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Wed, 10 December 2025

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第166回 日本の新首相の課題

新首相の状況

この号が出る頃には、日本の民主党の代表選挙が行われ、新首班が決定しているだろう。今日は、新首相の置かれている状況と彼を取り巻く経済状況について触れたい。

まず、前回総選挙からの任期が満了するのが2013年の夏だから、新首相の在職期間は2年に満たない。短命政権が続いているので少し長いように思えるが、この非常に難しい局面で2年の間に成果を上げねばならないとすると、とても厳しい状況と言える。

まず、震災対応で言えば、第一に原子力発電所の問題はまだまだ予断を許さない。余震によっては発電所の安定が確保できないという観点から、危機管理の状況が続く。第二に復興需要を組むための第3次補正予算の成立が、参議院の野党多数により、そう簡単ではない。大連立にせよ、与野党協力にせよ、論点によってはスムーズに行くかもしれない。だが、やはり、自助を求めリベラルな自民党と、弱者救済色の強い民主党では、本質的な考え方が合っていないので調整は難航しそうだ。

次に外交も、前の鳩山・菅首相時代に、日米関係はがたがたになった。中国も弱体政権を相手にはしていない。こうした中で、沖縄の基地問題や、ロシア、韓国、中国との領土問題は攻められる一方だ。

党内基盤は言うまでもなく、小沢氏との関係に配慮しないと票が読めない状況が続く。党内の権力闘争が、マニフェストの見直しの是非と、その背景にある消費税その他の増税問題への取り組み方針をめぐってごたごたすることは確実である。

経済の不安は小さい

唯一、期待できるのが、ここ1年程度の日本経済である。震災で止まっていたサプライ・チェーンはほぼ復旧し、これから復興需要が増大する。もともとリーマン・ショックからの回復過程で日本の経済は力強さを増していた。

海外経済に不安材料があるが、憂慮するほどでもないと考えられる。まず、米国経済は不良債権問題が継続し、長期失業率が高止まるなどの傾向を見せているが、不動産価格は下がっているのではなく、底を這っている状態にあることから、一方的に悪化しているというわけではない。円高になったとしても、せいぜい70円が上限だろうと市場では見ている。ユーロも決して良くはなく、だらだらと値が下がる感じではあるが、それも不良債権問題の処理の遅れを原因とするものなので、米国同様に急激に悪化することもなかろう。いずれも10年前の日本を思い起こさせる事態なので、専門家の間では「ジャパナイゼーション」と呼ばれている。だらだらとした不景気であり、一気に景気が悪化するのではなく、「良くならない」ということに特色がある。

中国に関しては、バブルや暴動の行方が気になるが、基本的には設備投資の牽引力が強い。共産党の政策もすぐにぶれることはなさそうだ。在庫要因でアジアの半導体市場が停滞局面に入るというマイナス要素があるほか、中長期で見た対アジアでの日本の産業競争力の低下、人口減少、地方金融機関の行き詰まりといった構造問題は残っているものの、2年程度の短期では、差し迫った悪材料はないようにうかがえる。

こうした世界経済の順風は、新首相に色々な政策を打つ余地を与える。政治外交状況が厳しく、経済も構造問題が重たいだけに、循環的な経済の好調は大事な価値を持つ。経済が良いと株価が安定し、物心両面で人々が政権を支持しがちなので、思い切った政策を打ちやすい。

最大の問題は政治不信

思い切った政策を打つとなれば、必要となるのはやはり政策ビジョンであり、経済の抱える構造的な問題を分かりやすくかつ情報を偏頗(へんぱ)させることなく語ることが重要になる。

しかし、正論が必ずしも通るわけではない。民主主義の下では、他人を説得することが何より重要だ。同じことを言っても信じてもらえる人とそうでない人がいる。特に、ここ数年で政治不信は極に達しており、国民が総理を揶やゆ揄するようなことがないような状況を作れるのかどうかが重要だ。

そのためには何が必要か。言うまでもなく、人物である。頭脳や言語の明晰さは必要だが、それだけでは十分でない。国民のことを本当に考えているかどうか、そして実行する胆力と本気度が問われる。その本気度が、国民自身に自らも日本のために取り組む必要があると思わせるだけのものであるかどうか。ささいな言動にも注目したい。

(2011年8月26日脱稿)

 

第165回 ロンドンでの暴動の根っこにあるものとは

暴動の根っこにある問題

6日夜からイングランド各地で始まった暴動について、事態はまだ続いているので予断は許さないが、強く思うことがあるのでぜひ読んでいただきたい。この事態は、人類共通の問題と思うからだ。キーワードは、「平和の配当の終わり」だ。

