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Wed, 10 December 2025

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第116回 具体的であることの必要性ーオリンピック開催地決定(1)

リオデジャネイロの勝利

ロンドン大会の次に行われることになる、2016年のオリンピック開催地決定までの過程を報じる中継を見ていた。1回目の投票でシカゴが落ちたとき、リオデジャネイロの勝ちが決まったと思った。

勝因は、「南米大陸での初めての開催」これだけである。BRICSの経済台頭がもちろん背景にはあるが、それでも「南米大陸初」というテーマは、他の3都市に比べるとはるかに明快だ。この明快さこそが勝因だった。何の主張もない米国のシカゴや「悲願」と言うだけのスペインのマドリッドに比べると、東京が掲げた「環境」というテーマは時代に合っていたように思う。だが、まだまだ抽象的だった。ロンドンだって、4年前に「環境」ということを言っていた。それ以上に具体的なコンセプトを日本が示したとは言いがたい。

日本の製品が世界中に輸出され、日本国自体が、TOYOTA、NISSAN、HONDA、SONY、PANASONIC、FANACといった記号が象徴するもの、つまり「便利」「壊れにくい」「機能美」で認知されている。今後はこれらの点に加えて、利用者の暮らしや生活環境をいかに育むかをより意識した製品作りや販売活動を実践する必要があるというのは、もう日本企業の常識になっている。それをどうして、もっと具体的に発信しなかったのか。石原都知事の「(国際政治における学ぶべき)力学があった」、猪瀬副知事の「プレゼンは良かった。ハグし合うような国際オリンピック委員会の委員との人間関係が難しい」といった発言を聞いていると、その程度の認識なら負けるな、と思った。

「環境」とは何か

「環境に良い」ということを付加価値率の向上(相対的に少ない投入原単位による相対的に多い生産量の確保)と捉えると、ほとんどの経済活動は「環境に良い」ことを目指していることになり、企業活動そのものの紹介と何ら変わらなくなる。また消灯、コピー用紙節約など何らかの活動をやめることにより投入原単位を減らすことを「環境に良い」と捉えることも可能であるが、そうなると今度は製造業における不良品減少のためのクオリティー・コントロール(QC)活動との区別が難しい。

次に、石油や石炭に変わる代替エネルギーの開発や利用については、化石燃料を減らすことによる二酸化炭素(CO2)排出量削減には寄与するが、他の資源利用や影響などを考えないと、「トータルで環境に良い」か否かは何とも言えなくなる。原子力は、日本の再処理施設の不調によるコスト増加や、故障でも起きたときのインパクトの大きさまで考えるとどうなのか。太陽光ももっともっとコストダウンやエネルギー効率の引き上げがないと、CO2は削減されるが、社会全体としては非効率である。

CO2の削減や汚染土壌の浄化の義務化は、社会的コストを企業や家計が負債として負うことを明確化することで、負担者の行動を変えようとするものである。その変化は興味深いが、しかしながらコストの分配が起こることで、中長期で技術や市場によってこうしたコストを削減していける可能性が出てくるかどうかについては何とも言えない。またC O2削減量の人為配分は、配分者に情報取得の権限を含む大きな権力を与える危険がある。こう考えてくると残りそうなのは、「捨てられていたゴミを再利用する」という従来のリサイクルが、人間が、人間以外の地球環境に対して与える負荷を技術により減らすことで地球の維持・持続に寄与するという意味で、狭義の「環境」のテーマとして残りそうだ。

具体案と行動が必要

 いずれにしても、東京は「環境」というコンセプトをもっと煮詰め、それを具体的に提示する必要があった。それが戦略というものだろう。オバマ米大統領も「好きなシカゴ、自分の育ったシカゴでオリンピックを観たい」とはお粗末につきる。こうなると「核のない世界」という理想すら、言ってみただけという感じに色褪せてしまう。鳩山首相の演説も然りである。言うだけなら誰でもできるのだ。政治家は、構想力を持って、コンセプトを明快にし、それを具体的な形で示し、実現してこそ評価される。このままでは、オバマ、鳩山とも中国にしてやられる。いや、その前に支持率が落ちていくのは時間の問題ではないかという危惧を持った次第である。もちろん環境という観点から見ると、オリンピックはそもそも必要なのか? という疑問も当然なので、英国人好みに結構シニカルにもプレゼン出来たと思うのだが。

(2009年10月4日脱稿)

 

第115回 シティのこれから

リーマン破綻から1年

ノーザン・ロックの破綻から2年が経った。ロンドンのシティは、再び息を吹き返したかのように見える。

去年から今年にかけて、4大銀行やインベストメント会社では解雇が相次いだ。筆者の友人の中にも会社を替わることを余儀なくされた者が何人もいた。ただ、それでも金融関係の勤めを続けている人は多い。ヘッジファンドもいくつかは消えたが、大所は残っている。昨今、投資対象としてもてはやされているのが、新興国経済への投資とエネルギー関係の投資だ。金融という、お金が余っている主体から不足している主体への資金融通の仕事の価値がなくなったわけではないから、現状は当然ともいえるのだが、いつかきた道という感じで、新味があるとは言えない。ヘッジファンドは、これまでも新興国経済やエネルギーへの投資、さらにはこれらのリスクとオプションなどのデリバティブを組み合わせた投資で稼いできたので、同じことを形を変えて行っているようにしか思えない。

