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Wed, 10 December 2025

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第146回 「幸せですか」のその前に

幸福を測る難しさ

フランスのサルコジ大統領は、不平等についての研究を行うセン教授、金融仲介理論のステイグリッツ教授の2人のノーベル経済学賞学者を使って、幸せの定義についての研究をさせている。オバマ米大統領も3人の「幸せ専門家」を高官に登用した。英国ではキャメロン首相の意を受けて、国民統計局(ONS)が「Subjective Well-Being」と幸せを定義し、国内総生産(GDP)を超える、より広い、主観的な尺度の研究やアンケート調査を始めている。この調査では、「今幸せですか」と尋ねて、「Very Happy」「Happy」「Neither Happy nor Unhappy」「Unhappy」「Very Unhappy」の5択で回答を求めることで幸福度を測るそうだ。

南アジアの国家ブータンでは、GDPではなく、国民総幸福=Gross Domestic Happiness(GDH)を指標にしており、最貧国ながら幸福度は世界一だという。先進国は、今やどこも景気が悪い。英国に至っては、予算削減で景気が一段と冷え込む公算が高く、GDPのみで幸せを測るには、政治的には決して良い状況ではない。キャメロン首相は「GDPだけが重要ではなく、他の指標も見るべきだ」との訴えを、国民に耐乏を要請する道具に使うのではないかとの冷ややかな見方もある。

もとより幸福とは主観的なものであり、それを客観的に計測することは難しい。しかしながら、言うまでもないが、GDPだけで幸福を測ったり、政治的にも経済成長のみが課題となるというのも、真実ではない。では、どうすればよいか。主観的な分野についての集計を行う前に、まだするべきことが多く残されている。

まずはGDP統計の拡充

現在のGDP統計では、いまだ対象となっていない分野が非常に多くあることに注目したい。GDP統計は、国連で標準化作業が続けられているが、その精緻さや適用範囲は各国により異なる。例えば、通勤電車の混雑による不快感は計測外である。会社におけるハラスメントのような主観的なものを金銭的評価することも非常に難しい。ただ、そうした感覚や主観に関わること以外でも、時代の変化により金銭的評価をすることが適切になりつつあると考えられる活動や費用で、GDP統計には反映されていないものが数多くある。例えば、土地の価格を算出する際に、土壌汚染の処理費用は必ずしも加味されない。NPOによる無償活動は、GDPに反映されていない。主婦の家事労働も然りである。二酸化炭素(CO2)の排出による環境破壊も、定量化はなされていない(難しい問題であろうが)。

主観的な指標をいくつも立てることに貴重な資源を使うよりも、まずは、金銭的評価ができる事項について、統計化を試みることの方がより生産的と思う。

GDP統計拡充の効果

こうした基礎的な会計、統計の整備は一見地味に見えるが、世の中を大きく変える可能性がある。先進国の経済は行き詰まり、各国は低成長にあえいでいるが、こういうときは、基礎的な制度そのものが時代に合ったものであるかどうかを改めて検討することが、回り道のように見えて、結局は近道となる。

統計拡充の過程では、必ず世の中の実態を調べることになる。統計は過去の事実を示す。言わば、歴史の一つの再現方法である。また、世の中が多様化すると共に、統計を行う上で集計や平均だけでは十分ではなく、散らばりや個体の状況も合わせて調べる必要が出てくる。そのリサーチの過程が、世の中をあぶり出すことになる。

そして大事なのは、そうして世の中の実態を示す統計ができれば、対象となる商品、土地などへの市場での評価が変わるということだ。資本主義においては、このメカニズムは大きな効果を持つ。モノやサービスに適正な価格をつけることができるようになると、それまでの無駄を排除できる。価格変化は人々の行動を変えていく。だからこそ、統計は大事なのである。

英国の保守党と自民党の連立政権は、そしてもちろん労働党も、大きい政府か小さい政府か、NPOなどを社会の公的な役割に取り込めるかどうか、という抽象論をしているときではない。まして主観的な幸福を測るなどという不可能に挑むことなど意味がない。政府そのものが、きちんと社会変化を捉えた政策を立てるための情報収集を行い、その政策を国民に示しているかどうか、という当たり前のことこそ問われていると思う。

(2010年11月23日脱稿)

 

第145回 生活シーンから考える - 鷹と龍と象(その2)

パワー・ポリティクスの形

前回、米国と中国の政治経済力の拮抗、インドの台頭について書いた。極東情勢、特に朝鮮半島の情勢は、まさに日露戦争や第二次大戦前のパワー・ポリティクスの様相である。こうした中で、日々のニュースだけを見ても、日本に関する情報はどんどん少なくなっている。むしろ、宣伝などが上手な韓国のサムソンや現代自動車の情報や広告が目立つ。

日本は、経済専一の国としての運営をしてきたのだから、経済の一流性が相対的に小さくなっている以上、その分、扱いも小さくなるのは当然とも言える。経済大国としての発言権を前提とした上での外交を目指し続けるのかどうかについては、日本国内で議論がなされているが、内需の縮小を前にして、大企業の海外展開や、自治体も含めた国ぐるみの海外営業という以外に大した戦略もなく、政治の混乱は目を覆いたくなるほどである。

しかし、今回のパワー・ポリティクスの形は、第二次大戦前とは違っているとも感じる。何が違うのか。「市民」の存在を強く感じる。この言葉には、政治学や政治史では「国家や社会に流されない自立した人」という意味があるが、こうした額面通りの「市民」は、どの国でもそう多くは存在しない。しかし、たとえ市民がマスコミに影響され、プロパガンダ政治に翻弄され、迎合し、当局に踊らされる存在であっても、その市民の意向を、中国を含む時の政府、権力は無視できなくなっている。

