの自由度が高い!

世界報道自由度ランキング2020※数値が小さければ小さいほど自由度は高くなる。

出典:国境なき記者団「2020 World Press Freedom Index」

世界報道自由度ランキングとは

世界のジャーナリストたちによって構成されるNGO「国境なき記者団」が2002年から毎年発表しているランキング。世界180カ国と地域を対象に、メディアの独立性、多様性、透明性、自主規制、インフラ、法規制などについて、専門家へのアンケートや各国のデータを組み合わせた独自の評価基準と数式によって評価値が算出される。

三国の新聞比較

英国・ドイツ・フランスとも、報道の自由度が比較的高いことで共通しているが、各国のメディアを比較してみると、それぞれお国柄が表れていることが分かる。そんな三国の新聞がどのような視点で世の中の出来事を報道しているのか、各国のジャーナリストにお話を聞いた。

権力に対し健全な批判を展開する英国 権力に対し健全な批判を展開する英国

指導者層の愛読紙からタブロイド紙(大衆紙)に至るまで、英国で発行されている新聞の根本にあるのは「批判精神」。テレビやラジオが英国情報通信庁(Office of Communications)による監督を受け、中立性を順守しているのに比べ、新聞には特定の法律的縛りはない。そのため左派も右派も権力の監視塔としての役目を果たすべく、論鋒鋭く問題に切り込んでいく。保守であっても政府の広告塔ではなく、その新聞の立ち位置であるに過ぎない。それでも過激に走り過ぎず、一定の自主規制の下で報道するところは英国らしいといえる。

お話を聞いた人

小林恭子さん Ginko Kobayashi

在英ジャーナリスト。英国をはじめとした欧州のメディア事情、政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。英国ニュースダイジェストでは毎号「英国メディアを読み解く」を執筆。

英国を代表する新聞

冷静な視点は指導者層が愛読
The Times
タイムズ紙

保守中道の全国紙。政治家、大企業の経営者などの指導層が愛読する。常に冷静な視点から報道し、偏りの少ない公正な論調が基本。先ごろの米大統領選では、他紙がバイデン氏の勝利を大々的に報じていたのに対し、軸足をトランプ大統領側に置いた冷静な見出しを掲げたのも、その表れといえる。

1785年に創刊された英国の老舗メディアの一つであり、「ニュースペーパー・オブ・レコード」、つまり「正式な記録を残す新聞」としての権威がある。2010年からはオンライン版の有料化に踏み切るなど、長い伝統を持ちながらも、常に先手を打って英国の新聞業界を牽引する存在。ポッドキャストにも力を入れ、「ストーリーズ・オブ・アワ・タイムズ」では、米大統領選からシリアの情勢まで、毎日1本、政治や文化を中心に一つのトピックを掘り下げる。姉妹紙には「サンデー・タイムズ」がある。

権力を監視する英国の良心
The Guardian
ガーディアン紙

左派・リベラル系。知識層やアーティスト、中産階級が主な読者。民衆弾圧事件「ピータールーの虐殺」を機に1821年に創刊され、1959年に全国紙となった。営利主義を拒否し、オンラインで全記事が無料で読める数少ない高級紙。基本的に労働党支持だが、かつて労働党のブレア元首相が参加を決断したアフガニスタン侵攻や、イラクでの戦争には猛反対を示し、人々の良心に訴えた。

権力を監視する、積極的な取材に定評がある。NSA(米国国家安全保障局)による国際的監視網「PRISM」の実在を告発したエドワード・スノーデンから託された資料を調査・掲載するなどし、2014年にはピューリッツァー賞を受賞した。ポッドキャスト「トゥデイ・イン・フォーカス」は、ニュースをより深く理解するために週5日さまざまなトピックを解説する。姉妹紙に日曜版の「オブザーバー」がある。

扇動的な見出しで庶民の心をつかむ
Daily Mail
デーリー・メール紙

英国のタブロイド紙としては最も古い保守系右派の新聞。反権力の名の下に庶民の立場から報道するものの、扇動的な見出しが多く、内容が事実と異なることがある。そのため、ウィキペディアは同紙を情報源として引用することを禁止したほど。政治的には、移民や難民の受け入れ反対派。英国の欧州連合からの離脱を決める国民投票の際には、当時の首相デービッド・キャメロンが苦情を訴えるほど、大々的に離脱キャンペーンを行った。

読者層は平均年齢が58歳、「中産階級のやや下」(Lower Middle Class)の女性という結果が出ている。ほかのタブロイド紙同様、王室ネタ、有名人ネタなどのゴシップ記事が豊富で、一面を飾ることも多い。英国は概してタブロイド紙間の競争が激しく、特ダネ記事をめぐる熾烈な争いが展開されており、メーガン妃が悩まされたのもこの点だったといわれている。

ほかにもユニークな視点の新聞

サーモンピンク色のフィナンシャル・タイムズ紙(Financial Times)は、保守中道派の経済紙。国際報道では高い情報力と信頼を得ている。現在オンライン版のみのインディペンデント紙(The Independent)は、1986年発刊の比較的新しい一般紙。ガーディアン紙よりも左派・リベラルで、ジョンソン政権の新型コロナ対策に強く反対するなど、メッセージ性の強い紙面構成が特徴。エコノミスト誌(The Economist)は雑誌の外見をとるが、れっきとした週刊新聞。国際政治と経済を扱い、科学技術系にも強い。記者は完全匿名性で、「本誌は」などの一人称を用いることで知られる。左にも右にも寄らない中道を標ぼうするが、その主張の多くはリベラルな左派といっても良い。

ニュースの背景や影響を徹底解説するドイツ ニュースの背景や影響を徹底解説するドイツ

ドイツでは、日本のように新しい事実をいち早く伝える特ダネは重要視されていない。どのような背景から事件が起きたのか、今後それが社会にどう影響するのかを解説することが、新聞の大きな役割と考えられている。各分野に精通した専門記者が多数活躍しており、報道自体が政治や社会を大きく動かすことも。また、報道自由ランキングで上位になる理由は、ナチス政権時代の反省から言論や報道の自由を重視していることにある。さらにナチスドイツの歴史を繰り返し報道することで、若い世代に伝えていくこともドイツのメディアの使命といえるだろう。

お話を聞いた人

熊谷徹さん Toru Kumagai

在独ジャーナリスト。過去との対決、統一後のドイツ、欧州の政治・経済統合、安全保障問題を中心に取材、執筆を続ける。ドイツニュースダイジェストでは毎号「独断時評」を執筆。

ドイツを代表する新聞

政治家や官僚が毎朝必ず読む
Frankfurter Allgemeine Zeitung
フランクフルター・アルゲマイネ紙

フランクフルター・アルゲマイネ紙(F.A.Z.)はドイツを代表する高級紙。政治家や企業の取締役、研究者など、ドイツのかじ取りをする人にとって必読紙であり、中央官庁の官僚たちは毎朝必ず読むという。その理由は、ほかの新聞にはない圧倒的な質の高さにある。良質な記事に丸1ページを割いていることから、F.A.Z.の記者には取材力と筆力が感じられる。読者は中道右派が多い。

また、F.A.Z.の社説は政治にも影響力を持つことで知られる。1990年代に旧ユーゴスラヴィアで内戦が起きた際、東欧情勢に詳しいヨハン・ゲオルク・ライスミュラー記者が「クロアチアがユーゴスラヴィアから独立したら、ドイツはクロアチアの独立を承認すべきだ」と社説で論じた。実際にドイツは非常に早い段階で独立を承認し、独政界ではこの社説が当時のコール政権の政策に大きな影響を与えたといわれている。

調査報道に強い元祖リベラル
Süddeutsche Zeitung
南ドイツ新聞

南ドイツ新聞(SZ)の特徴は、独自の取材・調査によって問題を掘り起こす調査報道の強さにある。2016年に世界を揺るがしたパナマ文書(租税回避に関する機密文書)のスクープは、このSZの調査報道によるものだった。多数の政治家やビジネスマンなどのオフショア資産口座の実態を暴露した報道をきっかけに、パナマ文書のデータを持つ人物がSZにコンタクトし、その存在が明るみに出たのだという。特ダネから次の特ダネにつなげることも、SZの強みである。

国際的なジャーナリスト機関とデータを共有するというネットワークの広さも自慢で、お金と時間と人手が必要な調査報道を国内の他メディアと協力して行っている。調査報道に強い記者が多くそろっており、昨今ではIT テクノロジーを駆使し、膨大な量の文書を分析して記事を執筆。リベラルな論調のため、読者層は中道左派が多い。

政界も揺るがすタブロイド紙
Bild
ビルト紙

ビルト紙は、ドイツで唯一100万部以上を発行するタブロイド紙。スキャンダル報道も多いが、面白いことにドイツの政治家は同紙を非常に重視している。ドイツの政治家は社会に向けて重要なメッセージを発信するとき、一紙のみのインタビューを受けることがあるが、その媒体としてよく選ばれるのがビルト紙なのだ。その理由は、ずばり広く読まれているから。

また、2010年にドイツ連邦軍の指示で起きたアフガニスタンでの爆撃について、ビルト紙の報道が注目された。当時のユング国防相は、死亡したのはテロリストのみであると発表していたにもかかわらず、実は市民も犠牲になったという事実を隠ぺいしていたことを同紙が明らかにしたのだ。ユング国防相はこのスキャンダルにより辞任。ビルト紙の報道があながちばかにできないことを象徴する出来事だった。

ほかにもユニークな視点の新聞

週刊新聞のツァイト紙(Die Zeit)の読者は、社会民主党(SPD)や緑の党を支持しており、圧倒的に中道左派が多い。その論調は非常に穏健で、経済的な利益よりも人権保護や環境問題などに重点を置く。さらにリベラル派には、ベルリンのターゲスツァイトゥング紙(taz)が読まれている。一方、ハンデルスブラット紙(Handelsblatt)は、調査報道を重視する経済新聞。最近ではフォルクスワーゲンの不正排ガス事件やワイヤーカードの不正会計事件など、厚みのある記事を多く発表している。また、地方紙がよく読まれていることもドイツの大きな特徴だ。地方分権が進んでいるため、地域の出来事を重視する人が多く、全国紙より地方紙を読んでいるということも珍しくない。

報道にも思想を求めるフランス 報道にも思想を求めるフランス

フランスの新聞の特徴は、思想的立ち位置が明確なこと。コンテンツ作成の際は、「ファクトよりもイデオロギーに重点を置くべき」という観念があり、事実報道の記事にも、各紙の論調に基づく独自の「アナリシス」が添えられていることが一般的だ。新聞が「何が正しくて、何が悪いのか」をはっきりと主張する傾向が強く、読者は個々の思想信条に沿って、自分の読む新聞を決める。そのため、新聞によって、一面に掲載されるニュースが大きく違うことも少なくない。「新聞報道は中立的でなくてはならない」という常識がある日本とは、全く異なる文化といえるだろう。

お話を聞いた人

フィリップ・メスメルさん Philippe Mesmer

ジャーナリスト、ニュースキャスター。Le MondeとL’Expressの在東京コレスポンダントとして活動中。École Supérieure de Journalisme 修士課程修了。

フランスを代表する新聞

知識層に愛される国際派新聞
Le Monde
ル・モンド紙

1944年に創刊されたル・モンドは、「地球」を意味する紙名に象徴される通り、伝統的に国際情勢を重視する傾向にあり、国際ニュースが一面を飾る頻度も高い。思想的には中道左派で、創刊当時は反植民地主義を唱えるプログレッシブな新聞という立ち位置だった。

現在では、主にパリを中心とする都市部の知識層から支持され、親EU(欧州連合)主義、LGBTの権利の容認など、国際協調や人権主義を基本とした論説を唱える。アナリシスの分量とクオリティーにこだわり、記事の本数を絞ってでもアナリシスに注力するという編集スタイルが特徴的だ。大手新聞の中では最も早い1995年に電子版を発行し、オンラインでの読者獲得と囲い込みに成功。デジタル面での施策に積極的で、2018年には大量の有料記事を無償解放し、会員登録者数を20パーセント以上増やしたことでも話題になった。

