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Wed, 10 December 2025

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第56回 働きすぎか働かなさすぎか

年間総労働時間

日本人や英国人は、一体働き過ぎなのかそれとも働かなさ過ぎなのか。ワークライフ・バランスという言葉が流行っているが、どういったバランスが最適かは一概には言えない。仕事を通じて自己実現する人にとっては労働時間の多寡は気にならないということもあろう。また飲み屋でのコミュニケーションなども労働に入れると、労働時間の概念自体もしっかり定義しにくいものに思えてくる。

しかし確かなことは、日本人の労働時間が過去と比較して劇的に少なくなってきているということだ。右のグラフを見ると2005年の日本人の総労働時間は、1775時間(国民の祝日、週休2日、盆と正月に5日づつ休むと大体毎日8時間弱の労働になる)と韓国の75%で、米国、イタリアより少ない。さすがにバカンス3週間の独仏より多いが、英国より100時間ほど多いだけだ。この水準は、筆者が会社に入った86年より15%減少しており、父親世代が働き盛りだった1970年の大阪万博の頃よりも20%以上も減少している。韓国以上の労働時間といわれる中国人やインド人からみれば、それだけ働かなくて食うに困らない日本人や英国人は、資本や設備の力を借りて少なく働けるのでうらやましいとか、怠惰であるとか言われるであろう。韓国もこうした動きの後を追っているように見える。米国人よりも労働時間が短いことにも違和感があるが、これは長時間労働に従事する移民の有無が影響しているのではないかと考える。いずれにせよ、日本で労働時間の劇的な減少が起きているという事態は何を意味しているのか。

労働時間が減ったとしても

労働時間を減らしても、機械など資本投下した道具を使って付加価値の高い製品を作ることで収入を増やせるのであれば生活のレベルは維持か、もしくは向上する。ドイツがそうである。日本でも、70年代や80年代と比べても生活水準は全体としてみれば向上していると思う。ただ90年代以降の不況期における労働時間減少は半分程度が正社員のパート化によるものだ(今や日本の雇用の3分の1はパート、フリーターである)。企業の残業減らしや若年労働者の雇用減少も影響していると思われる。生活レベルを維持できないワーキング・プアが問題となる所以である。

ちなみに英米では労働時間は80年頃から減少し、その後は横ばい圏内にある。日本の生活レベルは英米と比べて遜色はないように思えるが、だとすれば全く問題はないと言えるのだろうか。

中年を覆う疲労感

労働時間が減り生活が豊かになったはずの日本人には何か疲労感がある。筆者が中年でそう感じるだけなのかもしれないが、同僚と話してもそう言う。労働=苦痛、余暇=快楽として、労働を対価として得た賃金で余暇を楽しみ、それを最大にするのが人間の幸福という功利的な人間観は、デスクワークに従事する中間層の増大、さらにホワイトカラーの増大により意味を半分失いつつあるからだ。半分というのは、一般の社員は定時が来れば帰りたいし、残業もしたくはない。英人の秘書は夕方5時を過ぎて残ることはまずない。勤務時間が午後5時まででも4時50分から帰り仕度を始めるのが常である。

一方で仕事が趣味のような会社幹部は多い。定時退社しても年俸制で、飲み屋でも、休日でも仕事のアイデアや構想を練っている。ただ、そうした構想が必ずしも実現できず、会社組織の維持に汲々とするための小アイデアしか求められていないことが多いのが問題である。

高度成長期のようにリスクをとるダイナミズムが多くの企業で欠落している。これが疲労感の原因だと思う。サービス残業は論外としても、成長の行き詰まりに対する回答を考えるような仕事がなければ、余暇は単なる享楽にしかならないのではないか。結局、形だけの労働時間短縮を景気変動や欧米の真似を理由にして行うのでは、大企業病を更に悪化させることになる。経済政策では表面の統計のみならず、統計の裏にある実際との乖離も考えて施行するべし、というのが英国財界のお役所批判だが、最近の経団連など日本財界の規制緩和要求はそこまで踏み込んでいるようには見えないがどうだろうか。

(07年6月30日脱稿)

 

第55回 「だいたい」と「いいかげん」

7月が来るたびに

また7月7日がやって来る。ロンドンの地下鉄駅を中心に同時多発テロが発生した日だ。2年前のあの日、あの時間には、キングス・クロス駅の手前で止まったノーザン・ラインに乗っていた。その後長い1日になったが、いろいろなことを学んだ。地下鉄もバスも止まり、黙々と歩いて帰宅する英国人。パニックもなく、翌日からbusiness as usualで仕事は普段とほとんど何も変わらなかった。そして、監視カメラの多さと犯罪捜査におけるその威力。1週間後、シティの路上において正午から皆が路上で黙祷する姿は、忘れえぬ光景となった。

それぞれの事柄は一見関係ないように見えるが、それでもこれらを通して英国社会と日本社会の違いをはっきり見たと思ったし、今でもその思いは変わっていない。大義や原則を大事にして、細部にこだわらず、大義からズレることに厳しい英国社会。細部の詰めには厳しいが、一旦出来た大義がそもそも何だったかを忘れて空気化してしまい、しかも大義を変えようとすると大変なエネルギーが要る日本社会。良し悪しは別に日本の行く末を考える時、英国社会に様々なヒントがある。

