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Tue, 16 July 2019

第26回 写真1枚でいい。父に会いたい。

小欄の夏休みを頂いている間に、英国は夏が終わったようだ。きょうは8月15日。今月に入って毎日のように雨が降り、雨上がり後は、一段と空が澄んでいく。

それに引き換え、日本の猛暑はすさまじそうだ。仕事で東京に電話すると、同僚が「もう暑くて暑くて」と言う。それはそうだ。8月15日の終戦記念日は、毎年、猛烈に暑いに決まっている。

今回は、英国の対岸、オランダの話である。日本がオランダも相手とした第二次世界大戦から60数年がすぎた。そのオランダに、今も日本人の父親を探し続けている人たちがいることを、ご存じだろうか。

オランダ北部で宿泊施設を経営するエドワード・レーマンさん(61)は2007年7月、母を81歳で亡くした。その母から「おまえの本当の父親は日本人だ」と教えられたのは、レーマンさんが59歳のときだったという。

継父を実の父と信じ切っていた。オランダ領インドネシアで生まれた優しい母、そして自分を年長に11人の弟と妹。家族の思い出は楽しいものばかりだった。

「それなのに、60歳間近になって、自分の本当の出自が分かる……。衝撃です。大ショックです。理解できますか? 弟や妹も苦しみました。なぜ、こんなにも長い間、母は事実を隠していたのかと」

「母は継父を守り、オランダでの生活も守りたかったのかもしれません。たぶん、それは『真実』よりも大事なことだったのでしょう」

第二次世界大戦勃発後の1942年3月、日本はオランダの植民地だったインドネシアを占領し、民間人9万人、軍人4万人を抑留・捕虜にした。そして終戦までの間、日本人男性、インドネシア系オランダ人女性(白人のオランダ人男性とインドネシア人女性の混血)との間に、多くの子どもが生まれた。

戦後、大半の男たちは日本に送還された。その後のインドネシア独立の混乱では、「オランダ人」の母子がインドネシアを追われた。そして母子は、一度も見たことがない「本国・オランダ」に渡る。しかし、ドイツ、日本と戦ったオランダにとって「日本人の子」は「ナチスの子」と同様、許し難い存在であり、激しい差別の対象だった。そして複雑な家庭事情も加わり、母たちは子供に出生の真実を告げず、身を潜めるように過ごしてきた。

そうした「日本人の子」は、数千人とも数万人とも言われる。ほとんどは出生の秘密を知らぬまま大人になり、今では60歳を超えた。

父の名は「ムラカミ・マコト」。ジャワ島で港湾関係の仕事に就いていた――。レーマンさんは、母が覚えている限りの父の特徴を聞き出した。父に会うために、である。

「でも、だめでした。日本の方々の協力で消息は知れましたが、1977年ごろ他界したそうです」

父は戦後、大阪市住吉区で日本交通公社に勤めていた。実にまじめな勤務ぶりだったらしい。そして結婚もせず、ずっと一人暮らしだった。戦友会にも顔を出しておらず、詳しい情報はほとんどない。

レーマンさんの母は「彼は格好よくてね。本当にすてきだった」と繰り返した。2人が一緒に暮らしたのは、終戦の混乱で離れ離れになるまでの2年間だけだったが。

「映画みたいな話だと思うかもしれませんが」と、レーマンさんは言う。「父は人生の続きを、再び母と送るために独身を通したような気がしてなりません。インドネシアに行く機会をねらって、旅行会社に勤務していたんじゃないか。そして、母がオランダに移ったとは知らずに、インドネシア中を捜し回っていたんじゃないか、と」

ついに会えなかった父を語るレーマンさんは、風貌が日本人にそっくりだ。そして銀縁メガネの奥の目線が、本当に柔らかい。

「もう父には会えない。だから、父と親しかった人に会いたい。写真1枚でいいから父の姿が見たい。それが、今の最大の願いです」

日本人の父を見つけたい、父に会いたい――。戦火と戦禍の記憶を大勢の人が忘れても、オランダの彼ら彼女らは、父を探し続ける。次回も、そんな人々の旅路を記したい。

 
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高田 昌幸:北海道新聞ロンドン駐在記者。1960年、高知県生まれ。86年、北海道新聞入社。2004年、北海道警察の裏金問題を追及した報道の取材班代表として、新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞を受賞。
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