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Wed, 10 December 2025

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第156回 安全と効率の間 —自動車メーカーを例に

サプライ・チェーンの再構築

震災発生後、日本経済は一時的に景気回復に向けた動きが止まった。その理由は、第一には震災の規模の大きさに加えて、福島原発での事故が未解決であり、計画停電が続いていることを受けて消費者全体に自粛、節約が広がっていることである。旅行、飲食、ホテルでは予約のキャンセルが相次ぎ、経営が苦しくなる企業も出始めている。第二には、東北地方のほか、茨城県北部での工場被災によって、製造業における原材料や部品の供給が止まったことで、全国の製造業の生産そのものが停止したことである。今回はこの部品供給、すなわちサプライ・チェーンの今後について考える。

影響は様々なところで出ている。まずは自動車メーカー。自動車は部品の数が3万点と非常に多く、トヨタや日産などの自動車メーカーの下に一次、二次、三次と下請けがピラミッド状に系列を成している。そのピラミッドを構成する企業のうちどこか一つでも生産を停止すると、ピラミッドの頂点にいる自動車会社は自動車を作れない。例えば、福島県のエンジンやサスペンションといった基幹部品や茨城県の電子制御関係の部品もさることながら、様々な地域で作られているエンジン・オイルの蓋のパッキンや、塗料に入れるつや出し顔料などだ。小さなパーツなのだが、それがないと車ができない。そして自動車会社が生産を停止すると、部品を作る一次から三次の下請けの資材調達先を含む膨大な数の企業に影響が出る。また日本の自動車部品は海外輸出が多く、北米の自動車生産にもブレーキがかかっている。

在庫管理の効率

仮にある部品が生産を停止したとしても、その部品の在庫があればある程度の期間は操業できるのだが、日本の自動車メーカーは看板方式といって、在庫をできるだけ持たずに、納入業者に必要なときに必要なだけ持ってきてもらう方法を取る場合が多い。その方法を極限まで突き詰めたのがトヨタである。非常に効率的な方法であり、日本の自動車が品質が高い割にコストが低いのもこのためである。しかしながらこうした効率性は、一旦どこかで不具合が生じると部品在庫という「遊び」がない分、機能が急に停止してしまう。効率性とは別の安全性という基準に照らせば、多少は非効率であっても部品在庫はあった方がいい。

幸い日本の産業界には、裾野の広い自動車の問題を優先的に解決しようという雰囲気があり、自動車会社の生産の正常化は6月には実現できる見込みだという。4月中旬くらいから少しずつ生産が再開され、5月には通常の半分程度まで回復できそうである。

各自動車メーカーは、自らの生産行程を構成するピラミッド(サプライ・チェーンという)のどこに綻びがあるのか、それがいつ復旧するのか、当面復旧しないなら代替品を西日本や中韓のメーカーで作れないか、その設計変更に要する期間は、といった点を懸命に模索している。メーカーの社員が下請け会社まで出掛けて技術指導するケースもあるという。こうした努力により自動車業界、次いでそのほかの機械や化学といった業界が復旧するという順になりそうだ。

安全と効率の間

さて、復旧が仮にできたとして次に考えるべきなのは、こうした事態を今後避けるための再発防止策であり、これが日本の産業のあり方を考える上で非常に重要である。サプライ・チェーンの問題を今後考える場合、効率を重視して部品在庫を持たないのか、安全を重視して部品在庫を持つのか、または他の方法で効率性を維持しつつ、安全性もキープできるのか、が問題になる。

例えば日本の自動車メーカーは、やはり部品在庫を従来通り持たないことで効率性を維持した上で、安全性を高めるため、すべての部品について原材料までさかのぼって実態を把握して、代替案を予め準備するようだ。ただ、こうした措置がコスト増を生むことは確実で、調達先を複数にしたり、在庫を多く持つことと比べてどちらが効率的なのか、現時点では何とも言えない。

グローバリゼーションで原材料調達と販売を世界で行うことが効率的とされてきたが、その鎖が長いと非常に脆いのだ。「遊び」を持たないというのであれば、その鎖が切れたときのリスクを考えると、ローカルな企業の方が強いとも言えるという当たり前のことを、企業は現在、身にしみて感じているのではないか。

(2011年4月3日脱稿)

 

第155回 原子力発電の行方

福島第1原発問題の終息

この度、東日本大震災により被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。また被災地の一日も早い復旧と復興をお祈りいたします。

今回は、被災者支援に次いで日本が今後考えなければならない問題として、復興についての私見を述べたい。同震災により失われた経済活動とその財産は、国力を集中していくことで取り戻すことができるし、その道筋に大きな不確実性はない。地震後に残る経済問題のうち最も不確実度が高く、様々な議論が起こり得るのは、原子力発電を中心とする電力供給確保の問題だ。

その大前提は、福島第1原発の問題の終息である。執筆時点では原子炉への放水により炉の温度上昇が一時的に止まっているが、電源の回復により冷却装置が作動するか否かについては明確とは言えず、連続冷却により原子炉自身の破壊リスクを大幅低減できるかどうかは依然、予断を許さない。報道によれば、冷却装置の稼働ができれば大きな山を越えるとみられるので、その時期は極めて重要と思われる。早期解決できれば原発技術への信頼が残るかもしれないし、時間がかかるようだと不信がそれだけ大きくなると思う。筆者は、今後、便利さよりも安全・安心を重視する人が増え、重視の程度は、福島の終息に目途がつく時期により決まると考える。