英国の大義とは

テロは犯罪、というのが大義である。テロを相手にせず、テロに屈せず、徹底的に叩いて、英国人の生命財産の保護を最優先に考える。その際、監視カメラによる人権やプライバシー侵害という議論は吹っ飛ぶ。二次災害を防ぐためには、交通機関を全面停止にすることも大義のためにやむを得ない。当然駅員に文句を言う人はおらず(というか、駅員がそもそもおらず)、遅延損害や交通費の弁償を要求する人も恐らくいなかったであろう。そしてテロに屈しないために、日常生活を絶対に変えない。さらにロンドン警視庁はアルカイダ予備軍へのおとり捜査を行い、1週間後には摘発した。成文憲法がないため、人権についてもマグナカルタや権利章典などの総体や慣習法としてしか、規定がない。英国人自身の常識やバランス感覚があらゆる事態への優越を意味しており、いざとなれば、政府は英国と英国人を守るためには何でもする。

ちょっとレベルは違うが、金融の世界でもそうだ。イングランド銀行の人は、いざという時には何でもする。中央銀行はかくあるべき、といった理屈は意味をなさない。シェル社が危機の時は石油も担保に取った、と言っていた。

おとり捜査にしろ石油担保にしろ、いずれも一般市民には公表されていない。米国なら情報公開法の下ではいずれ表沙汰になろう。マスコミも黙ってはいまい。一方、結局細かいルールはあってないようなもので、原則、大義しかないのが英国という気がする。政府はもとより、マスコミ、国民がそうだ。日常は細かいルールがないようなものだからかなりいい加減だが、そのブラブラ具合が、大義自身に挑戦を受けた時には威力を発揮し、迅速果断な行動となる。ただし、そうした構造は今なら低賃金の移民、歴史を遡れば大英帝国の遺産により支えられているのだが、その自覚は欠落している。

日本はどうなのか

東京は北朝鮮によるスパイのテロ活動にはほとんど無防備。ミサイル防衛すら自力でなく米国に依存している。第一、日本人はテロや戦争の覚悟などまったくできていない。エリートは役人、官僚であって、リスクを取らないことと同義。官庁間の調整による災害救助の初動の遅さも、つとに指摘されている。その上マスコミ、特にテレビは単なるやじ馬ときている。一方で情報公開、個人情報保護法、入札、コンプライアンス、日本版SOX法など現場の生産性を奪うような、重箱の隅をつつくような規則の増加ばかりの日本企業、官庁。だいたい(in principle)にすることができず、それをいいかげん(fudge up)と見て、細部へ分け入る日本人。

経済好調の下で、英国が唯一やりにくいと感じ、気を使う相手は米国だ。英国の防衛省高官が、「日本国憲法9条は研究に値する。英国に9条のような成文憲法があれば、米国に対しイラク攻撃参加を断る盾となれた」と言っていた。日本の改憲論争も、世界の安全保障情勢、経済情勢、米中の関係抜きに議論してもほとんど無意味と思う。日本人は自分も含めそこまで成熟していない。年金問題がなくても、憲法で参議院選挙は戦えまい。細部追求が始まった年金問題で、安倍政権ははっきり黄信号点滅だ。日本の新聞には麻生氏の顔が目立つが、英国での講演はいただけなかった。先進大国では政治家が貧相なのはどうしてだろうか。

(07年6月20日脱稿)

今回は経済というよりも政治の話になった。コラムの主旨に正面から合うものではないが、経済問題を考える際の視点の提示といった意味で必要性を感じて執筆に至った。

 

第54回 今後徐々に苦しくなる英国経済─ブラウン氏の正念場とEU接近

英国経済の行方

ブラウン氏は、ブレア氏に比べると強運とは言えない。英国経済は、今後これまでのような好景気、拡大から、次第に苦しくなると予想されるからだ。失業率がじわじわ上がってきている(図表1)。足許は5.5%近傍で横這っているが、先行指標である就業率が一段と下がってきた(図表2)。職を辞めれば就業率は下がるが、就職を諦めれば失業率には反映されない。就業率の低下は注目されるべき項目である。
一方で、景気を梃入れするための財政出動余地は、かなり小さくなっている。サッチャー改革後とブレア政権の前半、英国経済は米国、欧州経済の拡大と重なって好景気を謳歌した。その後、財政赤字が縮小したことを受け、ブレア、ブラウンは、サッチャー改革による福祉、教育の切り詰めに対する不満へも対処すべく財政赤字を再拡大してきた(図表3)。この財政赤字が結果として2000年以降の景気を支え、グローバリゼーションにおけるロンドンの地位拡大とも相まって、英国の景気を長らえさせてきた。
しかし財政赤字は、このまま拡大すればサッチャー改革の意義を半減させかねないところまできた。富の偏在はあるものの、結果として富んだのは政府ではなくて英国民、家計である。これでは財政出動が難しくなり、これが地下鉄は言うまでもなく他の公共料金の値上げにもつながっているし、3月の公務員賃上げ抑制の背景にもなっている。昨年10月の定年無効法も、この文脈で考えれば年金支出の抑制を意味する。

