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Tue, 17 June 2025

第176回 欧米憎しとボス政治

ジャスミン革命から1年

北アフリカのチュニジアで「ジャスミン革命」が発生してから、ほぼ1年が経った。そのとき本コラムで、チュニジア、エジプト、リビアなどの独裁政権を倒すのは一瞬のことだけれども、その後の産業育成ができなければ貧富の格差は縮まらず、民衆の暮らしは楽にならないので、不満をため込んだ民衆の暴動が多発し、治安を求めて軍事政権になるのが落ちであるといった内容を書いた。その後1年経ち、情勢はその通りになっている。以前の独裁政治よりも民主主義的になったかもしれないが、一方でイスラム圏は部族の勢いが復活したかのような様相だ。部族政治であれば、結局のところ、大ボス政治から小ボス政治になったというだけの話になってしまう。南スーダン然り、リビア然り。エジプトでもそうだ。

こうした発展途上国で手っ取り早く産業育成を進めるための手段は、外資の導入だ。また中間層に読み書きのできる人材を備え、インフラを整えることが必要である。インフラには、水道、電気、道路などだけではなく、民法などの法制、取引や決済のルールなどに加えて、公務員が賄賂(わいろ)を要求しないなど先進国では一応確立している道徳や倫理も含まれる。

明治維新、戦後復興において、日本はこうしたあらゆるインフラを導入した。ところが、賄賂、利権がはびこるボス政治は、欧米の倫理とは最初から相容れない。さらにアフリカや中東地域における部族紛争の根っこには、欧米、特に英国とフランスによる植民地政策の後始末のいい加減さがあり、それらの部族には欧米憎しの感情がある。加えてイスラム教徒は、宗教面からもキリスト教国の欧米に反感を持っている。ここまで負の材料がそろうと、日本のような外国投資に慣れていない国はもちろん、特定の利権を持たない欧米諸国からも投資は簡単には来ない。となると、資金は、憎まれながらも旧宗主国としての利権を梃子とする英仏と、こうした状況に憶しない中国企業からのものに限られてしまう。欧米憎しの感情の払拭とボス政治からの脱却が、アフリカや中東での革命を成功に導くのではないか。

イラン・パキスタンと欧米憎し

ボス政治とは異なるが、欧米憎しの感情が一番表に出ているのがイランとパキスタンである。イスラム過激派を実質的に支援しているのはこうした国々の軍隊である。報道によれば、アフガニスタンのタリバンは、パキスタン軍と密接な関係がある。パキスタンは核保有国であるし、イランも核兵器保有疑惑が常にある。こうした国々もその植民地としての歴史、宗教面から反欧米であり、先進国からの産業的な投資は非常に難しい。

そこで両国に目をつけているのがやはり中国である。これらの国では近隣大国のインドへの対抗心もあってか、中国からの投資が増加している。植民地問題や宗教問題でこれらの国と摩擦がなく、経済利害、政治利害が一致する中国企業の進出は必至だ。

いずれにせよ欧米憎しの感情の払拭はできないどころか、最近では悪化しつつある。イランと北朝鮮は「米国憎し」が国をまとめるための方便になっているのかと思えるほどだ。これらの国の産業育成は前途多難と言わざるを得ない。

ボス政治の払拭

一方、ボス政治の払拭も簡単なことではない。宗教の絡む部族間対立の多い中東では、前提に宗教問題があるため解決は一層難しい。宗教がうまく政治と折り合ったトルコですら政府の経済政策への信認は十分でない。他の中東諸国はそれ以前の状態にある。

最近の中南米は、深刻な債務問題を抱えていたボス政治(カシキスモ)から脱却したかのように見える。ただ不安要素もある。経済発展により政治的な不満は抑えられているが、欧米の景気悪化により、ブラジルなど中南米諸国の経済状況が急速に悪化しているからだ。

こうした中、原油価格が高いため物価が下がっていないにも関わらず、ブラジルなど南米の中央銀行は金利を引き下げてしまった。今後、資本流出が懸念される。そうなるとせっかくの経済発展が台無しになる。ブラジル大統領は中央銀行の利下げの前日の演説で露骨な利下げ要求を行った。国内ボス政治からの圧力に屈する中央銀行に対する市場の信頼は十分ではない。ボス政治からの脱却は、インドネシア、フィリピンといったアジア諸国でも経済発展の大きな試金石だ。その意味では、最大のボス政治国といってもいい中国の一党独裁も警戒を怠れまい。

(2012年1月16日脱稿)

「Mr. City のfocus 世界経済」は、編集上の都合で本稿が最終回となります。ご愛読いただき、誠にありがとうございました。(編集部)

 

第174回 2012年世界経済展望: 国家財政が焦点に

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

大きなダウンサイドは考えにくい

2012年経済を展望すると、大きなダウンサイドのリスクは小さいと考える。欧州の金融不安、ユーロ不安は、財政規律条約の締結や銀行の資本増強などで徐々に緩和されていき、焦点は銀行の資本不足による貸出減少に伴う不景気対策に移るだろう。需要不足による不景気が目に見える形となるのはこれからだが、財政制約がきつい状況下では、その解決には時間がかかると思われる。また経常黒字国のドイツによる南欧諸国への財政支援が小出しにされるので、欧州の経済は長期低迷期に入ることが想定される。ほかの欧州各国が経済でドイツに太刀打ちできるわけもなく、ユーロ安の下、世界ではドイツ製品が日本などアジア製品と競争を繰り広げるという状況が続くと思われる。ドイツの勢力拡大に対して英仏がどのように協力し、抵抗していくのか興味深い。ユーロを自国通貨として導入しなかった英国は、昨年末、欧州各国の財政管理を強化するための財政規律条約に入らな

いという選択肢を取ったが、これによって英国の経済政策は一定の自由を確保した。今後、保守党が財政再建を一時棚上げして、景気の下支えを目的とした政策に転換する余地を残したことになる。一方で、欧州の不景気の継続は英国経済、中でも金融業に悪影響を与えるだろう。

米国は不景気からのリバウンドが始まる年になりそうだ。住宅ローンの爆弾はまだ残っているが、産業が元気になってきている。また長期失業者数はいまだ多くいる一方で、バブル崩壊後に高止まっていた貯蓄率が少し低下してきた。過剰消費は望むべくもなく、また望むべきでもないが、貯蓄が消費へと向かうようになれば、米国経済の回復は早いように思われる。

中国経済は減速が強まるが、共産党は強力な金融緩和を推進する方針だ。2009年に金融引き締めを実施した際には土地の値段が下がり、不動産取引が急増した。また設備投資の急ブレーキも銀行の貸出停止によるものが多く、金融緩和は強力に効きそうだ。金融緩和策を上手く機能させることで、本年に予定されている主席の交替を乗り切っていくと思われる。一方、ブラジルなど早めに金融を引き締めたほかの新興国では、インフレに悩まされる可能性と金融危機により資本が流出するリスクが非常に懸念され、要注意だ。

日本経済はしぶとくまずまず

日本経済は、まずまずの状態がしぶとく続きそうだ。景気を支える柱は、復興需要と新興国の金融緩和による需要の下支えとなる。製造業の大企業は、世界経済の減速を受けて輸出が減少し、厳しい状況にあるが、内需型の非製造業や中小企業には、円高のメリットがある。復興需要はバブル的な現象も見られ始め、東北地方での建設土木関係の賃金が急騰している。非正規の社員対象ではあるが、企業の雇用意欲も強まっている。

日本のテーマは、大企業が海外進出する中、少子高齢化による内需の縮小、中韓の追い上げによる製造業の競争力の低下、財政再建・社会保障安定化への道筋の付け方、原子力発電のあり方を踏まえたエネルギー確保策など、経済構造に関わる問題への対応となる。目先の景気変動よりもこうした根本的な問題に取り組むことが企業、政府、自治体さらにはそうした先に金融をつけている金融機関の3年後の浮沈を左右すると思う。その過程で家計の負担増は避けられず、この対応をめぐって政治の紛糾は必至だろう。

国家財政が焦点の年

中国など一部新興国を除き、先進国を中心に、財政赤字の問題が経済を考える上で鍵になる。欧米、日本は景気が振るわない中、財政面でのダウンサイドを抑制しつつも、いかに規律を維持できるかが喫緊の課題だ。国内の給付や他国への援助は切り詰めが進むと考えられ、これを中長期で敢行できるかが問題となる。欧州危機では、アイルランドが増税、給付抑制、賃金カットなどを矢継ぎ早に実行し、いち早く危機を脱した。製薬、ITといった基礎産業の力があったからできたわけで、そうした産業を持たない英国や南欧諸国はそこが難しいところである。

日本はまだまだ産業競争力を持っているが、パナソニックの液晶T V不振、東芝のLED部門のリストラ実施のように、IT関係は加速度的に競争力を失いつつある。産業競争力の育成は、一朝一夕にはできない。こうした構造的な問題への対応をめぐり各国の政治は難しい局面を迎えるであろう。

(2011年12月15日脱稿)

 

第172回 ともに語る言葉ありや

イツメンという言葉

日本の中学・高校生が使う新語に、「イツメン」という言葉がある。「いつものメンバー」という意味だ。今日はイツメンと食事、イツメンと遊びに行く、という使い方をする。逆にこれは、「イツメン」以外とは遊びに行かない、付き合わない、気心の知れない相手とは付き合わない、話もしたくないという強烈な排他性を意味する言葉である。当然、イツメンのいない人はさびしいし、イツメンに無視されたりすると大いに傷つく。

学校卒業までそのイツメンたちとの間だけで育った若者が社会に出る。会社で作法をやかましく言われる。文章を徹底的に書き直しさせられる。小言も言われる。かなりの確率でご飯が食べられなくなる。休む。文句を言い出す。会社はパワハラによる社会的な批判が怖いので甘やかす。増長する。こうなると悪循環で、本人の周りが参ってくる。会社の生産性が落ちて、最後は本人が長期休暇に入る。中小企業なら、事実上、会社にいられなくなる。しかし、大企業では休職制度があって、数年にわたって社員が有給を使って休む。労働経済研究所のアンケートなどによると、そうした社員は日本の大企業の2~3%を占めており、予備軍も入れると不機能社員はその倍ほどになろう。

働きアリばかりを集めても、よく働くアリと怠け者のアリが数%、普通の働きのアリが残り大多数、という普遍の法則では説明できないほどに、精神面の問題を原因とする不機能者の割合が急増している。そして、つまずきから拒食、休職までの期間の短期化が著しい。

企業人事担当者の悩み

企業の人事担当者は頭を抱えている。採用段階での心理試験などでは防ぎようがない五月病、一年病。今、企業が収益を2、3%伸ばすには大変な努力が必要だ。企業内休職者を立ち直らせることができれば、収益は2~3%改善する。だが、飽食時代を生きる彼らに「昔はもっと~したものだ」「頑張れ」「中韓に負けていいのか?」といった叱咤激励は通じない。欧州と並んで、日本は労働時間が圧倒的に少なくなっている。「エコノミック・アニマル」「働き蜂」は死語である。つまり、上の世代と若者とが共有できる言語がない。

問題は社会全体に広がっている。イツメンといれば嫌なことをしなくていい。多少面倒くさくても車の免許を取得しようとしたり、借金してカッコいい車を買って女の子にモテたいといったりしたことを考えない。親がかりが増えているということもあろうが、若年者の車保有率は下がるばかりだ。喫煙、飲酒、そして男女の付き合いですら精神的な負担になる。

若者が社会に出るまでの間に切り結ぶ人が決定的に少なく、また嫌なことを言う人が少なくなっている。独立行政法人日本学生支援機構の調べによると、学生の中で生活のためにバイトしている人の比率は37%と、10年前の10%以上も下がり、親の金で学生生活が成り立つ人が6割である。日本ではこの10年ほどの間に、若者の社会への関わり方が決定的に変化したと感じる。この傾向は高齢化社会のように目に見える現象ではないが、日本経済の根底を揺さぶり、社会に大きな変化をもたらしつつあると思う。