市民の力の源泉

その理由は、まずは食えない人が非常に少なくなっているということである。衣食足りれば礼節を知り、政治に関心を持つようになり、自分たちの国や暮らしの在り方について発言したくなるのは当然である。女性、高齢者、学生など、従来は生産に直接携わっていなかった人が、社会に出つつも時間的な余裕を持つようになっている。

そしてより重要なのは、インターネットを含む情報通信技術(ICT)の発達によって、情報が世界へ広がる速度が非常に速くなり、またデータベースの大型化、電子回路の処理速度の飛躍的向上により大量の情報の保存とその迅速な取り出しが可能になったことである。権力や権威が、情報隔壁の価値を保つことはもはや不可能になった。日本の海上保安庁が記録した中国漁船衝突場面の撮影映像がYouTubeに流出したことも、昔ならば考えられないことである。

こうした情報の均てんはこれまで大きく世界を変えてきたし、今も同じように大きく世界を変える可能性がある。活版印刷の技術により、古代から中世に至るまでに書かれた多くの本が手軽に読まれるようになった中世には、修道院や大学、政治権力に独占されていたギリシャやローマの古典が広く読まれることで、15~16世紀のルネサンスを足元から支援する基盤となった。また聖書が普及すると、宗教改革が起こった。情報の流通経路の変化は、情報をコントロールしていた中間の媒介者を中抜きにする。政治的言論について言えば、中央政府、大企業、大学といったものの価値は、一気に低下しつつある。これまで媒介者にデッドストックされていた知が解放されると、市民は一段と力を発揮できる。

生活シーンからの発想

パワー・ポリティクスの次元でも、こうした状況を踏まえて、日本の外交や通商の在り方を考えていくべきである。単なる軍事力とか経済力が相対的に小さくなるというだけで、中国やインドとの交渉で弱腰になる必要はない。政治面では、人権や民主主義という普遍的な価値に対する圧政は、もはや市民が許容しない。こういう価値を害するような中国の主張に対しては、断固として対応すべきである。経済面でも、高齢化社会に対応した介護ロボット、夢かもしれないがタケコプターなど、市民 の生活のシーンを考えた製品やサービスこそ世界をリードするもので、そのヒントは、日本人の生活の中にある。生活の質については、欧州に一日の長があるように思うが、日本人の中にある簡素、正確、親切という美意識は、世界に通用するものだ。

市民の情報の共有もこうした認識の共通化に資するなら、企業の商品・サービスに反映できるし、ひいては大きな政治や外交の力になるだろう。生活シーンからの理念は共感を呼ぶ力がある。ただ、ICTが、煽情的な言説に迎合してそれを増幅させる道具として使われるだけならば、衆愚政治になる。結局、向こう三軒両隣の普通の人こそが、日本や世界の行方に大きく関わっていると強く感じる。

(2010年11月9日脱稿)

 

第144回 鷹と龍、そして象

鷹と龍と象

中国の経済面での成長と影響力が日増しに高まっていることから、欧米の警戒も日々強まってきている。中国人も今までは「まだまだ自分たちは、日本や西欧には及びもつかない」と控えめな態度であったが、最近ではコンプレックスの裏返しとも言える傲慢な態度を取る人が増えてきた。国際会議などで、鷹の米国と龍の中国が対峙する様は、米ソの対立の再来を思わせる。この動きに呼応するように、「中国は、米国や往時のソ連のような大国の品格と寛容を持つべきだ」との考え方が各紙に書かれている。

国家の品格と寛容は、関係国が容易には追いつけないほど大きな政治力、軍事力、経済力を持つ超大国が見せるものであって、拮抗している状態では必ずしも期待できない。期待するとすれば、為政者の人徳というものである。過去には外国の要人たちからの尊敬を集めた周恩来(しゅうおんらい)という人がいたが、彼でも国内的な権力基盤維持のためには、いろいろな政治的な手管を使わざるを得なかったと言われている。

尖閣諸島の問題や最近の反日デモも、胡錦濤(こきんとう)氏から習近平(しゅうきんぺい)氏への権力委譲を前に、土地バブルなどにより拡大する貧富の格差や企業での不正、役人の蓄財などで鬱屈(うっくつ)する民衆の不満を外に向けるためのものとの見方が専らである。中国と対抗するように10月、象のインド・シン首相は、経済連携協定(EPA)を結ぶために日本を訪問し、さらにはベトナムなど中国を警戒する諸国を相次いで暦訪する。パワー・ポリティクスの時代の再来と言えよう。

鷹の経済

こうしたポリティクスの行方に影響があるのが、経済情勢だ。本欄で繰り返し指摘したように、米国の経済では、不良債権問題が未解決のままである。住宅ローンの支払い延滞は解消されておらず、債権回収業者の住宅差し押さえに対する批判が相次いでいる有様だ。差し押さえ業者の瑣末な手続きミスがロボサイン(内容を確認しない機械的な署名や捺印)だと批判され、債権回収業者が住宅差し押さえを凍結するという異常事態が全米に広がっている。住宅を奪うことについては批判が非常に強く、銀行は住宅ローンなど消費者ローンに一段と慎重姿勢を示し、これが消費の盛り上がりを抑えている。さらに米国民の年間貯蓄額は、足許では約7000億ドルとサブプライム以前の倍だ。米国の消費が盛り上がらない訳である。

