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Tue, 16 July 2019

第33回 北方領土が日本に最も近づいた日。

先ごろ、日本の北方領土返還交渉に関する「秘話」が北海道新聞に掲載された。エリツィン大統領が1997年11月1日、ロシア極東のクラスノヤルスクで開かれた日露首脳会談において、橋本龍太郎首相に対し、「リュウ、きょう領土問題を解決しよう。おれたちは国家の首脳だ。この場で決めよう」と言った、という話である。

私はロンドンで関連取材を行い、モスクワの同僚は首脳会談に同席していたロシア側要人から確認を取った。日本側の同席者だった額賀福志郎元財務相は「軽々に言えない」と微妙なコメントを行う一方、町村信孝官房長官は「そんな話はなかった」と否定した。それはそうだろう。エリツィン発言が事実なら(事実だと思うが)、領土返還の絶好の機会を逃したことになり、日本側の大失点にもなりかねないからだ。

韓国との領有権争いが続く竹島(島根県)と違い、北方領土は陸側から良く見える。

根室の納沙布岬に立てば、歯舞群島はすぐそこだ。貝殻島の灯台は肉眼で確認できるし、ロシア沿岸警備隊の船舶も分かる。知床に行けば、国後島も近い。知床山脈と国後島の最高峰・爺々岳は見事に連続している。

ずいぶん前、北海道の東の端、根室標津に足を伸ばした。3月中旬と言っても、北海道の春はまだ遠く、道路も家屋も激しい地吹雪の中にあった。台風並みの強風が横から吹き付け、地面にこびり付いた固い雪を粉にして舞い上げるのだ。ザラメ雪は下から顔にぶつかり、目も開けられない。

激しい地吹雪はしかし、一晩で収まり、空は見事に晴れた。

朝、太陽が昇る前、海の方向へ散歩に出かけた。空気が全く動かないという状態を、あのとき、初めて体験したのだと思う。街に物音がないのだ。時々、頭上を海鳥が舞うと、羽音がはっきりと聞こえた。はるか上空なのに、である。

海に出ると、根室海峡は流氷に覆い尽くされていた。激しい風で一気に南下したように見えた。厚さが数メートルもありそうな氷の板が、幾重にも折り重なり、一部はせり上がって高い壁を造り上げていた。

エゾシカやヒグマは、国後島と北海道の間を行き来することがあるという。その話が瞬時に理解できるほど、氷の海面は強固に見えた。

そして、日の出になった。

国後島の爺々岳の向こうから、太陽が昇ろうとする。山の影が濃くなり、空が明るくなり、太陽が国後島から顔を出す、まさに、その瞬間のことだ。

太陽の光が、氷原の上を走ってきたのである。オレンジ色の光が、真っ白な氷の上を音もなく走り、一直線に私に向かって伸びてくる。1分かそこらの出来事だったと思う。オレンジ色の帯が、私と国後島を結び、日の出は終わった。

それから十数年が過ぎた1999年10月、今度は根室から国後島に渡った。日本側が人道支援として島民に越冬用燃料などを贈ることになり、その訪問団に同行したのである。

島民は北海道のテレビ放送をよく見るという。とくに天気予報は欠かせないらしい。

島民の暮らしは貧しく、車はほとんどが廃車同然の日本の中古車だった。舗装道路はついぞ見なかった。島の中心にある古釜布港の岸壁はぼろぼろ。少し離れた場所では、旧ソ連海軍時代の軍用艦が傾いたまま放置され、赤さびた無残な姿をさらけ出していた。

エリツィン発言の関連取材をしながら、私は、そんな国後島を思い出していた。ロンドンのような大都会にいると、その大自然と厳しい暮らしは、なかなか想像できない。

国後島を訪れたとき、島では、日本側の支援で建設されていた「日本人とロシア人の友好の家」の完成式があった。セレモニーには、対露外交に力を発揮していた鈴木宗男衆院議員や外務省幹部たちも参加。後に「ムネオハウス」と呼ばれるようになる建物内では、決して豪華ではない料理が並び、住民も交えたパーティーが夜まで続いていた。

「北方領土が日本に最も近づいた日」から、もう10年以上。島は今年も、そろそろ冬を迎える。

 
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高田 昌幸:北海道新聞ロンドン駐在記者。1960年、高知県生まれ。86年、北海道新聞入社。2004年、北海道警察の裏金問題を追及した報道の取材班代表として、新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞を受賞。
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