英国から学べるのか

英国に自ら進んで留学しているようなバイタリティーのある人はいいのだが、日本では外国に出たがらない若者が多い。飽食という点では英国社会も同様で、引きこもりの人もいるのだろうが、「イツメン」現象はあまり見かけないように思う。第一、英語に該当語が思い浮かばない。

階級的な要素が強い社会なので、同じ階級に属する人々は言わばイツメンということになるのだろうが、現地の学校に通う子供の親を見てみると、インド人やパキスタン人始め移民はとてもハングリーで、色々な社会各層と切り結ぶ。言うまでもなく、大英帝国時代から、英国人エリートはどんどん海外に出ている。ひ弱な人も中にはいるが、英国の社会全体からはひ弱さはうかがえないように思えるがどうだろうか。

日本には、終身雇用や手厚い正社員保護がある。その意味ではドイツに似ているのかも知れないが、ドイツでは現場の力が強く、徒弟制度も厳しい。そして、日本でも中小企業には休職者が少ない。こうした点を鑑みてみると、日本の大企業や公的機関など、これまで経済成長のエンジンの役割を果たしてきたものに内在するユニークな問題とも考えられる。成長戦略などという抽象的な画餅より、足許の掘崩れが問題だ。

(2011年11月22日脱稿)

 

第170回 オリンパスから企業統治を考える

事件の概要とは

カメラ、医療用内視鏡、産業用検査機などの精密機器分野の大手日本企業であるオリンパス社の英人社長ウッドフォード氏が、取締役会で突如解任された。同氏は、オリンパス社が、M & Aに絡み、実体のない米ニューヨークの投資コンサルタント会社であるAXES社に法外な手数料を払ったのは背任行為に当たるとして、抗議を続けている。実体のない会社に支払われた金額は700億円近いが、その使い道が不明との報道もなされている。続いて10月26日には、社長に復帰したばかりの菊川氏が、「10月14日の社長交代に端を発する一連の報道内容や株価の低迷などを通じ、お客様、お取引先様、株主の皆様など各方面にご心配、ご迷惑をおかけしたことを踏まえ」て、社長兼会長を辞任すると発表した。

日本の新聞があまり報道していないのとは対照的に、英紙、米紙では、日本企業のガバナンスの不十分さ、情報開示の不明朗さを示す例として連日報道が続いている。手数料が、オリンパスの欧州子会社から、英銀とドイツの銀行を経て、米国の会社に支払われたため、ついに英国の重大不正捜査局(SFO)と米国の連邦捜査局(FBI)が調査に乗り出した。

もとより、M & Aや手数料の妥当性については知る由もないが、菊川氏の退任の公式な理由が、「今回の件でご迷惑をおかけした」というのでは、到底、金融市場や欧米のマスコミは納得しまい。問題の核心は、手数料が法外なものであったのか、そしてそれが事実なら背任行為に当たるのかどうか、であろう。そうした核心に触れないままで辞任すると、事態をうやむやにしようとしているだけだと思われてしまう。

問題を誰が解明するのか

根拠があるわけではないので筆者の想像に過ぎないが、さすがに一流企業の経営者が説明責任についてすら分かっていないとは考えにくい。ならば、何か言えないことがあるとみるのが自然である。法外な手数料を払わねばならぬ何か弱みがあり、それを公表できないということなのだろう。脅迫があるのかも知れない。しかし、それなら第三者の力を借りて事態を解明することが近道だ。

説明責任については、欧米では高い意識が持たれており、翻って日本は遅れている、とこれまで言われてきた。だが、実は日本でも最近の進歩は目覚ましい。例えば、福島第1原子力発電所での事故の原因究明は、政府ではなく、憲政史上初めて国会に置かれる事故調査委員会の手に委ねられることが、超党派の全会一致により国会で決まった。失敗の当事者による自己究明によって出された調査結果では信用度が薄い。三権分立がその基本思想であるように、第三者による解明が、公正と真相探究を実現するためのプロセスなのである。事故調査委員会を機能させることができるかどうか、国会のスタッフの責任は重い。

このように考えると、オリンパスの経営陣が、第三者委員会を作ると説明しているのは、一見正しいことのように見える。だが、その実施時期すら示しておらず、またその人選が経営陣により成されるのであれば、やはりお手盛り感が出る。会社法の制度は各国で異なるが、日本の会社法で、取締役会の失敗の解明をするのは監査役または監査役会である。今回の件でも、まずは監査役が取締役会の行為決定を検証することが必要で、第三者委員会を設けるのはその後ではないか。

多国籍企業に必要な企業統治

何か事件があると、英国企業や英国政府はしょっちゅう第三者委員会を設けているので、英国居住者ならこうした仕組みには慣れているだろう。一方、日本のマスコミの論調は、問題を追及しているが、問題解明の枠組み自体を問題視するものは少ない。

円高局面で日本企業の海外への進出が著しいが、そうした日本企業は、グローバル企業、多国籍企業となる覚悟を十分に持っているのだろうか。会社が逆境に立ったとき、取締役の責任、監査役の役割、そして金融市場や欧米さらにはアジア各国のローカル・ルールの中で、企業統治の責任を果たしていく必要がある。英語、英米法系についてのみならず、アジアの現地語、法制、さらには企業統治文化まで調べ上げて対応する人材を育成することが多国籍企業のリスク管理の要諦である。オリンパスの事例を英国から見ると、こうした人材を確保したり然るべき覚悟を持つことなく、円高だから、また日本国内の内需は縮小一方だからというだけで海外進出することは危ういと思うが、いかがか。

(2011年10月27日脱稿)

 

第168回 先進国に共通する政治不在とその行方

欧米日の政治危機

オバマ大統領
7月31日、債務引き上げ問題に関する与野党合意を、ホワイトハウスで発表するオバマ米大統領

通貨ユーロは最大の危機を迎えた。米ドルも、スイス・フランや円に対して最安値を更新している。東日本大震災からの復興は遅々としている上に、欧米の金融市場の混乱による株価下落や消費抑制から中国経済も変調を来たし、最大の対中貿易国である日本の経済が回復軌道に乗れるかどうか、来年には微妙な情勢となってくるだろう。

こうした金融市場の動揺や先進国経済の混迷に対して政治はなすすべがなく、先進国の政治リーダーシップが危機を迎えている。欧州では、ドイツのメルケル首相がギリシャやスペインを助けるための財政支出について、自党であるキリスト教民主同盟の右派や自由民主党、究極的には国民を説得できない。メルケル首相は地方選挙で惨敗続きだ。そして、「ユーロが崩壊してもいいのか」という最終的な脅迫を伴うチキン・ゲームが繰り返される。

政治の外では、頼みの欧州中央銀行が人工的な機関であるがゆえに物価安定、金融政策原理主義で、財政が動けない場合に、日銀が行ったようにリスク・マネーである銀行の株を買うというような柔軟な対応には大反対を示している。株と異なり、イタリア、スペイン国債を担保とした比較的リスクの小さい短期の貸出すなわち流動性の供給拡大にすら、ドイツ連邦銀行(ブンデス・バンク)のDNAを持つ筆頭理事のシュタルク氏は猛反対し、辞任表明した。こういったドイツ国内と欧州中銀の混乱ぶりが、市場の不安に拍車をかけている。

チキン・ゲームの再来

こうしたチキン・ゲームは、どこかで見たことがある。2カ月前に行われた米国の中間選挙後、財政赤字上限問題を通じて票を伸ばした共和党右派の茶会党が財政赤字削減、増税反対を掲げて上限再設定に反対し、米国債がデフォルト寸前まで行った。オバマ大統領は不良債権処理が進められず、長期失業者が減らないという状況で、経済政策の出口を見いだせていない。先週発表された、雇用増加に向けた包括政策は、「雇用増加のための財政支出を共和党の地盤である富裕層への増税で賄う」という、共和党右派を更に刺激するものになっている。

共和党左派は、2カ月前にした財政赤字削減の約束は何だったのかと憤っている。オバマ大統領は、来年の大統領選挙で、「雇用が回復しないのは、包括策に共和党が反対したからだ」という主張をするためのアリバイ作りを目的とした案を出したという報道もあながち本当かもしれないと思わせるほどの挑戦的な内容である。この案をめぐって、共和党と民主党が再び新たなチキン・ゲームを繰り返すことは確実だ。そうなると、また金融市場は動揺する。

経済苦境の中の選挙

新興国が経済的な台頭を見せているのに対して、米国や欧州や日本といった先進国の経済は低迷し、若年者の失業率が高い。スペインでは実に4~5割と言われている。とりわけ、マドリッドは暴徒化のリスクを抱えている。そうした中で、選挙では極端なことを言う政党に票が集まり、中間層を基軸とする意思決定が難しくなってきている。

分裂した議会、引いてはその背景にある社会をまとめていくのは、政治家の力量しかない。米国のオバマ、英国のキャメロン、ドイツのメルケル、フランスのサルコジ、そして言うまでもなく日本の民主党の面々は、その器かどうかが問われているのだ。

世界経済は、そう簡単に良くはならないだろう。解決には、目先の仕事に精を出して、財政頼みを排し、質素倹約の生活を説ける政治の力しかないと思う。そのためには増税ではなく、むしろ歳出の削減が王道である。その結果として、テロや暴動が起こることを覚悟する必要があるのかもしれない。現在は、共産圏の崩壊で延期された世紀末が10年遅れでやってきた、と後世の歴史家から語られることが想像できるような状況である。

(2011年9月15日脱稿)

 

第166回 日本の新首相の課題

新首相の状況

この号が出る頃には、日本の民主党の代表選挙が行われ、新首班が決定しているだろう。今日は、新首相の置かれている状況と彼を取り巻く経済状況について触れたい。

まず、前回総選挙からの任期が満了するのが2013年の夏だから、新首相の在職期間は2年に満たない。短命政権が続いているので少し長いように思えるが、この非常に難しい局面で2年の間に成果を上げねばならないとすると、とても厳しい状況と言える。

まず、震災対応で言えば、第一に原子力発電所の問題はまだまだ予断を許さない。余震によっては発電所の安定が確保できないという観点から、危機管理の状況が続く。第二に復興需要を組むための第3次補正予算の成立が、参議院の野党多数により、そう簡単ではない。大連立にせよ、与野党協力にせよ、論点によってはスムーズに行くかもしれない。だが、やはり、自助を求めリベラルな自民党と、弱者救済色の強い民主党では、本質的な考え方が合っていないので調整は難航しそうだ。

次に外交も、前の鳩山・菅首相時代に、日米関係はがたがたになった。中国も弱体政権を相手にはしていない。こうした中で、沖縄の基地問題や、ロシア、韓国、中国との領土問題は攻められる一方だ。

党内基盤は言うまでもなく、小沢氏との関係に配慮しないと票が読めない状況が続く。党内の権力闘争が、マニフェストの見直しの是非と、その背景にある消費税その他の増税問題への取り組み方針をめぐってごたごたすることは確実である。

経済の不安は小さい

唯一、期待できるのが、ここ1年程度の日本経済である。震災で止まっていたサプライ・チェーンはほぼ復旧し、これから復興需要が増大する。もともとリーマン・ショックからの回復過程で日本の経済は力強さを増していた。

海外経済に不安材料があるが、憂慮するほどでもないと考えられる。まず、米国経済は不良債権問題が継続し、長期失業率が高止まるなどの傾向を見せているが、不動産価格は下がっているのではなく、底を這っている状態にあることから、一方的に悪化しているというわけではない。円高になったとしても、せいぜい70円が上限だろうと市場では見ている。ユーロも決して良くはなく、だらだらと値が下がる感じではあるが、それも不良債権問題の処理の遅れを原因とするものなので、米国同様に急激に悪化することもなかろう。いずれも10年前の日本を思い起こさせる事態なので、専門家の間では「ジャパナイゼーション」と呼ばれている。だらだらとした不景気であり、一気に景気が悪化するのではなく、「良くならない」ということに特色がある。

中国に関しては、バブルや暴動の行方が気になるが、基本的には設備投資の牽引力が強い。共産党の政策もすぐにぶれることはなさそうだ。在庫要因でアジアの半導体市場が停滞局面に入るというマイナス要素があるほか、中長期で見た対アジアでの日本の産業競争力の低下、人口減少、地方金融機関の行き詰まりといった構造問題は残っているものの、2年程度の短期では、差し迫った悪材料はないようにうかがえる。