きっかけは警察による黒人男性の射殺事件だが、いずれの暴動も貧しい地区で起こっていることから、もともとあった貧富の差とキャメロン政権の緊縮政策に対して溜まっていた不満が、爆発したとの見方が多い。しかし、「サン」紙と世論調査会社YouGovが8、9日に2534人を対象に実施した世論調査によると、多くの国民は国内の不良グループ文化が背景にあると見ている。キャメロン首相の政策転換が暴動の直接的な原因だと考えている人は回答者の8%に過ぎず、失業問題が主な原因との回答は5%だった。また、人種間の対立が背景にあるとの回答も5%程度にとどまっている。キャメロン首相は夏季休会中の11日に招集された議会の冒頭で声明を発表し、今回の暴動について「何の政治性もなく、犯罪だ」と強く非難している。

確かに今回の暴動に便乗した若者たちが起こした行動は、犯罪であろう。しかし、便乗するに至った理由を掘り下げる必要がある。新聞では、この暴動に中産階級の令嬢、準教員、11歳の小学生などが加わっていたことを報じている。表面が豊かでも心を病む人は少なくない。貧困は確かに暴動の一因であろうが、物質的な豊かさが確保されれば解決されるというわけでもない。

先進国のもがき

90年代以前から、欧米の先進国は、日本の経済的な台頭などによって経済成長率の低迷を余儀なくされていた。それがベルリンの壁の崩壊で、市場のフロンティアが広がり、安い労働力が世界に解放されたことで、景気が回復してきた。しかし、今や新興国は低付加価値品の生産基地というばかりではなく、高付加価値品の生産も拡大させており、先進国の雇用が奪われている。そしてこうした新興国は、貿易黒字を背景に、経済のみならず、政治的な発言力を持ち始めている。一方の先進国は、製造業の産業競争力で新興国に押され、経済成長率はここ20年来再び低迷している。「平和の配当」が終わったのである。このため先進国の貧困層、特に移民、中でも若年失業者は豊かになる希望が持てず、またその層が次の世代にも引き継がれ、再生産される。

先進国の財政赤字は景気対策、貧困対策で膨らむ一方だ。このためキャメロン政権を始めとする世界各国の先進国における政治に、財政規律優先路線が台頭した。かくして、生活の糧は財政赤字削減でますます削られることになる。貧困層は、「衣食足りて礼節を知る」の逆を行かざるを得ない状況に追い込まれつつあるのではないか。手を打たなければならないことは、ベルリンの壁が崩壊したときに予測できたはずだ。この問題は先進国に共通したもので、英国だけの問題ではない。自己責任の原則は効用もあるが、絶対的な貧困に対しては限界を露呈する。欧米は経済的な自由度が高く、財政規律に敏感だからこそ、こうした問題が先鋭的に起こっているに過ぎない。財政規律が緩んでいる日本では、問題が先送りされている。

豊かさに潜むリスク

しかし、先進国(いずれは新興国でも同じ問題に直面するはずだが)において、さらに厄介な問題は、「衣食足りても、礼節を知るとは限らない」ということだ。豊かになったゆえの頑張りのきかなさ、人生命題の欠如、考える=工夫する能力の退化、対人能力の劇的な低下など、英国社会のみならず、日本社会でも同様の病巣がある。心に潜む闇はより分かりにくく、深くなっている。


Picture by: Lewis Whyld/PA Wire/Press Association Images
ロンドン北部トッテナムで警官と対峙する暴徒

同じような問題は19世紀末の欧米先進国でもあった。ただこれまでの状況と異なっているのは、現代ではアフリカを除く全世界が巻き込まれつつあるということだ。暴動の根っこについて、政治は洞察力を要するのではないか。だから単純に大量の警察投入でその場はしのいでも、問題の根っこは残ると考える。

(2011年8月13日脱稿)

 

第164回 米国債務上限引き上げ問題を掘り下げると

米国社会の分裂

米国債務の上限引き上げ問題の裏には、米国社会の深刻な亀裂がある。すなわち、リーマン・ショック後に米国人の貯蓄は2倍になり、消費がその分減って、需要が失われた。このため、27週以上の長期失業者数は高止まったままだ(下図参照)。これが米国社会における貧富格差の固定化を生み、その苦しい状況に対して、政治的に両極端の主張がなされている。

格差を何とかしようと主張してオバマ大統領が当選を果たしたにも関わらず、リーマン・ショックによって、彼が当選したときよりもはるかに格差が拡大したのは皮肉だ。同大統領は今、格差を大胆に小さくするために社会保障政策を拡充すべきだとする民主党左派と、小さな強い政府を求める共和党右派=茶会党を両翼とする極端な主張に挟まれている状態にある。

この状況は単純な財政赤字問題などではなく、レーガン政権以来、次第に拡大していた社会の貧富の格差が行き着くところまでいったことを意味している。経済問題というよりも政治的な問題として米国社会の行方が懸念されていることを、我々日本人もよく分かっておく必要がある。米国債がデフォルトすることは常識的に考えられないが、事の本質が、これまでの政策の是非と米国社会の在り方という問題に関わっているだけに、両派とも簡単に降りられない。