連邦準備制度(FRB)は、今回は本気で金融緩和をすると言っている。米国の金融指標をみても、このままでは米国の金利が再上昇するのは少なくとも来年は無理で、再来年も後半になりそうである。オバマ政権の11月の中間選挙での敗北は確実になってきた。苦境の即効薬は、元や円相場の切り上げである。欧州でユーロ高の状況下、ドイツ経済は絶好調(その分、他国は苦しい状況にあるが)であり、米国もマイルドなドル安ならOKということだろう。

龍の戦略と運命共同体

中国は日本のバブルを研究するなどして、不動産バブルの崩壊だけは避けたいと考えている。5~7月には沿海部での不動産取引が非常に低調になったが、現在では落ち込みは回復しつつあり、共産党の持続的な成長を維持しながら、バブルを少しずつ冷やしていく政策の第1段階は奏功しつつある。けれどもバブルを経験した日本から言えば、そうした政府のコントロールが、逆にマグマをため込ませて、より一段と深い調整のためのリスクを市場に負わせるという側面がある。日本人と異なり中国民衆はデモ、抗議活動としての散歩、ネットで意思表示をし出している。不動産価格を起点とする経済の調整のリスクを市場が警戒する状況が続くであろう。

人民元については、米国からの圧力ではなく、国内情勢を見極めつつ自主的に切り上げることは間違いない。その結果、鷹と龍とは経済的には実は不可分の運命共同体になっていくと認識することが重要だ。グローバリゼーションは、貿易と金融と政治を通じて世界経済を同期させ、運命共同体にしてしまう。米ソは政治軍事的には運命共同体であったが、経済は別物だった。米中は政治軍事的にはもちろん、経済的にも運命共同体である。

欧州や日本、アジア諸国は、それを前提に運命共同体と付き合いつつも(付き合わないと生きてはいけない)、彼らの経済、政治の大きな振り子に巻き込まれないという知恵が必要になる。第一次大戦前からの米国のモンロー主義のような孤立主義はもはや不可能だが、非超大国は今こそ自主独立のための備えをすべきであろう。次回は欧州や日本の知恵について考えたい。

(2010年10月27日脱稿)

 

第143回 悪人とギャンブラー ―銀行と証券会社

ケーブルの演説

自由民主党のビンス・ケーブル・ビジネス・改革・技術相は、9月22日のリバプールでの党大会で、銀行の経営者のことを「巨額のボーナスを手にしながら、英国経済に打撃を与えた悪人とギャンブラー」と痛烈に批判した。国民の気持ちを代弁したとして自由民主党の支持率回復に寄与したと見られている。

しかし最近、大手銀行グループの代表に、まさにその「悪人」が就任することが相次いで発表された。すなわち、伝統的な商業銀行部門(預金と貸出で稼ぐ部門)ではなく、投資銀行部門 (市場による株式や債券での資金調達の仲介手数料、売買手数料、投資物件を見合いにした証券の発行=証券化による手数料、企業やファンドへの投資などで稼ぐ部門のこと。「インベストメント・バンク」とも呼ぶ)の出身者である。バークレイズ・グループは投資銀行のバークレイズ・キャピタルのCEOを務めるロバート・ダイアモンド氏、HSBCグループは投資銀行部門責任者のスチュアート・ガリバー氏だ。

そもそもこうした投資銀行部門がサブプライム・ローンを証券化して販売し、その他企業の倒産リスクに対する保証を証券化して売買そして転々流通させることによってリスクが顕現化したときに、投資銀行やその持ち株会社が大きな損を被った。こうした投資銀行の幹部の年収は円換算で億単位であったし、筆者の経験では、それはそれはゴージャスなパーティーが、ロンドンのホテルやホール、バブルな日本食レストラン、果てはお城やナショナル・ギャラリーなどの美術館でも毎晩繰り広げられていた。ケーブル氏に言わせると、懲りない「悪人の復活」となるのではないか。

ボルカー・ルール

米国は、欧州や英国と事情が少し異なる。同国では、預金という期間が不定または短いお金を預金者から預かり決済業務を担いつつ比較的長めの資金を企業に貸し出す商業銀行=バンクと、投資家の資金を市場または企業につなぐ手数料で稼ぐ証券会社=インベストメント・バンクは、法律により裁然と業務分野が分けられている。

ただ金融自由化の中で、米国でも持株会社の下に銀行と証券会社を共に持つことが許容されるようになった。銀行の低所得者向けサブプライム・ローンを証券会社が市場で売ったまでは良かったが、その最劣後部分(倒産があると保護を受けられない部分)を銀行または証券会社自らが買っていたため、大きな損をグループ全体で抱えてしまった。この反省から、ボルカー前米連邦準備制度理事会(FRB)議長の提案を受け、米国では銀行は証券会社が扱うようなリスクの高い証券化商品への投資を禁止し、銀行と証券会社の間の情報のやり取りも厳しく規制するという法案が通った。

つまり、もともと米国では、投資銀行のゴールドマン・サックスやJPモルガンなどは大きな商業銀行を有しておらず業務分野のすみ分けができていたのだ。しかし、持株会社方式によってこの両部門が段々と相乗りになってきた頃に、ボルカー・ルールによって、再びやや厳し目に峻別する方向にかじを切った形になっている。