こうした世界経済の順風は、新首相に色々な政策を打つ余地を与える。政治外交状況が厳しく、経済も構造問題が重たいだけに、循環的な経済の好調は大事な価値を持つ。経済が良いと株価が安定し、物心両面で人々が政権を支持しがちなので、思い切った政策を打ちやすい。

最大の問題は政治不信

思い切った政策を打つとなれば、必要となるのはやはり政策ビジョンであり、経済の抱える構造的な問題を分かりやすくかつ情報を偏頗(へんぱ)させることなく語ることが重要になる。

しかし、正論が必ずしも通るわけではない。民主主義の下では、他人を説得することが何より重要だ。同じことを言っても信じてもらえる人とそうでない人がいる。特に、ここ数年で政治不信は極に達しており、国民が総理を揶やゆ揄するようなことがないような状況を作れるのかどうかが重要だ。

そのためには何が必要か。言うまでもなく、人物である。頭脳や言語の明晰さは必要だが、それだけでは十分でない。国民のことを本当に考えているかどうか、そして実行する胆力と本気度が問われる。その本気度が、国民自身に自らも日本のために取り組む必要があると思わせるだけのものであるかどうか。ささいな言動にも注目したい。

(2011年8月26日脱稿)

 

第164回 米国債務上限引き上げ問題を掘り下げると

米国社会の分裂

米国債務の上限引き上げ問題の裏には、米国社会の深刻な亀裂がある。すなわち、リーマン・ショック後に米国人の貯蓄は2倍になり、消費がその分減って、需要が失われた。このため、27週以上の長期失業者数は高止まったままだ(下図参照)。これが米国社会における貧富格差の固定化を生み、その苦しい状況に対して、政治的に両極端の主張がなされている。

格差を何とかしようと主張してオバマ大統領が当選を果たしたにも関わらず、リーマン・ショックによって、彼が当選したときよりもはるかに格差が拡大したのは皮肉だ。同大統領は今、格差を大胆に小さくするために社会保障政策を拡充すべきだとする民主党左派と、小さな強い政府を求める共和党右派=茶会党を両翼とする極端な主張に挟まれている状態にある。

この状況は単純な財政赤字問題などではなく、レーガン政権以来、次第に拡大していた社会の貧富の格差が行き着くところまでいったことを意味している。経済問題というよりも政治的な問題として米国社会の行方が懸念されていることを、我々日本人もよく分かっておく必要がある。米国債がデフォルトすることは常識的に考えられないが、事の本質が、これまでの政策の是非と米国社会の在り方という問題に関わっているだけに、両派とも簡単に降りられない。

米国における27週以上の長期失業者数の推移

米国の強さ

しかし、現状は米国の強みをも示していると筆者は考える。米国は、国の在り方について議会、ネットなどで議論している。これは民主主義の強みだ。中国のように、国家が一方的に密室で決めるのとは地の固まり方が違うだろう。日本のように議論以前の状態が続くのは話にもならない。

さらにこの欄でこれまで書いてきたように、米国の貯蓄が設備投資の強さにつながれば、米国の産業競争力は復活する。そして、日本の競争力を相対的に弱め、円安につながる。米国が強いのは、ITやバイオといった分野での基礎研究と自由なアイデアを企業化し、それがうまくいかない場合には容易に事業再生(連邦破産法第11章)ができるからだ。要するにやってみて、うまくいかねばやり直せる社会なのであり、そういった社会が生み出す活力は、日本に今最も欠けているものである。

そこで問題の要は、米国の貧富格差が、そうした活力をそぐところまで煮詰まっているのかどうかという点になると予想される。茶会党は煮詰まったと主張しているが、事態はそう単純ではない。米国や日本の賃金は、中国の10倍、韓国の2倍程度ある。同じ製品を作っていれば米国や日本に競争力がないのは当然であって、中国や韓国と異なる付加価値を作り出せるような人材を生かしているかどうかが重要になる。この点、米国は、世界の優秀者を集める大学教育とベンチャーを支援する金融制度があり、またリスクを取っていくことを許容する社会がある。残念ながらこの点で日本は弱く、米国に一日の長があるように思う。

貧富の格差は、アメリカン・ドリームを生み、多様化した社会が認められる限りは活力にもなる。米国の設備投資が2、3年で戻るとすると、そのときこそ米国は強く甦り、円安局面となろう。

(2011年7月29日脱稿)

 

第162回 ベルルスコーニの延命

ベルルスコーニの不思議

東日本大震災やそれに続く原発事故が発生して以降、日本人は、いかに復興するか、原発問題をどう収束させるか、電力不足をどうするかを問われ続けている。そうした課題をめぐって政治的な混乱が起きている中ではどうも暗い気持ちになりがちで、前向きな思考が湧き出てくる感じではない。ややもすれば制約の増加、我慢という発想に向かいがちのように思う。そうしたとき、欧州において不思議に思うこ とがある。それは、イタリア人の生き方だ。

各種の疑惑や問題発言のせいで、イタリアのベルルスコーニ首相が率いる内閣支持率は過去最低の32%まで落ちている(菅首相の17%より高いが)。イタリア国内ではもちろん批判が強いし、今年ウィキリークスが暴露した米国政府の内部文書では、「無責任で虚栄心が強く、現代欧州の首脳として無意味」と酷評されている。経済成長率も欧州平均を相当下回っていて英国、フランスよりも低く、失業率はフランスに次いで高い。しかし、それでも政権は延命を続けている。

もちろん、彼は、民放テレビ4局のうち3局を経営しているから、批判をさせないのかもしれない。これらの局では、日本や英国では考えられないような、主婦のストリップまがいの番組を放映している。「風雲! たけし城」をより過激にしたような番組まである。こうした番組を通じて、国民の目を政治経済など現実問題からそらしている、と批判する声が一部で上がっている。しかし、イタリアの友人たちは「いや、彼は人間くさい。誰だって男は美人が好きだし、失言もするさ」と言うのだ。

イタリアが原発にNO

6月13日には、イタリアで原子力発電再開の是非などを問う国民投票が開催された。結果は反対票が94.53%となり、原発を推進してきたベルルスコーニ首相は、投票締め切り前に敗北を認めた。イタリアの友人に尋ねると、「No」に投票したという。それでもイタリアの電力事情は全体の10%近くを原子力発電に頼っているじゃないかと問うと、「フランスから買えば良い」と言う。「それは無責任ではないのか」と聞けば、「でもフランスは売りたがっているんだよ」。「でもフランスが売らないといったら?」と言えば、「そのときは、ワインを飲んで早く女と寝ればいいじゃないか」。唖然(あぜん)として、その後は言うことがなかった。原発投票は、ベルルスコーニの巧妙なスキャンダル隠しという意見も新聞では見られる。それでも、イタリア国民が彼に憎めなさを感じるのはその国民性なのか。

経済も建前や公式通りに収まり切らないところに、ある意味で懐の深さがある。イタリア経済の実態を、表面の数字のみからつかむことはできない。公式統計から、イタリア北部にある工業系の中小企業の実力が相当なものだと分かるが、その実力は統計に出ないデザイン力だ。世界各国の工場で使う生産機械などはドイツ、スイス製と並んでイタリア製が非常に多い。またミラノやボローニャでは、デザインは イタリアで行い、実際の生産はアジア諸国に下請けに出すスタイルでの家内工業的な中小企業や企業組合が多くある。

ただ、注目すべきは地下経済だ。下表にあるように、政府統計に表れない地下経済が、推計で全体の28%近くを占めている。

まじめと楽天的

日本人のまじめできっちり課題に取り組む姿勢それ自体に問題はないが、もう少し、楽天的な面があっても良いのだと思う。ベルルスコーニ氏が政治家として良いかどうかは別として、彼が体現するイタリア人的なものに学ぶべきは、楽天性と、生活の質及びその質の選択肢があることだろう。日本人は、何でも理想的な選択肢を作ろうとしがちだ。先進国であり続けられるかどうかの岐路に立つ日本は、イタリア的なものに学ぶこともあるのではないか。

■各国の地下経済の大きさ
グラフ

(2011年6月28日脱稿)

 

第160回 ドイツの原子力政策の転換

メルケル首相の判断

ドイツのメルケル首相は、今後10年以内に同国を原子力発電から撤退させると発表した。2年後の総選挙を控え、また最近の地方選挙(バーデン=ビュルテンベルク)における緑の党の躍進を見るにつけ、政治判断をしたと報道されている。これより以前に、全発電量のうち40%近くという原子力発電への高い依存度を持つスイス政府も同様の発表をしている。エネルギーの確保は経済の成り立つ前提条件であり、エネルギー政策は経済政策の基底を成すものである。またユーロ経済では現在ドイツが独り勝ちで、欧州経済の牽引をしている。ドイツでのエネルギー政策の転換は、大きな意味を持っている。

ただ、このエネルギー転換には紆余曲折が予想される。現時点では南ドイツの太陽光発電などの代替エネルギーを使いつつ、CO2削減をも図っていくという見通しだが、ある程度は、全発電量のうち80%近くを原子力発電で担っているフランスからの買電で調達しなければ需要を満たすことは難しいと思われる。またメルケル首相は、風力や波力などまだ確立されていない分野への関心も示している。

原子力の長所は、原油価格やCO2の排出を心配せずに、24時間にわたり安定的なエネルギーの供給が図られることである。太陽光では日照時間の不安定という問題を抱える。風力なら、風を捕まえるためにあらゆる場所への発電装置の設置が必要になる。

グラフ

英国の対応

英国の連立政権の立場は税金投入を避けつつ、民間の原子力発電投資を立地条件の整備などを通じて支援するというもので、原子力の利用をフランスほど国策化していないし、ドイツのように撤退を明確にしているわけでもない。どちらかと言うと保守党は原発賛成派寄りで、自由民主党は反原発色が強い感じである。

これまで見てきたように、ドイツとて一気に原発をなくすこともできまいし、フランスもこれ以上の原発依存は難しいので、それぞれのスローガンが示唆するほど各国の実態に差があるわけではないと思う。結局どの国でも色々な発電策の組み合わせになろうし、また蓄電池など蓄電の仕方や電力使用の総量削減だけでなく、ピークを均す工夫もあり得る。ただ、切り札はやはり省エネと、それを支える技術革新と投資だろう。

エネルギー節約の余地

中国や韓国はもとより、英国も含めた欧州や米国といった各国がまずできることは、エネルギーの節約である。節約というのは、我慢したり、不自由したりすることではない。同じような効果がより少ないエネルギーで得られる技術は、上のグラフを見るまでもなく、日本が持っている。

日本では原子力発電所の新規立地はもはやあり得ない状況で、また今後、各地の原子力発電所が定期修理に入ると事実上再開できない状態が続くと見られる。 今夏だけでなく、冬も節電を余儀なくされるため、一段とエネルギー節約技術を開発するインセンティブがある。まして原油価格、石炭価格が上昇すれば、同技術の経済効果は大きくなる。日本の技術が世界に広がることで、世界は原子力依存度を下げることができるのだ。ドイツも英国も、技術を使った節電というエネルギー 政策を進めることが、原子力発電所への依存度を下げる意味でも国民から支持される方策であろう。

日本の技術者は世界の先頭に立っているし、消費者も自らの生活を考え直すという点では、過剰冷房などといった問題の少ないドイツや英国の生活に見習うべき点は大いにある。グローバリゼーションを良い方向に利用するときに、こうした人類の知恵を生み出す発想こそ求められる。

(2011年5月31日脱稿)

 

第158回 祝・ウィリアム王子のご結婚 - 王室・皇室の意義

金銭では測れない価値


ウィリアム王子の結婚式は、
改めて王室の存在意義を示した
Picture by: Stefan Rousseau/
PA Wire/Press Association Images