中央銀行や規制当局も、どうも本質に迫っていないという気がする。①金融機関役員の報酬規制、②自己資本比率の質の強化、③金融監督当局の権限や中央銀行との連携強化、④ヘッジファンドの登録制、⑤中央銀行のマクロプルーデンス(全体の秩序維持)機能の強化などが題目に上がっている。①から④までは、これまでの規制の強化に過ぎない。一つの規制が入れば、その規制を迂回しようという人々がまずは自由度の高いロンドン市場へ、ロンドン市場でも規制が入ればさらに規制の少ないアイスランドやアイルランドへ、そしてもっと自由なマン島などタックス・ヘイブンでITを利用して自由な取引をするだけであり、また同じ歴史を繰り返すのか、という感じがする。

英国政府とシティの地位の維持

英国政府は、厳しい規制を導入することについていろいろと考えることになろう。厳しい規制を敷けば、ロンドンから金融というドル箱の産業を他の国や地域に流出させかねない。ただ金融への信頼は世界中で地に落ちているので、何もしないわけにはいくまい。従来のような原理原則による監督だけでは足りず、細かい規則によって重箱の隅をつつくような監視監督も建前としては導入し、実質の運用は適当にする、また税金も多少優遇するというのが、結構小ずるい大人の英国人の考えそうなことだと思う。自由の看板維持、反省の表明による大陸への面従、そして税制での腹背というわけである。

しかし、それではこれまでイノベーションの先端にいたロンドンの金融が泣く。製造業では、iPodや電気自動車など従来にない製品作り、とりわけ素材レベルの研究によって従来の金属や化学物質と異なる素材を活用した商品作りなどのイノベーションが行われている。そしてそうした製品は、不況でも関係なく売れているのだ。ここは金融も原点に帰って、金融の機能とは何か、何を求められているのかを考えることが早道だと思う。

金融の一丁目一番地

金融とは、今日使わないお金を、今日使うお金がない人に融通してあげることである。お金は返してもらう必要があるため、そこには必ず信用という問題が生じる。信用できない相手にお金を貸すときは、貸し倒れないようにうんと担保を取るとか、貸し倒れても自分がつぶれない程度の少額を貸すとか、高い手数料=金利を取ることでリスクに応じたリターンを得るといったリスクの管理方法がある。そしてこうしたリスクを計数化する試みが営々となされてきた。しかし人々は、その計数は「信用がある」との判断を下すための必要条件ではあるが、そもそも十分条件ではないという基本すら忘れてしまっている。基本から遠ざかると、枝葉末節にとらわれ大きく間違うという例だ。

一番確実な方法は、「信用ある人」にだけ貸すということである。では「信用ある人」とはどんな人か。結局は、「信用できる」と当方で思うかどうかだ。そして「信用できる」と思えるようになるためには、とことん相手と付き合うしかない。株式もそうだが、投資というのは相手と付き合うことが少ないので、狭義の金融とは言えない。狭義の金融は、貸し手と借り手の関係が続く債権・債務関係のことを言う。金利の支払日には会いに行く。これが信用を扱う者にとっての始まりではないか。携帯電話やコンピューターでだけ相手とコミュニケーションするヘッジファンドの連中に何十億と投資する日本の機関投資家は、信用の本質を解っていない。


(2009年9月16日脱稿)

 

第114回 日本の民主党政権で考えておくべきこと

民主党の経済政策


民主党による政権奪取は、日本の経済
モデルの転換を象徴している [共同]

総選挙では民主党が勝利し、政権を取った。民主党と自民党の経済政策に、大きな差があるわけではない。ただ小さな違いの中に、結構重要な点が含まれている。

これまで自民党の政策は、農業や建設業など自民党の票田となる産業を別にすれば、補助金支給や減税、安い土地を提供したりインフラ整備をすることで企業活動を支援することに重点が置かれていた。そして企業が儲かることで、雇用を確保し、いずれは従業員や、取引先である企業、そしてその従業員の所得も増える、という経済循環の経路を想定していた。

これに対して民主党の政策は、どちらかといえば、企業よりも従業員=国民への直接補助や減税を行い、消費者である国民の所得を直接応援することで経済循環を起こそうとしているように見える。当然、支援を受けるのは低所得層、子育て中の人など社会的な弱者になる。これまでのいわゆる自由主義から、社会民主主義的な政策への転換と言える。

農業や建設業などの保護されている産業に対する扱いは、岡田幹事長などリベラル派の力が強くなれば厳しい対応が取られることになるし、小沢前代表など選挙派の力が強くなれば保護が続けられることになろう。自民党のように企業に期待するか、民主党のように国民に期待するかは、それこそ政策の選択の問題であり、一概にどちらが良いと言えるものではない。いずれにしても補助をもらう主体が、受け取った補助をどう生かすかで、成功もすれば失敗もする。

ここ10年ほどの企業行動

日本の企業は、バブル崩壊後のここ10年ほどの景気回復の過程で、中国を始めとした新興国向けの輸出拡大と非正規雇用の拡大による労働分配率の低減、言い換えれば賃金引下げによって、大いに資本蓄積を進めてきた。平たく言えば、中国にものを売って、その利益を労働者に分けずに安い非正規雇用を増やし、銀行に借金を返し、内部資本をためてきた。つまり、経営者や株主が豊かになってきたということである。