米国における27週以上の長期失業者数の推移

米国の強さ

しかし、現状は米国の強みをも示していると筆者は考える。米国は、国の在り方について議会、ネットなどで議論している。これは民主主義の強みだ。中国のように、国家が一方的に密室で決めるのとは地の固まり方が違うだろう。日本のように議論以前の状態が続くのは話にもならない。

さらにこの欄でこれまで書いてきたように、米国の貯蓄が設備投資の強さにつながれば、米国の産業競争力は復活する。そして、日本の競争力を相対的に弱め、円安につながる。米国が強いのは、ITやバイオといった分野での基礎研究と自由なアイデアを企業化し、それがうまくいかない場合には容易に事業再生(連邦破産法第11章)ができるからだ。要するにやってみて、うまくいかねばやり直せる社会なのであり、そういった社会が生み出す活力は、日本に今最も欠けているものである。

そこで問題の要は、米国の貧富格差が、そうした活力をそぐところまで煮詰まっているのかどうかという点になると予想される。茶会党は煮詰まったと主張しているが、事態はそう単純ではない。米国や日本の賃金は、中国の10倍、韓国の2倍程度ある。同じ製品を作っていれば米国や日本に競争力がないのは当然であって、中国や韓国と異なる付加価値を作り出せるような人材を生かしているかどうかが重要になる。この点、米国は、世界の優秀者を集める大学教育とベンチャーを支援する金融制度があり、またリスクを取っていくことを許容する社会がある。残念ながらこの点で日本は弱く、米国に一日の長があるように思う。

貧富の格差は、アメリカン・ドリームを生み、多様化した社会が認められる限りは活力にもなる。米国の設備投資が2、3年で戻るとすると、そのときこそ米国は強く甦り、円安局面となろう。

(2011年7月29日脱稿)

 

第163回 米国のデフォルトはあるのか

米国のデフォルトの可能性

この記事が出る頃には帰趨(きすう)が判明して関連報道が多数出ていると思うので、やや旧聞に属する内容となるかもしれないが、日本の財政問題を考えるヒントとして、米国のデフォルト(債務不履行)の可能性が生じた意味について考えてみたい。

米国のデフォルトとは、同国の国債の償還期限(借金の支払い期限)に、その借金を支払えなくなった事態を言う。8月2日に、その事態に陥る可能性が出てきている。米格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスは、7月13日、米国の国債格付けを最上級の「Aaa」から引き下げ方向で見直すと発表した。米連邦政府の総債務残高における法定上限の引き上げに向けた米議会の与野党協議が難航しており、米国債が短期的なデフォルトに陥る危険が高まっていることが理由だ。米政府の債務残高は、5月半ばに、法律で定めた上限である14兆2940億ドル(約1131兆円)に達した。このままでは米国債の借り換えなどができなくなるデフォルトに陥るため、財務省は現在、年金基金などの資金を米国債の償還資金に充てている。

この資金が、8月2日には底を付く。オバマ大統領は、各種予算の最終的な支出額を来年の大統領選挙後に決めるという一括妥結交渉を案として提示し、一部高齢者向け公的医療制度や低所得者向け公的医療保険制度の予算削減を提案した。共和党、特に大きな政府に反対する茶会党系議員は一層の歳出削減を求めている。小さな政府の実現に向けての要求は、タリバンが勢いを盛り返しているアフガニスタンからの米軍の撤退という事態を招いた。米国では、リーマン・ショック後に弱者のために財政支出を増やしたオバマ政権のあり方そのものへの問い掛けが生まれており、これが小さな政府か大きな政府かという問題にまで遡行して論争となっているのだ。

デフォルトが取り沙汰されることの意味

米政府は「借金は返すのが当たり前」と思っているからこそ、債務上限を無制限に上げて、借り換えを繰り返すことが問題視されている。一方、日本では、国債は原則、借り換えることができて、さらに新規発行がなされることが当然のように思われている節がある。

実際のところ、米国人は財政規律に非常に敏感であると感じる。「大きな政府」は、ベトナム戦争などの記憶につながっている。ここには、2つの問題がある。第一には、米国の経済状態から見て歳出削減は適当かどうかという点、第二に財政規律はどのようにして実現できるかという点である。

第一の問題については、現在の経済状態では歳出削減は難しいし、適当でないと思う。いまだバブルの傷が大きい。その処理も十分でない。長期失業率が高い。こうした状態での歳出削減は、景気に非常に悪い影響を及ぼすであろう。このため、結果としては、大幅な歳出削減を訴える共和党も折れると考えられる。そして、債務上限は引き上げられるであろう。しかし、ぎりぎりまで、債務上限を引き上げていいのかどうかについての議論は行われる。そして、そうした議論は、後から価値が出てくるであろう。やはり、安易に得られる安定は長続きしない。苦労が必要なのだ。

第二の「財政規律はどのようにして実現できるか」という点については、米国はギリシャなどと異なり、米国債を買う人が多くいるので、資金調達の問題はそれほど深刻ではない。しかし、そのような状況が、いつまでも続く保証はない。要するに財政再建ができるためには、それに見合う歳出削減か税収が必要になるが、歳出の削減幅に限界があるとすると、税収を高めるほかない。税収を高めるためには、経済活動を活発にする必要がある。