ブラウン氏の政策

ブラウン氏は自ら動きが取りにくい。これまでの金利引き上げにより、引き下げ余地を蓄えたイングランド銀行への利下げ期待は政府サイドから高まるであろう。しかし、原油価格が4月以降リバウンドしていることから物価がインフレ目標値を超えて推移している今、大幅な利下げは難しい。財政金融両面でてこ入れが難しいとなると、英国経済は欧州や世界の動向の影響をそのまま受けることになり、脆弱性を増す。

一段の公共部門の効率性確保のための思い切った政策が必要と思われるが、ブラウン氏の政策からは、そういった思い切ったものは何も聞こえてこない可能性が高い。オリンピック向けの工事がピークアウトする2011年までは何とかなるかも知れないが、それ以降を展望できる絵は描かれていない。金融で言えば、ウインブルドン方式は、人が来なくなったらおしまいである。常に何か新しいイノベーションを興していなければならないが、それは何だろうか。英国の地方自治体では、各種プロジェクトにおけるコスト削減のためサービス・レベルの低下が著しいという。しかしこれでは本末転倒だ。人件費を抑えずに、サービス・レベルを落としては、パブラウン氏の政策ブリックが泣く。この難問のブレイクこそブラウン氏の正念場だ。

経済が苦しくなった時の英国の動き

ITを始めとする大きなイノベーションは米国で起こっている。ロンドン市場ははるかにNY市場より自由で、イノベーションがないわけではないが、独創性という点ではNYと比べてどうか。経済が左舞になったときに、結局英国はどういう途をとるか。シティ優遇策などロンドン市場を大事にすることは間違いないが、さらに確実なのがEU接近である。ポンドが切り下がるようなことになればイングランド銀行の命運は危うくなる。しかし、それでは他力本願であり、自国の中央銀行を廃止した本人として、後世からブラウン氏は評価されることはなくなるだろう。結局、歴史は形を変えて繰り返してくると強く感じるこの頃である。

(2007年6月2日脱稿)

 

第53回 ロンドンと地方の経済格差 - スコットランド独立?

スコットランドの感情

かつてエジンバラ大学で講演を行ったことがあり、その際にスコットランドの人が、「グローバリゼーションのお陰でスコットランドの製造業はまったく生きる余地がなくなってしまった。一旦失われた技術は二度と戻ってこない」と嘆くのを聞いたことがある。彼らは「ロンドンさえ良ければ良いという考えはイングランドの横暴。さらにスコットランド主要3銀行が、イングランド銀行とは別に独自の通貨発行により得ている利益をイングランド銀行が取り上げる(担保として供出させる)ことを英国政府は法制化しようしている。この動きはスコットランドの自治権を侵害するものだ」と話していた。

スコットランドでは、今般の地方選挙において独立党が労働党を上回る得票を得たのが記憶に新しい。この地の独立問題は歴史的、政治的、また文化的など多面的な問題を持つので簡単に論じることはできないが、ここでは経済面からの現状分析と何か良い解がないか考えてみたい。

経済格差の実態

スコットランドの経済面からの主張は、 「所得格差があり、英国政府からの保障(補助金)が不十分である」という不満か、または「英国政府の施策が的外れで、自分たちの方がより効率的な施策が可能である」という自信のどちらかを軸にしている。

まず図表1で格差の実態を見ると、スコットランドはロンドンの7割近くしか所得(付加価値*が7割なので、労働への対価配分が同程度なら所得も7割になる)がない。しかし、図表2でロンドンと英国全体の指標を見ると、ロンドナーの給与は高いが、住居費、生活費の支出も多く、物価水準、さらに混雑によるストレスなどを考えると生活の質はなんとも言えない。ただロンドンだけの付加生産量だけでも英国全体の2割あり、周辺部も考え併せると英国経済はロンドンが牽引車で、その税収による分配に地方が預かっているという構造は否めまい。人口が少なく経済活動自体が小さい地方は、独自の税源が乏しいためにロンドンからの経済的な自立は望み得ない。このためロンドンからの所得移転が不可欠になるが、あまりに大きな所得移転はロンドンの活力をそぎ、英国経済全体をスローダウンさせかねない。そこで問題は所得移転の十分性と資金使途への英国政府の介入の必要性が問題になる訳だ。

地方政府、自治体の組換え提案

上下水道などの社会インフラ、教育、医療などの最低限レベルについては国民が一律なサービスを受けうることが望ましいが、現在スコットランドでこの水準が保たれていないとは考えにくい。結局問題は、各行政サービスについて「最低限」とは何かということと、それを提供するのにもっとも効率よく、住民にとって最適となる主体は誰かを、個々に検討するのが良いと考えられる。電力、エネルギー、納税者管理、年金管理など大規模な資本投下が必要なものは政府が、教育などは地方政府が、ということになろう。