問題は、経営者が蓄積してきた資本を日本の成長のためにちゃんと使ってきたか、ということだ。この点には大きな疑問符がつく。日本企業は外需頼みで、従業員=労働者に我慢を強いてきたのに、技術革新を起こしていない。新日鉄、日立、東芝などの製造業も中国に追いつかれつつある。かろうじて自動車に競争力があるが、これとて中国やインドの足音が聞こえてきている。今回の選挙は、こうした企業のふがいなさに従業員=労働者=国民が、このままでは困るという意思表明をしたのだ。経済という下部構造が、政治という上部構造に変革を求めた好例である。

賢い消費者になれるのか

しかし、意思表明しただけで問題が解決するわけではない。民主党政権を作って、補助金を直接もらうことになる国民が、企業に代わって国の成長をきちんと担っていけるのかが問われるからである。もちろん国の成長の一次的な原動力が、企業の技術革新やリスク・テイクである点は、政権が代わっても、資本主義の下では変わらない。だが今度は、消費者である国民が、財やサービスの購買を通じて企業行動を変えていけるかどうかが問われる。いわば、賢い消費者になれるかどうかが焦点になるのである。

生活保護受給世帯には、真の困窮者と困窮のふりをしている者がいる。また国民に対する直接補助は、勤労意欲をそぐモラル・ハザードに陥り易い。結局、企業であれ個人であれ、政府の補助をもらったその後の行動が国や国民の幸せの行方を決めていくことに変わりはない。そういう意味では今度の選挙結果は、その波及経路の変更に過ぎない。究極的には、様々な問題を解決するのはやはり国民の努力だ。

消費者が賢くなれるのかどうか、企業がどう行動を変えるのか。サブプライム問題以降、日本の企業は海外進出か内需シフトかの選択を迫られている。また雇用所得が伸びない中、消費者の行動変化も始まっている。日本経済が、この秋から大きな転換点を迎えることは確実だと思う。


(2009年8月31日脱稿)

 

第113回 先を読む力—声なき声を聞き、それに向き合うこと

先を読む力

企業の環境投資、または環境を謳った商品が盛りだ。米国や日本政府の景気刺激策も、「エコ」という名目をつけないと正当化できない状況になってきている。米国の消費者の貯蓄率が高まる一方、企業家の投資意欲が全く盛り上がってこない中で、環境のための研究開発、資源節約への投資、公害防止を目的とした投資だけは衰えが見えない。日本の名立たる企業の工場では、もう煤煙は出ていない。煙に見えるのは蒸気だ。排水も飲めるようにしてから海に流している。リサイクルの技術なども詳細を極めている。

こうなったのは、70年代の公害の経験と以後の厳しい社会立法による。それでも、レイチェル・カーソンの著書「沈黙の春」の初版は1962年、立花隆の「エコロジー的思考のすすめ」ですら1971年で、もう半世紀近くも前の本で述べられた思想がようやく今になって社会を動かしていることになる。日本で公害が社会問題となったのは70年代だ。またドキュメンタリー映画「不都合な真実」で知られるアル・ゴアは、70年代から温暖化問題に取り組んでいる。企業が動き出すには時間がかかる。行政や政治問題になるのには、もっと長い時間がかかる。

似たような話が、アスベスト(石綿)による肺がん問題だ。日本の外科医は、既に60年代には造船所や建築現場で働く人々の肺の変化に気付き、警告論文を発表していたが、当時は炭鉱の塵肺問題しか行政や医学会は取り上げなかった。90年代にようやく社会問題となり、日本の法律で製造全面禁止となるのは2006年である。インドでは建築資材などにおいて未だアスベストの使用が禁じられておらず、その発がん性が十分に認識されていない。だから現場でアスベストを扱う労働者たちも、ただ埃よけの簡単なマスクや布で顔を覆っただけで、平気な顔をして働いている。またカナダの鉱山会社は大量のアスベストをインドに輸出している。いずれ中国、インドで問題となることは必至だ。それでも日本でこの問題解決をライフワークとした政治家を知らないし、中国やインドにもいないのではないか。

今の社会で起きていること

今では病院で肺病と言えばアスベストというほど、研究者も多いし、日英の医療費も大きく予算が割かれている。それはそれでいいのだが、世間ではマスコミ、企業、行政、政治が考えるよりもっと速く、深く、いろいろな事態が進行していると考えた方がいい。統計の結果を待っていては遅すぎる。声なき声を聞いたら、すぐに調べ、統計を作るべきなのだが、どうしても個別問題の発生と社会的認知にはラグが生じてしまう。現場のプロの直観や小さなニュースにこそ、大きな種が潜んでいることが多いと感じる。

現在、日英の企業での大きな問題は、社員の精神疾患の増加だ。日英の高校に心理カウンセラーがいる時代となり、精神疾患はもはや小さな問題ではなくなっている。どの企業の人事担当者も、この問題で頭が痛い。英国のオックスフォードやケンブリッジでも、学生の精神疾患には相当な対応をしていると聞く。