日本の財政へのヒント

経済活動を活発にするという点では、米国に一日の長があると思う。経済活動の原則自由という理念が広まっていて、お上は必ずしも信頼されているわけではなく、出る杭を打たない。

日本はこの逆である。確かに、日本には日本のやり方があると思う。お上がある程度は公共事業や研究開発でリードしても良いのかも知れない。けれどもそれ以前に、財政の規律がなければ市場は国家を信頼しないとの認識が希薄なのは、やはり問題である。債務上限を引き上げられずに悩む米国の大統領と、本年度予算の特例公債法案がいまだに通らないという危機にある日本の首相が持つ危機感の間には、似ているようで大きな違いがあるのだ。

(2011年7月17日脱稿)

 

第162回 ベルルスコーニの延命

ベルルスコーニの不思議

東日本大震災やそれに続く原発事故が発生して以降、日本人は、いかに復興するか、原発問題をどう収束させるか、電力不足をどうするかを問われ続けている。そうした課題をめぐって政治的な混乱が起きている中ではどうも暗い気持ちになりがちで、前向きな思考が湧き出てくる感じではない。ややもすれば制約の増加、我慢という発想に向かいがちのように思う。そうしたとき、欧州において不思議に思うこ とがある。それは、イタリア人の生き方だ。

各種の疑惑や問題発言のせいで、イタリアのベルルスコーニ首相が率いる内閣支持率は過去最低の32%まで落ちている(菅首相の17%より高いが)。イタリア国内ではもちろん批判が強いし、今年ウィキリークスが暴露した米国政府の内部文書では、「無責任で虚栄心が強く、現代欧州の首脳として無意味」と酷評されている。経済成長率も欧州平均を相当下回っていて英国、フランスよりも低く、失業率はフランスに次いで高い。しかし、それでも政権は延命を続けている。

もちろん、彼は、民放テレビ4局のうち3局を経営しているから、批判をさせないのかもしれない。これらの局では、日本や英国では考えられないような、主婦のストリップまがいの番組を放映している。「風雲! たけし城」をより過激にしたような番組まである。こうした番組を通じて、国民の目を政治経済など現実問題からそらしている、と批判する声が一部で上がっている。しかし、イタリアの友人たちは「いや、彼は人間くさい。誰だって男は美人が好きだし、失言もするさ」と言うのだ。

イタリアが原発にNO

6月13日には、イタリアで原子力発電再開の是非などを問う国民投票が開催された。結果は反対票が94.53%となり、原発を推進してきたベルルスコーニ首相は、投票締め切り前に敗北を認めた。イタリアの友人に尋ねると、「No」に投票したという。それでもイタリアの電力事情は全体の10%近くを原子力発電に頼っているじゃないかと問うと、「フランスから買えば良い」と言う。「それは無責任ではないのか」と聞けば、「でもフランスは売りたがっているんだよ」。「でもフランスが売らないといったら?」と言えば、「そのときは、ワインを飲んで早く女と寝ればいいじゃないか」。唖然(あぜん)として、その後は言うことがなかった。原発投票は、ベルルスコーニの巧妙なスキャンダル隠しという意見も新聞では見られる。それでも、イタリア国民が彼に憎めなさを感じるのはその国民性なのか。

経済も建前や公式通りに収まり切らないところに、ある意味で懐の深さがある。イタリア経済の実態を、表面の数字のみからつかむことはできない。公式統計から、イタリア北部にある工業系の中小企業の実力が相当なものだと分かるが、その実力は統計に出ないデザイン力だ。世界各国の工場で使う生産機械などはドイツ、スイス製と並んでイタリア製が非常に多い。またミラノやボローニャでは、デザインは イタリアで行い、実際の生産はアジア諸国に下請けに出すスタイルでの家内工業的な中小企業や企業組合が多くある。

ただ、注目すべきは地下経済だ。下表にあるように、政府統計に表れない地下経済が、推計で全体の28%近くを占めている。

まじめと楽天的

日本人のまじめできっちり課題に取り組む姿勢それ自体に問題はないが、もう少し、楽天的な面があっても良いのだと思う。ベルルスコーニ氏が政治家として良いかどうかは別として、彼が体現するイタリア人的なものに学ぶべきは、楽天性と、生活の質及びその質の選択肢があることだろう。日本人は、何でも理想的な選択肢を作ろうとしがちだ。先進国であり続けられるかどうかの岐路に立つ日本は、イタリア的なものに学ぶこともあるのではないか。

■各国の地下経済の大きさ
グラフ

(2011年6月28日脱稿)

 