カトリック系富裕層からの厚い支持
Le Figaro
ル・フィガロ紙

1826年に初めて発行された、フランスでは最も古い歴史を誇る新聞。「フィガロ」という名称は、モーツァルトのオペラでも知られるボーマルシェの戯曲「フィガロの結婚」に由来している。伝統的にカトリック系のブルジョア層を主な読者とし、資力は抜群。現在、フランスの日刊紙の中では最も発行部数が多い。

思想的には中道右派としてスタートし、第二次世界大戦後はド・ゴール政権を支持する立場を取っていた。2004年に航空機製造企業を起源とするコングロマリット、ダッソー社がオーナーに就任して以降は、右派系の新聞として認知されている。現在の紙面は、反移民主義、自由貿易主義、同性婚への反対など、保守的な論調が強い。2006年には、イスラム教を批判する記事を掲載したとして、エジプトとチュニジアの政府が国内でのフィガロ紙購読を禁止するという事件も起きた。

哲学者サルトルが創設した活動家の愛読紙
Liberation
リベラシオン紙

1973年、実存主義で知られる哲学者ジャン=ポール・サルトルが中心となって創刊。当時は編集長から清掃員までが同じ給料を受け取るという、階層を排除した社会主義的な運営スタイルをとった。伝統的にフランスにおける左派の論壇として知られ、急進左派的な新聞として認知されていたが、2005年にロスチャイルド家が上場株の37パーセントを取得。編集長が解任されるなど社内紛争が起こり、一時ストライキにまで発展した。

現在のリベラシオンは中道左派にシフトし、移民保護、同性婚容認、人工授精の権利拡大などを促進する論調を展開。社会活動家を後押しする新聞としても知られる。業界関係者からは、タイトル・センスの良さ、ユーモアのある文章、高品質な報道写真など、アーティスティックな部分への評価が高く、哲学や精神世界をフィーチャーしたコンテンツにも特徴がある。

ほかにもユニークな視点の新聞

「人道」を意味する名前を持つ、左派系の日刊紙リュマニテ(L’Humanite)。1904 年、フランス社会党の党首だったジャン・ジョレスによって発行され、1921 年からはフランス共産党の機関紙としての役割を果たした。2001年に民営化したが、論説面では変わらず共産主義的な視点を保っている。各地にネットワークを持ち、全国的には知られていない社会現象を取り上げるなど、大手新聞では読むことができない独自の記事を掲載。取材力の高さやユニークな切り口で、ジャーナリストからの評価が高い。庶民の生活に密着した社会問題を取り上げる点は、日本の「赤旗」と似たところがある。株式の60パーセントを読者や著者らが保有し、毎年9月に読者が集まる「ユマニテ祭」を開催している。

 

イングランド国教会とクリスマス

知っているようで知らない イングランド国教会とクリスマス

英南部ワイト島にあるイングランド国教会の聖トマス教会とクリスマス・ツリー英南部ワイト島にあるイングランド国教会の聖トマス教会とクリスマス・ツリー

現在の英国の国教であるイングランド国教会(Church of England)。ローマ・カトリックやルター派のプロテスタントと異なり、国家元首を首長とする、キリスト教のなかでも特殊な教派だ。ロイヤル・ウェディングや女王の即位記念式典など、華やかな式典においても重要な役割を果たしているイングランド国教会。とはいえ、「カトリックやほかのプロテスタントと何が違うのか」といった疑問を抱く人も多いだろう。今回は、イングランド国教会の成り立ちや特徴、伝統的なクリスマスの過ごし方について紐解いてみよう。(文・英国ニュースダイジェスト編集部)

イングランド国教会を知る4つの基礎知識

1成り立ちの歴史ある王様のわがままが始まりだった

イングランド国教会は、チューダー朝の第2代国王、ヘンリー8世の離婚騒動をきっかけに成立した。カトリック教徒であったヘンリー8世は、新興貴族の娘アン・ブーリンと結婚するため、妻であるキャサリン・オブ・アラゴンを離縁しようと試みる。ローマ教皇クレメンス7世に婚姻無効の宣言をするよう求めたものの、認められなかった。

業を煮やしたヘンリー8世は、英国国内における教皇の霊的首位権を否定し、国王こそが宗教的な首長であるという主張を展開した。参謀であったケンブリッジ大学の教授、トマス・クランマーをカンタベリー教会の司教に任命し、アン・ブーリンとの再婚を実現したが、結果としてローマ・カトリック教会から破門されてしまう。これを受けたヘンリー8世は1534年、国王至上法(首長令)を発令し、イングランド国教会の礎を築いた。

イングランド国教会が正式にローマ・カトリックから独立したのは、エリザベス1世時代の1559年だ。英国議会が国王を「信仰の擁護者」として認め、首長令を採択。ついに英国国教としてのチャーチ・オブ・イングランドが誕生した。

イングランド国教会成立のきっかけを作ったヘンリー8世イングランド国教会成立のきっかけを作ったヘンリー8世

2主な教派さまざまな考え方を受け入れる柔軟性

現在のイングランド国教会は、「国教会」と「非国教会」の2種類に大別される。国教会のなかには、カトリック的な伝統を重んじる「ハイ・チャーチ」と、聖書の内容のみを信仰の柱とする「ロウ・チャーチ」の2派があるが、明確な組織として分かれているわけではない。

非国教会は、「ピューリタン」(清教徒)の呼称でも知られ、清教徒革命のきっかけになった「独立派」と、経験豊富な信徒を教会の導き手として選出する「長老派」の2派に分かれている。そのほか、さらに「クエーカー」、「メソジスト」なども生まれたが、英国国内での弾圧をきっかけに、米国をはじめとする世界各国に散らばっていった。

日本国内では、英国海軍の宣教医師だったバーナード・ジャン・ベッテルハイムが、1846年に沖縄で布教を開始。1887年に日本聖公会が設立され、立教大学や桃山学院大学などをはじめとする教育機関も開校した。上皇の教育役として来日した米国人司書、エリザベス・ヴァイニングも、熱心なクエーカーであったことが知られている。

清教徒革命の様子を描いた「ネイズビーの戦い後の風景」清教徒革命の様子を描いた「ネイズビーの戦い後の風景」

3特徴カトリックとプロテスタントのいいとこ取り?

ローマ・カトリック教会から独立したイングランド国教会は、理論的にはプロテスタントに該当する。とはいえ、実質的にはカトリックの伝統を踏襲している点が特徴。聖書のみを信仰の対象とし、教会を権威とみなさない一般的なプロテスタントとは異なり、「聖書の内容と矛盾しない限りは、カトリックの伝統も容認する」という、中道的な立場を取っている。一般的なプロテスタントでは禁止されている偶像崇拝やマリア信仰も、イングランド国教会では許容されている。

また、国家元首であるイングランド国王を宗教的首長とし、上院には聖職者議員が所属するといった、政教不分離の体制も独特だ。

近年注目されているマイノリティーへの対応については比較的寛容で、2010年には女性叙任者の人数が男性のそれを初めて上回った。同性婚に対しては、表向きは反対の姿勢をとっているものの、個別の教会においては同性同士の結婚式を執り行っているところもあるなど、裁量に任せられている。

同性婚の式を行う教会もある同性婚の式を行う教会もある

4代表的な教会ロンドン市内ならここが有名

ロンドン市内にある、イングランド国教会に属する代表的な教会といえば、チャールズ皇太子と故ダイアナ妃の結婚式でも有名な聖ポール大聖堂だろう。ロンドン教区の主教座聖堂であり、聖ポール大聖堂の主教は、聖職貴族(Lord Spiritual)の地位を与えられている。現在の主教はデイム・サラ・ムラーリー。前職は国民保険サービス(NHS)のイングランド主任看護師というユニークな経歴の持ち主で、2018年に主教に任じられた。

ロンドン西部のスローン・スクエアにあるホーリー・トリニティー教会も、イングランド国教会に属している。19世紀から20世紀にわたって英国で一斉を風靡したアーツ・アンド・クラフト運動の影響を受けた建築が特徴で、エドワード・バーン・ジョーンズやウィリアム・モリス、ウィリアム・ブレイクなど、当時活躍したアーティストが手掛けた、壮麗なステンド・グラスを見ることができる。

聖パウロを祭る聖ポール大聖堂聖パウロを祭る聖ポール大聖堂

イングランド国教会の司祭に学ぶ
クリスマスの伝統的な祝い方

日本人にはなかなか馴染みのないイングランド国教会。教徒たちは、どのようにクリスマスを祝っているのだろうか。ロンドン西部のホランド・パーク地区の教会区司祭、ジェームズ・ハード氏にお話をうかがった。キリスト教徒ではない日本人がイベントに参加するときのアドバイスもご紹介しよう。

ジェームズ・ハード司祭ジェームズ・ハード司祭

Revd Dr James Heard
Vicar, United Benefice of Holland Park

ホランド・パーク周辺にある聖ジョン・ザ・バプティスト教会と聖ジョージズ教会で司祭を務める。チェルシーの聖ルーク教会の教会区副司祭を経て2013年より現職。2教会は、16年にユナイテッド・ベネフィス・オブ・ホランド・パークとして共同活動を行っている。

聖ジョン・ザ・バプティスト教会St John the Baptist

Holland Road, London W14 8AH
Tel: 020 3602 9873

St George’s Church

Campden Hill, London W8 7JG
Tel: 020 3602 9873

https://hollandparkbenefice.org

イングランド国教会のクリスマスにとって最も重要なこととは何でしょうか。

イングランド国教会のクリスマスの精神は、基本的にはカトリックやほかのプロテスタントのそれと大きく変わらないと言っていいでしょう。つまり、神が私たちと一緒にいるために、人の姿で地上に生まれてくださったことを喜び、祝うことです。また、神が人間のために与えてくださった愛、共感、寛容の精神を思い出し、それを自分もほかの人に対して分け与える、ということも、重要な要素です。クリスマスの慈善活動や募金などは、この精神に基づいています。

特に、ホームレスの人や、貧困に苦しむ人へのクリスマス・チャリティーが多いのは、イエス・キリストが、何も持たない貧しい難民の両親の子として生まれたことに意味があると考えるためです。最も弱い者の形で地上にもたらされたイエス・キリストの誕生を祝い、「私たちは神に愛されている」ということを再認識し、その愛を人にも分け与える。それが、教会が大切にしているクリスマスの心だと言えると思います。

クリスマス礼拝のポスター。幼子イエスの絵が描かれているクリスマス礼拝のポスター。幼子イエスの絵が描かれている

国教会のクリスマスならでは要素はありますか。

アドベントやクリスマス礼拝など、基本的な儀式は、カトリック教会とほぼ同様だと言えます。リースやツリーなどのクリスマス・デコレーションは、教派というよりも、各教会によって違いますね。私たちの教会は建物自体が比較的豪華なので、派手な飾り付けはほとんどしていませんが、イエス・キリストの誕生の場面を表現した「クリブ」と呼ばれる人形飾りを、教会内に出しています。

教徒に定着している民間の慣習としては、アドベントの前の日曜日にクリスマス・プディングを作る、「スター・アップ・サンデー」が挙げられます。「混ぜる」を意味する「Stir」と「星」を意味する「Star」が掛かっており、クリスマス・プディングのタネをかき混ぜるごとに、心にクリスマスの星を灯していく、という意味合いがあるのです。家族がキッチンに集まって、交代でプディングを作り上げる、だんらんの機会でもあります。

教会での催しとして独自なものは、「ナイン・レッスンズ・アンド・キャロルズ」。クリスマス・イブの礼拝で、聖書の9つの箇所を読み上げ、9つの聖歌を歌うイベントです。19世紀に英南西部コーンウォールの教会で始まり、今では全国的に広まっています。ケンブリッジ大学のクリスマス礼拝で行われるものが特に有名ですね。