重要なのは、最低限のレベルを定めるのは国家だが、行政サービスを実施する主体は、そのレベルも組み合わせも固定的である必要はないということだ。サービスを提供するための技術、装置、インフラ、人的資源はそれぞれ異なるので、地方政府でも市村レベルでも、その複数が集まってもいい。またこうした複数団体から民間会社が請け負ってもいい。結局、地方で残すべき雇用もこうして守られる。この点ロンドンは、税金、教育、上水道、下水道とどこも管掌(かんしょう)と行政単位がまちまちで非常に分かりにくいが、合理的とも言える。日本でも道州制や県や市町村の合併といった一律な対応ではなく、水道は3つの市で、高等教育は3県でなど、サービスごとの提供主体の組み換えを工夫できるのではないか。もちろんITの共同投資が鍵だ。

* 付加価値……売上から原材料費を引いたもの。また利子配当(資本への対価配分)と賃金(労働への対価配分)の総和にも等しい。

(2007年5月21日脱稿)

 

第52回 影の薄い日本の金融(いや日本そのもの)

ロンドンで影の薄い日本の金融

最近、金融市場関係者と話していてつくづく日本の金融は影が薄くなったと感じる。1980年代のロンドン市場では、外国為替市場はもとより、各種債券の発行、引き受け市場では、邦銀や邦証(日本の証券会社)が取引の3分の1以上を占め、関係者の集まりも60社近くあったと聞いている。最近バブルの処理が終了しつつあることからロンドンに再進出する先も見られ始めたが、それでも20社には満たない。日本人のための日本料理店の盛衰は皆様もご存知であろう。もちろん、今や日本料理店は日本人のためというよりもシティで働く金融関係者たちのお好みとなって地位を確立している。一方、金融界はまだまだという感じである。邦銀は、資金面では欧米銀の顧客であるし(もはやプレイヤーではない)、証券会社では、野村證券ですら総合力で見ると一流に今二歩である。

これには2つの原因がある。1つは、バブル崩壊により日本の金融機関が国際業務から国内業務に資源を一斉にシフトしたつけである。一旦失った顧客、人的つながりを取り戻すことは容易ではない。もう1つは、日本の経済規模自体が中国とインドに間違いなく抜かれるという状況である。規模で中印に引けを取り、成長性の高さでBRICS*1、VISTA*2諸国などに劣後する。今や注目される金融政策の出所は米国の中央銀行である連邦準備制度(FRB)、欧州中央銀行(ECB)に加えて中国人民銀行であって、日銀ではない。円はあまりに金利が低いので、世界的な投資のための調達資金として使われており、その限りでのみ広い関心を持たれているに過ぎない。

勝負の土俵はどこか

日本の経済全体の問題は別に書くとして、ここでは個別金融機関のあり方について考えたい。参考になるのがスコットランド銀行史である。ご存知のように、今でもロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(RBS)やスコットランド銀行は、イングランド銀行と異なる銀行券を発行している。流通量も3%程度とわずかだが、れっきとした通貨だ。

最初はグラスゴーとエジンバラではさらに別の手形が使われていた。次にエジンバラでスコットランド全体で通用する通貨が作られ、次第にスコットランドとイングランドの経済が一体化するにつれロンドン間で決済される手形が発行されるようになった。これに伴い、グラスゴーでの銀行業が、エジンバラでのスコットランド全体をにらんだ銀行業になり、そしてロンドンでの英国を対象とした銀行業になった。

スコットランド経済圏のイングランドへの併呑ていどんは、イングランドにおける汽車の発達やロンドンで影の薄い日本の金融石炭の利用が急増した産業革命と密接な関連がある。金融機関は、相手とする経済活動に対応して活躍する土俵がある。その土俵は、経済活動の一体性とそれを決める交通手段や通信手段の発達、そして政治などにより規定されるという訳である。そして現在は、共産圏の崩壊とIT技術進歩によりグローバライゼーションが進み、英国の銀行は世界を相手にしているという訳だ。英国の金融機関は、最近ではバークレイズのABNアムロ(オランダの総合金融グループ)への買収提案、HSBCの米国でのサブプライム・ローン*3の焦付きの例をみるまでもなく、もはや英国内は地盤に過ぎず、全世界で勝負している。それでもスコットランドを対象にした通貨発行もまったく成り立たない訳ではない。ニッチがあるからだ。そうであれば、日本の金融機関も土俵を世界とするのか、日本とするのか、その地方とするのか、一村落とするのかを決めて、足りない部分は金融市場でリスクを売買して調整するというやり方も考えられる。まずは、どこで勝負するかを考えることが大事と思う。

イノベーションが必要

銀行業務や証券業務そのものでの技術革新を用いた、付加価値向上こそ不可欠だ。日本経済が拡大しないのに、その中でのパイの奪い合いは、ジリ貧しか意味しない。航空会社がM&Aにあうのは、戦後、航空機自体に技術革新がないからである。あったのは格安航空くらいだろう。技術革新ではやはり、ITによる大量データ処理、省力化とヒトによる顧客密着が鍵となる。お客の要望を大量処理で安く、しかも早く処理するインフラの構築こそ、まず取り組まれるべきであろう。そして問題は、その中身に何を盛るかということだ。ただ世の中の移ろいが早いので、中身に関してはスピードある変化が必要になる。そうであれば、IT投資、人材投資における「将来拡張性の確保」がキーワードではないか。

(2007年5月1日脱稿)

 