日本での夏の停電への備え

大多数の人々が憂慮している大量の放射能漏れという事態を避けることがほぼできそうだという目途がついて第一次の危機が終息したとして、次の山は、この夏の電力需要を乗り切るためには東京電力の絶対発電量が足りないということになろう。東京電力管内の夏の電力需要は最大6400万キロワットに上る可能性があるが、福島第1・第2原発の運転再開はもはや絶望的となり、このままだとその供給能力は4800万キロワット規模にとどまると報道されている。東京電力では火力発電所の稼働率アップ、施行期間が短いガスタービン発電所の新設を目指して準備を始めており、そのために原油、天然ガスの需要が増え、価格の上げ材料となっているが、それだけでは夏の需要ピークには追いつくまい。

西日本の電力会社から電力の融通を受けるため、現在3カ所ある周波数変換所を増設することも考えられるが、これも間に合うかどうか(明治時代、後に東京電力となる東京電灯はドイツから輸入した50ヘルツ仕様の発電機を、関西電力の前身となる大阪電灯は米国から輸入した 60ヘルツ仕様の発電機を導入。現在も東西で周波数が異なるため直接送電できない)。ほかに考えられるのは、鉄道や製せいてつ鐵を始めとする業界の大企業は自家発電設備を持っているので、その機能を集約し、日本の企業全体で電力をかき集めるという方法だ。

後は使用時間の分散か節電ということになろうが、節電は復興需要に水を差す。電車で節電すると出勤に影響し、経済の効率性に悪い影響を与えかねない。時間の分散には時差出勤、休日出勤などが考えられる。政治の調整能力が問われるところだ。

原子力発電の行方と政治

その次の山は、電力確保政策の中での原子力発電所の位置付けをどうするかを検討することだろう。現在、日本の原子力発電所の工事はすべてストップした。ドイツでも古い原発は運転停止となっている。世界中の国が問題を突きつけられており、各国の対応が注目される。特に英国はブレア氏が首相在任時に原発停止から促進に舵を切ったばかりだ。

筆者は、今回の原発の事態には天災と人災の両面があると考えている。自然が人知を超えていることへの畏れを持ちつつも、日本の行政や電力会社は最善を尽くしてリスク対応をしていたか否かについて厳しく検証し、それを国民に示し、今後の選択肢を示す必要が出てくるだろう。そうすることで人災を上塗りせず、自然と共存していける国になれると思う。

エネルギーと食料の自給は安全保障の要であり、低炭素社会の実現への道のりにも気配りする必要があるかもしれない。節約という観点からは、あまりにも電気を使いすぎる家庭に対しては電力料金を累進的に高くするということも考えられる。一律停電ではなく、消費者や企業に、料金が使用量に対し逓増(ていぞう)する料金表を提示し、自ら電気使用量をコストとの関係で選択してもらうという方法もあるだろう。いずれにせよ、各国で政治が担う役割は極めて大きい。

(2011年3月22日脱稿)

 

第154回 東日本大震災を受けて(第一報)

原子力発電への影響

この原稿を書いている2011年3月12日の段階では、東北地方太平洋沖地震発生の翌日に起きた福島第一原子力発電所の爆発による放射能の大量漏れは避けられている。仮に放射能漏れが起これば、かつてチェルノブイリやスリーマイル島が経験した放射能の雨が東京を含む東日本に降ることになる。そうなると日本人の生命身体や日本の自然が何世代にもわたって蝕まれる恐れがあり、最悪の事態は免れる公算が強くなったと思われる。

現在は、核分裂を行う場である圧力容器やそれを格納する鉄製容器に海水を注入して原子炉を冷やしているという。海水には不純物が多く含まれているため、原子炉を再び使用することは考えにくい。そうなると、福島の原子力発電所の建設に投入した何千億円という投資を捨てることになる。被爆(ばく)を避けるという観点からはやむを得ない判断だったとは思うが、原子力発電の推進には疑問符が付くことになる。

英国や米国などでの原子力発電の再設置については、安全性のみならず、経済効率性の観点からも大きなブレーキがかかるのではないか。太陽光や風力といった代替手段には小さな発電量しかないとすると、輪番で地域ごとに停電させるといった措置が取られることになり、当面は節電モードになるであろう。人類の生命としての傲慢に対する警告と考えるべきか。ともかく、中期的には水力発電が再度注目されるのではないか。

経済への影響

次に、東日本大震災による日本経済の影響について考えてみたい。まずは日本国内の製造業だ。特に福島県や宮城県の半導体、自動車、各種部品などの生産が回復するのに1カ月以上はかかる。すると、そうした工場で生産している財を部品とする日本全国やアジアさらには欧州など世界中の企業の生産が止まることになる。分かりやすい例で言えば、瓶などのキャップのパッキンを作っている福島の工場が被災することにより、ビンのキャップが作れなくなる。キャップができなければ、飲料、化粧品、薬品などの製品の出荷ができない。そうしたボトルネックによる大きな生産停滞が、日本のみならず世界中で生じることになろう。

リーマン・ショックほどではないが、今回の地震は相当な生産の低下をもたらし、経済を冷やすことになる。雇用には悪影響となり、自粛ムードとあいまって消費を大きく冷やす。そうなると小売業や卸売業をますます苦境に追い込むことになり、金融面にもしわ寄せがくる。日本を含む先進国では、リーマン・ショック後、政府が大きな財政対応を行い、中央銀行が金融を緩和することで経済が底割れすることを防いできたが、その措置の継続を正当化できるような状況になったため、日本ではそうしたセーフティー・ネットを外すことが一段と難しくなったと思われる。税と社会保障の一体改革もほぼ確実に見送られるだろう。