この問題が今後は第2の環境問題になっていくことは、もはや確実と思える。それでも今度日本で行われる総選挙において、この問題の解決をマニフェストに掲げる政党はないようだ。小さな出来事が大きな問題の種になるまでの間隔を埋めるための政治の貧困を、強く感じざるを得ない。

社会の負債としての精神疾患

当然、問題は企業に留まらない。米国での抗うつ薬使用量はこの10年で倍増しているし、英国における精神疾患による強制入院の数は、1996~2006年の間に1年あたり20%上昇している。日本で発生した、精神的に抑圧された人による様々な事件については言うまでもあるまい。

資本主義が、世の中のニーズを金銭的評価に変えて、問題を解決していく制度だとすると、アフリカの開発は地理的な最先端であるし、ITはコミュニケーション・コストやコミュニケーションのあり方の最先端である。一方でこうした精神疾患者の増加は、企業や社会の負債の最先端だ。この領域は、環境以上に難しい。小生も素人なので、自らの経験からしか言えないが、精神疾患が人間の心の問題であるために会社や医療の介入が宗教や信条と摩擦を起こしやすいこと、英米では会社が産業医を持つことが義務ではなく、また義務となっている日本でも産業医という医療分野が確立されたとは言いがたいことなどが原因である。政治の構想力は、もっと先を読むべきだと思うが、如何思われるであろうか。


(2009年8月17日脱稿)

 

第112回 投資銀行(インベストメント・バンク)の復活

資本主義のフロンティア

自由競争と資本主義の下では、人々のニーズのあるところにお金が集まり、そのお金を利用して、更に次のニーズに応えるための投資を行う企業や人のところにまたお金が集まる。こうして、お金は人々のニーズを満たす企業や人に集中していく。ニーズは肉体的(楽をしたい)、そして精神的(楽しみたい)な欲求から生じることが多いが、人々が欲求を自覚しない場合、企業側が新商品やサービスを作り上げてニーズ自身を掘り起こすことがある。米国の発明王エジソンによる数々の発明や、インターネットやiPodもそうした例の一つであろう。こうした発明、工夫に資本主義のフロンティアがある。

金融の世界では、ヘッジファンドがこの例に当てはまる。ヘッジファンドとはそもそも小回りの利く小さな企業で、より手軽に安く資産運用をしたいという投資家、なかでも年金や保険さらには外貨準備の運用会社などの機関投資家のニーズに応えるためにできた。しかし2004年あたりから、ヘッジファンド自身の投資先が飽和状態になる。そこでヘッジファンドに現金供給をしていた投資銀行大手2社(ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー)は、証券化により、今まで単独では投資対象とならなかった住宅ローンや売掛債権に対して、ヘッジファンドが投資することを可能とした。

英国で有名なのは、野村證券が扱ったパブのチェーン店の買収と証券化である。ある投資銀行は、ブラジルの一地方にある中小企業の売掛債権を一括証券化するなど、世界中のあらゆる債権をかき集めて投資対象とした。ところが、どこかで本来投資対象として適当でないものまで入り込み、やがて投資対象不足から証券化の二次証券までが投資対象となるようになってしまった。これがサブプライム問題で、投資銀行とヘッジファンドは大きな損を抱えた。

第2四半期の好決算

実は投資銀行の今年第2四半期の業績は史上最高で、V字回復にほぼ近い。自動車、鉄鋼など製造業の生産は回復したとは言え、前年比7~8割で完全回復には程遠いにもかかわらず、投資銀行がV字回復したのはなぜか。ひとつの理由は、投資対象の掘り起こしを行ったからである。災害発生のリスクに対する補償を売る災害(カタストロフィー)債券などがその例である。

しかし、こうした潜在需要の掘り起こしができるのは、一部の限られた投資銀行に限られている。世界中の災害情報をコンピューターに入れて解析するためには、膨大なデータ収集のための投資が必要になるが、大きな事前投資になるので、どこでもできる商品ではない。

V字回復の今ひとつの理由は、かつてヘッジファンドとの取引の8割を有していたゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレーがヘッジファンドから新商品へシフトし、シェアが5割程に落ちたために空いたシェアに対して、ヘッジファンドとの取引をここぞとばかりに伸ばした投資銀行がいくつかあるからだ。サブプライム問題以前、世界の投資銀行は15社程で競争していたが、今では破綻や合併で8~10つほどに集約されており、寡占化が進んでいる。


投資銀行の大手2社であるゴールドマン・
サックス(左写真)とモルガン・スタン
レー(同右)のビル
金融の信頼回復のために

しかし、これではまた同じように、ヘッジファンドへの流動性の無理な供給と投資先の開拓のための証券化、そしてバブルとその崩壊に再度なりかねない、と考える。もちろん、当局サイドも自己資本比率の質や量の規制強化、市場性のない金融商品の情報開示の拡大、報酬制度の見直しなど、チェックを厳格化していこうとしているが、いたちごっこの感は否めない。

銀行にせよ、投資銀行にせよ、金融機関は「人々が欲求を自覚しない場合、企業側が新商品、サービスを作り上げてニーズ自身を掘り起こせる」ように設備や運転資金を供給して、中長期で経済に貢献することがその使命だったはずである。優秀な人材を集めている投資銀行が、シェアの拡大のみを理由としたV字回復ではお寒い。企業自身に対する設備投資の行く末を考えることこそが、金融の信頼回復のために不可欠と思う。