銀行でも証券会社でもなく

米国の持株会社方式と、英国や欧州のように一つの会社で銀行部門と証券会社部門を兼営することが認められているユニバーサル方式のいずれが優れているのか。実はボルカー・ルールを持ってしても、持株会社の下にある以上、銀行と証券会社の区別を行う意義は、リスクが双方に及びうるので限定的である。その意味では、持株会社方式とユニバーサル方式に大差はない。問題は銀行と証券会社はなぜ違うのかであって、その点の議論が当局でもあまりなされていないように思う。

その答えは、銀行は預金という短期の借り入れが原資だということである。だから銀行預金は通貨として使われている。一方の証券会社の仕事は、お金を預かるが、これは投資のためのもので、右から左にお金を流す手数料を取るに過ぎない。証券会社の自己投資もあるが限られている。

決済が滞って通貨が機能しなくなるため、銀行をつぶすのは難しい。ボルカー・ルールで大きい銀行もつぶす手順を定めたが、実際にはまず無理である。社会的な混乱が大きすぎるからだ。行うべきは、銀行以外の企業やNPO、個人へ金融業務を開放し、銀行の通貨独占を崩すことであろう。金融行政はこうした発想をすべきであり、銀行と証券会社という業態のすみ分けの問題よりも通貨のあり方に関する論議がもっとなされていい。悪人が復活するかどうかよりも、銀行の通貨独占という制度の問題こそ、悪人とギャンブラー問題の処方箋である。

(2010年10月11日脱稿)

 

第142回 他国からの投資への対応

他国から英国への投資

一般的に、先進国で自国産業が振るわない場合には、他国からの投資を呼び込むための各種優遇策が取られる。土地の供与、税金の優遇、規制緩和などが代表的なものであろう。ロンドンも世界から金融機関を呼び込むための各種措置を用意したし、サッチャー政権以来、英国政府が工場進出について税金減額や補助金拠出を講じたのを受けて、英国に日産など日本の製造業が進出したのはご存知の通りである。

自国に産業が十分にない場合に、外国資本を誘致して自国民の雇用の場を確保することは政策的にありうることであるし、どの国も行っていることであるが、英国は、外国資本を呼び込む際にもう一つ工夫をした。すなわち、1975年の土地公有化法、76年の開発用地税法により、新規開発の土地にかかる開発利益(転売する場合の転売価格と取得価格の差)はすべて国または地方公共団体に納めることが決められた。労働党政権下での立法ではあるが、80年の労働党と保守党の合意により、この土地値上がり益は国または地方公共団体の収入とすることが基本的には追認された。

こうした合意は、土地はすべて王様のもので、国民はその利用権を持つに過ぎないというイングランド及びウェールズの法制史を背景としている。土地は公共のものとの発想から、他国からの投資があった場合、その投資目的の活動自体による収益は投資者に帰属するとしても、その活動による土地や建物(英国では土地は独立した不動産ではなく、建物と一体である)の価値の増加分は、英国と地元の自治体に帰属することとなる。しかも地方自治体は土地開発規制について強い権限を持っており、投資者は土地利用計画を作らなければ開発ができない。その計画の作成に当たっては地域住民との協議を何回も経て了解を得る必要があると言われている。

要すれば、「土地は公共財」という、歴史的な経緯を背景とした考え方を基に、国や地域への開発利益の還元と開発内容の住民との合意を法制化し、歴史的な街並みなど環境との調和を期しているのである。土地利用計画の作成に何年もかかるということで投資家の不満は強いが、それでもプロセスの明確化と住民参加が貫徹されていることは大事なことだと思う。

中国からの日本への投資

それにつけて思い起こされるのは、中国マネーの日本への投資に対する日本側の意識の低さである。中国は現在、不動産価格抑制の観点から金融を強力に引き締めており、上海など沿岸部での不動産取引はほぼストップしていることに加えて、元高の恩恵もあって、中国人の富裕層は日本の不動産や企業への投資を物色している。ドラマ「北の国から」が中国で放映されると、雪に憧れを持つ中国人が北海道の別荘を購入し出したというのは有名な話であるし、福岡などでの高級マンションの一棟買い、雲仙、阿蘇など温泉地の旅館への投資、中国人観光客の日本への入国拡大を見越した空港周辺土地の物色、山林購入など、金融関係で聞く話には枚挙に暇がない。

この点を自治体関係者に聞いたところ、各県の土地担当部署でも、登記簿に中国人名義が急増しているとの認識が全くなかったという。日本の土地法制度はフランスから輸入したもので、土地所有権は絶対で、公共の利益の観点からの制約は限界的なものに留められている。当然ながら、開発利益を国や地方公共団体に納める義務もない。中国の土地制度は共産主義下ではあってなきものであったが、香港返還を機に、中国政府は香港で施行されていた英国の土地制度を徹底的に研究したという。土地は国家のもの、利用権は売買可能ということで、共産主義という側面は否定できないものの、現在の中国の土地制度は、英国の制度と類似したものとなっている。こうした国からみると、如何にも日本民法下の土地所有権は自由度が高く、よって日本の土地は彼らの思うように乱開発されるリスクがある。この点の危機意識を、日本政府や地方自治体はもっと持つ必要があるのではないか。

特に山林は要注意である。彼らの狙いは水だ。人口が増え続ける世界では水資源が貴重なものであることは広く認識され始めているが、日本では土地を買えば、その土地の上下に何キロ進もうとも、そこは所有権者の所有物となる。そして、地下水脈は広範囲にわたってつながっている。名水の近隣土地からくみ上げた水をペットボトルに入れて中国へ輸出することを止める手段があるのかどうか。世界からの投資受け入れの先達である英国の知恵に学ぶべき点は多いと思う。