テレビでウィリアム王子の結婚式の中継を観た。なぜトラファルガー広場を回らずにホース・ガーズを横切るのかとか (王室用地なので警備費が安くなる、との報道があった。経済が苦しい中、王室も楽ではないということだろう)、日本の皇太子ご夫妻も出席できれば良かったのにな、とか(震災で自粛、との報道があった。震災への援助に礼を述べ、国家の親交を 深める皇室外交のチャンスだったのではないか)、ぼんやり考えていた。景気も今一つ、震災やリビア空爆、紛争など大変なニュースが多い中で、とても気持ちの良い出来事であったと思う。読者の皆様の中にも、実際に沿道に行かれたりテレビを観たりした方が多いのではないか。

ところで、式の最後に「God Save the Queen」を列席者が歌ったが、一人だけ合唱に参加していない人がいた。言うまでもないが、歌われる対象である女王陛下である。テレビでははっきりと映っていたが、口をきりりと結ばれ、正面を向き、皆の賛歌を受けられていた。当然、 歌い終わった後の拍手にも直立不動。最高位にある女王陛下としての在位中のご苦労は並大抵ではなかろう。ダイアナ妃問題など数々の危機を乗り越えた厳しさと自信のある尊顔は、黄色のご衣裳とも相まって何とも言えない神々しさというか、美しさがあった。

いずれ国王としてこの重責を担わねばならないウィリアム王子は、まだまだ甘い顔をしておられるように思えた。女王と比べると、乗り越えてきた危機の規模と数が違うだろうから、当然かもしれない。 王室の価値は、やはり国家の危機時に発揮されるのだ。英国における女王陛下の 存在の重さを改めて感じるし、国の危機になれば、必ずや前面に出る存在が女王なのだと強く感じた。そうであってこそ、ご結婚のような祝事を国民はこぞって祝える。税金の無駄遣いとか結婚の経済波及効果なども問題になるが、危機時に発揮される国民の心のよりどころとしての意義は金銭では測れないし、測るとするならば莫大な価値になろう。

日本の皇室

同時に思うのは、震災後の日本の天皇皇后両陛下の活発な活動である。筆者は天皇制について特定の意見を持つ者ではないが、両陛下の活動には、目を見張るものがあると思う。

震災直後の陛下のお言葉では、その落ち着いた口調と、民を雄雄しいと表現されたことで、震災から立ち直ろうと努力する国民を励まし、自分もともにそこにあるという立場を示された。「雄雄しさ」 という言葉を民に用いるのは、天皇家が国民に対して、自らともに戦うという姿勢を示すときだそうだ。明治天皇は日露戦争開戦のとき、昭和天皇は第二次大戦に敗れて占領下にあったときに、戦後復興を願う御製でこの言葉を使われた。

さらに震災の避難者がいる東京や、被災地である宮城、岩手の慰問はもとより、 筆者がとても驚いたのは、皇居を東京電力の計画停電の第一区域と仮定して(実際は千代田区は計画地域停電外)、第一地域の停電時間帯には、暖房や照明など一切の電気を切られているとの報道である。 寒くないかとの質問に、セーターなどを着れば何でもない、と答えられたとのこと。 70代後半の天皇陛下が、である。パフォーマンスと批判するのはたやすいが、そう取る日本人は多分いないのではないか。

民主主義のあり方が問われる

日英ともに、危機時において、首相にはその正統性という点で、皇室のような国民統合の力を求めることは恐らくできない。一方で、精神的な統合性は危機時に国民の大きな力になるが、精神的な統合性だけでは現実に衣食住を確保できない。首相以下の政府は、衣食住=生活を安定させるために働く必要がある。日本の危機時において、天皇陛下はご自身の役割を果たされつつある。これに対して首相以下の公的機関は、もっと大胆に復興を担う役割が期待されているのである。

(2011年5月6日脱稿)

 

第156回 安全と効率の間 —自動車メーカーを例に

サプライ・チェーンの再構築

震災発生後、日本経済は一時的に景気回復に向けた動きが止まった。その理由は、第一には震災の規模の大きさに加えて、福島原発での事故が未解決であり、計画停電が続いていることを受けて消費者全体に自粛、節約が広がっていることである。旅行、飲食、ホテルでは予約のキャンセルが相次ぎ、経営が苦しくなる企業も出始めている。第二には、東北地方のほか、茨城県北部での工場被災によって、製造業における原材料や部品の供給が止まったことで、全国の製造業の生産そのものが停止したことである。今回はこの部品供給、すなわちサプライ・チェーンの今後について考える。

影響は様々なところで出ている。まずは自動車メーカー。自動車は部品の数が3万点と非常に多く、トヨタや日産などの自動車メーカーの下に一次、二次、三次と下請けがピラミッド状に系列を成している。そのピラミッドを構成する企業のうちどこか一つでも生産を停止すると、ピラミッドの頂点にいる自動車会社は自動車を作れない。例えば、福島県のエンジンやサスペンションといった基幹部品や茨城県の電子制御関係の部品もさることながら、様々な地域で作られているエンジン・オイルの蓋のパッキンや、塗料に入れるつや出し顔料などだ。小さなパーツなのだが、それがないと車ができない。そして自動車会社が生産を停止すると、部品を作る一次から三次の下請けの資材調達先を含む膨大な数の企業に影響が出る。また日本の自動車部品は海外輸出が多く、北米の自動車生産にもブレーキがかかっている。

在庫管理の効率

仮にある部品が生産を停止したとしても、その部品の在庫があればある程度の期間は操業できるのだが、日本の自動車メーカーは看板方式といって、在庫をできるだけ持たずに、納入業者に必要なときに必要なだけ持ってきてもらう方法を取る場合が多い。その方法を極限まで突き詰めたのがトヨタである。非常に効率的な方法であり、日本の自動車が品質が高い割にコストが低いのもこのためである。しかしながらこうした効率性は、一旦どこかで不具合が生じると部品在庫という「遊び」がない分、機能が急に停止してしまう。効率性とは別の安全性という基準に照らせば、多少は非効率であっても部品在庫はあった方がいい。

幸い日本の産業界には、裾野の広い自動車の問題を優先的に解決しようという雰囲気があり、自動車会社の生産の正常化は6月には実現できる見込みだという。4月中旬くらいから少しずつ生産が再開され、5月には通常の半分程度まで回復できそうである。

各自動車メーカーは、自らの生産行程を構成するピラミッド(サプライ・チェーンという)のどこに綻びがあるのか、それがいつ復旧するのか、当面復旧しないなら代替品を西日本や中韓のメーカーで作れないか、その設計変更に要する期間は、といった点を懸命に模索している。メーカーの社員が下請け会社まで出掛けて技術指導するケースもあるという。こうした努力により自動車業界、次いでそのほかの機械や化学といった業界が復旧するという順になりそうだ。

安全と効率の間

さて、復旧が仮にできたとして次に考えるべきなのは、こうした事態を今後避けるための再発防止策であり、これが日本の産業のあり方を考える上で非常に重要である。サプライ・チェーンの問題を今後考える場合、効率を重視して部品在庫を持たないのか、安全を重視して部品在庫を持つのか、または他の方法で効率性を維持しつつ、安全性もキープできるのか、が問題になる。

例えば日本の自動車メーカーは、やはり部品在庫を従来通り持たないことで効率性を維持した上で、安全性を高めるため、すべての部品について原材料までさかのぼって実態を把握して、代替案を予め準備するようだ。ただ、こうした措置がコスト増を生むことは確実で、調達先を複数にしたり、在庫を多く持つことと比べてどちらが効率的なのか、現時点では何とも言えない。

グローバリゼーションで原材料調達と販売を世界で行うことが効率的とされてきたが、その鎖が長いと非常に脆いのだ。「遊び」を持たないというのであれば、その鎖が切れたときのリスクを考えると、ローカルな企業の方が強いとも言えるという当たり前のことを、企業は現在、身にしみて感じているのではないか。

(2011年4月3日脱稿)

 

第154回 東日本大震災を受けて(第一報)

原子力発電への影響

この原稿を書いている2011年3月12日の段階では、東北地方太平洋沖地震発生の翌日に起きた福島第一原子力発電所の爆発による放射能の大量漏れは避けられている。仮に放射能漏れが起これば、かつてチェルノブイリやスリーマイル島が経験した放射能の雨が東京を含む東日本に降ることになる。そうなると日本人の生命身体や日本の自然が何世代にもわたって蝕まれる恐れがあり、最悪の事態は免れる公算が強くなったと思われる。

現在は、核分裂を行う場である圧力容器やそれを格納する鉄製容器に海水を注入して原子炉を冷やしているという。海水には不純物が多く含まれているため、原子炉を再び使用することは考えにくい。そうなると、福島の原子力発電所の建設に投入した何千億円という投資を捨てることになる。被爆(ばく)を避けるという観点からはやむを得ない判断だったとは思うが、原子力発電の推進には疑問符が付くことになる。

英国や米国などでの原子力発電の再設置については、安全性のみならず、経済効率性の観点からも大きなブレーキがかかるのではないか。太陽光や風力といった代替手段には小さな発電量しかないとすると、輪番で地域ごとに停電させるといった措置が取られることになり、当面は節電モードになるであろう。人類の生命としての傲慢に対する警告と考えるべきか。ともかく、中期的には水力発電が再度注目されるのではないか。

経済への影響

次に、東日本大震災による日本経済の影響について考えてみたい。まずは日本国内の製造業だ。特に福島県や宮城県の半導体、自動車、各種部品などの生産が回復するのに1カ月以上はかかる。すると、そうした工場で生産している財を部品とする日本全国やアジアさらには欧州など世界中の企業の生産が止まることになる。分かりやすい例で言えば、瓶などのキャップのパッキンを作っている福島の工場が被災することにより、ビンのキャップが作れなくなる。キャップができなければ、飲料、化粧品、薬品などの製品の出荷ができない。そうしたボトルネックによる大きな生産停滞が、日本のみならず世界中で生じることになろう。

リーマン・ショックほどではないが、今回の地震は相当な生産の低下をもたらし、経済を冷やすことになる。雇用には悪影響となり、自粛ムードとあいまって消費を大きく冷やす。そうなると小売業や卸売業をますます苦境に追い込むことになり、金融面にもしわ寄せがくる。日本を含む先進国では、リーマン・ショック後、政府が大きな財政対応を行い、中央銀行が金融を緩和することで経済が底割れすることを防いできたが、その措置の継続を正当化できるような状況になったため、日本ではそうしたセーフティー・ネットを外すことが一段と難しくなったと思われる。税と社会保障の一体改革もほぼ確実に見送られるだろう。

そのほか、今回の大地震による日本経済への影響を順不同で以下に予想する。

● 死者数の増加による消費の一段の低迷
……被害が今後明らかになるため

● 日本株の下落と日本国債価格の下落
……経済、財政悪化のため

● 建設株や資源株の値上がり
……復興需要のため

● 日銀による大量の資金供給
……復興と国債の価格を支えるため

● 物価全般の値上がり
……復興需要、仮需要

● 魚の値上がり
……漁港が壊滅しているため

● 歌舞音曲、スポーツなどの自粛による消費、旅行の低迷
……被害が大きいため、さらに連日の報道で国民の心理に大きなショックが残るため

2011年という年

終わりになるが、今年の年頭に経済は「凪」であると書いたが、今回の地震、北アフリカや中東の民衆による独裁者への反乱、豪州などの洪水、ロシアの干ばつ、日本における政治の混迷など、数々の出来事が経済に大きな影響を与えている。経済のファンダメンタルズはそう悪くないのだが、やはり人類は、経済以前の生き方や環境、特に自然への姿勢などといった根本的な問題に直面しているのだと思わざるを得ない。これまでの現実を前提とする「政治」という機能を使っての問題解決には限界がある。社会や市民というレベルでの活動や考え方の整理こそが近道であることがはっきりしてきたと思う。2011年はそういう年として歴史に残るのではないか。

(2011年3月12日脱稿)

 

第175回 ホルムズ海峡、波高し

原油価格高止まり

昨年以来、原油価格が1バレル=100ドル近傍で高止まっている。リーマン・ショック後、穀物や金属などの商品相場が値を下げているのに比べると特異性が目立つ。最大の原因は、日本の電力会社の原油購入量が著しく増加していることである。原子力発電所の再稼働は益々遠のく感じで、原油市場でも日本商社は買いを見透かされて高値での買いを余儀なくされているようだ。同様のことが液化天然ガス(LNG)でも起こっている。