第51回 米国サブプライム・ローン問題の本質──法か政治か

サブプライム・ローン問題とは

米国におけるサブプライム・ローン*の貸倒れ増加が、大きな経済問題として連日報道されている。この現象は、米国経済や世界経済の行方に関わる不良債権問題であることには違いない。しかし米国は90年代初頭に起きたバブル崩壊以来、銀行も当局も学習し、不良債権問題が起こっても金融システムや経済全体が動揺しないような制度を整えてきた。つまりより本質を捉えるなら、そうした工夫が初めて試される機会なのだと考えたい。「工夫」とはここでは法的な措置のことなので、法が勝つか、やはり損が大き過ぎるのでバランス感覚を持つ政治が勝つかという問題になっていくと思う。

サブプライム・ローンとは、収入や担保が十分ではないが、購入予定の不動産価格の値上がりを見越して、住宅ローン専門金融機関などが貸し込んだもの、即ち日本で不良債権問題になったようなローンと考えておけばよい。

もっとも、日本と大きく違う点がある。第一は米国では借手の倒産リスクを見越してそのリスクに見合う金利を上乗せしていたが、日本の銀行はそれを行っていなかったことである。第二は米国では当初貸出は銀行が行うが、銀行は速やかにその貸出をサブプライム・ローン専門会社などノンバンクに売却するということ。つまり銀行のバランス・シート(貸借対照表)にはその貸出がもはや乗っていないのだ(これをオフバランス化とか証券化という)。

第一の点は、日本の金融機関が護送船団方式で大蔵省や日銀の庇護を受けていたことによって、実質的な補助金を借手に還元していたために起きた現象と考えられる。しかし自由化とバブル崩壊でそれらの補助金の半分ほどは消滅し、日本の銀行もリスクに見合う金利を取るようになったので、現時点での日米差は小さい。

オフバランス化の成否

より本質的となる第二の点について述べよう。米銀は80年代後半からのラテンアメリカ諸国や国内の住宅ローンでの貸出焦げ付きに懲りて、ローンを実施するとすぐにペーパー会社に譲渡し、その会社の株や社債を住宅ローン専門会社や投資家に買わせて、自らは手数料を稼ぐ一方、貸倒れリスクをそうした買い手に移転するビジネス・モデルを確立した(これを倒産隔離という)。こうした米銀のモデルを賞賛した「米銀の復活」という本が90年初頭の日本の金融界では盛んに読まれた。

しかしオフバランス化の成否は、貸倒れリスクが本当に法的に住宅ローン専門会社や投資家に移転したかどうかにかかっている。契約によりこの点は担保されていると言われているが、これまで米国景気が好調で、米国で住宅が高騰したためその契約自身が裁判所で試される機会はなかった。住宅ローン専門会社が銀行のグループ企業である場合もかなりある。銀行持株会社の支配下に銀行と専門会社が共にあるとすればその責任はないのか。多数の投資家が損を被る場合、裁判所は住宅ローンの譲渡契約やオフバランス化の法的枠組みを有効と判断するのか。まして今年は大統領選挙の年である。住宅ローン貸倒れに伴う幅広い投資家や年金財団の損失や、零細金融機関の倒産を政治が許容できるのか。

倒産隔離が無効となると

米国の裁判所や政治判断によりオフバランス化即ち倒産隔離が無効になると、米銀には隔離したと思っていた不良債権が山で戻ってくる。「米銀の復活」は15年越しに虚構であったことになるわけだ。その後は日本と同じく、仮に銀行に公的資本注入や税金免除がなければ銀行の資本は毀損し、米銀のリスクテイク能力は大きく低下する。その悪影響は金融市場で増幅され、世界的な経済活動にダメージを与えるだろう。

4月15日までのG7ではサブプライム・ローンの貸出に占めるウエイトは低いとして影響軽微と楽観的なコメントしかなかったが、本当にそれでいいのか。一旦信用不安が起こり、これを放置すると住宅不動産価格が坂道をころげ落ちるのは日本で実証済みだ。この時、オフバランス化の枠組みの有効性を法的に確認して投資家や年金がリスクを被るのか。銀行に損を戻して広く薄く税金でカバーするのか。一旦生じた損失をどう分配するのか。訴訟必至のため、まずは米国の司法が、次いで政治が問題を抱えることは間違いあるまい。日本の金融界や当局もオフバランス化や手数料ビジネス、持株会社化を推奨するのはよいが、米銀やその持株会社グループの現状を見て、何でも米国流を良しとする姿勢には大いに疑問を感じる。

(2007年4月16日脱稿)

 

第50回 賃金、物価、経済全体(その3)

英米と仏独の差

2つのグラフを再度ご覧いただきたい。各国のユニット・レーバー・コスト(ULC、賃金の伸びから生産GNPの伸びを引いた値)と物価の累積変化を示しており、これにより賃金と物価水準に密接な関係があることが確認できる。今回は、①英米で給与・物価の伸びが仏独より高くなる理由、②英国では物価と給与がほぼ同じ割合で上がっているのに、米国ではUCLよりも物価の伸びが低い理由(逆に英国の物価は高い理由)、③UCLがドイツでは横ばいでフランスでは上がる理由、について考えてみる。