(2010年9月28日脱稿)

 

第141回 大きな社会とトーリー不況

キャメロンの経済政策

英国の連立政権は4カ月のハネムーンを終え、この秋に最初の正念場を迎える。間もなく、公約に掲げた予算削減の各省別の配分が公表される。総論に賛成でも、各論になると大きな反対論が出ることは、7月に先行した学校予算削減でも実証済みだ。こうした各論反対をどう説得し、国民に納得させるのか。首相や連立を組む副首相のクレッグ氏が、政治家としてプロかアマかを判断する試金石になろう。

しかし、問題はより根深いと考える。各論調整の問題以前に総論自体が成り立っているのかどうかの検証が必要だろう。キャメロン氏の政策は「大きな社会」である。国民医療制度(NHS)以外に聖域を設けず予算を削減すれば、当然行政サービスのレベルは落ち、社会にとって痛みとなる、その痛みを少なくするために、NPOやボランティアなど非営利団体や地域社会が補う、強化するというものだ。補強の具体的な方法としては、第一に、そのための財源として銀行の休眠口座の資金を活用し、そうした団体を援助する、リーダーを育てる、16歳を対象によき市民になるための教育プログラムを実施する。第二に、そうした団体が、州など地方政府のサービスにかかわる意思決定にも参画する、そのためにも地方政府に権限を委譲し、地方政府の財源について見直しを行うかどうか検討する。第三に、国民が身近なサービスの質を判断できるように、政府、地方政府にかかわるデータの開示をもっと進める、などといった案を掲げている。

湧き上がる疑問点

しかし、こうした政策には、素人でもいくつもの具体的な疑問が生じる。

第一に、予算削減はこの秋から、サービス低下はすぐにでも始まるのに、先述の通り、NPOやボランティアの活動強化のためにはリーダーの育成や意識を高めることが必要で、時間とお金がかかる。痛みと緩和の時間軸が一致していない。先憂後楽という考え方もあるが、さて、どういうインセンティブでNPOやボランティアが行政に代わり得るのか、しかも網羅的にそれが可能なのか。その目途のないまま、まず財政削減ありきでは、即座の景気悪化が予想される。

第二に、財源として有力視されている睡眠預金の口座残高だが、行政サービスと同水準のサービスを、NPOなどが提供するだけの費用を賄える金額なのか、具体的な金額が示されていない。しかも、睡眠預金の口座に債務時効が使えるだけの特別立法をするのか、また預金者は銀行に払い戻す意思を示していた(時効の中断)のか、もめるケースも予想される。

第三に、州や地方政府への権限移譲を行い、財源も含めて検討することは、地域に合ったきめ細やかなサービスをするという点で、一般論としては間違っていないが、実際にそういう人材がいるのかどうか。英国でよく見られるのは、州や地区(borough)にはそうした人材がいないのでコンサルタント会社が入り、実態調査から解決策の立案まで請け負うという方法である。非常に高額の費用が支払われており、それならば地方自治体は何のためにあるのか、自治体職員の存在意義が問われよう。どういう権限を委譲すべきかという、最初の議論をキャメロン氏があまりしていないのも気になる。

確かに、政府や地方政府のデータ、情報をもっと開示し、日光消毒にかけるというのは非常に優れた政策であり、少なくともこれのみは成功するのではないかと考えられる。しかし、それ以外の政策は、どうも十分に煮詰まっているとは言えない。にもかかわらず「大きな社会」というスローガンだけを喧伝する。ブレアの「第三の道」よりも一層中身は詰まっていないと考えるべきであろう。サッチャー氏の「社会などはない、個人と家庭があるだけだ」という発言の方が、現時点では説得力があるのではないか。

保守主義の源流

その上、より根本的な問題は、「大きな社会」という思想が、実は大きな政府を志向する考え方だということだ。大きな社会のために、政府がお膳立てをする、政府が教育に介入する、お金の分配を変える。トーリー(保守党)の政策は、自由放任が原則で、どういう社会が良いかは、政府ではなく、国民が決めるというものであったはずである。大きい社会が良いという政府の音頭取りは、極めて介入主義的に思え、またその中身が抽象的であるがゆえに、プロパガンダ的ですらある。何か「文化大革命」といった匂いを感じるのは、筆者だけであろうか。

(2010年9月14日脱稿)

 

第140回 ロシアの穀物輸出停止の影響

穀物価格への目先の影響

ロシア政府は8月15日に穀物輸出の一部停止を発表した。ウラル山脈以西での猛暑による干ばつが深刻化し、今年の穀物生産が平年の3分の2程度に留まることが確実と見られたために講じた予防措置である。これを受けて穀物相場は軒並み急騰。特に小麦の価格は、シカゴで1ブッシェル(約27キロ)=8ドル前後までつけた。

しかしながら、その後反落し、7ドル前後で推移している(ここ10年間の価格推移は右記グラフ参照)。価格水準も2年前の半分程度に留まっている。小麦に限らず、大豆やとうもろこし、原油価格も上昇したが、サブプライム・ローン問題発生前となる2年前ほどではない。欧米を中心に景気の先行きが読みにくくなっていること、中国における不動産価格抑制のための金融引き締めが実体経済にも及ぶリスクがあることから、穀物や原材料の需要が、市場が取引目処としている3カ月から1年程度の間に一段と拡大するとの予測は少なく、価格の先高感に盛り上がりが見られない。さらに穀物のように長期保存が利かず、決済するまでの期間が限られている商品は、短期間の取引量が多く、長期的な見通しを立てるのは難しいとの見方が市場を支配している。