スター・アップ・サンデーに作るクリスマス・プディングスター・アップ・サンデーに作るクリスマス・プディング

洗礼を受けていない日本人がクリスマス礼拝に参加しても大丈夫ですか。どんな準備をしたらいいでしょうか。

教会にもよると思いますが、私たちを含む教会ネットワーク「インクルーシブ・チャーチ」に参加しているところでは、あらゆる人種、性別、文化的背景の人を歓迎しています。ロンドンには、世界各国から人が集まります。そんな人たちが、「安全な場所」として訪れられる教会であることを目的としているためです。

イングランド国教会の礼拝では、参加者に「サービス・シート」と呼ばれる小冊子を配っています。進行プログラムや聖歌の歌詞はもちろん、どこで立つ、どこでひざまずくなど、詳しい案内も書かれているので、初めて参加する人でもサービス・シートにならって行動すれば大丈夫です。ですので、礼拝が始まる10分前くらいに到着して、席に座り、サービス・シートを確認することをお勧めします。座る席は特に決められていないので、好きな場所を選んで構いません。とはいえ、ソーシャル・ディスタンシングにだけは気を付けてくださいね。

礼拝の途中に聖餐式がある場合、すでに洗礼を受けた人だけがパンとぶどう酒をもらうことができます。もし洗礼を受けていない人が何らかの形で参加したいと思うなら、聖餐の代わりに「祝福」(ブレッシング)を受けるのもいいでしょう。司祭の前に出たら、胸の前で両手を交差させ、お辞儀をすることで、祝福を求めているというサインになります。

読者の皆さんへのメッセージをお願いします。

メリー・クリスマス! 教会のイベントは誰でもウェルカムです。ルールが厳しいのではないか、失敗したらどうしよう、などと怖がらずに、気軽に訪ねてくださいね。クリスマス・キャロル・コンサートなどは、自宅から参加できるオンライン・ストリーミングも予定しています。

新型コロナウイルス流行の影響で、引き続き大変な1年になりました。さまざまな理由でクリスマス礼拝に来られない方々にも、「素晴らしいクリスマスをお過ごしください」とお伝えしたいです。全ての方々が、心安らかに、温かいクリスマスを過ごすことができるよう、心から祈っています。

イエス・キリスト誕生の場面を演じる子どもたちイエス・キリスト誕生の場面を演じる子どもたち

 

ビッグ・ベン今昔物語

ビッグ・ベン2021年に改修完了英国で最も愛される
時計塔にまつわる知られざる苦難
ビッグ・ベン今昔物語

英国、と聞いて世界中の誰もが真っ先に思い浮かべる風景、それはテムズ川のほとりに佇むビッグ・ベンの雄姿なのではないだろうか。

2012年、エリザベス女王のダイヤモンド・ジュビリーを記念し、「エリザベス・タワー」(Elizabeth Tower)と名を変えたビッグ・ベンは、現在約8000万ポンド(約11億円)をかけた大規模な改修の真っ最中。4年以上にわたる工事期間を経て、ついに足場が撤去され始めた。お披露目となる2021年を前に、今一度ビッグ・ベンの歴史をなぞってみるのはいかがだろうか。工事前に参加した時計塔ツアー体験のレビューも合わせてどうぞ。

現在の内部の様子や工事状況は こちら から

HPソースも足場付きの限定ラベル仕様に

HPソースビッグ・ベンの工事は、単に老朽化した塔の保全作業ではない。文字盤と針を紺青色に塗り直し、調査によって明らかになった1859年当時の色合いを蘇らせるほか、メンテナンス、緊急時の作業を行うためのリフトを新たに設置するなど、さまざまなお直しが含まれているのだ。工事期間中は、第一次、第二次世界大戦でも止むことのなかった鐘も、特別な日を除き一旦お休み中。

足場で姿が見えず、鐘の音も聞こえない。人々の心からその存在が薄くなりつつあった2019年、ビッグ・ベンはひっそりと誕生160周年を迎えた。これを記念して、英国の家庭で欠かせないブラウン・ソース「HP ソース」のラベルは、足場付きのデザインに様変わり。この仕様は、ビッグ・ベンが2021年に再始動するまで使われるそう。

改修期間も長いが、建設はもっと大変だった......威風堂々とそびえ立つこの世界一有名な時計塔、実は日の目を見るまでには涙ぐましいまでの紆余曲折を経てきたのだ。まずはこのビッグ・ベン建設にまつわる苦労話をご紹介しよう。

(取材・文: 村上祥子)※本記事は2007年に掲載された特集をアップデートしたものです。

始まりは大火から

チャールズ・バリー今や世界で最も有名な時計塔として名を馳せるビッグ・ベン。その誕生のきっかけとなったのは、1834年10月16日にウェストミンスター宮殿(現在の国会議事堂)を襲った大火だった。この火事で建物のほとんどが焼失。その結果、同じ場所にゴシック様式の新しい建物を建設することになったのである。

公開コンペにより97のデザイン案が審査された結果、見事栄冠を勝ち取ったのは、チャールズ・バリー。彼がビッグ・ベン生みの親となったのだ。

バリーのデザインで特に異彩を放っていたのが時計塔だった。関係者らはその斬新な提案に感動し、「ウェストミンスターの偉大な時計」 と呼んでその誕生を待ち望んだ。とはいえ当時すでに建築家として名を馳せていたバリーも、時計や鐘に関してはずぶの素人。そこでバリーが呼んできたのが友人であり、女王の時計職人だったベンジャミン・ルイス・ブリアミーだった。かくして長年に及ぶ時計塔建設の幕が開いたのである。

ターナー 英国を代表する画家、ターナーの描いた大火

なんでビッグ・ベンって呼ばれているの?

今や世界中の人々からビッグ・ベンと呼ばれ親しまれている国会議事堂の時計塔。実は「ビッグ・ベン」という名称は、時計塔に設置されている5つの鐘のうち、1番大きな鐘の愛称であり、元来は時計塔そのものを指しているわけではなかった。ちなみに鐘の正式名称は「グレイト・ベル」。つまりビッグ・ベンという現在の呼び名は厳密に言うと、二重の意味で正確ではないのである。

では何故この鐘がビッグ・ベンと呼ばれるようになったのか。それには2つの説がある。

1つは、時計塔建設の工事責任者で国会議員のベンジャミン・ホール卿の名をとったとする説、そしてもう1つは当時人気のあったボクサー、ベン・カウントにちなんだとする説だ。いずれにしろ英国を代表する建造物の名となった2人のベンさん、さぞや鼻も高いことだろう。

ビッグ・ベン受難の歴史 ― 時計編

コンペの期間は何と7年!

ジョージ・エイリー卿
コンペの審査員を務めた、
ジョージ・エイリー卿

時計塔建設は始めから前途多難だった。英国で最も重要な時計となる「ウェストミンスターの偉大な時計」のデザインに、さまざまな時計学者らからの横槍が入ったのである。そこで1846年、委員会は限定コンペの開催を決定。審査員で英国王立グリニッジ天文台長でもあったジョージ・エイリー卿は、①1時間ごとに鳴らされる鐘の第1打の誤差は1秒以内、②時計の動き具合を1日に2回、確認のためにグリニッジ天文台に打電する、などといった条件、計15項目を提示したため、審査は難航。何と7年にわたって論議が繰り広げられた。 最終的に時計のデザインを任されることになったのは、エイリー卿の共同審査員を務めた、弁護士でアマチュア時計デザイナーのエドマンド・ベケット・ デニソン。彼のデザインを基に、有名時計学者のE・J・デントが実際の建設を請け負うことになった。契約が結ばれたのは1852年、2月25日のことである。

え、時計が大き過ぎて入らない!?

これでようやく工事がスタート、と思いきや、またしても大きな問題が彼らに降りかかった。何と時計塔のスペースが、デニソンのデザインした時計を置くには小さすぎたのである。塔の建設を担当したバリーに非難が寄せられたが、当のバリーはデニソンに 対し、デザインする前に寸法を確認していなかったデニソンのミスだと反論。結局100ポンド(当時)をかけて時計を作り直すことになった。1854年には、無事時計の製造が完了。しかしこの時計を塔に設置することはできなかった。何故なら今度は塔の建設工事が遅れていたからである。かくして塔の工事が終了するまでの5年間、時計はデントの工場で保管されることになったのだった。

ケガの功名-正確なのは遅延のおかげ!?

そんなこんなでなかなか落ち着くことのできない時計だったが、それがプラスに働くことも。たっぷりある待機時間に、多くの改良を重ねることができたのだ。なかでも偉大な発明とされるのが、「Double Three-Legged Gravity Escapement」と呼ばれる脱進機*。この脱進機のおかげで、風や雪などの外部からの圧力が時計針にかかる影響を、振り子にまで及ばないようにすることが可能になった。ちなみにこの仕組みは現在でも、多くの時計で利用されている。

*脱進機: 振り子の特性を生かして、歯車を一定速度で回転させる仕組み

ビッグ・ベン受難の歴史 ― 鐘編

ロンドンまでの長い長い旅

時計塔の鐘が最初に鋳造されたのは、1856年8月6日のこと。イングランド北部ストックトン・オン・ティーズのワーナーズ鋳造所でつくられたこの鐘の重さは約16トン、当時では国内最大の鋳造物だった。この鐘が無事塔に収まるまでには、また別の長い苦労話がある。

まず大変だったのがロンドンまでの長旅だ。北東部のウェスト・ハートルプールまで列車で運び、その後ロンドンまでは船で運搬。船に運び込まれた時には甲板に激しい損傷を与え、船旅の途中では嵐に巻き込まれてあわや海の藻屑となって消えるところだったという。

ロンドンに着いてからは特別仕立ての16頭立て馬車でウェストミンスター・ブリッジを渡り、ようやく目的地である時計塔に到着した。

ワーナーズ鋳造所での鋳造過程ワーナーズ鋳造所での鋳造過程

鐘にひびが!

その後は宮殿の北側にある庭、ニュー・パレス・ヤードの台に吊るされ、テストを受ける日々。鐘に「ビッグ・ベン」の愛称が付いたのはこの頃である。

そんなビッグ・ベンに1857年10月、悲劇が起こった。テスト中の鐘の表面に1.2メートルほどのひびが入ってしまったのである。その原因に関しては、さまざまな意見が飛び交ったが、製作者のワーナーズは、設計者のデニソンにより鐘の舌(ハンマー)の重さが当初の355キロから660キロに増やされたからだと弁明した。

原因は何であれ、こうしてひび割れたビック・ベンは一旦壊され、再鋳造されることになった。ワーナーズがあまりに高額の費用を請求したため、今度はロンドンにあるホワイトチャペル鋳造所が製造を担当することに。1858年4月10日のことであった。

ホワイト・チャペル鋳造所ホワイトチャペル鋳造所で再鋳造される

受難は1回では終わらなかった……

同年10月、ついに新しい鐘が完成した。直径2.7メートル、高さ2.2メートル、そして重さは13.5トン。生まれ変わった新ビッグ・ベンは万全を期して塔に運ばれることになった。しかし、困難はまだ終わらなかったのである。

今回の問題は、鐘の口だった。大きすぎて、塔のエレベーターに入らなかったのである。しかし1人の関係者が閃いた。「鐘を横たわらせて吊り台で引っ張り上げればいい」。かくして30人がかりで鐘楼まで運び上げられたビッグ・ベンは無事、在るべき場所に収まったのである。

再鋳造されたビッグ・ベン再鋳造されたビッグ・ベン

沈黙するビッグ・ベン

しかし、鐘と時計を襲う災難は、まだまだ続く。第一に、時計が動かない。これは鋳鉄製の分針が重すぎたためで、銅製に変えることによって解決した。第二の問題は、 1859年、ビッグ・ベンがついに動き始めたのと同時に発生した。鐘の音がうるさすぎると議員たちから苦情が寄せられたのである。そして極めつけがひび。新しい鐘にも前回同様、ひび が入ってしまったのだ。

ひびのせいでビッグ・ベンはその後4年間、沈黙を余儀なくされ、その間はビッグ・ベンの周りに設置されている4つの鐘がその役目を果たしていた。解決法が見付かったのは1863年。ひびの入っていない面に舌が当たるように鐘を1/4回転させ、ひびがこれ以上広がらないように、小さい四角形の穴を開けたのである。そして舌の重さも330キロから200キロへと減らされた。こうしてビッグ・ベンは再びその役目を取り戻し、今日ある「世界一の時計塔」としての役割を果たすようになったのである。