そのほか、今回の大地震による日本経済への影響を順不同で以下に予想する。

● 死者数の増加による消費の一段の低迷
……被害が今後明らかになるため

● 日本株の下落と日本国債価格の下落
……経済、財政悪化のため

● 建設株や資源株の値上がり
……復興需要のため

● 日銀による大量の資金供給
……復興と国債の価格を支えるため

● 物価全般の値上がり
……復興需要、仮需要

● 魚の値上がり
……漁港が壊滅しているため

● 歌舞音曲、スポーツなどの自粛による消費、旅行の低迷
……被害が大きいため、さらに連日の報道で国民の心理に大きなショックが残るため

2011年という年

終わりになるが、今年の年頭に経済は「凪」であると書いたが、今回の地震、北アフリカや中東の民衆による独裁者への反乱、豪州などの洪水、ロシアの干ばつ、日本における政治の混迷など、数々の出来事が経済に大きな影響を与えている。経済のファンダメンタルズはそう悪くないのだが、やはり人類は、経済以前の生き方や環境、特に自然への姿勢などといった根本的な問題に直面しているのだと思わざるを得ない。これまでの現実を前提とする「政治」という機能を使っての問題解決には限界がある。社会や市民というレベルでの活動や考え方の整理こそが近道であることがはっきりしてきたと思う。2011年はそういう年として歴史に残るのではないか。

(2011年3月12日脱稿)

 

第153回 多元文化主義は失敗か

キャメロン首相の演説

キャメロン首相は、2月5日のミュンヘンでのスピーチで、国内の若いイスラム教徒が過激な理想主義に走る事例が相次いでいることを念頭に、「英国での多元文化主義は失敗した」と述べた。「(労働党政権による)多元文化主義国家の信条は、様々な文化がお互いに干渉せず、英国の主流を成す文化からも距離を置くことを推奨してきた。そうしたいわば隔離されたコミュニティーが我々の価値観と正反対の行動(例えば信教の自由の否定、男女平等の否定など)を取ることすら許容した」と発言。さらに、異なる価値観を無批判に受け入れる「受動的な寛容社会」ではなく、民主主義や平等、言論の自由、信教の自由といった自由主義的価値観を積極的に推進する「真のリベラル社会」を目指すべきだとの認識を示した。

その上で、イスラム教自身は、言論の自由や平和的な問題解決、民主主義を否定するものではないが、イスラム原理主義、中でもテロを容認する過激な導師とそれに感化される若者の過度の理想主義が問題だと述べた。また、イスラム教徒などの移民の貧困や失業問題が解決すれば原理主義は衰退するとの左派の考え方については、テロリストは大学院卒や中産階級の出身者が多いことなどを挙げて否定。労働党政権が、イスラム教徒の若者に対して英国社会への帰属感を感じさせるような英国社会のビジョン、あり方を示せなかったことこそが問題だと述べた。

多元文化主義の是非

労働党政権の多元文化主義が、受動的な寛容社会で、民主主義や平等、言論の自由、信教の自由といった自由主義的価値観を否定する考え方やテロリストまで許容していたというのはやや言い過ぎだと思うが、保守党らしい演説ではある。この議論の要点は、英国社会において、自由主義的価値観を否定する考え方を排除することで、イスラム教徒の若者に英国社会への帰属感を感じさせることができるのか否かということだ。結論から言えば、この考え方には疑問符が付く。

例えば在英のインド人を例に挙げる。彼らの中には集団で固まって住む者たちが多いが、学歴があって中産階級となった階層は、そうしたインド人の固まって住む地域から散らばって住んでいるように見える。他の人種との結婚も増えてきている。英国の国会議員となる例も見られる。もちろん、いわゆるガラスの天井があって、インド人はCEOや企業幹部にはなりにくいといった問題はある。ただそうした面を差し引いても、彼らのコミュニティーは、英国社会と価値観を共有し、同化が次第に進んでいるように見える。父親か母親がイスラム教徒であれば、当然子供は家の中において多元文化の中で育つことになる。

人権や民主主義は、人間の尊厳を大切にしつつ、議論を通じてより良い社会を築いていくという意味で普遍的な価値を持つものだと思う。この点、イスラム教は信教の自由を正面から認めてはいない。宗教問題が絡むと、人権や民主主義の普遍性は幾分か相対化される。家の中や社会で異文化の同化が進むためには、議論の応酬を繰り返したり最低限の人権を確保するだけでは無理がある。同じ飯を食うとか、一緒に住むとか、一緒の学校に行くとか、文化という次元をも越えた生活の同化、交流までが必要になる。言葉の定義の問題ではあるが、多元文化主義が、人権や民主主義を越えて、生活レベルでの相互尊重や交流を指しているのであれば、その主義を追求する意義がある し、社会への帰属感につながる。

非暴力という普遍的価値

イスラム教は、他教徒をテロにより排除することを許容しているわけではない。根本的には平和主義を掲げる。そう考えると、非暴力という価値こそ、人権や民主主義より一層、多元文化の中にある社会への帰属感を支える基底を成している。ガンジーの非暴力主義はここを捉えたものであり、インドのような宗教、人種、さらにカーストの対立が厳しいところでは、非暴力の一点でしか折り合えなかったのだろう。しかし、かなり強力な一点である。力によらないという意味で民主主義、人種尊重の第一歩だし、生活の大前提である。