価格上昇リスク

しかし、安心していいのだろうか。中国を始めとする新興国における消費拡大から、もっと長期的には穀物価格が一段と上昇する可能性は高い。国連は、2050年までの40年間に食糧消費の7割増加を見込む。また金融緩和の拡大により、世界的に行き場を探しているお金がその市場に大量に供給されていることも、価格の変動=ボラティリティーを大きくし易い要因である。ロシアの干ばつ次第では穀物に投機資金が流れ込み、長期的には、穀物価格が上方に大きく振れていく可能性がある。そうした場合、為替相場が重要だ。即ち円高であれば日本では輸入価格がそう上がらずに済むが、円安なら商品価格上昇とダブル・パンチで輸入物価が高騰し、国内物価も上がる可能性があるということだ。ポンドが安い英国では物価に直接響いてこよう。

日本では円高を問題にする論調が多いように見えるが、中長期を考えると、食料とエネルギーを自給できない日本において、円安は、穀物や原材料価格の需給を理由とする値上がりを一層上振れさせることになるので、消費者物価の上昇に直結する。現在の円高は、米国経済、特に住宅ローンの不良債権問題が市場の予想以上に深刻であるために資金が円へと流れているのが原因で、日本経済が特に好調だからというわけではない。そうだとすると、米国政府、オバマ政権が11月の中間選挙に勝って、住宅ローンの不良債権の処理を扱う米国連邦住宅金融抵当公庫や連邦住宅抵当公庫の経営問題に手をつけ始めると、米国経済の回復への期待が強まり、一気に円安になるリスクがある。ユーロ、ポンドはより一層安くなろう。通貨安は、穀物や原材料価格の高騰と相まって、国内物価の大きな押し上げ要因になる。

金融市場、食糧の安全保障

今、投資銀行によるM & Aの対象で最も人気を集めるのが、農業関係会社だ。カナダのカリ肥料生産会社への、鉱物メジャーであるBHPビリトンからの敵対的買収オファーが市場では話題である。鉱物資源も食糧も、長期の値上がりを見込む投資家の関心は高い。中国政府は、自給できないカリ肥料が鉱物メジャーに支配されることを嫌い、国営会社による対抗を検討中との見方もなされている。いずれにせよ、金融市場において、食糧生産やそれに関連し不可欠の肥料生産にかかる独占、寡占を狙った動きが加速していることには注意を要する。

食糧自給、食糧安全保障といった問題は、英国人や日本人にとっても他人事ではない。原則論としては、世界貿易においては食糧は輸入すればよく、価格は市場で調整してくれるのだが、自国通貨が安ければ高いものを買わざるを得ず、自給率が低ければ交渉力も弱いということになる。金融市場に振り回されないためにも、個々人の食生活を出発点に、国家レベルでの長期のビジョンを要する。

(2010年9月2日脱稿)

 

第139回 大衆の意思表示のかたち

米国茶会党のパーティー

最近、大衆の意思表示のかたちに興味を持っている。政治的意思の表明は選挙という形式が最も端的なのだが、選挙のように何年かに一度ではなく、必要なときに集団で行動する、公に意見表明することは、大きな社会的、政治的な意味を持つ。

そうした意見表明の仕方は様々だ。米国では、金融機関への公的資金投入に反対して、WASP*の保守派を基盤とした草の根市民運動「ティー・パーティー・ムーブメント(茶会運動)」が、小さな政府を標榜して支持を広げている。その支持拡大の方法がユニークだ。メンバーの家で茶会を開き、政治談義をする。ツイッターで論争し、ブログにアップする。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のミート・アップ(見知らぬ者同士がテーマを決めて集まる小集会のアレンジ)を利用する、といった試みを行っている。

財政規律を重んじる「財政保守」にとどまらず、人工妊娠中絶反対派やキリスト教福音派などの「社会保守」が合流するという動きも目立ち始めた。ブログにキリストの絵を登場させ、御言葉を伝えることもあるという。一部団体は、中間選挙でオバマ民主党の有力議員の再選阻止に加え、ジョン・マケイン上院議員など中道穏健派の共和党有力議員を落選させるための取り組みまで進めている。オバマを当選させるエネルギーとその反対の動き、いずれにせよ、米国の若さを感じる。

英国のNPOと中国の散歩

英国では、ネットでの政治活動や小さなパーティーでの政治談義は、選挙のとき以外はあまり活発ではないように見受けられる。デモにしても、けが人が出て大きく報道されるようなものは、最近では1名の死者が出た昨年のG20金融サミットでの抗議、3年前に発生した原油高騰時におけるトラック運転手の集合、イラク戦争のときの議会前の座り込みといった程度しか思い当たらない。ロンドン郊外のサウソール(Southall)、ブリクストン(Brixton)、バーミンガム郊外のハンズワース(Handsworth)など、70年代から80年代初頭にかけて移民が集中する街で大規模な暴動が起きたが、今では落ち着いている。

選挙運動に関しては、その内容は自由ながら、資金面で強い規制があるので、代わって戸別訪問、マニフェスト配布など極めて大人の対応がなされている。民衆が大人なのか、政府が巧妙なのか判然としないが、英国ではNPOの保護育成という形で政治的な意思表示も含めた活動がかなり制度化、社会化されているのではないか。英国政府は、NPOを資金面で援助しつつ、ガバナンス面でも組織、制度、規則などで指導し、政策の一部に取り込んでいる。またそのことで、NPOの存在が他国に比べ非常に大きいと感じる。