ウェストミンスター・ブリッジから望む時計塔ウェストミンスター・ブリッジから望む時計塔

苦労はいまだ続く…… 時計塔がその動きを止める時

長い長い困難の歴史を経て1859年5月31日に動き出した時計塔。第二次大戦中にはドイツ空軍による数々の爆撃にも負けず、ひたすら時を刻み続けてきた。しかし、戦争にも耐えたこの時計は、これまで思わぬ出来事により何度かその動きを止めたことがある。

1. 年に2回の恒例行事 これはハプニングではなく、年に2回訪れる、英国の夏時間の始まりと終わりの調整作業。この際には部品の補修工事なども合わせて行われる。

2. 「ビッグ・ベンを止めた男」 1922年、塗装業者たちが時計塔の内部の塗装作業を行っていた。ある朝、時計面の裏側の部屋で作業をしていた作業監督が、はしごを時計の針を回転させる軸に立てかけたまま、外へ出てしまう。しば らくしてその作業監督が地上から時計を見上げてびっくり! なんと正確なことでは他に類を見ないはずのビッグ・ベンの時計が止まっているではないか。原因を作り出した当の作業監督、G・F・ウィード氏は、「もちろん、私は非難されたよ。でもどうやって分かるっていうんだい? 私は時計職人じゃないんだよ」と弁明。翌日の新聞には、「ビッグ・ベンを止めた男」として大々的に取り上げられたとか。

3. そのほかのハプニング 1949年 ムクドリの群れが時計の分針に止まり、4分30秒の間、時計が止まる。
1962年 大雪の影響で、新年の鐘が10分遅く鳴る。
1976年 時計装置が金属疲労により故障。再び時計が動くまでには3週間を要した。
2005年5月28日22時7分に分針が突如止まる。やがてゆっくりと動き出したが、22時20分に再び動かなくなり、約90分間静止していた。異常の原因は不明だったが、この日は気温が31.8度に達しており、気温上昇のため、という見解がなされた。

そのほか2000年9月には、地下鉄ジュビリー線の拡張工事による振動を遮断するため、時計塔の地下に何百トンものグラウト材(地盤の強度を高めるもの)が運び込まれるなど、世界一の時計塔は正確な時間を刻むため、地味で堅実な努力を続けているのである。

ビッグベンを間近に見るチャンス!時計塔ツアー体験

子どもの頃、ピーターパンの映画でピーターと子供たちがビッグ・ベンの周りを飛び回るのを見て、うらやましいなと感じたことはないだろうか。実はこの時計塔、我々でも登ることができるのだ。現在は改修中のため、ツアーは休止中。2021年の再開時にルート変更の可能性はあるものの、塔の内部をより快適に見学できるはずだ。ここでは改修前のルートに沿いながら、その見どころを予習してみよう。

※本文は2007年取材時の順路。

時計塔ツアーに参加するには… まずは自分が住んでいる地区の国会議員(MP)を探す。ちなみにMPは国会議事堂のウェブサイト(www.parliament.uk)内で検索することが可能。ツアーに参加したい旨、Eメールか電話で連絡する。聞かれる内容は名前、住所、電話番号、生年月日と生まれた場所など。あとはMPの方でツアーの日時をアレンジしてくれる。

※再開後の方法はウェブサイトで最新の情報を参照
www.parliament.uk/visiting/visiting-and-tours/tours-of-parliament/bigben

ビック・ベン

0スタート 
まずはボディ・チェック

集合場所は、大通りを隔てて国会議事堂と向かい合う議員会館(Portcullis House)。まずは入り口で念入りにボディ・チェックを受ける。建物内を巡回する警備員の手には大きな銃。見学時にはすべての写真撮影を固く禁止すると告げられる。やがて2人のツアー・ガイドが到着。ガイドさんに連れられ、建物内を横切って時計塔まで向かう。

1階段を登る 
体力に自信のない方はご遠慮ください

いよいよ登頂開始。「体力に自信のない人は言ってくださいね」と冗談交じりに話すガイドさん。それもそのはず、塔にはエレベーターなどの昇降機がないので、階段を登らなければならないのだ。ちなみに階段数は鐘楼までが334段。狭く殺風景な塔の中央に鎮座する螺旋階段をひたすら、ひたすら上っていく。

2プリズン・ルーム
実は刑務所だった!

参加者がみな疲れきって無口になった頃、ようやくとある小部屋に到着。室内には、絵画や建設工事の際に使われた工具などが陳列されている。ガイドさんの説明によれば、実はこの部屋、昔は独房として使われていたというから 驚き! 何でも国会の両院で野次を飛ばすなどしてディベートを妨害した議員が 収容されたのだとか。公式には残りの国会開催期間中、ずっと拘束できることになってはいたが、実際には1日以上閉じ込められた人はいなかったらしい。

3クロック・ルーム
これが時計を動かしているの?

プリズン・ルームの説明が終わると、また階段。もくもくと上り続ける。そして到着したのがクロック・ルームだ。ここには時計装置が設置されている。4.7メートル×1.4メートル、重さ約5トンというこの仕掛けは、とてもあの巨大な時計を動かしているとは思えないほどの大きさ。剥き出しに置かれていて、埃や塵などで歯車が詰まってしまわないのか、こちらが心配になるほどあっさりとした管理にさすがは英国、と何となく納得。

クロック・ルーム

4鐘楼
いよいよビッグ・ベンとご対面

クロック・ルームそしていよいよビッグ・ベン、すなわち鐘とのご対面。外気に面した鐘楼には、4つの鐘に囲まれたビッグ・ベンが。「間近で聞くとすさまじい音だから」ということで一人ひとり前もって渡された耳栓を装備、爆音に備える。待つことしばし。ついにビッグ・ベンが鳴り出した。とにかく大きな硬質な音で、美しいかどうかなんて考える余裕もない。耳も慣れてきたようなので、最後くらい実際に聞いてみようかと思い、耳栓を外した途端にすさまじい音が……。最後まで耳栓は外さない方が良さそうだ。鐘の音を堪能した後は、ビッグ・ベンに今もなお残るひびと四角い穴を確認。ひびが入ったまま100年以上もの間働き続けているのだからたいしたものだ

 

5時計面の裏側
時計の裏は意外とシンプル

時計面の裏側は、人ひとりがようやく歩けるくらいの細いスペースになっている。白っぽいガラスをつなぎ合わせている時計の裏面の向こう側 には、うっすらと透けて見える針。自分が今、時計塔のまさに中心部にいるのだという実感が湧いてくる。逆側の壁には裸電球が。夜になると幻想的に光り輝く時計は、何と裸電球が照らしていたのだ。1つの時計面に対し、使われる電球は27個。「この55ワットの電球は低エネルギーでエコ・フレンドリーなのよ」というガイドさんの生活感溢れる言葉には感動すればいいのやら、がっかりすればいいのやら……。

6ツアー終了
再び地上へ

狭くて長い螺旋階段を今度はもくもくと下りる。次第に目が回ってきて、みんな心なしか言葉少な。ぐるぐるぐる……。そしてようやく地上に到着。これで時計塔ツアーは終了だ。

夜のビッグ・ベン

ガイドさんのビッグ・ベン秘話 1

最後に拘束されたのは?
1ペニー硬貨

1880年、無神論者の議員、チャールズ・ブラッドローが聖書宣誓を拒否し、このプリズン・ルームに一晩拘束されたのが最後。ところでこのプリズン・ルーム、プリズンとは呼ばれていても、実際は家具などがすべて揃った快適な部屋だったらしい。それじゃ拘束する意味なんてないのでは!?

ガイドさんのビッグ・ベン秘話 2

微調整はペンス硬貨で!
1ペニー硬貨

正確さにおいては折り紙付きのこ の時計。その正確さを守っているのは何とペンス硬貨なのだ。時計の振り子の重しをよく見てみると、その上には、数枚のペンス硬貨が置かれている。2週間に1度行われるチェックで、時計の針の進みが速ければコインを取り、遅いようなら追加する。1枚追加することによって24時間につき0.4秒、進みが速くなるのだとか。

ガイドさんのビッグ・ベン秘話 3

小さなパネルは取り外し自由
時計面

小さな白ガラスをはめ合わせている時計面。 実は1カ所だけ、裏側から簡単に取り外せるようなつくりになっている部分がある。これは大雪が降るなどして時計の針に異常が発生した時にヒョイヒョイ、と手直しできるようにするためなんだとか。

ガイドさんのビッグ・ベン秘話 4

旗の大きさはテニス・コート!
ビッグ・ベン

旗の大きさはテニス・コート!時計塔のてっぺんに明かりが灯る時、それは下院で会議が行われていることを意味する。国会議事堂では、会議が行われているのか否か、一目で分かるある方法を使っている。議事堂内で、時計塔と対を成しそびえるヴィクトリア・タワーの頂上に、旗が掲げてあれば会 議中、なければ会議はしていない、という仕組みになっているのだ。地上からこの旗を見上げると小さめに見えるが、その大きさは何とテニス・コートほどにもなるというからすごい。

ガイドさんのビッグ・ベン秘話 5

ヴィクトリア女王に幸あれ!

各時計面の下側には、なにやら文章が刻まれている。発案者は時計塔の共同設計者、オーガスタス・W・N・ピュージン。ラテン語で、「Domine Salvam fac Reginam nostrum Victoriam primam 」と彫ってあるのだが、意味としては 「O Lord, save our Queen Victoria the First」となる。何でもピュージンはヴィクトリア女王の信奉者で、国会議事堂のさまざまなところにこの文章を入れているというから恐れ入る。

ヴィクトリア女王に幸あれ!

数字で見るビッグ・ベン

時計塔 高さ: 96メートル
ランタン(頂塔)までの階段数: 399段
(見学者は鐘楼まで登ることが可能。鐘楼までは334段)
時計 時計面数: 4つ
直径: 7メートル
時計面に使われているガラス数: 一面につき324個
時計針: 短針-2.7メートル、重さ300キロ
長針-4.2メートル、重さ100キロ
時計装置 重さ: 5トン
振り子 長さ: 4.4メートル | 重さ: 310キロ | 打数: 2秒毎
鐘(ビッグ・ベン) 直径: 2.7メートル | 高さ: 2.2メートル
重さ: 13.7トン | 舌の重さ: 200キロ
 

英国の調味料 - 英国式・世界の調味料

知っているようで知らない 英国の調味料。

スーパーマーケットの棚に、茶色系の瓶入り調味料がずらりと並ぶ英国。その多くが調理の際に使うものではなく、食べる人が自ら、出来上がった料理に付けたりかけたりする商品だ。その昔、塩やコショウなどが貴重品だった英国では、ゲストを食事に招待した際、客人の前に大盛りの塩が入った器を置くことがもてなしの一つだったという。そんな中世の風習が残ってしまったのかどうかは分からないが、英国では今も、一般家庭ばかりではなく、一定数のレストランのテーブルに塩とコショウ、場所によってはケチャップやビネガーなども並び、各自による味付けのDIYが行われている。この特集では、身近なものから見たことはあるけど使ったことのないものまで、昔から英国で愛されている伝統的な調味料を改めてご紹介。簡単な利用法も記したので、これを機会に手に取ってみてはいかがだろうか。いざ、奥深き英国調味料の世界へ。
(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

知っているようで知らない、英国の調味料。

uk伝統的な英国の調味料

数ある調味料の中から12の代表的なものを厳選した。どれもスーパーマーケットで手軽に購入できる商品ばかり。 長年培われた英国人の味覚の原点に迫ってみよう。
*価格はTescoのオンライン・ショップを参照(マッシュルーム・ケチャップはWaitrose & Partners)