これに加えて、米国経済の好転を示す指標が相次いでおり、米国の景気回復への期待が高まっていること、また中国政府が景気減速を受けての金融緩和を表明しており、世界中がその効果を期待していることなども原油価格の下値の強い抵抗線になり、価格を上げる方向へ相場を動かしている。

新年入り後はさらに別の新しい動きが見られる。米国によるイラン産原油の輸入禁止制裁と、それを受けて、ペルシア湾とオマーン湾の間にあるホルムズ海峡を閉鎖するとのイランからの脅迫の応酬である。

ホルムズ海峡の閉鎖

ホルムズ海峡が閉鎖されると、サウジアラビア、イラク、アラブ首長国連邦、クウェートから日本への原油輸送ルートが遮断されてしまう。もちろんイラン自身からの船積みが通過することもほぼ難しくなるのでそう簡単な話ではないが、もし仮にそうなると、石油危機の再来である。

原子力の使えない日本では、日常生活すら覚束(おぼつか)なくなる。欧州へはパイプライン経由での陸上輸送も考えられるが、フランスの原子力発電の価値や、パイプ・ルートに当たるアゼルバイジャン、トルコなどの近東諸国の地政学上の重要性が高まる。世界経済、世界金融市場のクラッシュは必至だ。また有事のドル買い、円の暴落も確実である。

米国政府によるイランからの原油輸入禁止依頼に対して中国政府は応じない構えを見せており、こうなると原油収入が頼りのイランは対中接近せざるを得ない。いずれにせよ、国際紛争が経済問題になり、やがては国際政治問題につながっていく展開も予想される。また原油輸入禁止措置によって国民生活が立ち行かないとなると、原子力発電の再開を認めるべきとの世論が今後大きくなっていく可能性もある。

高止まりする原油価格(NYWTI原油相場、$/バレル)

先を読んだ準備を

東日本大震災の教訓は、想定外の災害への想定と、その想定に基づく準備と訓練の重要性である。目下、日本の経済にとって、天災を除く大きな災害は、第一にはユーロの暴落によるドルの急騰、円相場の下落、実体経済の世界的な同時縮小だ。そして第二はホルムズ海峡封鎖による石油ショックである。そして第三は、日本の財政赤字問題に端を発する日本国債の暴落、円の暴落、そして金利の急上昇である。第二、第三の点は、日本にとってはとりわけ深刻な危機になりかねない。政府はこうした事態の想定とその想定を前提にした訓練を行っているだろうか。天災、バブル、クラッシュ、エネルギー危機といった災害は、形を変えて繰り返しやってくる。具体的な行動をどうするかあらかじめ決めておいて、事態が発生したら考えることなく、着のまま即行動する。震災は様々な苦労を生んだが、天災が残したこうした教訓は、経済変動や市場クラッシュといったほかの災害に対しても相通じるものがある。

(2012年1月11日脱稿)

 

第173回 強いリーダーとコンセンサスの複眼

待望される強いリーダー

今、どの先進国においても、強いリーダーシップを期待する声が強い。ベルリンの壁の崩壊後、バブルの生成と崩壊というノイズがあるためはっきりとは見えにくいが、先進国経済は、最初は新興国における安い賃金・労働力を利用できるという恩恵を受けてきた。しかし、2010年以降は、新興国の産業面での追い上げに苦戦している。そしてこれからは、日本企業のアジア進出、英国企業の東欧・アフリカ進出、米国企業の南米進出といった現象に見られるように、新興国の内需に苦戦脱出の光明を見出そうとしている。

こうした世界経済の激変に当たって求められているのは、これらの変化にスピード感を持って対応できるリーダー、つまり既存の成功体験に拘らない独裁型のリーダーである。特に技術進歩の著しいIT分野の企業では、アップル、マイクロソフト、オラクルなどにカリスマ経営者がいる。またそれ以外の産業では、ヴァージン・グループのリチャード・ブランソン氏、ユニクロの柳井正氏などがその代表的な例だろう。政治でもサッチャー首相を嚆矢(こうし)として、小泉純一郎元首相、橋下徹大阪市長も民衆の支持を得た破壊・独裁型のリーダーである。

彼らに共通する美点は、意思決定、実行のスピードの速さだ。ビル・ゲイツ氏には、まさに「思考スピードの経営」という著書がある。こうしたリーダーは、筆者が実際に会った際の印象や本人に会った人に聞いた話、または自伝の記述などを総合すると、人間としては常人ではなく、周りが付いていくのが大変という人が多いようだ。しかし、革新的なアイデアと手法で既存秩序をぶち壊さないと、前に進めないことがよくある。また彼らは夢を追うタイプではなく、現場の知恵を知り、具体的に手順を進める現実家である。そして存在感があり、争点を単一化して分かりやすく会社や民衆の拍手を取るのがうまく、ここに天賦の才があると思われる。

コンセンサス型リーダーの出番

こうしたリーダーは成り上がりやオーナー経営者に多い一方で、周囲の同意を丁寧に得つつ、従来の実績を漸進的に変えていくコンセンサス型にはサラリーマンが多い。リスクを取ると人事上不利になることから、保守的に振る舞う習い性がそうさせるのである。コンセンサス型のリーダーは現在は不人気だが、果たしていつの時代もそうだろうか。ベルリンの壁が崩壊し、IT技術が著しく発展するという時代には向かないかもしれないが、社会が安定している場合には着実な改善を試みる方が社会的な摩擦が小さく、好まれる可能性が高い。従来の経営方針や社会制度を否定すると、それらが持っていた長所も損なわれる。万能薬はないという当然のことはもっと認識されて良い。

例えば効率一辺倒となると、国民の幸福には資さない。東京電力を始めとするインフラ系の企業は、安全や安心を確保するためにむしろコストをもっとかけるべきであったと考えられる。英国でも鉄道の民営化による線路の保守と列車運行の分離民営化は、両者の連携不足を原因とする事故の多発などから見直されている。

時代に合わない従来の方針や制度があるにせよ、それらが全く意味を持たないということは普通はありえない。ただ、漸進主義的な部分改良では社員や住民のやる気が出ないとか、状況に合わないという場合がある。結局は劇的と漸進主義的の両方の進め方があり得るのであり、どちらの方法が合うかは場合による。いずれにせよ重要なことは「選択後の中間フォロー」なのだと思う。

大事なことは説明・結果責任

上からの改革にせよ、下から積み上げる改革にせよ、結果を受け入れるかどうかを評価するのは、企業であればお客様であるし、国や地方公共団体であれば住民である。こうした人々が納得するための説明には、いくら手間と時間をかけても十分ということはないと思う。その過程を省いたのでは、結果の責任を取ることもできないであろう。逆にその過程があれば、責任は堂々と取れる。

英国では公共支出の削減や企業でのリストラが相次いでいる。日本も現在の景気はまずまずでも、少子高齢化の下での税金や社会保障制度などの改革は必至であるほか、内需が縮小する中で国内中小企業が生き残りを図るために、原点回帰、急がば回れで、業務改革を進めていかなければならない。各界のリーダーは、独裁型またはコンセンサス型のいずれの手法を取るにせよ、改革手法そのものについても情報公開と丁寧な説明が求められる。

(2011年12月3日脱稿)

 

第171回 日本のTPPで考えること

日本の経済をどう維持するか

野田首相は、判断を1日延期した末、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉に参加する方針を11月11日に表明した。TPPとは、関税の原則撤廃や貿易手続きの軽減などを主な内容とし、これにより参加国間の貿易を活発化することを目指している。これまでの経緯を見ていると、実に色々なことを考えさせられる。

第一に、日本はどうやって国の経済を維持していくかについて迷いがある。国民の合意がない。政治的なリーダーもそれを語れていない。まず、日本の輸出品は、中小企業が手掛けるものと一部素材製品や自動車を除いて、国際競争力を段々と低下させつつあるという現状がある。韓国や中国との競争に遅れをとったパナソニックやシャープが液晶テレビ生産部門のリストラを発表したなどの事例にもみられるように、今、足元に火が点いているのは、電気機械、IT関係である。自動車業界も時間の問題であろう。モノづくりの基本は企業の現場にあり、輸出の不調を受けてこれら各業界の現場が海外移転をさらに進めれば、雇用のみならず、技術継承の面で競争力の低下を加速させかねない。実際、金融業にかけた英国は、不況脱出の道筋を見出せていない。モノづくりの放棄のツケとも言えるのではないか。日本がモノづくりを続けるとするならば、貿易に関する問題の検討は避けられない。

そもそも、原子力の利用に疑問符が付いた現在はなおのこと、それ以前からもエネルギーと食料を自給できない日本は、貿易なくして国は成り立たない。産業競争力が失われればギリシャやスペイン化が10数年後に来ることを考えると、自由貿易の動きに反対することは今の経済体制の下ではあり得ない。仮に自由貿易をしないなら、農業のみならず、先に挙げた電気や自動車などの産業も保護し、江戸時代のような自給自足に近い形で生活が成り立つ方法を考える必要がある。そうした生活様式を目指すのか否かの議論なく、野田首相のように、「競争力ある製造業と農業の両立」を唱えるというのは無責任だ。もし、競争力ある製造業によって賃金が高くなっている日本において、付加価値の高低にかかわらず農業を守るというのであれば、付加価値の低い農業への補助金が必要になる。その規模やモラル・ハザードの弊害を明らかにせずには、国民は政治選択できない。

農業改革ができないのはなぜ

第二に、1993年に終了した、関税および貿易に関する一般協定(GAT T)のウルグアイ・ラウンド以後に開始されたコメの輸入に対する見返りとして使った6兆円を持ってしても、一部の農家を除き、日本の農業の経営改善が図られていないという事実を直視すべきだ。農業自体は、種苗や耕作においては装置産業であることに加え、生物への深い理解が必要な科学産業でもあり、現にそれらの領域で深い洞察を持つ農家が成功している例も多い。だが、農業協同組合を始めとする関連産業に先の6兆円が流れて、農業改善のためには使われていないのではないかとの疑問がある。この点の検証なくして、補助金の増額を決めることも適切ではない。兼業農家中心の補助金政策についての議論なしにTPP問題の根本を論じることはできない。

ブロック経済化に賛成か

第三に、自由貿易賛成だとしても、TPPが唯一の道ではないということである。もともと、関税撤廃や貿易手続きの簡素化についての世界的な仕組みは、貿易が経済的には世界全体の利益になり、一部の国だけで行うとそれ以外の国に不経済が生じるので、世界全体を包括的に網羅して行おうという考えを基にしている。昔はGAT Tがあり、その後この組織は世界貿易機関(WTO)になっている。しかし近年、農業問題では各国の保護策の解消が難しく、そうした措置が可能な国からということで自由貿易協定(F TA)など2国間で結ぶ自由貿易協定が相次いで締結されている。こうなると、WTOで解決できない問題を、議論もせずTPPで解決できると考える方がおかしい。

とすると、TPPの意義は、対中国で自由貿易圏を作りそれを包囲しようとする米国の安全保障政策の一環との見方にも頷ける。日本にとっては最大の貿易相手国である中国が含まれておらず、米国との輸出入品の関税率は相互に既に低いので、TPPによる日本の対米輸出増加は期待できない。中国を排除して安全保障面で米国ブロックに留まるという選択肢なら、総選挙で信を問うほどの問題だ。日本政府の広がりのない限定的な説明だけを聞いていては真の論点が分からない。野田首相のリーダーシップの欠如と言わざるを得まい。

(2011年11月11日脱稿)

 

第169回 東電経営問題の行方から日欧の財政危機問題を考える

事業仕分けの蹉跌と増税論

日本の民主党による行政の事業仕分けは、一定程度の無駄を削減し、予算を捻り出したものの、当初のマニフェストがうたったほどの効果は出なかった。その後は結局、日本の高齢化に伴う税と社会保障の一体改革に問題が移行し、消費税増、社会保障給付の抑制が政権のテーマになっている。

