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Tue, 25 July 2017

北斎と英国の知られざる5つの物語 - 大英博物館の北斎展「Hokusai: beyond the Great Wave」

ロンドンの大英博物館では5月25日から、江戸時代の浮世絵師である葛飾北斎の晩年の作を中心に紹介する北斎展「Hokusai: beyond the Great Wave」が開催される。日本美術に関してはその所蔵品の多さと、スタッフの知識の豊かさで定評のある同博物館が、2013年の春画展以降、久々に放つ大規模な日本美術展だ。今回は、北斎と英国の知られざる繋がりについてご紹介するほか、本展覧会のキュレーターであるティム・クラークさんに、英国における北斎の人気の秘密などについてお話を伺った。

Hokusai: beyond the Great Wave

5月25日(木)〜 8月13日(日) 10:00-17:30(金は20:30まで) £12
※7月3日〜6日は作品入れ替えのため エキシビションは閉鎖
The British Museum
Room 35 Great Russel Street, London WC1B 3DG
Tel: 020 7323 8181
Tottenham Court Road/Holborn駅
www.britishmuseum.org
冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」 1831年
冨嶽三十六景 凱風快晴「冨嶽三十六景 凱風快晴」 1831年
「自画像」手紙の隅に描かれたもの 1842年「自画像」手紙の隅に描かれたもの 1842年
「端午の節句」西洋紙に水彩 1824-26年「端午の節句」 西洋紙に水彩 1824-26年
「芥子」 1831-32年「芥子」 1831-32年
「百物語 こはだ小平二」 1833年「百物語 こはだ小平二」 1833年
「和州吉野義経馬洗滝」 1833年「和州吉野義経馬洗滝」 1833年
「富士越龍図」最晩年の作 1849年「怒涛図」信州小布施 東町祭屋台天井絵 1845年
「富士越龍図」最晩年の作 1849年「富士越龍図」最晩年の作 1849年
 
 
 
葛飾北斎 (かつしか・ほくさい 1760年~1849年) 「富嶽三十六景」や「北斎漫画」などで世界的にも知られる、日本を代表する江戸時代後期の浮世絵師。生前から画工として名声が高かったが、名誉を求めず、衣食住に無頓着でひたすら作画に没頭した奇人としても知られる。代表作「富嶽三十六景」発表当時の北斎は70代。以降90歳で死去する間際まで、晩年になってもその創作意欲が衰えることはなかった。1849年、浅草にある遍照院の仮宅にて死去。一点に安住することなく常に自己変革に努め、その生涯に転居数が93回、改号(改名)数が30にも及んだとされる。北斎の作品が海外に知られたのは1830年代、日本からフランスに陶磁器が送られた際に、それを包んだ紙が「北斎漫画」だったことからという。しかし長崎の出島に滞在するオランダ人の間では既にその画力の高さが広まっており、北斎は彼らから委託され、何枚もの作品を描いていた。
※北斎の年齢は、数え年(生まれた年を1歳と数え、その後1月1日を迎えるごとに年をとる)で表示

北斎を英国に紹介した2人の英国人

北斎の「富嶽三十六景」の一点一点に解説を付けて初めて欧州へ紹介したのは、ロンドン大学の事務局長で、日本文学研究者のフレデリック・ビクター・ディキンズ(1838-1915)。彼は19世紀末にロンドン滞在中だった博物学者の南方熊楠と最も親しい英国人だったことでも知られる。ディキンズは若いころ、英海軍の船医として1863年に初めて日本を訪問。以来、その美しさに惹かれ、1871年に再訪し日本研究に熱中した。語学の才能に秀でたディキンズは、日本滞在中に「百人一首」や「忠臣蔵」を世界で初めて日本語以外の言語に翻訳。1879年に英国へ帰国後、南方熊楠と知り合い「方丈記」を共同で訳すに至る。熊楠の帰国後に北斎研究に打ち込み、「富嶽三十六景」を紹介した。

一方、お雇い外国人として1873年に明治政府に招聘された医師のウィリアム・アンダーソン(1842-1900)は、3299点もの日本の美術品を英国に持ち帰った。その中には北斎の「鎮西八郎為朝図」など非常に貴重な肉筆画作品も含まれている。アンダーソンは、軍医養成のために解剖学や外科学の教授として日本を訪れた人物だが、若いころは医学に進むか芸術の道へ進むか迷い、医大を中退して美術学校に入学し直した経歴を持つ。人体デッサンをきっかけに解剖学の楽しさを再発見した彼は、再び医学の道に戻ることになったが、芸術への興味を捨てたわけではなく、日本滞在中に日本の美術に夢中になった。アンダーソンが1881年に大英博物館へ売却した美術品は、現在同館の日本コレクションの中核をなす。1891年にジャパン・ソサエティーが設立されると、アンダーソンは初代会長となった。