BistoBisto
ビスト

1908年の誕生以来、英国で愛され続けている顆粒状グレービー・ソースの素。お湯で溶いてローストビーフやチキン、マッシュド・ポテトなどにかけるほか、カレーや炒飯の隠し味にも良い。「Aah! Bisto」がキャッチフレーズで、伝統的な家庭料理には欠かせない存在。ビーフをはじめ、チキン、ベジタブル味など各種展開している。主成分は小麦粉や片栗粉。

£1.30 / 170g
www.bisto.co.uk

HP Brown SauceHP Brown Sauce
HP ブラウン・ソース

英国家庭の食卓には必ず1本あると言っても過言ではないブラウン・ソース。パッケージには国会議事堂の絵が描かれており、HPはハウス・オブ・パーラメント(国会議事堂)の略だとされている。トマト、デーツ、タマリンドなどが主成分で、ケチャップの代わりにベーコン・サンドイッチに使うのが英国風。アレンジすればお好み焼き用ソースにも。

£1.00 / 255g
www.hpsauce.co.uk

Oxo CubesOxo Cubes
オクソ・キューブス

煮込み料理にと何かと活躍するストック・キューブは、言ってみればキューブ状だしの素。1910年の発売以来、なくてはならない存在として、各家庭で重宝される定番商品になった。ハーブ、スパイス、粉末グレービー、小麦などが原料で、オリジナルのビーフ味以外にも、チキン、ベジタブル、ハム、ラムがあり、減塩バージョンやグルテン・フリー・タイプも存在する。

£1.30 /12個(71g)
www.oxo.co.uk

Worcestershire SauceWorcestershire Sauce
ウスターシャー・ソース

日本でいうウスター・ソースの原点となるのがこの商品。1837年に英中部ウスターシャーの薬剤師2人によって生み出された。主な原料はモルト・ビネガー、野菜や果物のほかに、各種スパイス、タマリンドやアンチョビも使われている。英国ではチーズ・トーストに振りかけるのが定番。カレーの隠し味やハンバーグを練りこむ際に使うとコクと深みが加わる。

£1.70 / 150ml
www.leaandperrins.co.uk

Maldon Sea SaltMaldon Sea Salt
マルドン・シー・ソルト

英南東部エセックスで200年以上にわたり生産されているフレーク状の塩。今も海水を平窯で煮詰める伝統的な製造法を守っている。使う際は、料理中に食材に混ぜ込むのではなく、食べる前の一振りに使うのが効果的。ステーキやサラダなどにかけることで、マイルドな旨味やサクサクした食感が楽しめる。スモークド・ソルトもあり、こちらは魚介類に。

£2.10 / 250g
www.maldonsalt.co.uk

Salad CreamSalad Cream
サラダ・クリーム

サラダ・クリームは1914年に英国で生まれた、他国ではあまり見かけない調味料。味としてはマヨネーズとドレッシングの中間に位置し、砂糖やマスタードが多く含まれている。英国ではサラダ・ドレッシングというよりも、サンドイッチに塗るものとして位置づけられており、卵サンドの際にマヨネーズの代わりに入っていることが多い。

£2.00 / 425g
www.heinz.co.uk

Colman's MustardColman's Mustard
コールマンズ・マスタード

1814年に英東部ノリッジで創業したコールマン社の粉末マスタード。原料となるマスタードの種は近隣のからし菜栽培農家が手掛ける。利用方法はそのまま肉やハム、サラダなどに振りかけるほか、自家製マスタードを作りにも。同社の瓶やチューブ入りイングリッシュ・マスタードには、21パーセントの粉マスタード、小麦粉、ターメリック、水などが加えられている。

£1.35 / 57g
www.colmans.co.uk

Malt VinegarMalt Vinegar
モルト・ビネガー

1794年にロンドン東部ショーディッチで創業したサーソン社が作り続ける、麦芽を原料にした茶色いビネガー。フィッシュ&チップスにたっぷりかける、英国らしい調味料として、国内外に定着している。通常の酢よりまろやかでコクがあり、フライや炒め物などに似合う。ピクルド・オニオン(小玉ねぎのピクルス)、コールスローを作る際にも活躍。

£0.80 / 250ml
www.sarsons.co.uk

Mushroom KetchapMushroom Ketchap
マッシュルーム・ケチャップ

ケチャップの歴史は非常に古く、中国の魚を発酵させて作った調味料「ケ・ツィアプ」が元祖。17世紀に欧州に渡ってケチャップになり、魚介類だけではなくきのこや果物のケチャップも登場した。マッシュルームはもっともポピュラーで、ヴィクトリア朝の英国で重要な調味料の一つとなった。ウスター・ソースに似ており、パイやローストの隠し味に使われる。

£1.35 / 190ml
www.geowatkins.com

PiccalilliPiccalilli
ピッカリリ

調味料というより保存食の一種であるピッカリリは、英国らしからぬ名前と不穏な色合いを持った野菜のピクルス。植民地時代に南アジアのピクルスが英国に伝わり、アレンジされ定着した。主な具材はカリフラワー、小玉ネギ、ガーキンで、マスタードとターメリックが入り酸味も強い。次で述べるブランストン・ピックル同様、パンやハムのお供に。

£1.90 / 400g
www.haywardspickles.co.uk

Branston PickleBranston Pickle
ブランストン・ピックル

ニンジンや玉ねぎなどを細かく刻んだ野菜のチャツネ。モルト・ビネガーやトマト・ピューレー、デーツ・シロップなどで甘酸っぱく味付けされている。チーズ・サンドイッチとの相性が良く、英国らしい味わい。1922年に英中部スタッフォードシャーのメーカー、ブランストンで発売されて以来、変わらぬレシピで英国の定番になった。

£1.50 / 360g
bringoutthebranston.co.uk

MarmiteMarmite
マーマイト

塩分が強く独特の臭気があることで、英国人でも好き嫌いがはっきり分かれるマーマイトは、ビールの醸造後に残る酵母を使った食品。トーストやクラッカーに伸ばして食すほか、スープに溶かすなどの利用法もある。ビタミンB12成分が高く、認知症の予防に良いと言われることも。また、近年ではベジタリアン食品としての需要が高まっているという。

£2.69 / 250g
www.marmite.co.uk

uk英国式・世界の調味料

自国の食を自慢することが少ない代わりに、英国人たちが誇るのが、この国では世界各国の味に出合えるということ。このページでは、アジアから中近東、アフリカまで、英国で作られている世界の伝統的な調味料をご紹介する。

Belazu Rose HarissaBelazu Rose Harissa
ハリッサ

モロッコやチュニジアなど北アフリカで日常的に用いられる唐辛子ペースト。クスクスやタジン鍋の際に添えて食す。本品は、パプリカやガーリック、バラの花びらなども入ったマイルドな辛味で、バーガーや卵料理、ヨーグルトと和えてマリネ液にするのも良い。1991年に2人の幼なじみが立ち上げた、オリーブ・オイルの輸入会社から発展し、今や大手スーパーも扱う食品メーカーに。

£4.35 / 170g
www.belazu.com

Red KimchiRed Kimchi
キムチ

ロンドン東部レイトンで手作りされているキムチ。ピクルスや発酵食品作りに対する愛が高じ、ダルストンの自宅で手作りキムチ教室を開催していたというジェームズさんが、友人からのリクエストに応える形で自身のキムチを商品化。「食のオスカー」とも言われる権威あるグレート・テイスト・アワードで星2つを獲得した。ロンドン東部の野外マーケットやオンラインで購入可能だ。

£6.00 / 350g
www.shedletskysdeli.com

Jerk Barbeque SauceJerk Barbeque Sauce
ジャーク・ソース

カリブ海の島国ジャマイカの郷土料理、ジャーク・チキンを作るためのスパイシー・ソース。主原料はオールスパイスや唐辛子スコッチボネットで、チキンだけではなくポークや海老などにも合う。バーベキューの際に人気の1本となりそうだ。英国生まれのブラウン氏が、ジャマイカ出身の母親の味を基にジャーク・ハウス・シリーズを編み出した。

£6.00 / 555g
www.marshallandbrown.co.uk/the-jerk-house

Organic TahiniOrganic Tahini
タヒニ

塩分ゼロのヘルシーなギリシャ風白ゴマ・ペースト。通常のものより香ばしさが感じられるのは、ゴマを石臼でひく前に丁寧に炒っているから。中東料理のフムスやファラフェル作りはもちろんのこと、練りゴマとして扱えば和風、中華風とさまざまに使える。元教師のイリアナさんがギリシャ人の祖母の故郷を旅したことが商品開発のヒントになった。

£3.99 / 350g
www.grecious.co.uk

VFISH Fishless Fish SauceVFISH Fishless Fish Sauce
フィッシュ・ソース

昨年発売されたばかりの、魚介類が全く入っていない、昆布とワカメが原料のヴィーガン用フィッシュ・ソース。醤油、米酢をベースに、トマト・ペースト、シイタケなども使われているので旨味成分が強く、日本食との相性もよさそうだ。英南西部ポーツマスのクラフト系チリ製品を扱うショップが開発したもので、ヴィーガンでなくとも満足できそう。

£5.99 / 150ml
onestopchillishop.co.uk/product/vfish

英国人の味覚に変化?

マヨネーズ・ブームの謎

ここ数年、英国ではマヨネーズ・ブームが続いているという。「英国人の1番好きな調味料」のランク付けで初めて、トマト・ケチャップを抜いてトップの座に躍り出たのが2017年。同年の調査記録によれば、ケチャップの売り上げが2.7パーセント低下したのに比べ、マヨネーズのそれは6.9パーセントも増加。

専門家によると、この変化は英国人の味覚が昔ながらの調味料から新しいテイストへと移行していることの表れだという。消費者がペリペリ・ソースやチリ・チャツネなどの、味によりパンチがある珍しい商品に目を向けるにつれて、ケチャップの売り上げが低下。

一方でマヨネーズは原材料にフリーレンジの卵を使い、人工着色料や防腐剤を除去するといった方法で健康志向の消費者を取りこんだほか、さまざまなフレーバーの商品も開発されるなど、より魅力的な商品になっていったのが原因だそう。

 

ウィズコロナ時代を生きる英国市民たち

ウィズコロナ時代を生きる英国市民たち

ウィズことな時代を生きる英国市民たち

暮らしに見える7つの変化

新型コロナウイルスが世界中に広まり、誰も想像しなかったパンデミックに突入して半年以上が経過した。国家統計局が集計したグラフからは、夏以降、人々が再び外出を控えるようになったことが読み取れる。数値に反映されない、英国の市民の生活は実際どうなっているのだろうか。
今まで着けたこともなかったマスクが必需品になったように、新型コロナと共に生きるウィズコロナ時代の新しい生活様式を、戸惑いながらも受け入れている。見通しの立たない状況に奮闘する市民たちの姿や、新型コロナによる社会への影響をまとめた。
文: 英国ニュースダイジェスト編集部
参考: BBC、The Guardian、Big Hospitalityほか

社会的な交流パターンの推移

新型コロナウイルスによって、
国内で7つの大きな変化が生まれた。

フード・デリバリー事業の発達 フード・デリバリー事業の発達

英国では、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐため、3月23日のロックダウン以降、多くの企業が一時閉鎖することを義務付けられた。特にパブやカフェなどの飲食業は、7月に再開が認められたものの、10月から再び限定的な営業となり、厳しい状況におかれている。

この状況下で伸びてきた分野がフード・デリバリー事業だ。消費者データを扱うマーケティング会社スタティスタのレポートによると、英国のデリバリー市場はパンデミック前の2018年から19年にかけて81億ポンド(約1102億円)から85億ポンド(約1157億円)に市場価値を上げており、ロックダウン前から成長の受け皿が整っていたことが分かっている。「週末のごちそう」の位置付けだったフード・デリバリーが、ロックダウンによって曜日、時間帯を問わず利用されるようになった。その結果、フード・デリバリー・サービスのデリバルー(deliveroo)には、3月以降、約1万1500店舗が新規に登録。配送員も2万5000人から5万人以上に増やし、爆発的な需要拡大に対応している。また、利用者が配送員への感謝の気持ちを込めて、直接チップを払える機能を新たに搭載し、デリバリーをレストラン感覚で利用できるシステムを整えた。