まず、英米と仏独との差は、賃金・雇用に対する規制の厳しさの差を原点に説明できると考えられる。1980年前後からのサッチャー、レーガンによる英米での規制改革の成果が、IT技術の進歩とあいまって90年代から花開き、英米の景気は拡大した。景気拡大と規制緩和に伴う賃金の弾力化はULCの上昇を容易にし、ひいては物価の上昇につながった。

一方、仏独では構造改革は未だに行われず、一旦雇用された人の権利を、厳格な解雇手続きや非常に高い最低賃金制度などで厚く保護している。賃金が弾力的でないため、企業も経営を刷新できず、IT技術を牽引車とする景気拡大に乗り切れない上、中国などからの低価格輸入品があっても国内物価が上昇する状況が続いた。

こうした状況が長く続いた結果、英米では物価上昇期待が強くなった。さらに不動産投資が拡大し、そのバブル崩壊が現在米国のサブプライム・ローン(通常より金利を高く設定した貸倒危険の高い不動産向けローン)の貸倒れ増加を背景に大きな経済問題となっている一方、仏独では、硬直的賃金と厚い既雇用者保護が、若年移民の失業・暴動問題、年金問題を生んだ。これがメルケル政権誕生やさらには今回のフランス大統領選挙における政治的論争の事象の背景にある。

英米における物価とUCL

英国のグラフを見ると、賃金(UCL)と物価がほぼ等速で上昇している一方、米国ではUCL>物価という状況にある。仮説として、第一は米国は英国に比べて輸入品依存度が低く(米国約12%、英国約22%)、逆に言い換えれば米国内の工場などで生産能力の余裕があれば、稼働率を上げることなどで輸入物価の影響を緩和できるということである。第二は、英国の物価はロンドンなど高消費地におけるサービス価格の高騰により全体が影響を受けて高くなっているということ。第三も英国特殊論に近いが、住宅供給制約のきつさから英国の資産価格高騰が米国よりもより激しく、先行きの物価上昇期待(インフレ期待)を高めている、といったことが考えうる。

ランスとドイツの対比

では、フランスとドイツの違いは何か。ドイツではUCLが抑制され、フランスでは物価がより上昇している。これはドイツにおいて① 中小企業が多く、賃金が相対的に弾力的であること② 日本や中国などとライバル関係にある製造業中心の経済構造のため、中国の勃興などによる世界的な製品価格下落に対して、賃金を上げられなかったこと③ 組合など賃金上げを主張する側も企業の存続が関わるような状況では、雇用確保が最大課題となり、賃金上げまで主張できなかった、ことなどが考え得る。結局ドイツ経済は立ち直り、フランス経済は高失業、非効率大企業という問題を克服できていない。

いずれにせよ、物価を決める要素として最大のものは賃金であり、その賃金とその変化パスを決めるのに、労働規制のほか、産業構造や社会構造が密接に関わり、その結果が経済のうねりを作ることを是非とも押さえておきたい。規制を決める主体の政権を選択する選挙が、経済において重要であることは言うまでもない。

(2007年4月11日脱稿)

 

第49回 賃金、物価、経済全体(その2)

賃金と物価の関係

前回は、給与と物価水準に密接な関係があることを各国のユニット・レーバー・コスト(ULC、賃金の伸びから生産GNPの伸びを差し引いた値)と物価の累積変化を示す下の2つのグラフによって確認した。復習すると、企業の生産性が上昇したら賃金も上がるのが自然なのだが、ここで生産性の伸びを上回って賃金が上がると企業としては収益が減る、すなわち企業がもうけを株主よりも労働者により多く分配していることになる。そうすると労働者はその分豊かになるため消費を増やす可能性が高く、企業の提供するモノやサービスに対する需要が伸びるので、その分物価上昇に直接結びつくということだった。ULCと物価水準のグラフを比べると、英米が逆になっている以外では6カ国の順序はここ10年位変わらない。各国の差は何から来るのか。

バブル崩壊を引きずる日本

わかりやすいのは日本で、賃金の伸びが2004年まで唯一マイナス、物価上昇率も0%近くを横這っている。バブル崩壊後の不良債権問題による景気悪化で、企業は正社員を派遣やバイトに置き換え、実質的な賃下げを行った。これがニート、格差社会という形で政治問題となっているのはご存知の通り。ULCが大きく下がった結果、景気は一段と悪化したものの、米中の景気持続と企業自身のコストダウンによる収益回復、公的資金投入と消極的な税金投入(不良債権の償却処理で所得がなくなったことから税金を支払わずに済んだ)による銀行の立ち直り、ひいては経済の立ち直りによって、ULCも次第に下げ止まり、今年の春闘は久々の明るさで妥結した。ただし輸出依存と為替相場に影響されやすい産業体質、大きな財政赤字、構造改革の過程での地域格差問題は今後の課題として残るだろう。

今年の新卒採用戦線は超売り手市場で学生は強気な一方、フリーターからの正社員中途採用は厳しいままだ。今後、日本では最低賃金の引き上げといった問題以前に、バブル後の15年間の不況で機会を逸した人々のための職業訓練が、真っ先に政治問題となるべきと思われる。またマクロ経済政策面では財政再建が必要ながら、ULC下げ止まりを見ると金利水準が低いままで物価に問題が出ないか、よく見る必要があると考えられる。さらに東京の都心バブルは収束に向かいつつあり、ULC下げ止まりとあいまって、郊外へと地価上昇が波及していく可能性が高くなってきた。金利引き上げペースの調整が難しい問題となろう。