(2009年8月4日脱稿)

 

第111回 新聞に対する公的支援

新聞業界の危機

新聞社の経営は、難しい局面を迎えている。インターネットの普及により、新聞自体を購入しない、読まない人が増えているという構造変化に加えて、景気悪化のために企業が広告を大幅に減らしているからだ。

フリーペーパーの充実も、夕刊紙には大きな影響を与えている。ロンドン・ライトとロンドン・ペーパーの躍進によりイブニング・スタンダードの売上が激減し、ロシアの富豪に同紙の経営権が移ったことは記憶に新しい。

英国や豪州においては、既にマードック氏を始めとして、新聞の買収、M&Aが相当進んでいるが、米国では同一地域内における競合紙同士の合併や買収が反トラスト法によって禁止されている。だがこのままの状態では、地方紙どころか全国紙までが廃刊に追い込まれる恐れがあるとして、反トラスト法を改正すべきだという議論が米国議会で繰り広げられた。またフランスでは、既に政府が政府広告の拡大や日刊紙を18歳になる全国民に1年間無料配布することを決めている。公的な支援まで行って、新聞を保護すべきなのかどうか、今後、改めて各国で議論にな るであろう。

新聞は何のために

議論の出発点となるのは、新聞は何のためにあるのか、という問いではないか。資本主義を原則とする社会では、公的支援の対象となるのは、市場では上手く解決できない問題がある場合や、市場自身のより良い機能のために公的な立場からの運営が好ましい場合などに限られる。

こうした考え方から公的支援の対象としてよく問題になるのは、労働力(人)、医療、教育などである。ニューヨーク市では、いくつかの公立学校で、好成績の生徒に学校から賞金が出るという。日本では非正規労働の自由化の是非が問題になっている。英国は、成否はともかく、病院や学校においてPPPなどと呼ばれる公的部門と私企業との協同で先進的な取り組みを行っている。

新聞は、政府に関する情報を読者に広く、正確に伝え、時の政府に対して健全な批判が可能となるよう、いわば民主主義の土台となるというのが出発点としての考え方である。先人は、これを「社会の木鐸」と言った。大本営発表なり政府の公式見解をなぞったり、そういったスクープを競うことは新聞の本分ではなく、時の政府の発表や施策を批判的に検討する材料を国民に提供することこそが使命である。

こう考えると、新聞に対する公的支援は、時の政府からの支援ということで難しい問題をはらむ。援助を受けると批判しにくくなるのではないかという懸念がいつもあるからだ。そこで次の問題は、新聞の経営問題が市場で解決できないのかどうかということになる。

新聞の経営努力

まず問われるべきは、新聞社自身による存在意義の確認であろう。通信社が担うような第一次情報の伝達は、iPhoneを見れば明らかなようにやはりネットに一日の長がある。一次情報や短い論評で、新聞社の独自性発揮は難しいと考えられる。1日24時間にわたって人々の関心をどの程度ひきつけるかをめぐり、ネット企業やTV会社、エンターテイメントなど各企業はしのぎを削っている。YAHOO!やGOOGLEにアクセスすれば、新聞の見出しを読む必要は少なくなっている。そうなると新聞の付加価値としては、論評や視点の深さと情報の網羅性・一覧性が残ることになる。

前者は論者や記者の質が一段と問われることを意味する。記者の質を高めるためにはどうすべきか。スクープを評価しないことが考えられる。次に、政府などの情報公開を一段と促すことが必要だ。ある特定の出来事に対する情報公開請求も重要だが、政府に対して、分かりやすく情報を開示することを求める必要がある。

公開される情報自体の網羅性を検証し、その上で、整理を求める姿勢が出発点である。網羅性については政府関連のウェブサイトを見るとかなり進んできた。今後は整理が重要になろう。その上で、その情報に基づいた検証、論評が必要になると考える。

こうした洞察を安定して書ける人はそう多くはない。しかし洞察の対象は、グローバルから一つの小さな町までいろいろある。このため、こういった部分での競争になった場合、全国紙の数は限られざるを得ないが、ローカル紙の価値はむしろ高まるのではないか。


(2009年7月21日脱稿)

 

第110回 鉄道の時代と航空会社の経営難

世界の高速鉄道建設ブーム

世界的に見ると、鉄道に追い風が吹き、航空機には逆風が吹いている。例えば英国では、日立製の新型急行電車が、セント・パンクラスとアシュフォード間の108キロに導入予定で、試験走行では現在1時間20分かかっているこの距離を30分で走っており、英国でも高い評価を受けている。米国もエネルギー効率の良い大量輸送手段として、トラックに代わり大陸横断鉄道の路線拡張を図っている。

またロシアでもシベリア鉄道を高速鉄道化する計画が進んでおり、日本の製鉄所などに大規模使節団を送り込んでいる。韓国や台湾での新幹線開通、中国でのドイツ製インターシティ列車の稼動も記憶に新しい。中国内陸部、シルクロード、東欧、アフリカなどでの展開を考えると鉄道の可能性は大きい。さらに日本では、JR東海が2025年に品川-名古屋間でリニア開通を目指している。