英国はこの非暴力だけではなく、自由主義、民主主義という点でも北アフリカや中東諸国には厳しい態度を取っている。しかし、中国にもそういう態度が取れるのか。サイバー攻撃や監視も一種の暴力だとすれば、非暴力に一貫性が問われる。経済問題を絡めてもキャメロン氏の普遍的価値という看板のメッキが剥がれないのか要注目だ。
(2011年2月22日脱稿)

 

第152回 税と社会保障の一体改革 ― その2

今回の論点

前回は、日本の税と社会保障に関する3つの論点を紹介した。すなわち第一には、働けなくなった人の生計費を国家がどこまで面倒を見るのか(給付の程度)、第二には、そうした面倒を年金、医療、介護にどう分配するのか(給付の方法)、第三には、消費税をどれくらい上げるのか(財源、財政問題)。前回は第一の論点を取り上げた。そして日本に居住しているという条件のみで税金を使って老後を扶助するのか、労働による貢献すなわち給料や所得に準拠した保険料の支払いに応じて扶助するのか。国家が老後の面倒を見る根拠の議論、またその比重付けと最低生活保障との関係及び世代間での収支の合わせ方が重要だとも書いた。今回は第二、第三の問題について書く。

日本政府は、税と社会保障の一体改革の中で、年金の1階部分である基礎年金に税をどの程度投入するか、そのために消費税率をどの程度上げるべきかに議論を矮小化しているように思う。日本では高齢化の進展に伴い、この1階部分を段々と保険料では賄いきれなくなった。税金を1階の半分まで投入する方針が決められているが、それでも足りず、企業年金などからの補填額が拡大しているため、政府は消費税を上げようというのだ。しかし、老後の保障に関しては年金だけではなく、医療や介護も重要な分野である。医療保険や介護保険と年金給付との関係を総合的に考えなければ、結局、何が重要かという議論もなく、足りないから給付を削るとか、財源を増やすといった歳出歳入の均衡だけで物事を決めることになる。これでは国民の福祉のあり方という根っこの議論が不在である。財政当局以外の国民は到底、納得できないであろう。

年金、医療、介護の分配

日本政府の資料によると、年金 : 医療 : 介護の給付総額の比率は、2006年の5 : 3 : 2から2025年には4 : 4 : 2になる。2004年に現役減少に伴う収入の減少分に合わせて年金給付額も減額する仕組みを導入したことから、年金給付額が高齢化社会になるに従って抑制され、医療費は拡大する。介護は介護保険料が一定である限り給付額も一定となっているので増額はされない。英国では考えにくい、風邪でも病院に行く日本の習慣、高齢者の社交場と化した病院、野放図となっている薬の処方による医療費増大をこのままにしておいて、年金給付への税金投入拡大と増税は許されるであろうか。医療費拡大分まで消費税で持つとなると、税率は10%程度では到底覚束(おぼつか)ない。医療の効率化や規制緩和による参入、M & A促進は必要ないのか。併せて病気ではない高齢者の介護ニーズの増大に対して供給が追いついていない現状も、働けなくなった高齢者を国家がどこまで面倒を見るのかという考え方の整理なくしてはケリがつけられない問題であろう。

この点、英国では保守党政権が、病院やプラクティショナーに裁量を持たせる規制緩和案をまとめている。成功するかどうかは議論があるが、規制を緩和し、市場の力でサービス向上とコスト抑制を図ろうとする一つの形であり、こうした議論を日本でもしていくことが必要であろう。

消費税でどこまで面倒を見るのか

次に第三の問題は、消費税率の引き上げで、どこまで面倒を見られるのか。この肝心の議論も菅総理の施政方針演説では言及されていなかった。基礎年金への税金の投入のみなら企業負担分を残して2兆円程度、企業負担分を残さない場合には消費税は10%、介護・医療費増加分も賄えばさらなる増税が必要になる。さらにこれ以上赤字を増やさないとか、赤字を漸次縮小させるという計画を見込めば、その上にまたさらなる増税が必要になってくる。

これまで税率引き上げが困難であった理由を、今一度分析しておく必要がある。一般的に言って、国民は増税を嫌うものだが、支持が得られなかったのは、これまでの政府が埋蔵金や行政改革について十分な説明をしてこなかったせいでもある。事業仕分けもあのように情報を部分開示しかせず、国民に選択肢を見せず、見世物のように判断を下すような手法では、納得ある削減の方法とは言えない。泥をかぶって総理自らが無駄を排除する姿勢が示されていない。だからこそ税率引き上げに対して国民はNOと言っているのである。医薬や介護も含めた公共部門の身を切るような情報公開と選択肢の提示なくして、単純な財政収支の帳尻合わせでは国民は納得しまい。いずれの問題についても、菅総理が言う6月の期限までに納得できる原案を出すことは難しく、政局になるのは時間の問題と思う。

(2011年1月31日脱稿)

 

第151回 税と社会保障の一体改革 ― その1

菅政権の正念場

1月24日の施政方針演説で、菅総理は①平成の開国、②最小不幸社会、③不条理な政治からの脱却、を訴えた。①は環太平洋パートナーシップ協定(TPP)を指しているし、②は税と社会保障の一体改革を、③は反小沢の姿勢を示したものだ。いずれも日本がいわゆる英国病に陥らないために重要なポイントだと感じる。しかし、その内容は、考える視点や何を大事に思って制度改革を行うのかを十分に示していなかったように思う。