第161回 日本のインフレ局面入り

日本だけなぜ物価が上がらないか

下図を見ていただきたい。各国の消費者物価上昇率の動きである。英国が5%くらい、その他の先進国は、2~3%が多い。物価が上がっている背景には、新興国需要が旺盛であることによる原油・石炭などのエネルギー価格上昇と穀物価格の上昇がある。後者は、干ばつ・水害などによる影響もあるし、リーマン・ショック後の金融緩和による先進国マネーがロンドン市場を通じて資源ファンドなどへ流入したことも一因と言われている。ただ日本の物価上昇率だけが、いまだゼロ付近にいる。

■主要国における消費者物価指数の動き
グラフ

日本だけなぜ物価が上がらないのか。一つの回答は極めて統計技術的なもので、日本の物価指数を財別に見ると、テレビやカメラ、パソコンが含まれる耐久消費財だけが世界各国より非常に速いスピードで価格下落している。日本と他国との差のうち1%分は、大体これで説明できそうである。例えばCPUの処理速度が増すなどして品質が上がった場合に、新商品はほぼ同じ値段で能力が倍になったからという論理で、統計上では旧商品の値段が半分になったとして比較的正直に記録している。よって見かけは物価上昇率が低いように見えてしまう。

ただこの統計は、生活実感とは乖離している。なぜなら、品質が倍になったとしても、消費者は時間をさかのぼって半額の旧商品が買えるようになるわけではない。実生活では、現在店頭に出ている価格改訂後の新商品しか買えないわけだから、生計費は決して下がらない。だから、過小評価されている日本の消費者物価に年金や給料がスライドしていると、現実を反映した生活水準は下がってしまうことになる。

人件費と過当競争

そして日英での物価上昇率格差の原因となるのが、人件費即ち給料の上昇率の差である。英国では毎年、物価スライドで給料を上げている。逆に給料が上がれば物価も上がる筋合いにある。日本では、物価の上昇に応じて給料が上がることはないために、購買力が伸びず、物価も上がらない。そもそも、高齢化により退職者数が多く、企業があえて退職者数に対して採用数を減らしていることから、人件費は90年代以降大きく下がっている。既に高齢化社会を迎えた英国ではこうした現象は見られない。ただ日本でも2007年をピークに退職者数も減りつつあるので、人件費減らしも限界に近付きつつある。

さらに、日本国内の過当競争も一因となっている。例えば銀行を例に取ってみても、英国には4大銀行と信用組合しかないのに対して、日本には都市銀行が信託銀行を入れて8つ、地方の銀行が120余り、信用金庫が270ほどもある。高齢化で内需が伸びていないのに企業数が多いと、どうしても過当競争になる。英国の銀行は手数料が高いとよく言われるが、これも競争が少ないことを反映した一面である。日本では英国と異なり、不採算企業への融資の返済猶予を合法的に認めているので倒産が少なく、経済の新陳代謝が起こりにくいというのも過当競争の理由となっている。

中国経済が堅調である限り、原油や石炭、穀物の価格は、ファンドの影響で乱高下することがあったとしても、大きく下がるとは考えにくい。人件費が物価に連動し、過当競争も少ない英国では、ある程度物価が上がることは避けられまい。ただ中国のバブル崩壊と英国の金融市場での欧州通貨問題による再調整があれば、物価上昇には至らない可能性もある。

日本では震災による復興需要が物価押し上げの要因になるので、こうした中で、人件費削減が限界に近付き、金融機関が不採算企業の選別を開始すれば、物価は上昇していく可能性が高い。その意味で、人々の物価が上がるのではないかとの予想は、これまでにないほど強くなっている。

(2011年6月15日脱稿)

 

第160回 ドイツの原子力政策の転換

メルケル首相の判断

ドイツのメルケル首相は、今後10年以内に同国を原子力発電から撤退させると発表した。2年後の総選挙を控え、また最近の地方選挙(バーデン=ビュルテンベルク)における緑の党の躍進を見るにつけ、政治判断をしたと報道されている。これより以前に、全発電量のうち40%近くという原子力発電への高い依存度を持つスイス政府も同様の発表をしている。エネルギーの確保は経済の成り立つ前提条件であり、エネルギー政策は経済政策の基底を成すものである。またユーロ経済では現在ドイツが独り勝ちで、欧州経済の牽引をしている。ドイツでのエネルギー政策の転換は、大きな意味を持っている。

ただ、このエネルギー転換には紆余曲折が予想される。現時点では南ドイツの太陽光発電などの代替エネルギーを使いつつ、CO2削減をも図っていくという見通しだが、ある程度は、全発電量のうち80%近くを原子力発電で担っているフランスからの買電で調達しなければ需要を満たすことは難しいと思われる。またメルケル首相は、風力や波力などまだ確立されていない分野への関心も示している。

原子力の長所は、原油価格やCO2の排出を心配せずに、24時間にわたり安定的なエネルギーの供給が図られることである。太陽光では日照時間の不安定という問題を抱える。風力なら、風を捕まえるためにあらゆる場所への発電装置の設置が必要になる。