新ビジネスの誕生 新ビジネスの誕生

「ロックダウンで公共交通機関が使えなくなり、職場に通えなくなった」「一時閉業に追い込まれ、雇用の余裕がなくなった」などの理由で、新しい職場への就職や新事業の立ち上げが反故になってしまい、夢を一瞬にして失った市民も大勢いる。メディアでは、そうした個人事業主に起こった苦労話や、規模の小ささを生かしてその後成功したビジネスの例を頻繁に紹介している。

フリーランスのヘア・スタイリストであるモニーク・マーフィーさんは、自分が住むエリアにアフロ・ヘアーを扱えるヘアサロンがないことに注目し、自分のサロンを立ち上げた。カフェの経営者であるエミリー・ファーフィーさんは、ロンドンから思い切って英南部フォークストンに拠点を移し、ソーシャル・ディスタンスを確保できる広々とした空間のカフェをオープンした。「再出発するなら人々に今求められているものを提供するのがいいのではないか」。機転を利かせたアイデアがヒットし、新たな仕事と共に生活を送っている。

不動産事情の変化 不動産事情の変化

2020年10月末時点で、ロンドン在住の会社員は、できる限り自宅で働くよう推奨されている。自宅がオフィスになるという新しいライフスタイルがいつまで続くか見通しが立たないため、庭付きの戸建てや、緑豊かな公園がそばにある物件の人気が上昇している。

英大手不動産ポータルのライトムーヴによると、この秋、市場に出回っている住宅の平均提示価格は過去最高を記録しており、不況に突入しているにも関わらず、購入者は昨年の同時期に比べ5.5パーセントも高い住宅購入を検討していることが分かった。夏以降に住宅事業が活発化している理由は、今年7月、「最大50万ポンド(約6807万円)で販売された住宅までは、住宅購入時に課せられる印紙税を無料にする」、というスキームが発表されたことによる。同スキームは来年3月31日までイングランドと北アイルランドで適用される。

環境問題の改善 環境問題の改善

第1回目のロックダウンは英国経済にとっては痛手だったものの、公共交通網が止まり、飛行機の移動も大幅に制限されたことで、7月時点で大気汚染や温室効果ガスが昨年に比べ激減したという、予想外の朗報がもたらされた。

人々の移動パターンのデータを扱うストラヴァ・メトロによると、ロンドンでの新規自転車利用者数の上昇率は5月でピークに達し、前年比119パーセントの増加が見られた。理由としては移動の手段がほかにない、人の往来が減って走りやすい、などの要因が挙げられている。現在自転車の走行車数は減少傾向にあるものの、電動自転車や電動スクーターなど新たな移動手段の需要は高まってきているという。また、自転車利用者数の増加に伴い、自転車修理の請負サービスがロンドン各地に新設、電動自転車の共有サービスの拡大など、環境に優しい新たな雇用の創出も加速している。

市民による医療従事者への支援が盛んに 市民による医療従事者への支援が盛んに

もともとチャリティー活動に熱心な英国市民。パンデミック以降は、医療従事者への支援が一段と目立った。歩行器を使って自宅の庭を100回往復するチャレンジで、約3200万ポンド(約43億円)の寄付を集めた退役大尉のトム・ムーアさんをはじめ、自らデザインしたマスクの売り上げ金2475ポンド(約33万円)を寄付したバスのオペレーター、ロックダウン中の6カ月間、1日約5キロメートル走り、1000ポンド(約13万円)以上を集めたティーンエイジャーなど、さまざまな形でチャリティーを行う市民が後を絶たない。

また、チャリティー以外にも、NHSスタッフを対象としたカフェやショップの割引制度の開始、NHSスタッフに感謝の気持ちを込めて木曜日の夜に拍手をするイベント「クラップ・フォー・アワ・ケアーズ」(Clap For Our Carers)、雨の後に出る虹を希望に見立て、メッセージを添えた虹の絵を窓に貼る運動なども実施された。

ファッションの変化 ファッションの変化

不織布マスクが高値で売買され、一時期マスクが手に入らない状況となったのは英国も日本も同様だ。現在は洗える布製のマスクが主流となっており、ファッション感覚で着けられるおしゃれなものや、顔とマスクの間に空間を設け、呼吸がしやすいスポーツ用など、使用目的に合ったマスクが販売されている。中でも、このコロナ禍で売り上げが跳ね上がったのは、手作りのファッション・アイテムを販売するオンライン・サイト「ディーポップ」(Depop)だ。さまざまな人種の肌トーンに合うような豊富なカラー・バリエーションのマスクを取り扱い、ファッションに関心の強い若者を中心に人気を博している。

また、通勤など自宅勤務で確保できた時間をエクササイズに充てる人が増え、トレーナーなどのカジュアルな服やスポーツ・ウエアの売り上げが昨年比で17パーセント増加。ファッション業界の業績不振は顕著だが、一方で恩恵を受けているブランドも一部あるようだ。

オーガニックな暮らし オーガニックな暮らし

ロックダウン当初に起こった買い占めでスーパーマーケットでの品薄が問題になり、食料品の調達ルートにも変化が見られた。今まであまり利用することのなかった地元の個人商店で食品を購入する人や、地元の農産物などに関心を向ける人が増加。また飲食店が一時閉業になったことで、良質な食材が地元の商店へ流通するようになった。そのほかにも、在宅勤務で荷物の受け取りがスムーズにできることから、新鮮野菜の配送サービスを利用する人も増えた。

ロックダウン中にガーデン・センターが飲食店より早くオープンしたことで、都市部を中心に、家庭菜園を始めた人も。地方では、近所の農場から堆肥を分けてもらい、本格的な野菜作りに挑戦する、鶏小屋を自ら作り、ニワトリを飼育するなど、自給自足とまではいかないものの、新たな趣味の一つとして、自家栽培を楽しむ人が増えた。


次世代へ記憶をつなぐ

増え続ける感染者、愛する人の死、経済的な打撃、友人との交流の制限など、新型コロナウイルスが市民に与えた影響は、挙げればきりがない。
「2020年は失われた年」だと囁かれているなか、この異例の事態を何らかの形で残そうとする動きがある。あとで振り返って笑えるようになるまで、まだまだ時間はかかりそうだが、この出来事を未来へ伝えるさまざまな活動を紹介しよう。

「コロナ・アート」の誕生

ロンドン博物館(ミュージアム・オブ・ロンドン)では、パンデミック時のロンドン市民の生活を後世に残すため、関連のオブジェを4月から公募している。ロックダウンで自宅が活動の拠点に変わり、ライフスタイルが変化していく様や、一連の出来事が若い世代にどのような影響を与えたかを、市民の記憶とともに紹介する予定だ。

また先月、毎年デザイン・ミュージアムで開催される、過去12カ月で制作された革新的なデザインに贈られる国際的な賞「ビーズリー・デザインズ・オブ・ザ・イヤー」(Beazley Designs of the Year)のノミネート作品が発表された。新型コロナウイルス感染症の原因となるウイルスSARS-CoV-2のグラフィックや、3D プリンターで作ったフェイス・シールドなど、新型コロナにまつわる作品が数多く選出された。

ビーズリー・デザインズ・オブ・ザ・イヤーにノミネートされた「3D rendering of SARS-CoV-2」 ビーズリー・デザインズ・オブ・ザ・イヤーにノミネートされた「3D rendering of SARS-CoV-2」

新型コロナをテーマにした創作活動は、市民にも影響を与えている。ロンドン在住のエリザベス・キュエストレットさんは、3月から8月にかけて感じたパンデミックに対する怒りや怖れ、またそれを受け入れていく様子をイラストで表現した「My Grief - life during lock down 2020(auto-bio comic)」を制作。マーク・ビーチルさんは、ロックダウン中に、気が滅入り、家にあった果物に顔を描き始めたことがきっかけで、街中にあふれる「顔」を撮影したミニ写真集「lockdown faces」を出版した。自分なりの方法でロックダウンを記憶する自主制作も盛んに行われている。

ミニ写真集「lockdown faces」 ミニ写真集「lockdown faces」

新型コロナウイルス関連の単語がオックスフォード辞典に掲載

新型コロナウイルスにより、日常生活で使用する言語にも変化があった。4月、オックスフォード現代英英辞典に、新型コロナウイルスにまつわる用語が新たに追加された。

例えば「コヴィディオット」(Covidiot)という名詞。意味は「新型コロナウイルスの蔓延を防ぐために作られたソーシャル・ディスタンスの規則に従うことを拒否することで、他者を悩ます人」のことだ。こういった造語の他にも、「COVID- 19」、「Social distancing」(感染症の蔓延を防ぐため、自分と人との間に安全な距離を保つこと)、「Elbow bump」(自分の肘と相手の肘をタッチさせてする挨拶)、「WFH」(Work From Homeの略で、自宅勤務)など、ニュースで頻繁に聞かれるワードを中心に採用された。

なお、今後の情勢次第では、ワクチンや治療薬など、医学的、科学的な専門用語などが追加される可能性があるようだ。

叙勲リストに戦う市民の名が連なる

10月、エリザベス女王の誕生日を記念する叙勲リストが発表された。そこには、スーパーの店員や配達員、看護師、パブのオーナーなど、新型コロナウイルスの流行を食い止めるために立ち上がった、一般市民たちの名前が並び、1495名のうち、414人が新型コロナウイルス関連で活躍した人物だった。

英中部ケンブリッジシャーのスーパーマーケットで働くジェフ・ノリスさんは、免疫力がないため、気軽に外出できない高齢者のために、買い物しやすいシステムを独自に構築し、休みを返上して買い物を代行した。また、看護師のアシュリー・リンズデルさんは、医療現場で使用する医療用ガウン不足を補うため、自費で布を買って同僚のためにガウンを作った。さらにこの活動をSNSで拡散し、英国各地にガウン作りのボランティア・グループを作り、多くの手作りガウンやマスクを医療現場の最前線に届けた。なお、「市民による医療従事者への支援が盛んに」で紹介したトム・ムーアさんはナイト爵位を与えられている。

エリザベス女王からナイト・バチェラー(勲爵士)に任命されたムーア退役大尉 エリザベス女王からナイト・バチェラー(勲爵士)に任命されたムーア退役大尉

 

伝統+遊び心=ポール・スミス - The Joy of Individuality

ブランド創立50周年伝統遊び心=ポール・スミス
The Joy of Individuality

1970年、ノッティンガムに自分の店を持ったポール・スミス1970年、ノッティンガムに自分の店を持ったポール・スミス

伝統とモダンを融合させた独創性の高いデザインで、英国のファッション界をけん引するポール・スミス。1970年に英中部ノッティンガムで自身の名を冠したブランドを立ち上げ、以来、色鮮やかなストライプや写真プリントの布地など、ひねりの効いた遊び心にあふれるデザインで世界中のファッショニスタの心をつかんできた。今回は、10月9日にブランド創立50周年を迎えたポール・スミスの、デザイナーとしての心意気とその哲学を紹介しよう。
文: 英国ニュースダイジェスト編集部

自転車レーサーになりたかった少年時代

ポール・スミスは1946年7月5日、英中部ノッティンガムのビーストンに生地販売業者の息子として誕生。11歳の誕生日にロード・バイクをもらって以来、地元の自転車クラブに入会するなどし、ツール・ド・フランスに出場するようなプロの選手になることを夢見た。人生のこの時期、まだファッションへの興味は薄かったようで、「スポーツに見た目は重要ではない、などと言うつもりはないが、見た目よりも遠くを見ることの重要性を学んだ時期だった」と2016年のバイク雑誌の取材に答えている。当時入会していたクラブにいた2人の少年を回想し、「完璧なサイクリング用具一式を持っていた少年より、当時のクラブでは誰も履いていなかった黒いソックスに、だらしない格好をした少年の方が良い選手だった」「人生の成功にとって着飾ることが重要なわけではないと教えてくれた」。デザイナーとして一見逆説的ともいえる言葉だが、「見た目は中身が伴ってこそ」という、サイクリングを通して養われた、地に足の着いたポールの美学が垣間見られる。