「北斎ブルー」が生み出された経緯

北斎が「富嶽三十六景」で用いた鮮やかな青色。「ベロ藍」という名で呼ばれたプルシャン・ブルー(紺青)は、当時の浮世絵界で盛んに使われた、比較的新しい顔料だった。のちに「北斎ブルー」と呼ばれることになる、この顔料が世界に広まった背景には、英国の自然科学者ジョン・ウッドワード(1665-1728)の存在がある。元々、1706年にドイツ・ベルリンの顔料製造者によって偶然発見されたというこの顔料は、それまでのアフガニスタン産のラピスラズリ石を原料とした高価なウルトラマリンにとって代わり、絵画や版画だけではなく陶磁器の彩色などにも使われ始めた。ただし製造法は秘密とされ、ベルリンの製造者とその弟子のみが製法を知る顔料として20年余りも独占販売される。ところが、1721年にドイツのある人物から製法が記された資料を受け取ったという王立協会のウッドワードが、1724年にプルシャン・ブルーの製造法を発表。同僚で科学者のジョン・ブラウンの助けを借りたウッドワードは、銀や銅、蒼鉛といった原料のほか、動物の血液の代わりに牛肉を使うなどし、プルシャン・ブルーの製造に成功する。ウッドワードの製法はこのあとフランスの化学者に受け継がれ改良された。日本では1763年に平賀源内が紹介。最初にプルシャン・ブルーを使った画家は伊藤若冲で1765年ごろとされる。北斎が1831年に「富嶽三十六景」で大胆にこの色を使ったのは、中国(当時の清)が英国から輸入したプルシャン・ブルーの顔料を日本へ大量輸出し始めたことから、安価に手に入るようになったためと言われている。

大英博物館が所蔵する3枚の「神奈川沖浪裏」

「富嶽三十六景」は北斎が70代のときに刊行された、日本各地から見た富士山を描いた版画シリーズだが、中でも特に有名な「神奈川沖浪裏」は、これまでにおよそ5000枚から8000枚程摺られたことが、主板(おもばん:線の部分が彫られた板)の線のすり減り具合から分かるという。線がすり減るとくっきりした印刷ができなくなることから、早い時期に摺られた作品が良いとされる。現存する「神奈川沖浪裏」は約100枚ほどだが、大英博物館はこのうちの3枚を所蔵。同博物館の日本部門長で浮世絵を専門とするティム・クラーク氏によれば、同博物館が2008年にアート・ファンド(Art Fund)の支援を得て収蔵した摺りの時期の早いものだが、現在ある「神奈川沖浪裏」の一番良い摺りと見なされているものは、米国のメトロポリタン美術館にある一点とか。ちなみに一般的に浮世絵版画において、初摺りと呼ばれるのは200枚。本を出版する際の第1刷に当たる。これが当時の摺り師の1日の仕事量でもあったという。売れる見込みのある作品は最初から200枚以上の見込み生産をしていたそうなので、「神奈川沖浪裏」の5000枚以上という数字は、北斎が人気絵師だった証でもある。

北斎に影響を受けた英アーティスト

北斎が欧州、特にゴッホやモネといったフランス印象派の画家たちに与えた影響はよく知られているが、英国で北斎に影響を受けた画家の筆頭に上がるのは、象徴派の先駆者として知られるJ・M・ホイッスラー(1834-1903)だろう。ホイッスラーは生まれこそは米国だが、少年時代はロシアで暮らし、若くしてパリに渡り、画家としての生涯の多くをロンドンで過ごした。ホイッスラーがロンドンにアトリエを構えた1859年の3年後にロンドンでは万国博覧会が開催され、日本の美術工芸品が紹介された。ホイッスラーはそれらを観ていたと考えられ、1864年の作品には日本画に捺される印のような蝶のサインをしていた。また代表作の一つである「青と金のノクターン‐オールド・バタシー・ブリッジ」(テート・ブリテン所蔵)は北斎や広重の浮世絵に見られるような独特の視点と構図で描かれている。そして富豪F・R・レイランドのためにホイッスラーがデザインした食堂は完全な東洋趣味の装飾で、中央にはホイッスラーによる着物を着た女性の肖像画「陶磁の国の姫君」が飾られており、ジャポニズムが様々な分野に浸透していたことを物語っている。

ホイッスラーの知人でもあるダンテ・ガブリエル・ロセッティを始めとした、ラファエロ前派のグループも日本美術に夢中になったと言われる。日本では鎖国が終わり、文明開化の名のもとに一斉に西洋化が始まる一方、開国により流出した日本美術に西洋が影響を受けるという現象が起きていたことになる。