事業仕分けについては、その大衆討議的な手法が官僚の吊るし上げに見えるといった演出の問題や、蓮舫行政刷新担当による「世界一でなくてもいい」という発言の是非、さらにはこれまでの積み上げを全く無視したダム廃止の決定などの問題があったほか、官僚の抵抗もあって既得権益の本丸に迫り切れずに、やはりマニフェストは絵空事だったというのが日本で見られる論調である。そしてリーマン・ショック、普天間問題、東日本大震災、原発問題などが相次いで起こったため、官僚や国民の関心が目先の問題に集中し、野田政権は給付抑制も忘れ、増税路線を走っている。マニフェスト復帰を主張する小沢派も「約束は約束」といった形式論だけを言っているため、中身の妥当性や財源確保の可能性を示せず、説得力が十分でない。

試金石としての東電経営問題

しかし、増税に踏み切る前にやることがある。東京電力の経営問題の解決だ。事業仕分けが取り組むことのできなかった本質的な行政の問題をえぐり出す可能性があるからだ。東電は民間会社ではあるが、今や政府がかりとなっており、政府同様の独占企業体による経営の問題点を国民の前にさらし、電力料金算定法の透明性、情報公開性、ファミリー企業への天下りや発注価格の妥当性の再検討などを通じて、無駄の削減を公開でどこまで実施できるかが課題となっている。もちろん、東電でこうした問題が解決できるなら、国内9電力でもできる。政府系企業はもとより、地方自治体、日本の大企業も同様の課題を抱えているから、応用問題は山のように出てくるはずだ。

現在、東電による賠償資金は、政府が交付国債で供与しているため、東電がすぐにつぶれることはない。しかし、東電は電力節約による売り上げ減、原油への依存度上昇と原油価格上昇、銀行団による長期資金の供与停止のため、年末から来年初めにかけて資金繰りに詰まる見通しだ。銀行から融資を受けるためには経営体力回復が必要で、まずは電力料金引上げが考えられるが、それには国民、政府、銀行の納得が必要で、こうした各機関にとって東電の窓口となるのが原子力損害賠償支援機構である。国民負担となる交付国債を極力少なくするためにはリストラが必要になるが、そのためには原子力損害賠償支援機構が東電の経営を握ることが考えられる。現経営陣のような生ぬるいリストラでは、数兆円以上の損害賠償に耐えられない。この点、累積している日本の国債残高や、欧州ではギリシャやスペインの行政改革による国債の償還財源確保といった問題と構造が似通っている。

原子力損害賠償支援機構が経営権を握るためには、東電が資金繰りのために発行する新株か、社債を引き受け、株式転換することが考えられる。新株発行比率を調整して、既存株主の権利を事実上ゼロにすることが適当だ。そうすると現経営陣の追放、やる気ある若手の登用、国民への電力料金算定根拠や関連企業への発注内容の情報開示、労組と政治家・行政との癒着暴露が可能になる。

行政改革も国民の問題

東電の場合、株式会社ゆえに、原子力損害賠償支援機構が株主となり経営権を持つことでリストラ、情報公開、コスト削減が可能になろうが、これは日本政府が抱える諸問題の解決にも適用できる方法論ではなかろうか。さらには、欧州の政府や企業のリストラ策にも大きなヒントになるものだ。ただ、ギリシャでのゼネスト、スペインで40%を超える若年失業者の暴動、行政改革に対する責任は、議会、政治、引いては国民が負うべきものである。だから、株式制度という資本主義の制度とはまた異なる民主主義の論理でリストラを進めるほかない。

東電は、コストや関連先との取引の透明性、経営責任の明確化、企業ガバナンスの確立、こうしたことを重視するということが肝心である。公的主体でも私的主体でも考えることは同じである。東電の改革ができなければ、日本の行政改革など夢のまた夢だ。リストラは早ければ早いほど傷も浅く済むし、回復も速い。ユーロ危機、来るべき円の危機も、結局は、民主主義の問題と銘記すべきだ。

(2011年9月28日脱稿)

 

第167回 想定外の事態と経営者の責務

日本の政府丸抱えによる企業救済

欧米では財政赤字の問題を主因とする、各国の金融市場の混乱が収まらない。このため消去法で世界中の資金が円に流れた結果、円高が進んだ日本では、政府による不採算企業の丸抱えが行われている。欧米でも同様の措置を取ることがあるが、そうすべきかどうかを巡って議論を繰り広げるので、動揺が生じる。日本では動揺を嫌って、あまりに悩みなく、大きな企業のほか、災害時や欧米市場混乱時には中小企業ですら政府は救ってしまう。

不採算企業の良い例が東京電力だ。事実上、政府が丸抱えで救済することになった。その代わりに、東電が請け負うべき損害賠償の範囲も政府の委員会で決まってしまう。救済資金については、電力料金の値上げによる国民負担になる。これではモラル・ハザードが蔓まんえん延するのは当然である。モラル・ハザードと言えば、「想定外」という企業経営者の発言も然りだ。

BPとの違い

6月に行われた、各企業の株主総会に関する報道では、「1000年に一度の災害」だからであるとか、「想定外だった」ということで、赤字の原因として地震を挙げて答弁する社長の姿が多く見られた。その最たる会社は東京電力である。震災に関しては確かに不可抗力の側面もあるが、企業経営にはそういった事態にも備えることが包含されており、またその術もあったと考えられる。何しろ、会社法上で企業経営者には善管注意義務が課されているのだ。

この点、変な褒め方になるかもしれないが、英国の大手エネルギー企業のBP社は2010年の原油流出事故であれほどの損害を出しても倒産していない。企業経営者が厚い自己資本と損害引当金を積んでいたからである。自らの会社でリスクを引き受ける自家保険にかけていたというわけだ。

自家保険までなら、日本でも対策を取っている会社がある。しかし、多くの英国の大企業が取っている、事業リスクを保険でカバーする「キャプティブ」といった手法を利用している日本の会社は多くない。キャプティブとは、事業リスクを自社の関連保険会社が引き受けて、当該保険会社がそのリスクを再保険会社に再保険するという仕組みである。再保険することにより、リスクが現実化した場合、保険料上昇という形でリスクに対する経費を後払いする。引き受ける保険会社が自社関係でない場合にはファイナイト(保険会社のリスクが再保険で限定されるためにそう呼ばれる)という手法になる。こうした仕組みには、事前に積み立てる資本強化=自家保険よりも、企業買収の可能性を下げる、税金支払いが少ないなどといった利点がある。

経営者の責任とは

震災について、経営者が、想定外だから何もできないとか、免責されるという議論は、損害補てんの対策がある以上、通用させるべきでない。

ただ一方で、こうしたリスク・ファイナンスの手法だけでリスク管理が十分であるという議論も当たっていない。地震が起こった場合の行動計画、具体的には「Business Contingency Plan(BCP)」と呼ばれる災害からの復旧計画を立て、準備と訓練を行うことも企業経営者のリスク管理として重要である。果たして日本にそこまで考えている経営者がどれくらいいたか。

経営者は、会社法上、株主に対して善良なる管理者としての注意義務を有している。企業経営のプロには、一般の人以上に注意深くリスクを考え制御する義務を負わせることによって、高い報酬が約束されるのである。高い報酬だけがあって注意義務を果たせず「想定外」というのは、如何にも失格である。そのような態度だからこそ、政府の経営に対する関与についても文句が言えない悪循環になっているのではないか。


2010年4月に米南部ルイジアナ州沖で発生した石油採掘
施設の爆発事故(写真)で、BP社はその対応を巡って
各方面からの批判を受けるともに、多大な損失を出した

欧米市場の混乱の次は日本の番で、その混乱はより深いものになると考えざるを得ない。投資家や消費者=国民に対して企業経営者は注意義務を負っていると学ぶことが、今回の地震においての最大の教訓であるべきだと思う。

(2011年8月9日脱稿)

 

第165回 ロンドンでの暴動の根っこにあるものとは

暴動の根っこにある問題

6日夜からイングランド各地で始まった暴動について、事態はまだ続いているので予断は許さないが、強く思うことがあるのでぜひ読んでいただきたい。この事態は、人類共通の問題と思うからだ。キーワードは、「平和の配当の終わり」だ。

きっかけは警察による黒人男性の射殺事件だが、いずれの暴動も貧しい地区で起こっていることから、もともとあった貧富の差とキャメロン政権の緊縮政策に対して溜まっていた不満が、爆発したとの見方が多い。しかし、「サン」紙と世論調査会社YouGovが8、9日に2534人を対象に実施した世論調査によると、多くの国民は国内の不良グループ文化が背景にあると見ている。キャメロン首相の政策転換が暴動の直接的な原因だと考えている人は回答者の8%に過ぎず、失業問題が主な原因との回答は5%だった。また、人種間の対立が背景にあるとの回答も5%程度にとどまっている。キャメロン首相は夏季休会中の11日に招集された議会の冒頭で声明を発表し、今回の暴動について「何の政治性もなく、犯罪だ」と強く非難している。

確かに今回の暴動に便乗した若者たちが起こした行動は、犯罪であろう。しかし、便乗するに至った理由を掘り下げる必要がある。新聞では、この暴動に中産階級の令嬢、準教員、11歳の小学生などが加わっていたことを報じている。表面が豊かでも心を病む人は少なくない。貧困は確かに暴動の一因であろうが、物質的な豊かさが確保されれば解決されるというわけでもない。

先進国のもがき

90年代以前から、欧米の先進国は、日本の経済的な台頭などによって経済成長率の低迷を余儀なくされていた。それがベルリンの壁の崩壊で、市場のフロンティアが広がり、安い労働力が世界に解放されたことで、景気が回復してきた。しかし、今や新興国は低付加価値品の生産基地というばかりではなく、高付加価値品の生産も拡大させており、先進国の雇用が奪われている。そしてこうした新興国は、貿易黒字を背景に、経済のみならず、政治的な発言力を持ち始めている。一方の先進国は、製造業の産業競争力で新興国に押され、経済成長率はここ20年来再び低迷している。「平和の配当」が終わったのである。このため先進国の貧困層、特に移民、中でも若年失業者は豊かになる希望が持てず、またその層が次の世代にも引き継がれ、再生産される。

先進国の財政赤字は景気対策、貧困対策で膨らむ一方だ。このためキャメロン政権を始めとする世界各国の先進国における政治に、財政規律優先路線が台頭した。かくして、生活の糧は財政赤字削減でますます削られることになる。貧困層は、「衣食足りて礼節を知る」の逆を行かざるを得ない状況に追い込まれつつあるのではないか。手を打たなければならないことは、ベルリンの壁が崩壊したときに予測できたはずだ。この問題は先進国に共通したもので、英国だけの問題ではない。自己責任の原則は効用もあるが、絶対的な貧困に対しては限界を露呈する。欧米は経済的な自由度が高く、財政規律に敏感だからこそ、こうした問題が先鋭的に起こっているに過ぎない。財政規律が緩んでいる日本では、問題が先送りされている。

豊かさに潜むリスク

しかし、先進国(いずれは新興国でも同じ問題に直面するはずだが)において、さらに厄介な問題は、「衣食足りても、礼節を知るとは限らない」ということだ。豊かになったゆえの頑張りのきかなさ、人生命題の欠如、考える=工夫する能力の退化、対人能力の劇的な低下など、英国社会のみならず、日本社会でも同様の病巣がある。心に潜む闇はより分かりにくく、深くなっている。


Picture by: Lewis Whyld/PA Wire/Press Association Images
ロンドン北部トッテナムで警官と対峙する暴徒

同じような問題は19世紀末の欧米先進国でもあった。ただこれまでの状況と異なっているのは、現代ではアフリカを除く全世界が巻き込まれつつあるということだ。暴動の根っこについて、政治は洞察力を要するのではないか。だから単純に大量の警察投入でその場はしのいでも、問題の根っこは残ると考える。

(2011年8月13日脱稿)

 

第163回 米国のデフォルトはあるのか

米国のデフォルトの可能性

この記事が出る頃には帰趨(きすう)が判明して関連報道が多数出ていると思うので、やや旧聞に属する内容となるかもしれないが、日本の財政問題を考えるヒントとして、米国のデフォルト(債務不履行)の可能性が生じた意味について考えてみたい。