政治情勢や政治日程は、言うまでもなく非常に厳しく、経済情勢も予断を許さない。こうした状況の中で、このような大きな問題を、短期間のうちに解決しようとする、理念に乏しいリーダーに委ねざるを得ないことに大きな失望を覚える。ただ少子高齢化による福祉の需要増加、財政危機による原資の不足は、以前から読めていた話であり、ここに及ぶまで十分な議論がないことについては国民の責任も大きい。投票行動を通じてではあるにせよ、この問題を避けてきたつけがあるし、何よりも問題を正面で受け止めて議論していない。もちろん、そうした議論のお膳だてをできない

税と社会保障の論点

マスコミは断片的に問題を取り上げる。しかし大きな改革を行うときには、枝葉末節や目先の利害ではなく、「そもそも論」を一度はしておく必要がある。大きく分けると3つの論点がある。第一には、働けなくなった人の生計費について国家がどこまで面倒を見るのか(給付の程度)、第二には、そうした面倒を年金、医療、介護にどう分配するのか(給付の方法)、第三には、消費税をどれくらい上げるのか(財源、財政問題)である。この根本問題について、菅演説では一切触れられていない。触れているのは、野党も思いは同じだとか、国民も議論に参加して欲しいとかいった手続き論である。ぜひとも中身の議論をすべきだ。

第一の問題は、日本に住んでいる人であれば誰でも老後は面倒を見るのか(=1階部分、困っている人を日本に住んでいるという理由だけで助ける)、それとも単に日本に住んでいるだけではだめで、一定の貢献をしたかどうかで面倒を見るのか(2階部分)という問題である。通常は1階部分が税金で、2階部分は所得に見合う保険料でということになり、各国ともこの両者の組み合わせで年金制度ができている。英国の場合は、前者は金額の小さい公的年金をベースに最低生活保障(一種の生活保護)があり、後者は企業被雇用者向けの一種の厚生年金であるS2Pと確定拠出のステイクホルダー年金(個人年金)を選択できるようになっている。税金負担は小さく、また2階部分も選択制ということで極めて自由主義的である。北欧諸国は1階部分だけでも十分生活できるが、英国や日本では難しい。

ちなみに日本の1階部分の給付額は、月6万6000円である。日本では高齢化の進展に伴い、この1階部分を保険料だけでは賄いきれなくなり、税金投入の方針が決められているが、財源がなく、企業年金などからの補填額が拡大している。つまり現行制度では1階と2階の理念自体もあいまいだから、相互に財源融通するという場当たり的なことが行われている。

税方式か保険料方式かに伴う論点

税金投入なら、不払いや記録ミス、非正規労働者の無年金といった問題がない一方、就労意欲が低下する、在日外国人も含むか否か、という論点がある。また6万6000円では生活保護(月額13万円)よりも安く、相互扶助の概念が崩壊しているとの見方もある。2階部分については、報酬(若いときの所得)比例だけが公平なのかどうかも議論の余地がある。英国では高齢者の資産も給付額決定に際し考慮に入れる(MEANS TEST)べきか否かの議論が長く続いているが、日本でも問題になろう。資産も考慮に入れるなら、資産課税との関係や国民総背番号制も論点になる。財源を税と保険料とするとしても、これらを積み立てて個人レベルにて生涯で収支が合うようにすれば保険料の考え方に沿うが、現在は単年度収支が合うような賦課方式に近い運用、積立金の取り崩しが始まっている。大きな議論がないままになし崩し的に制度を税方式中心としてきて、その裏付けである消費税引き上げができていないのが日本の年金制度の現状である。

次回は、年金・医療・介護の分配問題、消費税と財政再建について書くが、年金だけでもこれ以上の問題がある。短期間での決着は、困難と言わざるを得まい。

(2011年1月25日脱稿)

 

第150回 他人事でない北アフリカ問題

チュニジアとエジプトの暴動

北アフリカの反政府運動が収まらない。チュニジアの革命が、エジプトに広がっている。キーワードは、「長期の独裁権力の私腹」「長期失業と些細な出来事」「ITネットワーク」、「イスラム原理主義と民主主義」である。チュニジア、エジプトいずれの国でも政権は長期にわたり、権力者が子供を後継者にしようとしたり、蓄財を噂されたりしている。一方で若年の失業率が両国とも非常に高くなっている。そして些細な出来事をきっかけに、長期政権と失業への不満が民衆デモや暴動として表に出た。青年層の失業率が25~30%のチュニジアの中部シディブジドでは、失業中の26歳の男性が野菜の街頭販売を始めたところ、販売の許可がないとして警察が商品を没収。抗議のために油をかぶり焼身自殺を図った。エジプトでも低賃金の男性が焼身自殺を図り、大やけどを負うなど類似事件が相次いだと言われている。

デモの拡大にはソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が大きな役割を果たしたと言われている。エジプトでは、民主化運動を支持する青年組織「4月6日運動」や野党勢力ムスリム同胞団が1月25日に大規模な反政府デモを計画。複数の団体がフェイスブックを通じて参加を呼び掛けた。チュニジアでもメッキ氏というブロガーがベンアリ前大統領の演説を皮肉るコメントをユーチューブやツイッターに投稿し、それがフェイスブックにより大衆に情報共有され、さらには共感されてデモ参加者が増えたと言われている。もちろん、これらの媒体による情報が人を現実に動かす前に、長期独裁や失業という実態が先にあった。だが、もはや外出禁止令や集会の禁止、マスコミへの言論統制では自由な言論を封ずることはできないという事実を為政者は思い知ったであろう。そうなれば当面、為政者にできることは軍隊による民衆の行動鎮圧しかなく、流血の事態になる。長期政権の腐敗や失業という根っ子の問題を解決しないと、言論統制という名の時間稼ぎができないまま流血に突入するか政権を返上するしかない、という時間軸の短縮化は大きな変化だ。