一方、中国では、共産主義の下で自由な選挙はない。しかし急激な経済成長とバブルの下で、貧富の格差が拡大し、汚職などが横行する中で、大衆の意思表示は一段と明確になっている。賃金格差を理由とする工場での自殺、ストライキ、そしてネットによる世論形成。これを中国共産党は非常に気にしている。そして最近の注目は、「散歩」だ。化学工場建設による公害に抗議して、5大経済特区の一つである履門(アモイ)で市民が黄色いリボンをつけて大通りを静かに散歩する。シュプレヒコールのない、大勢の中国人民の散歩。市当局は工場建設を延期し、計画を再検討せざるを得なかった。2005年の反日デモと比べて成熟ぶりを感じる。

日本のアパシー

9月には民主党代表選挙が行われ、小沢氏が党を割って自民公明と組むのかといった憶測が流れるなど政治的な混乱が続く日本ではどうか。NPOは拡大しつつあるが、政治にネットやSNSを利用するという動きはそう広がっているわけではなさそうだ。デモはもちろん、散歩するエネルギーも感じられない。活況なのは、朝まで生テレビ的なワイドショー化したテレビによる世論の誘導と、それに乗って大きく振れる世論である。

一方で、精神的なひきこもりが表面数字で60万人、水面下に隠れた分も考えると、人口の1~2%がうつだという。そうした中で突発的かつ衝動的な事件が起こり、自殺者が3万人に達した。大衆は孤独な個人になると非理性的に暴れるか、自殺による抗議しかしなくなってしまう。NPOの制度化も緒についたばかり。こうした中で高齢化が進み、テレビに振られる日本の大衆の意思表示は、世界の中でも特異化しつつあるのではないか。

(2010年8月18日脱稿)

* アングロ・サクソン系、白人、プロテスタント教徒の米国人

 

第138回 好調ドイツ経済と沈むユーロ

ドイツの輸出競争力

ユーロ安を背景にドイツ経済が復調し、輸出ラッシュに沸いている。金融危機の引き金となったリーマン・ショックの後、日本同様にドイツ製造業の売上げは大幅に減少したが、米国の消費や中国を始めとする新興国による需要の回復を受け、今年初めから受注が急増し、在庫の積極的な積み増しが始まった。

ドイツの産業で最も競争力を有するのは、日本と似ていて、機械設備などに関わる中小企業メーカーである。新興国は、安い人件費を武器に安価なもの作りをしてきたが、資本の蓄積が進むと高度な製品を作りたくなる。その際に重要なのは、製造設備への投資である。韓国、台湾、マレーシアといった国々での半導体の製造、中国での各種部品の組み立てや化学製品プラントの運営などには、いずれも製造設備が不可欠である。こうした製造設備を生産、輸出できる国は世界でもまだ少ない。英米は分野によっては競争力を持っているが、しかし何といっても日本とドイツが強い。そのほかにはスイス、フランスにも、小さいが世界シェアを取るメーカーが存在する程度である。

そこへ、ギリシャ国債価格が下落し、つれてユーロが大幅に安くなった。製造設備という、元から輸出競争力のある製品が、為替により一段と安くなることで、ドイツの輸出競争力は格段に上昇した。日本メーカーにとって、ユーロ安は大きな脅威となっている。もちろん、ドイツの生産増大は、日本の資本財のドイツ向け受注の拡大に拍車をかけている面もあり、脅威ばかりではないのだが。

ドイツ頼みとユーロ安

住宅投資や消費など個人に関わる部分では、ドイツ経済も完全に復調したとは言えない。しかしながら、失業率は7%台半ばまで低下し、新規採用も増えている。輸出企業はリーマン・ショック以前のレベルを超えた生産を続けているほか、設備投資も2年前の水準まで戻りつつある。各先進国の政府が財政緊縮を打ち出す非常に厳しい状況の下、ユーロ圏全体での経済の回復は、ドイツの輸出拡大にかかっていると言っても言い過ぎではないであろう。

もともとドイツの製造業に競争力があるとはいえ、移民増加により国内の労働者全体の2割を占める低賃金労働者とユーロ安がその競争力をかさ上げしていることは否定できない。しかしユーロ安は輸入物価の上昇を生み、低賃金労働者の生活を圧迫する。また中国製品などに依存している他の欧州各国は今後、財政緊縮で景気は悪い上に、物価は輸入物価を通じて上昇するというスタグフレーションに直面するであろう。欧州中央銀行は景気重視でゼロに近い金利を続けるのか、物価重視で金利を引き上げるのか、難しい判断を迫られる。財政の出動余地が限られているだけに、政治的な問題にもなりかねない。

金利を引き上げなければ、物価は上昇することになる。輸出で潤うドイツの一般的な労働者はともかく、同国の低賃金労働者や南欧諸国の庶民の暮らしは一段と苦しくなるであろう。移民がドイツで暮らせなくなったときに、ドイツの競争力はどうなるのか。移民政策は、緩和を余儀なくされるのではないか。

ユーロの最適通貨圏議論再び

さらにドイツ以外の各国では、ユーロにとどまるべきか否か、という議論が各国でまた広がることが確実だ。現在のところは、経済力を持つ加盟国に財政規律を守らせ、守れないならユーロ圏から出て行ってもらうというのが総意となっている。しかしユーロ安が進むと財政規律を守ることができなくなり、ユーロを出ようという動きにつながることになる。