米国のデフォルトとは、同国の国債の償還期限(借金の支払い期限)に、その借金を支払えなくなった事態を言う。8月2日に、その事態に陥る可能性が出てきている。米格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスは、7月13日、米国の国債格付けを最上級の「Aaa」から引き下げ方向で見直すと発表した。米連邦政府の総債務残高における法定上限の引き上げに向けた米議会の与野党協議が難航しており、米国債が短期的なデフォルトに陥る危険が高まっていることが理由だ。米政府の債務残高は、5月半ばに、法律で定めた上限である14兆2940億ドル(約1131兆円)に達した。このままでは米国債の借り換えなどができなくなるデフォルトに陥るため、財務省は現在、年金基金などの資金を米国債の償還資金に充てている。

この資金が、8月2日には底を付く。オバマ大統領は、各種予算の最終的な支出額を来年の大統領選挙後に決めるという一括妥結交渉を案として提示し、一部高齢者向け公的医療制度や低所得者向け公的医療保険制度の予算削減を提案した。共和党、特に大きな政府に反対する茶会党系議員は一層の歳出削減を求めている。小さな政府の実現に向けての要求は、タリバンが勢いを盛り返しているアフガニスタンからの米軍の撤退という事態を招いた。米国では、リーマン・ショック後に弱者のために財政支出を増やしたオバマ政権のあり方そのものへの問い掛けが生まれており、これが小さな政府か大きな政府かという問題にまで遡行して論争となっているのだ。

デフォルトが取り沙汰されることの意味

米政府は「借金は返すのが当たり前」と思っているからこそ、債務上限を無制限に上げて、借り換えを繰り返すことが問題視されている。一方、日本では、国債は原則、借り換えることができて、さらに新規発行がなされることが当然のように思われている節がある。

実際のところ、米国人は財政規律に非常に敏感であると感じる。「大きな政府」は、ベトナム戦争などの記憶につながっている。ここには、2つの問題がある。第一には、米国の経済状態から見て歳出削減は適当かどうかという点、第二に財政規律はどのようにして実現できるかという点である。

第一の問題については、現在の経済状態では歳出削減は難しいし、適当でないと思う。いまだバブルの傷が大きい。その処理も十分でない。長期失業率が高い。こうした状態での歳出削減は、景気に非常に悪い影響を及ぼすであろう。このため、結果としては、大幅な歳出削減を訴える共和党も折れると考えられる。そして、債務上限は引き上げられるであろう。しかし、ぎりぎりまで、債務上限を引き上げていいのかどうかについての議論は行われる。そして、そうした議論は、後から価値が出てくるであろう。やはり、安易に得られる安定は長続きしない。苦労が必要なのだ。

第二の「財政規律はどのようにして実現できるか」という点については、米国はギリシャなどと異なり、米国債を買う人が多くいるので、資金調達の問題はそれほど深刻ではない。しかし、そのような状況が、いつまでも続く保証はない。要するに財政再建ができるためには、それに見合う歳出削減か税収が必要になるが、歳出の削減幅に限界があるとすると、税収を高めるほかない。税収を高めるためには、経済活動を活発にする必要がある。

日本の財政へのヒント

経済活動を活発にするという点では、米国に一日の長があると思う。経済活動の原則自由という理念が広まっていて、お上は必ずしも信頼されているわけではなく、出る杭を打たない。

日本はこの逆である。確かに、日本には日本のやり方があると思う。お上がある程度は公共事業や研究開発でリードしても良いのかも知れない。けれどもそれ以前に、財政の規律がなければ市場は国家を信頼しないとの認識が希薄なのは、やはり問題である。債務上限を引き上げられずに悩む米国の大統領と、本年度予算の特例公債法案がいまだに通らないという危機にある日本の首相が持つ危機感の間には、似ているようで大きな違いがあるのだ。

(2011年7月17日脱稿)

 

第161回 日本のインフレ局面入り

日本だけなぜ物価が上がらないか

下図を見ていただきたい。各国の消費者物価上昇率の動きである。英国が5%くらい、その他の先進国は、2~3%が多い。物価が上がっている背景には、新興国需要が旺盛であることによる原油・石炭などのエネルギー価格上昇と穀物価格の上昇がある。後者は、干ばつ・水害などによる影響もあるし、リーマン・ショック後の金融緩和による先進国マネーがロンドン市場を通じて資源ファンドなどへ流入したことも一因と言われている。ただ日本の物価上昇率だけが、いまだゼロ付近にいる。

■主要国における消費者物価指数の動き
グラフ

日本だけなぜ物価が上がらないのか。一つの回答は極めて統計技術的なもので、日本の物価指数を財別に見ると、テレビやカメラ、パソコンが含まれる耐久消費財だけが世界各国より非常に速いスピードで価格下落している。日本と他国との差のうち1%分は、大体これで説明できそうである。例えばCPUの処理速度が増すなどして品質が上がった場合に、新商品はほぼ同じ値段で能力が倍になったからという論理で、統計上では旧商品の値段が半分になったとして比較的正直に記録している。よって見かけは物価上昇率が低いように見えてしまう。

ただこの統計は、生活実感とは乖離している。なぜなら、品質が倍になったとしても、消費者は時間をさかのぼって半額の旧商品が買えるようになるわけではない。実生活では、現在店頭に出ている価格改訂後の新商品しか買えないわけだから、生計費は決して下がらない。だから、過小評価されている日本の消費者物価に年金や給料がスライドしていると、現実を反映した生活水準は下がってしまうことになる。

人件費と過当競争

そして日英での物価上昇率格差の原因となるのが、人件費即ち給料の上昇率の差である。英国では毎年、物価スライドで給料を上げている。逆に給料が上がれば物価も上がる筋合いにある。日本では、物価の上昇に応じて給料が上がることはないために、購買力が伸びず、物価も上がらない。そもそも、高齢化により退職者数が多く、企業があえて退職者数に対して採用数を減らしていることから、人件費は90年代以降大きく下がっている。既に高齢化社会を迎えた英国ではこうした現象は見られない。ただ日本でも2007年をピークに退職者数も減りつつあるので、人件費減らしも限界に近付きつつある。

さらに、日本国内の過当競争も一因となっている。例えば銀行を例に取ってみても、英国には4大銀行と信用組合しかないのに対して、日本には都市銀行が信託銀行を入れて8つ、地方の銀行が120余り、信用金庫が270ほどもある。高齢化で内需が伸びていないのに企業数が多いと、どうしても過当競争になる。英国の銀行は手数料が高いとよく言われるが、これも競争が少ないことを反映した一面である。日本では英国と異なり、不採算企業への融資の返済猶予を合法的に認めているので倒産が少なく、経済の新陳代謝が起こりにくいというのも過当競争の理由となっている。

中国経済が堅調である限り、原油や石炭、穀物の価格は、ファンドの影響で乱高下することがあったとしても、大きく下がるとは考えにくい。人件費が物価に連動し、過当競争も少ない英国では、ある程度物価が上がることは避けられまい。ただ中国のバブル崩壊と英国の金融市場での欧州通貨問題による再調整があれば、物価上昇には至らない可能性もある。

日本では震災による復興需要が物価押し上げの要因になるので、こうした中で、人件費削減が限界に近付き、金融機関が不採算企業の選別を開始すれば、物価は上昇していく可能性が高い。その意味で、人々の物価が上がるのではないかとの予想は、これまでにないほど強くなっている。

(2011年6月15日脱稿)

 

第159回 ポリティサイズの弊害

ポリティサイズ=政治化する

世界中の企業経営者のみならず、経済活動を行う一般市民にとって、現在はかつてないほど政治の動向を気にせざるを得ない状況になっている。先進国、特に日本においては、かつての英国がそうであったように、低成長の経済になると、高成長時代には相対的に小さかった、所得や富の分配のための政治の役割が大きくなるからである。しかし、政治が社会福祉的な分配機能を大きく超えて、民事法や商事法に基づく自由経済というルールを踏みにじる形で経済活動に介入すると、経済人は予測可能性を害され、経済活動で大きな悪影響を受ける。日本は今、震災という非常時であり、政治が果たす役割は非常に大きい。しかし、震災復興という目的を超えて、政治が社会問題に対してポリティサイズ=政治化することで直接介入してはいないだろうか。経済人はそれに厭(あ)き、嫌気が差している。今回はそういう意味で、政治の経済への悪い介入の例について書く。

政治化とは、社会の意思決定に何でもかんでも政治が関与する現象と言い換えてもいい。論点を政治問題とし、それをマスコミに露出することにより、政治が人気取りをするという意味でもある。最近の例では、東京電力に対する銀行への債権放棄・株主の保護要請、中部電力に対する浜岡原子力発電所の稼動停止要請、公務員給与の10%削減がある。借りた金は返すという約束、株主が経営の失敗に対して負う有限責任、私企業の意思決定への政治圧力であり、労働の対価に対する政治的介入である。民事法、商事法、労働法の原則を捻じ曲げ、自由競争の経済原理に政治が介入する。また、被災避難所での煮炊きを、食品衛生法のチェックが必要だとしてこれを認めないという事例が一部であったと伝えられている。さらに震災当日に東電社長が名古屋から自衛隊機を使って帰京することを認めず、しかも一度飛び立ち静岡の上空までたどり着いたヘリを名古屋へ引き返させるという一件もあった。大事なことと些事なこととのバランスを取れない杓子定規な対応である。

一方、本質的な問題である復興計画は財源問題が決まらないために、遅々として決まらない。復興計画、財源問題について、野党と国会で議論し、理解を得るために汗をかくことができない。原発停止という着眼点については、問題提起としては間違っていないと思うし、野党としての批判なら合格だろう。しかし、政権与党なら 議論を深めて、国民的なコンセンサスを作るプロセスこそ重要で、それこそが民主主義の深さとなる。

悪い弁護士の例

現在の政権には、弁護士出身者が多いように見受けられる。別に官僚出身や二世議員の能力が高いとは思えないが、弁護士独特の悪い面が出ていないか。「悪い面」とは、その場の言い繕いである。「放射能の人体への影響は、現時点では問題がない」といった言い方を官房長官はよくする。論理的にはその通りだろう。法廷では問題ないのかもしれない。しかし、そう言われると、一般の人は「長い目で見て影響があるのだな」と考えるのだ。

政治、政策においては、経済、社会、生活、外交関係といった色々な分野とのバランスを維持できるかどうかが重要である。原子力発電所における今日の放射能が大丈夫か否かという新聞記者の質問に無難に答えれば足りるという問題ではない。小泉政権以来、社会がポリティサイズし、マスコミがワイドショー化することの弊害の最大の問題は、政治が社会全体のバランス維持機能だという問題が失念され、論点主義となったことである。経済活動から見た政治の読みにくさもこれに起因する。

政治ショーの帰結

そうなると、言葉が軽くなる。そして出て来る政策は、財政再建一本槍とか、日銀は物価だけに固執するとか、国債引き受けは絶対ダメとか、消費税を途方もなく引き上げるとか、相続税は取れるところからできるだけ取れとか、年金未払いは全員救済とか、極端な政策ばかりとなる。社会のバランス感覚が失われ、論点がポリティサイズしてゆく。これが衆愚政治である。

一方で、優れた経済人はこの事態を感じながら、自社の殻に閉じこもろうとしている。敢えていうが、それも政治家と同罪である。経済人は経済取引の原則への政治介入に対して明確に批判し、抗議・ 発言すべきだ。誰かを恃 たの む根性でいては、福島原発の処理は米仏民間企業の商売の場となってしまい、主権すら危うい。そういう政治にしているのは、声を上げ得る経済人を含む我々であるということを猛省すべきときだ。

(2011年5月18日脱稿)

 

第157回 電力使用量削減の悪平等

日本政府、東京電力の削減

東日本大震災による福島第1原発の惨状は、いまだ解決の糸口すらつかめていない。福島第1原発はもちろん、震災前の事故で停止していた新潟の柏崎刈羽原発も地元の反対が強く再稼働できない状態にある。福島、茨城県にある火力発電所も大きな被害を受けている。