グラフ

英国の対応

英国の連立政権の立場は税金投入を避けつつ、民間の原子力発電投資を立地条件の整備などを通じて支援するというもので、原子力の利用をフランスほど国策化していないし、ドイツのように撤退を明確にしているわけでもない。どちらかと言うと保守党は原発賛成派寄りで、自由民主党は反原発色が強い感じである。

これまで見てきたように、ドイツとて一気に原発をなくすこともできまいし、フランスもこれ以上の原発依存は難しいので、それぞれのスローガンが示唆するほど各国の実態に差があるわけではないと思う。結局どの国でも色々な発電策の組み合わせになろうし、また蓄電池など蓄電の仕方や電力使用の総量削減だけでなく、ピークを均す工夫もあり得る。ただ、切り札はやはり省エネと、それを支える技術革新と投資だろう。

エネルギー節約の余地

中国や韓国はもとより、英国も含めた欧州や米国といった各国がまずできることは、エネルギーの節約である。節約というのは、我慢したり、不自由したりすることではない。同じような効果がより少ないエネルギーで得られる技術は、上のグラフを見るまでもなく、日本が持っている。

日本では原子力発電所の新規立地はもはやあり得ない状況で、また今後、各地の原子力発電所が定期修理に入ると事実上再開できない状態が続くと見られる。 今夏だけでなく、冬も節電を余儀なくされるため、一段とエネルギー節約技術を開発するインセンティブがある。まして原油価格、石炭価格が上昇すれば、同技術の経済効果は大きくなる。日本の技術が世界に広がることで、世界は原子力依存度を下げることができるのだ。ドイツも英国も、技術を使った節電というエネルギー 政策を進めることが、原子力発電所への依存度を下げる意味でも国民から支持される方策であろう。

日本の技術者は世界の先頭に立っているし、消費者も自らの生活を考え直すという点では、過剰冷房などといった問題の少ないドイツや英国の生活に見習うべき点は大いにある。グローバリゼーションを良い方向に利用するときに、こうした人類の知恵を生み出す発想こそ求められる。

(2011年5月31日脱稿)

 

第159回 ポリティサイズの弊害

ポリティサイズ=政治化する

世界中の企業経営者のみならず、経済活動を行う一般市民にとって、現在はかつてないほど政治の動向を気にせざるを得ない状況になっている。先進国、特に日本においては、かつての英国がそうであったように、低成長の経済になると、高成長時代には相対的に小さかった、所得や富の分配のための政治の役割が大きくなるからである。しかし、政治が社会福祉的な分配機能を大きく超えて、民事法や商事法に基づく自由経済というルールを踏みにじる形で経済活動に介入すると、経済人は予測可能性を害され、経済活動で大きな悪影響を受ける。日本は今、震災という非常時であり、政治が果たす役割は非常に大きい。しかし、震災復興という目的を超えて、政治が社会問題に対してポリティサイズ=政治化することで直接介入してはいないだろうか。経済人はそれに厭(あ)き、嫌気が差している。今回はそういう意味で、政治の経済への悪い介入の例について書く。

政治化とは、社会の意思決定に何でもかんでも政治が関与する現象と言い換えてもいい。論点を政治問題とし、それをマスコミに露出することにより、政治が人気取りをするという意味でもある。最近の例では、東京電力に対する銀行への債権放棄・株主の保護要請、中部電力に対する浜岡原子力発電所の稼動停止要請、公務員給与の10%削減がある。借りた金は返すという約束、株主が経営の失敗に対して負う有限責任、私企業の意思決定への政治圧力であり、労働の対価に対する政治的介入である。民事法、商事法、労働法の原則を捻じ曲げ、自由競争の経済原理に政治が介入する。また、被災避難所での煮炊きを、食品衛生法のチェックが必要だとしてこれを認めないという事例が一部であったと伝えられている。さらに震災当日に東電社長が名古屋から自衛隊機を使って帰京することを認めず、しかも一度飛び立ち静岡の上空までたどり着いたヘリを名古屋へ引き返させるという一件もあった。大事なことと些事なこととのバランスを取れない杓子定規な対応である。

一方、本質的な問題である復興計画は財源問題が決まらないために、遅々として決まらない。復興計画、財源問題について、野党と国会で議論し、理解を得るために汗をかくことができない。原発停止という着眼点については、問題提起としては間違っていないと思うし、野党としての批判なら合格だろう。しかし、政権与党なら 議論を深めて、国民的なコンセンサスを作るプロセスこそ重要で、それこそが民主主義の深さとなる。

悪い弁護士の例

現在の政権には、弁護士出身者が多いように見受けられる。別に官僚出身や二世議員の能力が高いとは思えないが、弁護士独特の悪い面が出ていないか。「悪い面」とは、その場の言い繕いである。「放射能の人体への影響は、現時点では問題がない」といった言い方を官房長官はよくする。論理的にはその通りだろう。法廷では問題ないのかもしれない。しかし、そう言われると、一般の人は「長い目で見て影響があるのだな」と考えるのだ。