そうなると、ユーロは果たしてどこまでの範囲内で通用させるべきかという、通貨圏の妥当性の議論に戻る。経済的に同質ではない異なる地域に同一の通貨を流通させるためには、①労働力の移動が自由、②賃金が伸縮的である、③財政を通じた所得移転が可能、という3条件が必要なのだが、③が難題である。

結局、黒字国のドイツ、ほかにはせいぜいフランスが、自国の豊かさをどの程度、他国に気前よく分配できるかどうか。それがユーロの通貨圏の広狭を決める決定的な要因であり、それは独仏国民の許容度、懐の深さに依存する。政治的には、東欧も加盟することで、ドイツは東欧、フランスは南欧という役割分担ができれば、共に大きなフロンティアを持つという点で両国にとってのメリットは大きく、このリスクを取るかどうか注目したい。

(2010年8月5日脱稿)

 

第137回 アジア成長と清濁併せ呑む人材

朝鮮半島情勢への再論

BBCなどの欧米メデイアがこぞって北朝鮮の強硬姿勢を喧伝する中、前回の本稿にて、中国が、「エネルギーと食糧以外の援助をしない」という従来の北朝鮮への態度を一変させ、同国における経済開発へのコミットメントを始めたのではないか、北朝鮮へとヒト・モノ・カネを大量に送り込むサインが多い、と書いた。例を挙げれば、羅津港借款、中国人向け観光ビザ緩和、鉄道建設などである。第一には溢れる国内生産能力の出口を確保するため、また第二にはレアメタルを含む希少資源の確保のためと考えられる。

朝鮮半島北部の開発は今後、中国企業の手により、どんどん進められていくであろう。ロシアも、羅津に至るシベリア鉄道の南線の建設を計画中と聞く。その結果、何やら極東情勢は、第二次大戦前のまたは日露戦争前の状況、ひいてはロシア帝国と清朝の、さらに前には中国の歴代王朝と高句麗、新羅、高麗、李氏朝鮮との関係と相似形の様相を呈してきている。

そうなったときに北朝鮮の体制はどうなるのか。ソフト・ランディング、つまり中国型の改革開放政策が主なシナリオになる。北朝鮮や中国当局は、金正日(キムジョンイル)一家を日本の天皇家のような象徴として、緩やかに体制を転換していくことを念頭に置いている、という説もある。ただ天皇家と違い、金一家の歴史が浅すぎることが、大きなネックになるであろう。一方で、中国が完全に北朝鮮当局を掌握すれば、中国の手のひらの下で、ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊のような、民衆蜂起による体制の一新という説もある。いずれにしても、ここ5年程度以内に重要な変化が起こりうると見ておくべきではないか。

韓国の李明博政権

一方、韓国では2012年の大統領選挙を前に、李明博(イミョンバク)政権が早くもレームダック(任期末に機能低下すること)に陥りつつある。前任の盧武鉉(ノムヒョン)政権が北朝鮮一辺倒で反米、反日政策を取る一方、無策で経済がガタガタになったのに比べると、「ニューライト政策」により規制緩和を進め経済を復活させた功績は大きい。

しかしながら、北朝鮮に対する態度に関しては、金体制の崩壊という単純な構図しか取っていないように見える。北朝鮮に対する最近の中国の態度を見ても、韓国は、依然、現体制の崩壊にかけている ようだ。しかし、上記のように中国、ロシアがからみ、複雑化する東アジア情勢の下では、従来の韓国のように、北朝鮮との対決=体制崩壊にかけるか、宥和=北朝鮮の主張を飲むか、または単に現状維持を望むか、のいずれかしかないようでは、十分な対応はできないのではないか。

人命が失われた潜水艦沈没のような事件について、きっちり謝罪を求め、賠償を求めることは外交上重要ではあるが、同時に着地点を予想して、経済面から手を打つことも政治的には常識だろう。そのためにはアジアの経済成長の行方を踏まえる必要がある。中国経済は今年後半から踊り場、もしくは一服、下手をするとバブル崩壊のリスクがある。ダウンサイドのリスクを重視するのであれば、資源開発や資本財生産の技術支援のような、息の長い経済協力が、一段と重要になる。

政権交代により対北政策が一転するような現在の韓国の政治体制は、合従連衡(がっしょうれんこう)をお家芸とする中国に対してあまりにも脆弱であると言わざるを得ない。民主主義や人命の価値を唱えつつも、一方では経済面からの技術、ヒト、カネの交流を進める必要があろう。

日本の立ち位置

日本についても、同様のことが言える。菅首相も小沢氏を全否定するだけでは、政権運営はおぼつかない。対米、対中政策にしてもそうだ。

世界全体がいかなる方向にも動き、各国の同期性が高まることにより振れが大きくなっているグローバリゼーションの下での世界経済を前提にすれば、人命とか民主主義といった疑いようのない価値は別としても、外交や内政で一つの主義主張に固執することは、あまり得策とは言えない。日本で話題となっている消費税引上げについても実施するには然るべきタイミングがあるだろうし、小沢氏のような「どぶ板選挙」も意義がないとばかりは言えない。

要は民主党内のすべての派の清濁を併せ呑み、長い目で見た国民の繁栄を企図する覚悟、そして構想と手管が必要である。英国のキャメロン、米国のオバマ、日本の菅、韓国の李、いずれも民主主義国の選挙で選ばれた政治家にその構想力、現実的な遂行力が十分でないと感じるのは、どうしてだろうか。

(2010年7月21日脱稿)

 
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