航空会社の苦境

一方、航空会社はここ20年近く経営悪化が続いている。米国においてレーガン政権の下で参入の自由化が進められた結果、90年代からは格安航空会社が相次いで設立され、運賃の値下げ競争が起こった。パイロットなどの人件費を削減できないナショナル・フラッグは、コスト削減や競争激化に耐え切れなくなって大きな業界再編が起こり、欧州ではBA、エールフランス-KLM、ルフトハンザの3強体制となった。米国ではユナイテッド、コンチネンタル、デルタ、ノースウエストの4強が湾岸戦争と同時多発テロの発生を受けて旅客が減少した後も残ったものの、その後の原油価格高騰による燃料費の上昇などもあって、航空業界全体の経営が悪化した。2005年までに大手7社のうち4社が経営破綻し、デルタとノースウエストは昨年に合併を発表している。日本でもJALに対して公的資金が投入される方針が公表されるなど、航空会社の経営は決して楽な状態ではない。

こうした鉄道と航空会社の差はどこから来るのか。鉄道は、環境に優しく安価な大量輸送という点で優位性があるが、根本的には技術進歩の差というほかない。鉄道の輸送速度は、この30年で大幅にアップした。リニアになれば尚更である。一方、航空機のスピードはそうした大きな変化を見出し難い。格安チケットのチャーター便は確かにサービス面での大きなイノベーションなのだが、他社の追随が容易であり、製品技術のように追随が困難、または膨大な研究投資が必要なイノベーションではない。この点、電磁石の技術、モーター制御の技術、超高速物体の走行と電極のプラスマイナスへの変化、さらに振動と柔軟性を兼ね備えたレールなどを利用するリニア・モーターカーを他社が追随するのは容易でないと言える。航空会社の苦境は、彼らのコスト意識の問題もさることながら、接客サービス業におけるイノベーションの賞味期限の短さ、電気・機械関係のイノベーションの賞味期限の長さを感じさせる。

高速鉄道網拡大の影響

鉄道輸送におけるスピード・アップによる都市間の移動時間の短縮、中でも通勤圏の拡大は、世の中の風景を一変させる。安価な大量輸送ができること、駅は空港よりも数多く作りやすいことから様々な具体的な効果が生まれる。

まず、首都へのアクセスの容易性は地域と首都との結びつきを強め、商圏、生活圏、文化圏が一体化されることになる。その結果、商業施設、文化施設、娯楽施設が一段と首都、すなわちロンドンや東京へ集中する現象が加速される。

ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(RBS)はもともとスコットランドの銀行だが、市場機能はほとんどロンドンにある。金融面について言えば、英国ならロンドンとエディンバラ、日本なら東京と名古屋でも貸出金利の水準はわずかながらも異なっている。これは名古屋地方では、メガバンクの名古屋支店と地元の金融機関による貸出競争に東京の銀行店舗は参入できないからである。しかし商圏や通勤圏が同一化すると、預金や貸出の市場も同一化し、金利差は解消されるであろう。

高速鉄道による通勤圏拡大は、航空機と異なる大きな影響をもたらす。また欧州大陸における鉄道は南西にアフリカ、北東にロシアと大きな広がりを持つ可能性がある。鉄道関係の技術革新に今世紀は注目したい。後は日本人としては、車窓が美しいことでは文句のつけようのない英国の鉄道において、愛想も含めたサービス、そして時間の正確さが向上すればもっと良いのだが。


(2009年7月9日脱稿)

 

第109回 目立つ欧州の景気停滞の真因と解決策

欧州経済の停滞

欧州経済の停滞が、世界の中で目立ってきている。米国の消費は、昨夏から大きく落ち込んだとはいえ、新車の販売台数が1000万台前後で推移しており、昨年のピーク比7割を保つなど下げ止まった感じがある。中国の景気も、公共投資がテコになり、大きく落ち込む可能性は小さくなっている。このため日本や韓国を始め、アジア諸国は生産を前年比7割くらいまでは回復しつつある。

欧州でもアジア向け、米国向け輸出を行っている製造業の生産の回復が見られているが、一方で欧州ではもともと、欧州域内で生産と消費が見合って完結する割合が高い。欧州内の景気回復のためには、米国やアジアの需要回復だけでは足りず、欧州域内での消費回復が不可欠であり、そのためには欧州における製造業の生産回復が鍵となる。

しかし、欧州の消費には現在、何か重苦しいムードがある。このためか欧州企業の生産態度は、各国の財政による刺激策にもかかわらず、慎重なものになっている。この重苦しいムードの理由とは何だろうか。

金融機関の不良債権処理

米国では不十分と批判を浴びつつも、金融機関は不良債権の金額を精査し、不足となる資本額の外部調達や国からの調達を行った。しかしながら、英国を始めとする欧州各国ではこうした処理が十分行われたとは言いがたい。日本の不良債権処理を経験した立場から言うと、まず①不良債権額の査定のための基準の明確化→②現時点での不良債権額の確定→③不足となる資本額の公的資本または自力による調達、のプロセスが重要となる。現実には金融機関の資本不足から貸出が十分ではなくなり、景気はどんどん悪化するので、①から③のプロセスが2、3回繰り返されることになる。これが日本の「失われた10年」というものであった。