要すると、日本はバブル崩壊、不良債権があまりにも大きな問題となり非常に大きな財政措置や金融緩和措置を取ったため、ULCや物価の動きが世界の流れから一段下になったと考えられる。しかし注目すべきは両者の関係は維持されたということ、また賃金ほど物価は伸縮的でなく、人々は給料が下がっても生活を急には変えられないという当たり前の事実である。

物価、賃金、不動産高のスペイン

次にわかりやすいのはスペインである。スペインはULCも物価も最高値に位置している。またグラフには示していないが、不動産価格は物価のさらに上を行っている。

90年代前半のEU加盟、アスナール前政権による民営化、規制緩和、移民流入促進によってスペインには投資と移民が流れ込んだ。若年層の流入による税収増や公的機関から民間への資産売却で財政黒字となった結果スペインはEU加盟を果たし、輸出が大きく伸びて好景気となり、ULCも上昇した。賃金の安い移民の多くは、統計対象外の労働に従事しており、全体のULCの上昇はグラフ上の公式統計よりも緩やかとなるため、物価の伸びはULCほど大きなものとはなっていない。このパターンは英国と似ている。問題は加盟したEU、ユーロ圏での金利は最近まで不調のドイツ経済を念頭に欧州中央銀行(ECB)が一律決めているということだ。そしてドイツ経済に合わせると金利は低くなる。スペイン経済の好調に比して金利が非常に低い状態が長く続いたため、資金は不動産に流れ、スペインは2000年前後から空前の不動産ブームとなった(英国人のスペイン別荘保有は非常に多い)。スペインではなく、ドイツを念頭に置いたECBの低金利政策の下で、自国のインフレや不動産高騰を抑止するためにスペイン政府は緊縮財政策を取ることになる。これが財政優等生であるスペインの裏舞台である。

注意すべきは、こうした現象の起点が規制緩和と移民流入緩和にあったことで、政府の政策がマクロ経済をじわじわ大きく転換させるということだ。そしてそこで起きるゆがみは不動産バブルの可能性がある。はじけた場合の苦難は日本で実証されている。次回は英米の差の理由、仏独の問題点について考えてみよう。

(2007年3月26日脱稿)

 

第48回 賃金、物価、経済全体(その1)

経済全体を見るということ

これまで本コラムでは経済の色々な面を、世界的な見地(特に英国との関連)から、また政治との絡みから取り上げてきた。ただ一側面を見ているだけでは、経済全体の動きを見誤る。経済活動はモノやサービスの取引とその対価である金融取引とが対になって個人家庭、企業、国など公共部門、外国などが相互に関連して行われるものであり、その一部についての評価をする場合には、特にグローバリゼーションの下では全体との関連が重要である(経済学では「部分均衡では十分でなく、一般均衡分析が必要だ」などと言っている)。本連載も50回が近付いてきたので、世界経済全体という観点から何か見ることができないかと考えた。

その場合でもやはりどういった視点を持つか、ということが重要になる。全体の構造を見た上で、今どこに注目しておくべきか、ということである。今後、世界経済で大きな変動の原因となりそうなのは、個人や家計の動きだ。それは「どこでもコンピューター」といったいわゆるユビキタスな技術が普及した後では、企業よりも個人が先進技術を先に導入し、新たな市民社会が出来てそれが経済活動の中心になる、といった未来予測の話でなくても、ここ1、2年先を考える上で最も重要な視点なのだ。

そもそも産業革命以降から現在に至るまで、名もなき個人がもらう給料、手間賃、それをどれくらい貯蓄にまわし、どれくらい使うか(消費するか)ということが、経済活動の規模の7割近くを決定している。彼らの購買行動(消費行動)こそがモノやサービスの需給に直接影響し、その値段である物価上昇率を決めているのだ。そしてその物価上昇率すなわち、インフレ率こそ中央銀行の金融政策の目標である。

各国の消費者の動きの重要性

以上の点を踏まえた上で足許の世界経済を見ると、米国で景気が緩やかに後退し、米国企業が米国の労働者にどの程度利益を還元するか、すなわち賃金をどれだけ上げるかが、米国の消費の旺盛加減に大きな影響をもたらしている。そして米国消費の減少は、対米輸出国の日本、中国の景気に直結する。一方でそうした減少を中国、インド、日本などの消費自身が補えるのかどうかが景気持続の鍵である。さらに、そうした躍進国の消費が行き過ぎると物価高につながるという展開も懸念されている。

各国の消費者行動が経済のここ1、2年の行方に大きな影響があるということを理解いただくため、消費者の給与水準と物価が密接な関係にあることを事実として確認してみよう。

ユニット・レーバー・コストと物価

下の2枚の図表は、日本と欧米6カ国のユニット・レーバー・コストと消費者物価の水準変化を、90年代以前=100として書いたものである。ユニット・レーバー・コスト(ULC)とは賃金の伸び(前年比)から生産そのもの(GNPで代替)の伸びを差し引いた値である。