政治、政策においては、経済、社会、生活、外交関係といった色々な分野とのバランスを維持できるかどうかが重要である。原子力発電所における今日の放射能が大丈夫か否かという新聞記者の質問に無難に答えれば足りるという問題ではない。小泉政権以来、社会がポリティサイズし、マスコミがワイドショー化することの弊害の最大の問題は、政治が社会全体のバランス維持機能だという問題が失念され、論点主義となったことである。経済活動から見た政治の読みにくさもこれに起因する。

政治ショーの帰結

そうなると、言葉が軽くなる。そして出て来る政策は、財政再建一本槍とか、日銀は物価だけに固執するとか、国債引き受けは絶対ダメとか、消費税を途方もなく引き上げるとか、相続税は取れるところからできるだけ取れとか、年金未払いは全員救済とか、極端な政策ばかりとなる。社会のバランス感覚が失われ、論点がポリティサイズしてゆく。これが衆愚政治である。

一方で、優れた経済人はこの事態を感じながら、自社の殻に閉じこもろうとしている。敢えていうが、それも政治家と同罪である。経済人は経済取引の原則への政治介入に対して明確に批判し、抗議・ 発言すべきだ。誰かを恃 たの む根性でいては、福島原発の処理は米仏民間企業の商売の場となってしまい、主権すら危うい。そういう政治にしているのは、声を上げ得る経済人を含む我々であるということを猛省すべきときだ。

(2011年5月18日脱稿)

 

第158回 祝・ウィリアム王子のご結婚 - 王室・皇室の意義

金銭では測れない価値


ウィリアム王子の結婚式は、
改めて王室の存在意義を示した
Picture by: Stefan Rousseau/
PA Wire/Press Association Images

テレビでウィリアム王子の結婚式の中継を観た。なぜトラファルガー広場を回らずにホース・ガーズを横切るのかとか (王室用地なので警備費が安くなる、との報道があった。経済が苦しい中、王室も楽ではないということだろう)、日本の皇太子ご夫妻も出席できれば良かったのにな、とか(震災で自粛、との報道があった。震災への援助に礼を述べ、国家の親交を 深める皇室外交のチャンスだったのではないか)、ぼんやり考えていた。景気も今一つ、震災やリビア空爆、紛争など大変なニュースが多い中で、とても気持ちの良い出来事であったと思う。読者の皆様の中にも、実際に沿道に行かれたりテレビを観たりした方が多いのではないか。

ところで、式の最後に「God Save the Queen」を列席者が歌ったが、一人だけ合唱に参加していない人がいた。言うまでもないが、歌われる対象である女王陛下である。テレビでははっきりと映っていたが、口をきりりと結ばれ、正面を向き、皆の賛歌を受けられていた。当然、 歌い終わった後の拍手にも直立不動。最高位にある女王陛下としての在位中のご苦労は並大抵ではなかろう。ダイアナ妃問題など数々の危機を乗り越えた厳しさと自信のある尊顔は、黄色のご衣裳とも相まって何とも言えない神々しさというか、美しさがあった。

いずれ国王としてこの重責を担わねばならないウィリアム王子は、まだまだ甘い顔をしておられるように思えた。女王と比べると、乗り越えてきた危機の規模と数が違うだろうから、当然かもしれない。 王室の価値は、やはり国家の危機時に発揮されるのだ。英国における女王陛下の 存在の重さを改めて感じるし、国の危機になれば、必ずや前面に出る存在が女王なのだと強く感じた。そうであってこそ、ご結婚のような祝事を国民はこぞって祝える。税金の無駄遣いとか結婚の経済波及効果なども問題になるが、危機時に発揮される国民の心のよりどころとしての意義は金銭では測れないし、測るとするならば莫大な価値になろう。

日本の皇室

同時に思うのは、震災後の日本の天皇皇后両陛下の活発な活動である。筆者は天皇制について特定の意見を持つ者ではないが、両陛下の活動には、目を見張るものがあると思う。

震災直後の陛下のお言葉では、その落ち着いた口調と、民を雄雄しいと表現されたことで、震災から立ち直ろうと努力する国民を励まし、自分もともにそこにあるという立場を示された。「雄雄しさ」 という言葉を民に用いるのは、天皇家が国民に対して、自らともに戦うという姿勢を示すときだそうだ。明治天皇は日露戦争開戦のとき、昭和天皇は第二次大戦に敗れて占領下にあったときに、戦後復興を願う御製でこの言葉を使われた。

さらに震災の避難者がいる東京や、被災地である宮城、岩手の慰問はもとより、 筆者がとても驚いたのは、皇居を東京電力の計画停電の第一区域と仮定して(実際は千代田区は計画地域停電外)、第一地域の停電時間帯には、暖房や照明など一切の電気を切られているとの報道である。 寒くないかとの質問に、セーターなどを着れば何でもない、と答えられたとのこと。 70代後半の天皇陛下が、である。パフォーマンスと批判するのはたやすいが、そう取る日本人は多分いないのではないか。