15歳で学校を自主退学し衣料品の倉庫で働きだしたが、自転車レーサーになる夢は捨てきれず、仕事の合間、日々練習に励んでいた。ところが、17歳のときに交通事故に遭う。3カ月近く入院する大けがで、これをきっかけに自転車レーサーの夢は手放すことになった。しかし入院中に知り合った新たな友人を通じ、アート・スクールの学生たちと出会い大きな影響を受ける。生涯にわたる、デザイン、音楽、ファッションの発見と探求の旅が、ここから始まった。

1970年、ノッティンガムにオープンした「ポール・スミスの紳士服」(Paul Smith Vêtements Pour Homme)で働くポール・スミス1970年、ノッティンガムにオープンした「ポール・スミスの紳士服」(Paul Smith Vêtements Pour Homme)で働くポール・スミス

パートナーとの出会い

ファッション・デザインに目覚めたポールは、テーラリングの夜間クラスに通い、布の裁ち方といった初歩から、洋服の仕立てを学んだ。修了後は、ロンドンのサヴィル・ロウにあるオーダーメードの高級紳士服店「リンクロフト・クロージング」(Lincroft Clothing)でテーラリング販売の代理店として働いた。このころ、長年のビジネス・パートナーであり、現在の妻でもあるポーリーン・デニア(Pauline Denyer)と出会う。当時、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの学生だったポーリーンは、ポールがビジュアル・アートや映画といった教養に触れるきっかけを作った。ポールは「(ここに至るまでの)全てはポーリーンがいなければ実現できなかった」と語る。ポーリーンの存在は、ポールのデザインや制作技術の向上にも大きな貢献を果たし、以来、二人三脚での活動が始まった。

2016年、デザイン・ミュージアムのオープニング・パーティーに現れた、ポール・スミスと妻のポーリーン・スミス2016年、デザイン・ミュージアムのオープニング・パーティーに現れた、ポール・スミスと妻のポーリーン・スミス

1970年、24歳のポールは、故郷ノッティンガムに自分の店「ポール・スミスの紳士服」(Paul Smith Vêtements Pour Homme)をオープン。ケンゾーやマーガレット・ハウエルなど、当時名の知られ始めたブランドのアイテムとともに、ポールが自身でデザインした商品を販売した。ショップはわずか3メートル四方の広さで、窓がなく、開店は金曜日と土曜日のみ。ポールはそこで、文字通りの対面販売をした。色や柄による鮮やかな裏地やコントラストのある袖口、珍しいボタン使いなど、今でこそ紳士服に定着しているデザインの多くは、このころのポールが、ポーリーンと一緒に編み出したものだった。

1976年にパリで最初に行ったショーの様子1976年にパリで最初に行ったショーの様子

来日回数はこれまでに100回以上

ポール・スミスのキャリアを語るうえでたびたび引き合いに出されるのが「日本での成功」だ。現在ポール・スミス ブランドは、世界70カ国以上の国と地域で取り扱われ、そのうち150店以上が日本に集中している。ポールへのインタビューの際に、なぜ日本人はそんなにポール・スミスが好きなのか、と尋ねるメディアも少なくない。

ポールが初めて日本を訪れたのは1982年、1979年にロンドン1号店を出したわずか3年後だった。当時バブル経済期の真っただ中だった日本は、欧米から多くのデザイナーを招へいし、ブランド・ビジネスの展開を始めた時代。ポールは日本や日本の文化に造詣が深いわけではなかったが、持ち前の好奇心で日本を訪ねた。まだ海外ブランドとのビジネスに不慣れな日本と、英国のブランドとして始動したばかりのポール・スミス。両者は互いに手探りで日本進出に向かって歩み始めた。このころのポールは年4回、それぞれ2週間ずつ日本に滞在しては、日本人向け商品の開発を行っている。ポールの明るい性格とユーモア、そして実直で礼儀正しい人柄は日本のビジネス界での信用獲得につながった。1984年には伊藤忠商事と契約し、日本に正式進出を果たす。ポールはインタビューで、「日本でのビジネスの仕組みは、ほかとは全く異なる。金銭だけではなく、信頼関係を大切にする」「日本人は私と長期のビジネス関係を結び、私が市場を理解する時間を与えてくれたんだ」と語っている。

2017年のロンドン・ファッション・ウィーク2017年のロンドン・ファッション・ウィーク

英国のメンズウエアを軽やかに

ポール・スミスのデザインを語る際、鮮やかな色、花柄、あるいはマルチカラーのストライプといった表面的な特徴が取り上げられることが多い。しかし、最大の特徴はそのシンプルさだといえる。郵便局員のワーク・コートやノッティンガム地方のツイード・ジャケットなど、ポールが少年時代に接した伝統的な英国のメンズウエアに触発された、シンプルでクラシックな仕立てこそが身上だ。ポールは自分のデザインを「良質で、シンプルなカットで、面白い生地で、着心地が良い」と説明する。カジュアルなファッションに押されて売り上げが低迷し、古色蒼然とした堅苦しい印象を与えがちだった英国の伝統的なメンズウエアに、明るさと軽やかさを加え、その魅力を世界に再認識させた功績は大きい。

そうしたポールの感性は、「クール・ブリタニア」のムーブメントともマッチし、「ニュー・レイバー」(新しい労働党)を旗印にしたトニー・ブレア元首相もポール・スミスのスーツを愛用した。2008年からは、マンチェスター・ユナイテッドFCの公式スーツもデザインしている。さらに2011年には、映画作品のクリエイティブ・コンサルタントとして参加するなど、軽やかにジャンルの境を超え続けているポール・スミス。ブランド創立50周年を迎え、今後はこれまでにも増して、率先して若い才能を迎え入れる方針だという。新たなファンの獲得はもちろん、昔からのファンをもニヤリとさせる、ひねりの効いた作品がこれからも生み出されることだろう。

ポール・スミスの歩み

1970
ノッティンガムに初のショップを開店
1976
パリで初のメンズ・コレクションを発表
1979
ロンドンのコベント・ガーデンにロンドン1号店を開店
1984
東京に初のショップが開店
1987
米ニューヨーク5番街に路面店が開店
1993
初のウィメンズ・コレクション「ポール・スミス ウィメン」を発表
1994
エリザベス女王から大英帝国勲章(CBE)を与えられる
1995
デザイン・ミュージアムで、創立25周年記念のエキシビション「トゥルー・ブリット」を開催
2000
エリザベス女王からナイト(Sir)の称号を与えられる
2004
オンライン・ショップを立ち上げる
2010
子ども服 「ポール・スミス ジュニア」を発表
2013
ロンドンのメイフェアに旗艦店を開店
2013
デービッド・ボウイのアルバム「ネクスト・デイ」のためのTシャツを製作
2014
デスク・ランプ「アングルポイズⓇ」(AnglepoiseⓇ)とのコラボレーションを開始
2018
トラベルケースの老舗「グローブ・トロッター」とのコラボレーションを発表
2020
創立50周年を迎える

デザイン照明の老舗「アングルポイズⓇ」社とのコラボレーション・デスクランプデザイン照明の老舗「アングルポイズⓇ」社とのコラボレーション・デスクランプ

2013年にデザイン・ミュージアムで開催された「ハロー・マイ・ネーム・イズ・ポール・スミス」展では、あらゆるモノであふれかえる、ポール・スミスのオフィスのレプリカが展示された2013年にデザイン・ミュージアムで開催された「ハロー・マイ・ネーム・イズ・ポール・スミス」展では、あらゆるモノであふれかえる、ポール・スミスのオフィスのレプリカが展示された

ポール・スミス創立50周年を記念するアイテム
Paul Smith Celebrates 50 years

書籍

ポール・スミス創立50周年を記念し、ポールにインスピレーションを与えた50のモノをフィーチャーした書籍、「ポール・スミス」(ファイドン社刊。日本語版は青幻舎より11月発行)を出版。形に残るものが欲しいというポールの意向から生まれたこの本は、友人でありTC &フレンズ(TC & Friends)の創業者兼クリエイティブ・ディレクターでもあるトニー・チェンバースが編集。アップルの元CDO(最高デザイン責任者)、ジョナサン・アイブが序文を寄せている。1976年にパリで行われた最初のファッション・ショー、アイコニックなストライプ柄が進化していく様子、最新のコレクションのラインナップ紹介、友人や仕事仲間として交流してきた、マノロ・ブラニク、ジェームズ・ダイソン、マーティン・パー、ジョン・ポーソン、アリス・ローソーンなどから送られた手紙やドローイング、写真なども収められている。ファン必読の1冊だ。

Paul Smith

Paul Smith
Phaidon Press Limited
£49.95
264頁(270mmX205mm)
https://uk.phaidon.com

カプセルコレクション

ポールは1980年代、メンズウエアに写真プリントを初めて取り入れたデザイナーの1人で、プリント・デザインのパイオニアとしての評判を確立した。50周年を記念したカプセルコレクションでは、1988年から2002年までのグラフィックを復活させ再編集。これまでの歴史に新たな息吹を吹き込んだ。コレクションは、メンズとウィメンズのカジュアル・ウエアを中心に構成。ジャージ、ボンバー・ジャケット、シャツ、スニーカー、バッグ、革小物などが並ぶ。

メンズ・ジャケット 「SEED PACKET」

メンズ・ジャケット 「SEED PACKET」
1988年春夏コレクションで発表。ロンドンのコベント・ガーデンにあった老舗園芸店で購入した花の種のパッケージがインスピレーションとなったプリント。上品な小花柄が主流であった当時、鮮やかでヴィヴィッドなメンズのためのフローラル・プリントはかなり斬新なものだった。

メンズ・ウォッチ 「Archives」(日本限定販売)

メンズ・ウォッチ 「Archives」(日本限定販売)
アーカイブ・モデルのカラーリングを復刻した新作メンズ・ウォッチの裏蓋には、1970年にデザインされたブランド最初のロゴが刻印されている。これは、初めて開いたノッティンガムのショップで、当時キャッシュ・レジスターとして使用していた、アンティークのシガレット・ケースのデザインがインスピレーション源となっている。

ポール・スミス店舗情報

ポール・スミスのロンドン店舗は路面店だけでも10店。旗艦店のNo.9 アルバマール・ストリート ショップは、メンズ、ウィメンズ、アクセサリー、シューズを扱うほか、ギャラリー・スペース、世界中から集められた貴重な家具のショー・ルームも備えている。

ポール・スミス店舗情報No.9 アルバマール・ストリート ショップの外観

ロンドン旗艦店
Paul Smith Flagship Shop
9 Albemarle Street, London W1S 4BL
Tel: 020 7493 4565
Piccadilly Circus駅
月~土 11:00-18:00
www.paulsmith.com

 

カウンシル・フラットの光と影 - 英国公営住宅の建築事情

英国公営住宅の建築事情 カウンシル・フラットの光と影

ロンドン西部のタワー・ブロック、トレリック・タワーロンドン西部のタワー・ブロック、トレリック・タワー

1960〜80年代に建てられたブルータリズム建築を筆頭に、公営住宅の多くがその建物の無骨さや古さから新たな注目を集めている。かつて低所得者向けの安っぽい住居と思われていた公営住宅は、今やレトロでおしゃれな存在と一部の人々から認識されている。一方で、建物の老朽化や地域の再開発によって公営住宅が壊されていき、昔からの住人たちがジェントリフィケーションの波を受け行き場を失いつつあるという問題もある。ここでは、公営住宅の移り変わりを、歴史的・文化的な面から紹介する。

文:英国ニュースダイジェスト編集部
参考: Municipal Dreams: The Rise and Fall of Council Housing by John Boughton、英国の公営住宅の歴史と政策に関する調査研究報告書 by一般財団法人 住宅改良開発公社ほか

カウンシル・フラットとは

カウンシル・フラットは、英国の地方自治体によって建てられた低所得者向け公営住宅で、カウンシル・ハウス、カウンシル・エステートなどとも呼ばれる。割安な家賃で、低所得者のほか、失業者、シングル・マザー、生活保護対象者などが優先的に入居できる仕組みだ。一戸建てから高層のタワー・ブロックまで、時代や地域によりさまざまな種類があり、その多くは1919年の住宅法改正後から1980年代にかけて建設された。以来カウンシル・フラットの建設は大幅に減少しているといわれている。