日本政府と東京電力は、夏場に電力使用量が供給量を上回り、各種発電所の緊急ブレーキがかかることによって発電所が全面的に機能停止し、大規模停電が起こることを危惧している。この事態を避けるため、ペナルティー付きで電力使用量のピーク引き下げを求める方針だ。大口需要者は25%、中小企業など小口は20%、家庭は15~20%の削減である(4月8日現在の数値。今後、東京電力の状況で変化し得る)。このため、自動車業界では輪番で休業日を設けるとか、銀行も近隣店同士で順番に営業するとか、東京のオフィスでは夏場に冷房を使わないとか、さらには工場の九州移転、オフィスの大阪への移転などといった動きがある。

しかし、こうした一律の削減目標は一見平等に見えるが、対策の施しようのない弱者には厳しいものであり、一種の悪平等ではないか。例えば、病院、保育園、幼稚園、学校、老人ホームといった社会的な施設の電力消費の実態を無視した20%の一律削減は、非常に逆進性の強いものになる。また一日中家にいる引退者の世帯と、独身または子供のいない共働き世帯で日中は不在という家庭では、全く節電の意味が異なる。電力供給量を調整することは技術的には確かに難しいが、世帯調査と組み合わせてペナルティーのかけ方を変えることはできるはずである。

大口需要者との調整

何より、大口需要者はもともとどの程度電気を使うかを時間帯まで決めて電力会社と契約しているのであり、電力会社もその使用量を随時監視している。そしてその需要者ごとに電圧を変える変電設備も電力会社が管理し、自家発電分との調整をきめ細かく行っているのである。こうした電力の調整こそが、戦後の電力不足時における日本経済を支えた。当時の政治家や官僚たちは、どのように電力を配分すれば最も効率良く生産を行えるのかを考えた。そうした姿勢こそが、日本の戦後復興の鍵となったのである。そのノウハウをなぜ今に生かさないのだろうか。

日本では、英国や米国と異なり、エネルギーの価格が非常に高い。日本はエネルギーを自給できない国だからこそ、その分配は必ずしも価格メカニズムだけではなく、国や電力会社が関わりながら大口需要者と調整してきたのだ。それが一律削減などというのでは、官僚や東京電力の仕事のサボタージュだとしか思えない。調整をしないのなら、官僚や大電力会社が存在する意味がないのだ。

もちろん、東京電力も、火力発電所の稼働やガス発電所の新設などの手は打っている。ただそれでも供給不足は解消できず、このままでは需要の調整は不可避である。そのときこそ大口需要者との間で操業時間をどのように変更し、ピークをいかに平準化できるかを調整すべきで、そのための調整を摩擦として嫌がるのでは、日本が高度成長期に培った傾斜生産のノウハウが泣く。

菅政権、この非民主的な政権

そしてそのツケは社会的に弱い立場の人に行く。民主党の菅政権は、その看板とは異なり、最も非「民主」的な政策を行おうとしている。政治家は、まずは自らの電力使用量をどう削減するか模範を示すべきだ。国会議事堂や議員会館の節電策を聞いたことがない。政治家はこうしたときこそ自ら節電を率先すべきであるし、公務員も不眠不休で意味ある働きをすべきだ。関東大震災のときは、大日本帝国憲法の下で議会の議決を経ることなく、勅令で政府がリーダーシップを取った。民主主義の下では政府が独裁を取ることは許されないが、それでも非常時と常時とでは議論のスピードが当然違って然るべきだ。日本の民主主義の成熟がここでも問われている。

政治は、その上で大口需要家との調整を東京電力にさせ、一方で、不要不急な電力使用を止めるよう説得すべきだ。石原都知事の言うように、自動販売機の稼働やパチンコ店の営業は全部やめるべきだとは思わないが、病院もパチンコも一律20%削減というのが愚策であることは明らかである。そうした調整こそ政治過程であり、一律削減なら小学生でも考えつくことのできる案と言える。英国ならそんなことはしないと思うが、いかがだろうか。

(2011年4月19日脱稿)

 

第155回 原子力発電の行方

福島第1原発問題の終息

この度、東日本大震災により被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。また被災地の一日も早い復旧と復興をお祈りいたします。

今回は、被災者支援に次いで日本が今後考えなければならない問題として、復興についての私見を述べたい。同震災により失われた経済活動とその財産は、国力を集中していくことで取り戻すことができるし、その道筋に大きな不確実性はない。地震後に残る経済問題のうち最も不確実度が高く、様々な議論が起こり得るのは、原子力発電を中心とする電力供給確保の問題だ。

その大前提は、福島第1原発の問題の終息である。執筆時点では原子炉への放水により炉の温度上昇が一時的に止まっているが、電源の回復により冷却装置が作動するか否かについては明確とは言えず、連続冷却により原子炉自身の破壊リスクを大幅低減できるかどうかは依然、予断を許さない。報道によれば、冷却装置の稼働ができれば大きな山を越えるとみられるので、その時期は極めて重要と思われる。早期解決できれば原発技術への信頼が残るかもしれないし、時間がかかるようだと不信がそれだけ大きくなると思う。筆者は、今後、便利さよりも安全・安心を重視する人が増え、重視の程度は、福島の終息に目途がつく時期により決まると考える。

日本での夏の停電への備え

大多数の人々が憂慮している大量の放射能漏れという事態を避けることがほぼできそうだという目途がついて第一次の危機が終息したとして、次の山は、この夏の電力需要を乗り切るためには東京電力の絶対発電量が足りないということになろう。東京電力管内の夏の電力需要は最大6400万キロワットに上る可能性があるが、福島第1・第2原発の運転再開はもはや絶望的となり、このままだとその供給能力は4800万キロワット規模にとどまると報道されている。東京電力では火力発電所の稼働率アップ、施行期間が短いガスタービン発電所の新設を目指して準備を始めており、そのために原油、天然ガスの需要が増え、価格の上げ材料となっているが、それだけでは夏の需要ピークには追いつくまい。

西日本の電力会社から電力の融通を受けるため、現在3カ所ある周波数変換所を増設することも考えられるが、これも間に合うかどうか(明治時代、後に東京電力となる東京電灯はドイツから輸入した50ヘルツ仕様の発電機を、関西電力の前身となる大阪電灯は米国から輸入した 60ヘルツ仕様の発電機を導入。現在も東西で周波数が異なるため直接送電できない)。ほかに考えられるのは、鉄道や製せいてつ鐵を始めとする業界の大企業は自家発電設備を持っているので、その機能を集約し、日本の企業全体で電力をかき集めるという方法だ。

後は使用時間の分散か節電ということになろうが、節電は復興需要に水を差す。電車で節電すると出勤に影響し、経済の効率性に悪い影響を与えかねない。時間の分散には時差出勤、休日出勤などが考えられる。政治の調整能力が問われるところだ。

原子力発電の行方と政治

その次の山は、電力確保政策の中での原子力発電所の位置付けをどうするかを検討することだろう。現在、日本の原子力発電所の工事はすべてストップした。ドイツでも古い原発は運転停止となっている。世界中の国が問題を突きつけられており、各国の対応が注目される。特に英国はブレア氏が首相在任時に原発停止から促進に舵を切ったばかりだ。

筆者は、今回の原発の事態には天災と人災の両面があると考えている。自然が人知を超えていることへの畏れを持ちつつも、日本の行政や電力会社は最善を尽くしてリスク対応をしていたか否かについて厳しく検証し、それを国民に示し、今後の選択肢を示す必要が出てくるだろう。そうすることで人災を上塗りせず、自然と共存していける国になれると思う。

エネルギーと食料の自給は安全保障の要であり、低炭素社会の実現への道のりにも気配りする必要があるかもしれない。節約という観点からは、あまりにも電気を使いすぎる家庭に対しては電力料金を累進的に高くするということも考えられる。一律停電ではなく、消費者や企業に、料金が使用量に対し逓増(ていぞう)する料金表を提示し、自ら電気使用量をコストとの関係で選択してもらうという方法もあるだろう。いずれにせよ、各国で政治が担う役割は極めて大きい。

(2011年3月22日脱稿)

 

第153回 多元文化主義は失敗か

キャメロン首相の演説

キャメロン首相は、2月5日のミュンヘンでのスピーチで、国内の若いイスラム教徒が過激な理想主義に走る事例が相次いでいることを念頭に、「英国での多元文化主義は失敗した」と述べた。「(労働党政権による)多元文化主義国家の信条は、様々な文化がお互いに干渉せず、英国の主流を成す文化からも距離を置くことを推奨してきた。そうしたいわば隔離されたコミュニティーが我々の価値観と正反対の行動(例えば信教の自由の否定、男女平等の否定など)を取ることすら許容した」と発言。さらに、異なる価値観を無批判に受け入れる「受動的な寛容社会」ではなく、民主主義や平等、言論の自由、信教の自由といった自由主義的価値観を積極的に推進する「真のリベラル社会」を目指すべきだとの認識を示した。

その上で、イスラム教自身は、言論の自由や平和的な問題解決、民主主義を否定するものではないが、イスラム原理主義、中でもテロを容認する過激な導師とそれに感化される若者の過度の理想主義が問題だと述べた。また、イスラム教徒などの移民の貧困や失業問題が解決すれば原理主義は衰退するとの左派の考え方については、テロリストは大学院卒や中産階級の出身者が多いことなどを挙げて否定。労働党政権が、イスラム教徒の若者に対して英国社会への帰属感を感じさせるような英国社会のビジョン、あり方を示せなかったことこそが問題だと述べた。

多元文化主義の是非

労働党政権の多元文化主義が、受動的な寛容社会で、民主主義や平等、言論の自由、信教の自由といった自由主義的価値観を否定する考え方やテロリストまで許容していたというのはやや言い過ぎだと思うが、保守党らしい演説ではある。この議論の要点は、英国社会において、自由主義的価値観を否定する考え方を排除することで、イスラム教徒の若者に英国社会への帰属感を感じさせることができるのか否かということだ。結論から言えば、この考え方には疑問符が付く。

例えば在英のインド人を例に挙げる。彼らの中には集団で固まって住む者たちが多いが、学歴があって中産階級となった階層は、そうしたインド人の固まって住む地域から散らばって住んでいるように見える。他の人種との結婚も増えてきている。英国の国会議員となる例も見られる。もちろん、いわゆるガラスの天井があって、インド人はCEOや企業幹部にはなりにくいといった問題はある。ただそうした面を差し引いても、彼らのコミュニティーは、英国社会と価値観を共有し、同化が次第に進んでいるように見える。父親か母親がイスラム教徒であれば、当然子供は家の中において多元文化の中で育つことになる。

人権や民主主義は、人間の尊厳を大切にしつつ、議論を通じてより良い社会を築いていくという意味で普遍的な価値を持つものだと思う。この点、イスラム教は信教の自由を正面から認めてはいない。宗教問題が絡むと、人権や民主主義の普遍性は幾分か相対化される。家の中や社会で異文化の同化が進むためには、議論の応酬を繰り返したり最低限の人権を確保するだけでは無理がある。同じ飯を食うとか、一緒に住むとか、一緒の学校に行くとか、文化という次元をも越えた生活の同化、交流までが必要になる。言葉の定義の問題ではあるが、多元文化主義が、人権や民主主義を越えて、生活レベルでの相互尊重や交流を指しているのであれば、その主義を追求する意義がある し、社会への帰属感につながる。

非暴力という普遍的価値

イスラム教は、他教徒をテロにより排除することを許容しているわけではない。根本的には平和主義を掲げる。そう考えると、非暴力という価値こそ、人権や民主主義より一層、多元文化の中にある社会への帰属感を支える基底を成している。ガンジーの非暴力主義はここを捉えたものであり、インドのような宗教、人種、さらにカーストの対立が厳しいところでは、非暴力の一点でしか折り合えなかったのだろう。しかし、かなり強力な一点である。力によらないという意味で民主主義、人種尊重の第一歩だし、生活の大前提である。

英国はこの非暴力だけではなく、自由主義、民主主義という点でも北アフリカや中東諸国には厳しい態度を取っている。しかし、中国にもそういう態度が取れるのか。サイバー攻撃や監視も一種の暴力だとすれば、非暴力に一貫性が問われる。経済問題を絡めてもキャメロン氏の普遍的価値という看板のメッキが剥がれないのか要注目だ。
(2011年2月22日脱稿)

 

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