イスラム原理主義と民主主義

その上で注目すべきは、チュニジア、エジプトともにイスラム圏としては穏健な親欧米国であるということだ。アフリカ発展の妨げは、独裁者の私腹肥やし、すなわち地下経済である。開発経済がこの段階を脱し、産業が育成されないと、日本やアジア各国が成し遂げたような成長はない。逆に地下経済が表に出れば、外国からの投資も期待できる。そこで問題となるのが、イスラム原理主義と欧米や中国の思惑である。米国や欧州は独裁者の追放と民主主義の確立は歓迎するが、イスラム原理主義、反イスラエル政権には反対する。中国やロシアはその反対の立場を取るし、イランなどの原理主義国はこれを勢力拡大の機会とするであろう。こういうパワー・バランスが介入すると、経済的自立は遅れてしまう。独裁権力の追放が、別の独裁権力か宗教権力に成果を取られてしまいかねない。産業育成の目処がなければ、独裁政権を倒しても民主主義の確立は覚束(おぼつか)ない。アラブの先進国エジプトがイスラム原理主義と一線を画し、部族主義を超えられるかどうか。アラブ全体の試金石だ。日本外交の出番はここにある。

実名のフェイスブック

ただ、日本のできる援助は産業育成までで、その先の民主主義の確立までは難しい。日本自身も立派な産業があるのに、民主主義の未成熟に苦しんでいる。

日本は先進国の中ではフェイスブックがあまり普及していない国だという。その理由はフェイスブックが実名でネットワークを広げる媒体であるためであろう。日本人は実名をさらすことに抵抗があるし、言論を通じて公開で他人と切り結ぶことに慣れておらず、好きではないのだろう。しかし、世界のSNSはそうではない。自らの言説に責任を持ち、他人とコミュニケーションすることは民主主義の大きな前提である。その前提が弱ければ、産業ができても民主主義は成立しない。フェイスブックでの呼び掛けに民衆が呼応した北アフリカの諸国では、産業さえ発展すれば民主主義が確立する可能性があるのではないか。

一方、産業が停滞する日本では、政治が混乱し、また無能化しつつあるように見えるが、フェイスブックでデモを呼び掛けても参加する人は多くないのではないか。日本が人口減少などを理由として経済成長を果たすのが難しくなったとき、議論ではなく、英雄待望論が起こり、政党政治が独裁政治に簡単に取って代わった歴史を思い出す。北アフリカの出来事は他人事ではないと思う。

(2011年1月31日脱稿)

 

第149回 原油、石炭、小麦高騰の年

原油価格と金融緩和

下のグラフは、英国内のガソリンと家庭用ヒート・オイル(灯油)を含む石油価格の推移だ。ポンドが安いという影響もあるが、3年前の夏のピークを超えるレベルまで価格が上がっている。電気料金などへの反映は必至であり、VAT引き上げともあいまって、英国の物価には強い上昇圧力がかかっている。イングランド銀行のビーン副総裁はこの点に関して、インフレについては世界的な供給余力(供給能力=需要)が大きいから当面は心配ない、最近の穀物価格上昇はもっぱら、例えばロシアの干ばつなどの供給サイドにおける一時的な要因に過ぎないと、わりと楽観的な見方を最近の講演で述べている。

ガソリン・灯油を含む石油価格

もちろん、中国を始めとする新興国の内需が拡大していることが、実需面で大きな影響を与えていることは言うまでもない。しかし、昨年来の原油価格の上昇はそれ以上に急ピッチであり、ヘッジファンドなどからの商品先物市場への資金流入が増えていることを考え合わせると、やはり金融緩和の影響があると言わざるを得まい。中央銀行のエコノミストたちは、値上がり期待による在庫積み増しや仮需がいずれ剥落(はくらく)するものと楽観的だが、金融面のファイナンスが付くと、3年前のように価格が高騰する可能性があることを過小に評価していないか。また金融相場であるとの認識がないことにも違和感がある。

バーナンキ米連邦準備理事会議長は、原油など資源価格の上昇は先進国の金融緩和と関係ないと言うが、到底信じることはできない。金融緩和を続けているということや、続くと予想させていること自体が、資源への投資に安心感を与えていることは市場では常識である。こうした常識が長続きすると、ある日価格が急騰し、バブルとなって、その価格は急落する。そして、そのこと自体が実体経済へのノイズになる。サブプライム・ローン問題を経てきているというのに、金融が実体経済を振り回すという害悪への問題認識や処方箋がないとは、呆れ返ってしまう。

原油価格上昇の影響

原油価格が上昇すると、物価全般の一段の上昇が予想される。エネルギー価格の上昇は広範な影響があるので、価格の転嫁は比較的理解されやすい。問題は消費者にも転嫁されて消費者物価が上がるのか、流通段階などで吸収されて卸売物価上昇にとどまるのか。この点は、国の経済構造によって差が出ると思われる。