もともとカウンシル・フラットは、1875年の公衆衛生法で定められた地方都市のスラム解体政策の一部であり、当初の目的は労働者階級の暮らしを向上させ、同時にスラムをなくすことで近隣の土地の価値を上げることだった。その後、第二次世界大戦による住居の破壊、急激なインフレーション、兵士の復員による新婚世帯の増加などが原因で、深刻な住宅不足が起きる。これを受けた政府は1946年、住宅法を制定し公営住宅の建設を積極的に推進。1951年までに英国全土で約90万戸のカウンシル・フラットが建設された。やがて1960年代に入ると、再び都市部のスラム解体政策に重点が置かれるほか、核家族化に伴う若年層・高齢者用住宅の建設も開始。住居の大量供給のためカウンシル・フラットの高層化も進んだ。こうして、1953年時点の公営住宅におけるタワー・ブロックの割合は2割以下だったのに対し、1961年から1966年にかけては約4割と、大幅に増加した。

Right to Buyの功罪

マーガレット・サッチャー首相率いる保守党政権が1980年の住宅法によって導入したのが、Right to Buyという制度。公営住宅の住人が、現在居住する物件を市価より安い値段(約33~50%)で購入できる権利を与えるもので、この制度によって英国の持ち家率は飛躍的に上昇した。この制度は現在も改定されながら続いている。ちなみに家の購入を申し込むための条件は、該当の公営住宅を3年以上借りていること。家の値段は賃借年数、物件がある地域、物件の種類などによって異なる。同制度を利用して購入した物件を転売する場合は、購入してから転売するまでの年数により異なるが、まず自治体、または非営利の住宅供給組織である住宅協会(Housing Association)などに、買い戻しの意思があるか確認。自治体もしくは住宅協会が買い戻しを望む場合、住民はそれに応じる義務がある。

さて、政府が公営住宅の貸借人にこうした権利を与えたことから、公営住宅が次々と私有化・民営化され、順番待ちをする入居希望者は、膨大な数にのぼった。ロンドンなどの都市部では、1980年代に買い取られ民営化された元公営住宅が、立地の良さや建築デザインの面白さから高額で売りに出されたり、月数千ポンドで貸し出されたりという事態になり、高額所得者と生活保護受給者が隣同士で暮らすことも珍しくない。戦後、労働者階級のために建てられた公営住宅は、現在大きな過渡期を迎えているといってよいだろう。

新しい波がやってきた?

Right to Buyの仕組みは自治体に大きなひずみをもたらした。新たな公営住宅建設には政府からの資金援助が望めず、借入金にも厳しい制限があることから、自治体は従来とは異なる方法で公営住宅建設の費用を捻出する必要があった。そこで、地方自治体は所管の住宅建設会社を設立。民間の土地開発業者のように、個人向け住宅を建設・販売し、その収入を公営住宅建設費に充てるというスタイルを編み出した。その一例が、ロンドン東部のショーディッチ・パーク近くに立つ2棟の豪華マンションだ。全198戸の最上階には、デービッド・チッパーフィールド卿が設計した195万ポンド(約2億7000万円)のペントハウスが鎮座する。地元のハックニー・カウンシルが開発し、収益は隣地の公営住宅再建に充てられるのだという。

このような動きはロンドンだけに限らない。すでに英国の地方自治体の3分の1以上が独自の住宅建設会社を設立した。1980年の住宅法によって力を奪われていた地方自治体は、ほぼ40年ぶりに、再び自分たちで公営住宅を建設し始めたところだ。ロンドン北東部のバーキング・アンド・ダゲナムでは15 年以内に4万2500戸、同南部クロイドンは3年以内に1000戸、英中部シェフィールドでは15年以内に2300戸を建設するという。

また、これから建てられる公営住宅は、戦後すぐ、粗末な建材で作られたものとは異なり、人にも環境にも優しいパッシブ・ハウス(省エネ・ハウス)であったり、遊び心にあふれたデザインだったりと、これまでの公営住宅のイメージを覆すものになりそうだ。

英国文化とカウンシル・フラット

年配者が、労働者階級の住民をつなぐコミュニティーとして当時を懐かしむ一方、カウンシル・フラットを「古くておしゃれな建築」として捉える若者たちもいる。貧しい家庭に生まれ育ったロンドン東部や南部のミュージシャンは公営住宅の出身であることが多く、そのファッションやアートのセンスが浸透したこ とも、カウンシル・フラットが注目を集めるきっかけとなった。

今年も、ロンドンでは800以上の建築物を無料で公開するイベント「オープン・ハウス」が開催される。イベントは、1992年、一般の人々が建築に対する関心や理解を深め、自分たちの暮らす環境への意識や知識を向上させることを願う、非営利団体及び多くのボランティアによって始められた。現在では、個々の建築物には留まらず、デザイン、エンジニアリング、環境問題といった、さまざまな面における地域ぐるみのプロジェクトを紹介、推進していく役割も担っている。

このイベントには、ロンドンを代表する特徴的なデザインのカウンシル・フラットも参加しているので、これを機にのぞいてみてはいかがだろうか。新型コロナウイルスの影響下にある今年は、例年通りの一般公開のほか、自転車ツアーやオンライン・プログラムも用意されている。

Open House logoOpen House London

9月19日(土)~27日(日)
openhouselondon.open-city.org.uk

建築から見るカウンシル・フラット

ここでは、アーツ&クラフトからブルータリズムまで、さまざまなスタイルを持つロンドンのカウンシル・フラット8軒をご紹介しよう。

1世界一古いカウンシル・フラット
BOUNDARY ESTATE
バウンダリー・エステート

BOUNDARY ESTATEかつての悪名高いスラムが落ち着いたエリアに

ロンドン東部ショーディッチ・ハイ・ストリートとベスナル・グリーン・ロードの間にある公営住宅。緑の美しい円形公園アーノルド・サーカスの周りに配置された、ヴィクトリア朝の赤レンガ造りの建物で、1890年、悪名高いスラム、オールド・ニコルの跡地に建設された。当時盛んだったアーツ&クラフト運動の影響を受けており、ロンドンで最初の、そしておそらく世界で最初のカウンシル・フラットといわれている。

Calvert Avenue, London E2
Shoreditch High Street駅
https://bit.ly/2RcZQq6

2灰色の美、タワー・ブロック
BALFRON TOWER
バルフロン・タワー

BALFRON TOWERインパクト大の無機質なフォルム

1960年半ば、ハンガリー出身の建築家エルノ・ゴールドフィンガーによってデザインされた、26階建てのタワー・ブロック。余計な装飾を排した打放しのコンクリートと直線が強調されたブルータリズム建築は、伝統的な建築物が多く残る当時のロンドンにあって、いかに挑戦的なデザインだったか想像できる。同じくゴールドフィンガーがロンドン西部に建築したトレリック・タワーも、同様の構造を持つ。

St. Leonards Road, London E14
All Saints DLR/ Langdon Park DLR駅
https://balfrontower.co.uk

3ブルータリズム低層住宅の見本
ALEXANDRA ROAD ESTATE
アレクサンドラ・ロード・エステート

ALEXANDRA ROAD ESTATEまるで一つの町のような迫力の520戸

第二次世界大戦後の英国で活躍し、集合住宅のパイオニアと呼ばれる米国人建築家、ニーヴ・ブラウンによる迫力満点の低層住宅。1978年に完成し、その後、重要建築物として1993年にGradeII指定を受けた。520戸の住宅のほか、学校やコミュニティー・センターを併設し、屋根部分は緑いっぱいの公園になっている。印象的な外観から多くの映画作品のロケ地ともなっており、2014年の英米合作映画「キングスマン」では、主人公エグジーの実家として登場した。

Rowley Way, London NW8
South Hampstead駅
http://alexandraandainsworth.org

4モダニズムの極致
BEVIN COURT
べヴィン・コート

BEVIN COURT鮮やかな赤は、1954年のオリジナル・カラーを2014年に復元したもの

ロシアから亡命し英国で活躍した建築家バーソルド・リュベトキンが、戦後間もなく手掛けたモダニスト建築。従来の公営住宅のイメージを打ち破るモダンなデザインでありながら、景観を壊さず周囲との調和を図るのがリュベトキン・スタイル。かつて亡命中のレーニンが滞在していたことから、敬意を表し「レーニン・コート」と名付ける計画があったものの、戦後英露の関係が悪化し、反共産主義の英外相アーネスト・べヴィンの名が冠された。

Cruikshank Street, London WC1X
Angel/King's Cross St.Pancras駅
https://bit.ly/35nodtj

5眺望を第一に作られた住まい
DAWSON'S HEIGHTS
ドーソンズ・ハイツ

DAWSON'S HEIGHTS近隣の住民からは「戦艦」と呼ばれる公営住宅

古代メソポタミアの神殿やピラミッド、または要塞に例えられることの多い1964~72年建設の公営住宅。12階建ての2棟から成り、鉄道建設時に除去された捨石の集積された小高い丘の上に建てられている。298戸のうち3分の2からは、南北両方向のパノラマ・ビューが楽しめる。ロンドン南部ランべスのリーガム・コート・ロード建築などで知られるスコットランドのデザイナー、ケイト・マッキントッシュが手掛けた。

Overhill Road, London SE22
ナショナル・レールForest Hill駅
https://bit.ly/35mSc4S

6イアン・フレミングに嫌われた建物
TRELLICK TOWER
トレリック・タワー

TRELLICK TOWERノッティング・ヒル・ゲートに近く立地もよい

ジェームズ・ボンドの生みの親として知られる作家、イアン・フレミングは、建築家エルノ・ゴールドフィンガーが1972年に建てたこのタワー・ブロックが気に入らず、ボンドの敵役をゴールドフィンガーと名付けた、という逸話がある。地上31階建て、高さ98メートルのトレリック・タワーは、共産圏の建築を思わせる無機質さと威圧感を持ち合わせ、バランスの悪い渡り廊下もインパクト大。今や近隣のランドマーク的存在で、観光客が訪れるほどだ。

Golborne Road, London W10
Westbourne Park駅
https://bit.ly/3m4fClp

7建設時はトラブル続き
BRUNSWICK CENTRE
ブランズウィック・センター

BRUNSWICK CENTRE外観はクリーム色に塗られるはずが、自治体の資金不足で図らずもブルータリズム風になったという逸話も

ロンドン中心部、ラッセル・スクエア駅前のショッピング・センターに隣接する低層住宅。大規模な集合住宅としてユーストン・ロードまで延びる予定だったが、国防省が関連施設の移動を拒んだことから土地を買収できず、こぢんまりしたものに。1972年に完成し、当初は公営ではなく一般向けテラス・ハウスとして販売されたが、入居者が集まらず公営住宅用に払い下げられた。デザインはパトリック・ホジキンソン。

Marchmont Street, London WC1N
Russell Square駅
https://brunswick.co.uk

8住人からも愛される集合住宅
DUNBOYNE ROAD ESTATE
ダンボイン・ロード・エステート

DUNBOYNE ROAD ESTATE向かい合わせの長屋のようなスタイル

アレクサンドラ・ロード・エステートの設計で知られるニーヴ・ブラウンが手掛けた、公営としては初の低層集合住宅で、1967年に完成。住宅71戸にスタジオとショップが付き、各戸には共同のガーデンを見下ろす大きなテラスがある。プライバシーと公共性のバランスが程よく、同時代の建築家が目指した高層の住宅とは真逆のデザイン性を持つと評価されており、住人からの人気も高いという。重要建築物としてGradeII指定を受けた。

Dunboyne Road, London NW3
Gospel Oak/Belsize Park駅

BRUTALISM ブルータリズム

1950年代~60年代に見られた建築様式。打放しコンクリートなどを用いた荒々しい仕上げが特徴で、直線の強調された力強いデザインが多い。英都市計画家のアリソン& ピーター・スミッソンによって名付けられた。

 
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