生産性が上昇した分は賃金が上がることが自然なのだが、生産の伸びを上回って賃金が上がると、企業としては収益が減る、すなわち企業がもうけを株主よりも労働者により多く分配していることになる。そうすると労働者はその分豊かになるため、消費を増やす可能性が高く、モノやサービスに対する需要が伸びるので、その分物価上昇に直接結びつくという訳である。表では英米でULCと物価の順序が逆になっている以外では6カ国の順序は変わらないことがわかり、ULCと物価水準は密接に関係があることがわかる。しかし問題はその先にあり、この6カ国の差はそれぞれの国が抱える経済問題、政治問題を端的に示している。次回からこの点を順次解明していきたい。

(2007年3月15日脱稿)

 

第47回 垂直・水平分業の幻想

NICSとASEAN

金融・為替市場が荒れる時は、基本的な経済構造に立ち返って考えてみるのが良い。経済構造は地理的・技術的条件の変化に応じて20〜100年単位でうねり、そのうねりの中に回帰する循環的な振動があるのだ。 

20年ほど前、筆者が就職した頃はアジア経済の勃興期で、NICS(New Industrializing Countries)という言葉が流行っていた。NICSとは韓国、香港、台湾、シンガポールを指し、これらが電子機器などを中心とする製造業で日本に続いて勃興するという見通しがそこにはあった。当時日本との貿易赤字に悩まされていた米国では、日本からの輸入を規制しても、結局はこれらの国からの輸入が増えるだけなので、数値目標は意味があるとかないとか、そういう議論がなされていた。今風には、エマージング諸国という呼び方になるであろう。それに続くのはASEAN諸国(タイ、マレーシア、インドネシア、フイリピン)で、日本を先頭に雁行型で垂直分業するという学説も多かった。雁が群れ飛ぶように、最も付加価値のある高技術製品は日本が、次いで付加価値の高い電子分品などはNICSが、それに軽工業品などはASEANが担うというものであった。今思えば隔世の感があるが、中国やインドはそうした考察の枠外であったし、今年注目のベトナム、南米諸国、そして今後要注目の中央アジア諸国やアフリカ諸国などは援助の対象でありこそすれ、経済取引のパートナーになりうるなどとは思いもよらなかった。

動態的な考察ができなかったと言えばそれまでであるが、当時はこれほどまでアジアでヒト、モノ、カネの結びつきが強くなるとは想像できなかった。経済学で言う比較優位(それぞれの国や地域が、得意な分野に特化して棲み分けることで経済全体の利益も上昇するという考え方。英国の経済学者デービッド・リカードが唱えた)に基づき、日本、NICS、ASEANは得意分野に特化し、その棲み分けが永久に続くと考えたのだ。

現実のダイナミズム

しかし、そうした比較優位に基づく棲み分けも固定的ものと考えては経済を見誤る。たとえ付加価値の低い軽工業などの産業でも、そうした産業が根付けばそこで稼いだ資本を機械などに再投資し、より高付加価値な産業へと構造改革ができる。中国は日本の下請け的なイメージがあったが、今や2国間相互の輸出入の30%近くは電子部品などであり、両国は電気、電子産業では水平的に棲み分け始めている(水平分業)。そして中国が担っていた軽工業はベトナムやカンボジアへシフトしつつある。そして重厚長大の造船業では今や世界一の生産国は韓国で、2位の日本は中国に猛追されており、追い抜かれるのは時間の問題と思われる。

この行き着く先は、水平分業どころか逆垂直分業で、付加価値の高い製品は中国で、低い製品は日本で、ということも最悪ありえないわけではない。日本の自動車産業と米国のそれを比べれば、あながちこうした考えも妄想とは言えまい。その自動車ですら環境配慮ではトヨタ車が世界をリードしているように窺えるが、世界の大衆が求める低価格車では、韓国やさらには中国、インド車で十分という時代がもう目前にある。高級車の代名詞であったドイツ車の環境面での苦戦下、メルケル首相のEU内でのドイツ車保護のための奮迅は、一種の保護主義活動としか見られない。

日本は何で食うか

こうなると日本は何で食っていくのか、すなわちどの分野で付加価値を上げて、生活水準を維持していくのかということが問題になる。日本で技術立国になるための改革、それ以前に構造改革、前提として教育改革が叫ばれる所以なのだが、まだコンセンサスはないように思う。少なくとも明らかなことは、IT技術や金融では先進国でなく、人口減少の下では経済大国を維持することはまず困難であるということだ。それに伴い政治外交力も低下する公算が強い。

中国語でドメインを作り始めるような世界性を日本人が持てるのか問われるところである。中規模国として得意分野がない場合、アジアの文脈でEU内の中規模国のように生きるのか、といった選択肢なども考えることになろう。いろいろ事件はあったが韓国はバイオ関係で集積を進めている。中程度の国内市場がある日本は、そこに甘んじられるため一部企業を除いて海外販売があまり得意とは言えない。少々景気が回復し金利が上がっても、結局、バブルの生成と崩壊およびそこからの回復過程では、小泉首相の公的部門の構造改革が進みかけた程度の成果しかなく、産業の根本問題に対して何ら活路を見出せていないのではないかという懸念を払拭できないのである。

(2007年3月1日脱稿)

 
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