民主主義のあり方が問われる

日英ともに、危機時において、首相にはその正統性という点で、皇室のような国民統合の力を求めることは恐らくできない。一方で、精神的な統合性は危機時に国民の大きな力になるが、精神的な統合性だけでは現実に衣食住を確保できない。首相以下の政府は、衣食住=生活を安定させるために働く必要がある。日本の危機時において、天皇陛下はご自身の役割を果たされつつある。これに対して首相以下の公的機関は、もっと大胆に復興を担う役割が期待されているのである。

(2011年5月6日脱稿)

 

第157回 電力使用量削減の悪平等

日本政府、東京電力の削減

東日本大震災による福島第1原発の惨状は、いまだ解決の糸口すらつかめていない。福島第1原発はもちろん、震災前の事故で停止していた新潟の柏崎刈羽原発も地元の反対が強く再稼働できない状態にある。福島、茨城県にある火力発電所も大きな被害を受けている。

日本政府と東京電力は、夏場に電力使用量が供給量を上回り、各種発電所の緊急ブレーキがかかることによって発電所が全面的に機能停止し、大規模停電が起こることを危惧している。この事態を避けるため、ペナルティー付きで電力使用量のピーク引き下げを求める方針だ。大口需要者は25%、中小企業など小口は20%、家庭は15~20%の削減である(4月8日現在の数値。今後、東京電力の状況で変化し得る)。このため、自動車業界では輪番で休業日を設けるとか、銀行も近隣店同士で順番に営業するとか、東京のオフィスでは夏場に冷房を使わないとか、さらには工場の九州移転、オフィスの大阪への移転などといった動きがある。

しかし、こうした一律の削減目標は一見平等に見えるが、対策の施しようのない弱者には厳しいものであり、一種の悪平等ではないか。例えば、病院、保育園、幼稚園、学校、老人ホームといった社会的な施設の電力消費の実態を無視した20%の一律削減は、非常に逆進性の強いものになる。また一日中家にいる引退者の世帯と、独身または子供のいない共働き世帯で日中は不在という家庭では、全く節電の意味が異なる。電力供給量を調整することは技術的には確かに難しいが、世帯調査と組み合わせてペナルティーのかけ方を変えることはできるはずである。

大口需要者との調整

何より、大口需要者はもともとどの程度電気を使うかを時間帯まで決めて電力会社と契約しているのであり、電力会社もその使用量を随時監視している。そしてその需要者ごとに電圧を変える変電設備も電力会社が管理し、自家発電分との調整をきめ細かく行っているのである。こうした電力の調整こそが、戦後の電力不足時における日本経済を支えた。当時の政治家や官僚たちは、どのように電力を配分すれば最も効率良く生産を行えるのかを考えた。そうした姿勢こそが、日本の戦後復興の鍵となったのである。そのノウハウをなぜ今に生かさないのだろうか。

日本では、英国や米国と異なり、エネルギーの価格が非常に高い。日本はエネルギーを自給できない国だからこそ、その分配は必ずしも価格メカニズムだけではなく、国や電力会社が関わりながら大口需要者と調整してきたのだ。それが一律削減などというのでは、官僚や東京電力の仕事のサボタージュだとしか思えない。調整をしないのなら、官僚や大電力会社が存在する意味がないのだ。

もちろん、東京電力も、火力発電所の稼働やガス発電所の新設などの手は打っている。ただそれでも供給不足は解消できず、このままでは需要の調整は不可避である。そのときこそ大口需要者との間で操業時間をどのように変更し、ピークをいかに平準化できるかを調整すべきで、そのための調整を摩擦として嫌がるのでは、日本が高度成長期に培った傾斜生産のノウハウが泣く。

菅政権、この非民主的な政権

そしてそのツケは社会的に弱い立場の人に行く。民主党の菅政権は、その看板とは異なり、最も非「民主」的な政策を行おうとしている。政治家は、まずは自らの電力使用量をどう削減するか模範を示すべきだ。国会議事堂や議員会館の節電策を聞いたことがない。政治家はこうしたときこそ自ら節電を率先すべきであるし、公務員も不眠不休で意味ある働きをすべきだ。関東大震災のときは、大日本帝国憲法の下で議会の議決を経ることなく、勅令で政府がリーダーシップを取った。民主主義の下では政府が独裁を取ることは許されないが、それでも非常時と常時とでは議論のスピードが当然違って然るべきだ。日本の民主主義の成熟がここでも問われている。

政治は、その上で大口需要家との調整を東京電力にさせ、一方で、不要不急な電力使用を止めるよう説得すべきだ。石原都知事の言うように、自動販売機の稼働やパチンコ店の営業は全部やめるべきだとは思わないが、病院もパチンコも一律20%削減というのが愚策であることは明らかである。そうした調整こそ政治過程であり、一律削減なら小学生でも考えつくことのできる案と言える。英国ならそんなことはしないと思うが、いかがだろうか。

(2011年4月19日脱稿)

 
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