米国の不良債権処理とそれによる公的資本注入は、①が甘いゆえに問題なしとはしないが、少なくとも一応の基準を立て、③までの1サイクルを実践した。しかし、欧州各国でこのプロセスを実践した国はない。どうして米国のようにできないのか。いくつか原因が考えられる。

第一には、欧州域内での統一的な金融監督当局がないことにある。銀行、証券、保険監督当局の統一協議会はそれぞれあるが、全体を統括する機関がなく、今度初めて作ろうということで合意したばかりだが、査定基準の目線統一までには時間がかかる。第二には、そういう目線ができたとして、不良債権額を確定すると途方もない公的資金投入が必要になる可能性がある。これを恐れるのは英国、ドイツ政府だ。第三は制度問題なのだが、査定目線作りが、当局ではなく会計基準、つまりはロンドンにある国際会計基準機構(IASB)に委ねられており、実際査定するのも当局ではなく、会計士であることが多いことである。貸出査定は借手企業やマクロ経済についての知識を要する極めて高度な作業であるし、証券化商品の値決めは金融市場やモデルへの精通を要するが、そうしたことのできる会計士の数は限られている。会計士の企業を見る目は会計面からだけであり、総合的に見ている金融機関に気兼ねがあるのではないか。当局でもそうした人材の養成は十分ではない。

結局、金融機関は不良債権額を未だ把握できていない。金融機関は貸出に慎重になるし、株価が冴えないのは当然であろう。

解決策は政治問題に

原因が明らかなのだから、解決策も明らかだ。欧州当局は、米国の査定基準でも借りてきて、金融機関の不良債権を思い切って処理すべきである。

もっとも、それが出来なかったところに10年前の日本の悩みがあった。あまりに損失が大きい場合、国費投入額が大き過ぎて、国民のコンセンサスが得られず、政権が倒れるためである。日本では、小泉政権で柳沢大臣の首が飛び、竹中平蔵氏が金融担当大臣となった。ブラウン、メルケル、サルコジ政権にそうした覚悟はあるのだろうか。

今の欧州における各政権の姿勢は、外交軍事などでは威勢が良いが、とりわけ金融システムの安定については内向色が強く、欧州連合(EU)の枠組みでの解決法は、監督当局作りにとどまっている。本質は、損失を穴埋めする財政問題、すなわち政治問題である。この火中の栗を拾うことが、政権の支持回復、さらには欧州大統領への道である。ブラウン氏は、このポストに興味を示しているとされているブレア氏を、みすみす大統領に据えて良いものか。


(2009年6月21日脱稿)

 

第108回 外国企業が不動産を買うことは問題か

外国企業による不動産買収

外国企業が国内不動産を買うことに伴うトラブルについての新聞記事が目立つ。3月には韓国企業によるマダガスカルの農地買収に地元民が反発、クーデターの原因の一つになった。中国やアラブ諸国は、自国向け輸出を企図してアフリカの農地の買収を進めており、食料の安全保障が金融市場や政府で議論されている。

日本でも対馬にある自衛隊基地の近隣地を韓国企業が買収、同国人向けのホテルが建設されており、社会問題になっている。日本の不動産業者が米ニューヨークの著名なビルを買収したときも、同国のマスコミは「米国自体が買われる」と騒いだ。中国資本が日本の企業や土地を買収しに来ることは時間の問題だろう。

この点、空港運営最大手BBAがスペインの会社、ガスなどインフラは欧州大陸の会社という例に見られるように、英国は投資歓迎のスタンスを持つ先進国である。一方、米国は港湾の運営会社をアラブ首長国連邦の国営投資会社が買うことに難色を示した。日本人もこうした問題についてどう考えるか、頭を整理しておくべきである。

外国企業による買収は問題か


巨大クリスマス・ツリーで有名なロック
フェラー・センター。日本企業が買収した際
には米国民の反発を買った。(写真:共同)
外国企業の国内不動産への投資を制限する理由として考えられるのは、軍事、食料、エネルギーなどの安全保障上の理由である。外国企業が、軍事基地の近隣地を買ってそこからスパイを行ったり軍事基地の拡張を妨げたりする、あるいは農地や油田を買って農産物や石油を国内に高く売り、自国に安く売るということは安全保障に害になるという理屈だ。このうち農地や油田については、その企業が独占企業であれば安全保障に悪影響を与えるであろうが、自由貿易の下で競争相手がいれば、もしくは採算が合わなければ長続きはしない。現在の世界を見ると、農産物でそういう商品はない。またエネルギーの分野でも、原子力や、風力などの代替エネルギーまで考えれば、独占は難しいということになる。

自由貿易が制限されてブロック経済になれば、こうした外国企業による不動産の買収問題は現実的になろう。しかしその時は、ベネズエラのチャベス大統領のように一旦外国企業に買収された土地や企業を、国家の強権を発動して格安で国有化することになるであろうから、むしろ問題は、ブロック経済化の可能性と自国のエネルギーや食料生産の自給率になる。