英国のように、自由競争が落ち着き、既に産業内での競争が盛んでなくなっている国では、容易に消費者に転嫁が図られやすい。一方、日本のように自由競争がある程度はあり、しかも不採算企業が温存されている国では、企業同士が寡占状態になっても赤字覚悟で消耗戦を行うことで、消費者物価には相対的に小さな影響しか出ないことも考えられる。もちろん競争が一段落したところでは、英国のように寡占企業が価格支配を強め、値上がり額を丸々消費者に転嫁することもある。英国在住者にとって今年は、経済復調の兆しを感じられないまま、物価上昇の影響を受ける年になるのではないか。

金融政策の限界と金融不信

それにしても、サブプライム問題以降、金融が実体経済を振り回すということに対する企業家の懸念や怒りがかなり大きなものになっていると感じる。ロンドンの外国為替市場も、自由な競争があるようでいて、大手インベストメント・バンクが寡占的になっている。ほとんどの金融機関や企業は、そうした大手の一次プレイヤーの客である二次プレイヤーに過ぎない。

中央銀行や各国当局は、介入や為替相場への批判をするくらいなら、王道である経済を立て直すことに注力すべきだし、さらには市場の寡占構造に、国内はもとより、国際金融市場でメスを入れるような政策こそ望まれるのではないか。プレイヤーが多ければ、少数者の投機的な動きはいろいろな方向の取引により裁定され、価格が安定すると思われる。そうしたことを考えていない金融当局は、いずれスポイルされるのではないか。

(2011年1月12日脱稿)

 

第148回 2011年「日本病」を排す

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

これから2、3年の日本経済の状況

日本経済は、一昨年のサブプライム問題、リーマン・ショック後に続いた世界経済の冷え込みからの急回復が一段落してきた。今年はダイナミックな景気回復は望めず、回復は極々緩やかなものとなるだろう。その理由の第一は、先進国経済の停滞だ。米国の不良債権処理は、日本も経験したようにその規模の大きさからもたつき、また過剰消費への反動から、米国の消費は極めて緩慢な回復しか望めない。長期失業者の増大はかつてない程で、その原因については米国内でも様々な解釈がなされているが定説はない。筆者は消費が伸びないのを見て取った企業経営者の国内需要に対する慎重な見方が、固定抑制すなわち雇用の抑制に繋がっているのだと思う。

このため米国の金融緩和は続き、日本も緩和継続だと日米金利差がゼロなのでドルを買う理由はなく、円高基調は容易に変わるとは思えない。一方の欧州は、南欧、特にスペインの不良債権問題に焦点が当たり、ユーロという枠組み自体をめぐる議論が盛んになると予想され、経済の浮揚は期待できない。先進国の牛歩に対し、中国を中心とするアジアやインド、南米などは高成長を遂げるだろう。それを見込んで先進国の金融緩和によって生まれたマネーは原油や食料などの資源や資源国通貨、新興国不動産、経済牛歩と対照的に先進国不動産へと流れ込んでいる。いずれもバブルの可能性があり、特に中国の不動産市況は要注意である。

日本経済の回復が極めて緩慢と予想する第二の理由は、人口減少下での内需の停滞である。この2、3年で日本の大企業は海外展開を加速させる一方、国内向け投資は相対的にマイルドなものになる。企業は損益分岐点を下げようと人件費、交際費を抑制し、その結果、卸小売、流通、サービス、建設など内需産業はM & Aが進み、中小企業は海外に出るかどうか、出ないなら内需をどう開拓するか、廃業も選択肢に含めた生き残りのための模索が始まっている。

凪の後はどうなるか

2、3年後、「凪」が終わり、経済の状況が変化することが予想される。米国民の過剰消費の是正は貯蓄を引き上げ、この貯蓄が設備投資に回ると、もとよりイノベーションを起こす潜在力が世界で最も大きい米国の産業競争力は、急回復するに違いない。日本の経済的なリードはどんどん小さくなっており、さらには高齢化で日本人が貯蓄を取り崩すので日米貯蓄率が逆転し、ついには日本が貿易赤字に転化すると、円安、輸入物価高、金利反転も考えられる。すると企業の原材料費負担や金利負担などの上昇が予想され、企業、そして表裏一体の金融機関も生き残れるかどうか、優勝劣敗がついてくる。

一方で、政治行政も転機を迎える。2012年からは07年の大量退職者の年金受給が始まり、日本国内は15歳から65歳までの生産年齢人口がこの数年で急激に減少する。高齢化社会が進み、行政コストが高まり、いよいよ税制、年金その他各種制度の連続的な見直しが不可避になるだろうが、金利が上がり国債発行に大きな圧力がかかると、誰の目にも財政の困難、年金介護制度の改革に伴う痛みが可視化され、政治的混乱に陥りかねない。戦前はこうした状況で政党が信頼を失い、消去法で軍部が人気を取り台頭した。だからこそ、そうならぬように、「凪」が終わるときに備えて、今、具体的な準備を始めるべきだろう。日本は英国病を他山の石として、「日本病」を防げるかどうか。

日本病を排す

大企業が海外の生産を強化する中で、中小企業はどうしたら生き残ることができるか。生産や売上が減るときには固定費比率が上昇するので、今はリスクを取らずにじっとコストを抑えるというのも一つの方法である。本当にその設備や機能は必要なのかどうかを見極めるには、自社の強み弱みを従業員や金融機関と徹底的に議論して決断し、彼らを説得するプロセスが不可欠だ。キーワードは共感であり、コミュニケーションであろう。金融機関と企業との間にも同じことが言えるし、企業と政府の間にも言える。政府にとっては、人口減少下で社会制度を総点検し、その情報を公開し、政策の選択肢を示すときだ。国家社会主義、日本株式会社的な成長戦略は危うい。過当競争を排除するため資源を不採算企業から採算企業に移し、できる中小企業経営者が市民ニーズにあった商品やサービスの供給を可能とするための取引法や独占禁止法レベルまで踏み込んだ制度改正や規制緩和が望まれる。

