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ロンドンのゲストハウス
Tue, 16 July 2019

第29回 4.5ポンド、足りないの。

英国在住の方なら、街頭で見知らぬ人から金銭を求められた経験が少なからずあると思う。「ちょっとカネをもらえないか」とか、「地下鉄代がないんです」とか。有料トイレの前や駐車場などで「コインが無くて」と言われるなら、まだ分かる。

そういう人は、貧しそうにも見えず、身なりも普通のことが多い。日本から来た当初は、これに少なからず、カルチャーショックを受けた。

つい先日のことだ。

遅い午後、自宅周辺を歩いていると、道路の反対側から40歳前後の女性が大声で呼びかけてきた。

「すみません、助けてください」

足を止めると、道路を横切り、駆け寄ってくる。そして「実は」と早口でまくしたてた。

「さっき、娘が入院している病院から電話があって、至急、来てもらいたいと言われたんです。でも、動転してキーを車内に置いたまま、ロックを掛けてしまったの。列車で行こうと思ったら、財布も車の中に置きっぱなしで……」

彼女は5ポンド札を握りしめていた。電車代があと4.5ポンド足りないのだという。

中途半端な金額に、私は妙なリアリティーを感じた。それに何より、目元に涙が浮かんでいる。髪を覆う薄紫色のスカーフ、少し皺の寄った額。薄い色の紅を引いた口元からは「心配でたまらないの」と、切羽詰まった声が飛び出していた。

一瞬、迷いはあった。でも、私は彼女を信じた。少し余分も必要でしょうと、10ポンド札を手渡した。

こちらが恐縮するほど礼を繰り返す彼女は、道路の反対側を指さしながら、「あれが私の家なの。27番よ」と言う。木立の間の小さな家。玄関の扉には、確かに金色の「27」が見える。近所だったら後で返しに行くからと言う彼女に携帯電話の番号を伝えると、彼女はそのまま駅の方向に走って行った。

私は、昔からよく財布を拾う。

東京・渋谷で新聞配達をしていたときは、夕刊配達中、ある家の玄関前で財布を拾った。1万円札が10枚ほど入っている。

呼び鈴を押すと、デザイナーかファッション関係者か、そんな仕事をしていそうな髭の男性が現れた。「そこに落ちてました。あなたのものですか」と財布を見せると、「ああ、俺のだ、ほら、そこに俺の名刺も入っているだろ」と言う。彼の言うとおりの名刺が確かにある。

応対はつっけんどんだったが、私はうれしかった。

東京・八重洲の書店で分厚い財布を拾ったこともある。数え切れないほどのカードと、相当な数の紙幣。そのときは交番に届け出た。

後日、警察から電話があり、持ち主が現れたという。謝礼の権利を放棄すると伝えたら、しばらくして、東北在住の持ち主からコメと長い礼状が送られてきた。コメは親族が作ったという新米だった。

出張先の東京で財布を無くし、途方に暮れたらしい。礼状には、本当に助かったと書かれ、「世の中、捨てたものではないと思えます」と結ばれていた。

今年の7月には成田空港の待合室で、パスポートと航空券が挟まれた財布を拾った。カナダ航空のチケットと、カナダのパスポート。空港係員に手渡すと、「離陸前ですね。大丈夫です、必ず本人に届けます」と言う。結果は聞いてないが、きっと本人は大喜びしたに違いない。そして、そういうことを想像するのは、気分の悪いものではない。

10ポンド札を手渡した女性からは、その後、連絡はない。

あのとき、確かに、一瞬迷った。もしかしたら、街でしばしば遭遇する、金銭をねだる人たちと同じだったのかもしれない。

でも、まだ数日である。騙されたのかもしれないが、まだ分からない、とも思う。娘さんの問題が尾を引き、10ポンドを返すどころの状態ではないのかもしれない。単に失念しているだけの可能性もある。

「あれが私の家よ」と言った住宅の前を、きょう、通ってみた。「キーを入れたままロックしてしまったの」と彼女が言った濃紺のセダンは、家の前に止まっていた。車の周りでは落ち葉が舞っている。そして玄関ドアの上部には金色の「27」。ドアのすぐ脇には、呼び鈴の白いボタンも見えていたのだが。

 
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高田 昌幸:北海道新聞ロンドン駐在記者。1960年、高知県生まれ。86年、北海道新聞入社。2004年、北海道警察の裏金問題を追及した報道の取材班代表として、新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞を受賞。
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