軍事的な問題も、技術進歩により土地自体が問題になる余地は小さいのではないか。ステルス戦闘機は垂直離発着する。軍港になりやすい天然の良港の近隣地は、機密保持のために国家に買収されることが多く、代替性がないので、問題になり得るが。そうであれば外国からの投資を制限して、国土の発展や雇用の拡大を制限するよりは、投資を歓迎しつつ、土地利用のディスクロージャーや生産物の流通促進のための規制緩和をする方が経済に資する。

発展途上国の土地買収の前提


英国のヒースロー空港はスペイン企業の
BBAによって運営されている
ただ、最近のアフリカ諸国による中国や韓国への反発は、先進国にある不動産の買収と異なり、故なしとしない。これらの中には、土地の買収にからむ、不正や不平等な契約などの例が新聞に挙げられたものがある。もともと自由貿易、自由主義といったリベラルな思想は、アダム・スミスを引用するまでもなく、公正や正義の法、秩序を前提としている。そうした前提なしに、自由貿易は成り立たない。マダガスカルのクーデターはこうした前提を無視するような、急速な社会変革に対する国民からのNOであり、もっともなことである。そしてサブプライム問題以降、こうした資本主義や自由主義のあり方自体が批判されていることも頭に入れておいてよい。自由主義とその前提の問題は、20カ国・地域(G20)を中心とする今後の世界政治を考える上で、よくよく考えておくべき問題であると信じる。


(2009年6月8日脱稿)

 

第107回 レイオフ(クビ)のその先に

英国のクビ、日本のクビ

英国の金融機関で昨年来、社員が大量にクビになっている。現地の日系金融機関でも、電子メールで「これからレイオフの予定者を呼び出す」というメールが流れると、社内に緊張が走る。それから電話が鳴ると、周りの皆は電話の受け手となる社員に一斉に注目する。ボスに来いと言われたのか、その社員が上着を着て立ち上がると、その他の社員たちは目配せをしたりして、やっぱり、といった感じになってザワザワする。そして当人は、「仕事がなくなったから、3日以内に荷物をまとめて退去せよ」と言われる。英米インベストメント・バンクでは、映画のシーンのように、そのまま何も持たずに建物を退去することを命じられ、私物は後で送られるという場合もある。そうした状況では、秘密保持のために、クビを告げられた社員はパソコンを再び触ることすらできない。

ただクビの宣告を受けても、英国人の大部分はそう悲壮な顔を見せない。長らくロンドンで働いている日本人もそうだ。終身雇用がまだまだ残っている日本企業で働いていると、手に職がつかないのでクビは死活問題になるが、ジョブ・デスクリプションに書ける仕事の内容が専門分化している英米では、他の企業で同じ仕事が見つけられるという気持ちがあるからだ。

「仕事自体がなくなれば、その仕事をしていた人を辞めさせることができる」とするリダンダンシー(余剰解雇)の論理は、クビの際にもっともよく使われる理由だ。しかし終身雇用を前提としている日本の労働法では、単なるリダンダンシーでは足りず、社内の他の仕事でも使えないことを会社側が証明しないと正社員のクビはまず認められない。一方、職種が専門分化している英国では、ある社員を社内の他の仕事で使うということが考えにくいので、リダンダンシーのみでクビにできるのだ。

公的部門でもクビ

約3年前になるが、イングランド銀行でさえリストラでクビを行ったときには筆者も驚いた。日本では公務員などがクビになることは考えにくい。だがイングランド銀行では、金融システム安定のための調査(マクロ・プルーデンス)を主な仕事としていたエコノミストたちを、そうした調査は意義が小さいとして大量にクビにした。今にして思えば先見の明がなかったということになるだろうが、当時の金融市場はバブル絶頂期で、リスクばかり言っている部門は狼少年と思われたのかもしれない。レポートが急に薄くなって、分析も野心的なものが少なくなった。

今となっては、キング総裁の責任は重いと言うべきだろう。もちろんクビになったエコノミストたちは高給でインベストメント・バンクに再就職したので、彼らの顔に悲壮感はなかった。

クビのコスト

クビの論理について言えば、大陸(独仏)は解雇規制を緩和する方向にあるとはいえ、まだまだ日本型に近い。もとより英国型、日本型どちらが良いとは言い切れない。ただ、英国型では上手くいかないケースが2通りある。1つは、現在のように仕事の絶対数が減った場合、クビになると同種の仕事自体が他企業でもなくなり、失業者が増えることである。もちろん、企業のコスト調整が容易にできるため、景気の回復が早まるという利点もあるが、社会厚生の観点からは失業者の大きな痛みを伴うことになる。もう1つは、一旦その仕事自体を止め、担当者をリダンダンシーでクビにすると、再度その仕事をする場合に回復が容易でないということである。英米企業が短期の利益を追い求めているとはいっても、特に取引先企業との関係は短期的に構築できるものではない。一旦仕事自体を止めると、人間関係が切れてしまう。

日本の金融機関は、バブル崩壊期にロンドンでのビジネスを大幅に縮小した。今でも当時の関係を取り戻せたとは言えまい。どのような仕事をレイオフの対象にするかを決定するに際しては、その企業がどういう仕事で付加価値を生み続けるのかについての経営者の先見性を試すことになるのだが、その答えが出る数年後に成績表をつけ、その上で経営者の退職金を支払うべきではなかろうか。


(2009年5月24日脱稿)

 
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