さらに喫緊の課題は、高齢化で発言権が相対的に小さい若者、年少者との対話であろう。若年の非正規雇用者の雇用確保や教育訓練は、確実に失業者を減らすためにぜひとも必要である。日本病を排する結論に、ウルトラCはなく、「自分の身近な人と徹底的に議論して、自分で考えるという作業を日本人皆が行い、考えたことを行動に移す。そして、そういう人の足を引っ張らない」という当たり前のことしかない。実行するための鍵は、我々日本人に染み付いた「お上頼みの根性」――中央頼み、大企業頼み、さらには米国頼み――と「人間を官、大企業、東京、米欧への距離の序列で見る感覚」を払拭し、徹底的な議論とそれによって生まれる共感=地域のコミュニティー感覚を復権させることではないか。

(2010年12月10日)

 

第147回 ウィキリークスと尖閣諸島映像流出の世界

2つの象徴的な情報流出事件

今年は、従来なら秘密にされていた情報が、内部通報者の密告、暴露によりインターネット上へ公開され、日本や世界の政府当局が震撼する事件が注目された。

中国漁船による尖閣諸島沖での海上保安庁巡視船への体当たりの映像が、事態を非公開にしようとした日本政府に反発する海上保安庁職員の手でYouTubeに載せられ、公衆の知るところとなった。その後、日本政府は情報の公開を余儀なくされ、逮捕された海上保安庁職員は、国家公務員法上の守秘義務違反を問われず、不起訴の公算が強くなっている。

同様に、米国政府と在外公館との公電のやりとりという外交機密が、ウィキリークスというインターネットのウェブサイトに載せられた。ウィキリークスは、中国政府始め人権を抑圧している政府の秘密を内部告発により暴露することをそもそも目的としている組織である。その活動により、中国共産党の幹部が自国の国内総生産(GDP)統計は当てにならないと言ったとか、同党常務委員がGoogleへのサイバー攻撃を指示したとかいった公電が、世界中に知られることになった。米国政府は、米国や同盟国の安全保障に悪影響があるとして、ウィキリークスを強く非難し、ネットのプロバイダーへ圧力をかけているほか、資金などの搦(から)め手からウィキリークスという組織自体の壊滅工作を続けていると報道されている。その上で、外交官の身の安全を保証し、明らかになった秘密をもう一度再構築するために外交官を配置転換し、在外公館の引越しなどを検討するそうだ。

政府当局の対応のまずさ

しかし、日米両政府の対応は、自らの非を棚に上げているのみならず、その非自体がむしろ時代錯誤になっている。第一に情報の漏洩(ろうえい)は、情報管理の杜撰(ずさん)によるものである。その杜撰は、管理している政府側に第一次的な責任がある。その点についての積極的な反省と再発防止策の策定を早急に行う必要がある。国家公務員などによる秘密漏洩の厳罰化ということよりも、情報を知らせる範囲の妥当性、その範囲からの漏洩の追跡可能性を確実なものとすることがまずは求められる。しかし、それだけでは十分ではない。IT技術、中でもインターネットの発達は、情報が瞬時に流通することを意味している。情報を囲い込むことにより政府などが優位な立場に立ち、またそうした国民との情報格差により為政を進めることが可能な範囲が非常に小さくなっているという現状への認識が甘すぎないか。

こういう時代に必要なことは、情報の囲い込みの強化ではない。むしろ情報の積極的な開示である。確かに政府と在外公館との間の公電などは外交機密が多数含まれ、公にすると外交関係に悪影響を与えるケースが容易に想定できる。しかし、外交官でなければできない外交の範囲自体は従来よりずいぶんと小さくなっているのではないか。今では、NPOや企業の取引の中に外交的な要素が随分と入っている。まして、軍事外交や治安などと関係ない経済関係については、政府の活動で秘密とすべき分野は限られているのではないか。

政府当局、国家のなすべきこと

「WIKI」という言葉は、主体的に参加する大勢で助け合って、よりコストの安い形で、緩やかな信頼関係の下で、共同作業で情報をシェアしようとするソフトウェアのことを意味している。その仕組みは、任意の人的ネットワークが国境を越えて同時に結び付くという意味で、国家や国境概念を一部ではあるが否定する力を持つ。そうだとすれば、国家の対応策は、その逆手を取るほかない。

すなわち、情報を原則公開し、政策選択案を複数提示する。そうして国民の関心を引き、議論のための材料を提供することで、国民を政策選択過程に巻き込むことこそ、WIKIに対抗する手段として有効だ。情報を政府が公開すれば、情報漏洩、暴露という概念自体が消滅する。情報を積極的に公表し、隠しごとがないことを担保することで、受け手は安心して、確信を持って政策選択ができるので、政策に揺るぎがなくなる。いわば天日にさらして、自然に日光消毒を行うようなものだ。そしてそれが有効に行われるために、自然に政府から発信される膨大な情報を整理する業者が必要になるだろうし、本来マスコミはそういう役割を請け負っていたはずである。この方法により、一次的に情報を入手する政府自らが公開する情報を決めるという利益相反がなくなる分だけ事態は改善すると予想するが、如何だろうか。

(2010年12月9日脱稿)

 
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