英国で開催の北斎展、過去と現在

大英博物館で初めて大規模な北斎展が開催されたのは1948年。北斎没後100年を記念してのことだった。第二次大戦終戦わずか3年後であり、英国では食糧制限で配給制だったパンが、やっと自由に買えるようになった年。このとき北斎の作品は、同博物館所蔵の絵画や版画が展示されたのみと言われている。一方で今年開催されるエキシビションでは欧州や米国、そしてもちろん日本からも集められた貴重な作品計160点が展示。北斎の晩年約30年間にわたる肉筆画や下絵、版画、配本など様々なジャンルの作品が一堂に会し、展示作の多くが英国で初めて紹介されるものだという。また、多数の作品が光に弱いため、色褪せを避ける目的で展示作品全体の約1/3が、展覧会の半ばで入れ替えになるそう。展示のテーマ自体は変わらないものの、前半と後半で異なった組み合わせの作品が観られるということだ。なお、同博物館によると、今回のエキシビションのメイン作品で、「beyond The Great Wave」のタイトルにもなっている「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は前後半をß通して展示される。

北斎晩年の時代背景(1820-1853)

1821年 英国:英国領セント・ヘレナ島にてナポレオン死去
1823年(文政6年) 「富嶽三十六景」の初版制作開始、完結は10年後
1825年(文政8年) 日本:幕府が外国船追放令を発令
1833年(天保4年) 日本:天保の大飢饉が発生
ドイツ:文豪、ゲーテが死去
英国:作家 / 数学者のルイス・キャロルが誕生
1834年(天保5年) 「富嶽百景」初編刊行。卍(まんじ)の号を用い始める
1837年6月20日 英国:ビクトリア女王が即位
1844年(天保15年) 信濃国(長野県)の小布施に旅し、1848年まで滞在
1848年 フランス:フランスで二月革命が勃発
ドイツ:マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を発表
1849年5月10日
(嘉永2年4月18日)
北斎が90歳で死去。辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」
1853年(嘉永6年) 日本:ペリーが率いる黒船が浦賀沖に来航
interview

大英博物館アジア局日本部門長 / 北斎展キュレーター
ティム・クラークさん

今回、北斎展のキュレーターを務めるのは、大英博物館日本部門長のティム・クラークさん。開国の迫る江戸時代末期の日本で活躍した北斎が、日本のみならず世界でも人気が高い理由などについてお話を伺った。

ティム・クラーク

Tim Clark 1959年生まれ、イングランド東部ハートフォードシャー出身。米ハーバード大学の博士課程で日本史を研究した後、学習院大学に研究生として留学。1987年に大英博物館の職員となり、2003年より現職である大英博物館アジア局日本部門長に。2013年には日本でも大きな話題となった同博物館の春画展のキュレーターを務めた。

「北斎は一般庶民を主人公にしたヒューマニスト」

─ なぜこのタイミングで北斎展なのでしょう。

今回のエキシビションの目玉でもある「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の人気が普段から非常に高いこともありますが、実はロンドンでの開催は、美術史家で現在、大阪市にある「あべのハルカス美術館」の館長をしている浅野秀剛さんとの20年来の約束でもあったのです。彼とは1995年の喜多川歌麿展で一緒に働いたのですが、浅野氏も私も晩年の北斎、しかも版画より絵画に魅かれているという共通点があり、そのときに「機会があったらぜひまた一緒にやろう」と話していました。今回それが実現したことになります。北斎の展覧会を企画するなんて、個人的にも、夢のような話です。

─ 北斎は90歳で死去しましたが、100歳を超えても生きて制作を続けるつもりだったとか。もし彼が100歳まで生きていたら、どんな作品を作ったでしょう。

それを考えてみるのは面白いですね。彼が100歳になるころに鎖国が終わるのですから、もし110歳まで生きていたら、きっと海外にも(リアル・タイムで)名の知られたビッグ・アーティストになっていたのではないでしょうか。 晩年に版画やスケッチ画集(北斎漫画)などの商業的な作品をきっぱりやめた彼は、最晩年の3年間、絵画の制作に没頭します。主題も、より崇高で宗教的な方向へ進んでいきました。そして、自分の作品がどんどん良くなっていると考えた北斎は、100歳を超えて描き続けることを切実に願っていました。晩年の彼が作品に捺していた「百」という印は、「100を超えて」という意味です。今回のエキシビションの最後のパート「Immortality」(不朽、不死、永遠)では、この3年間の貴重な作品を展示します。このパートは今回のエキシビションの中でも特に感動的な部分です。

─ 北斎は西洋画を観たことがあったのでしょうか。

西洋の版画や印刷物などは観ているはずですし、西洋の絵画技法に興味を持っていたとも言われていますが、油絵を描いたという記録は残っていないように思います。ただ、長野県の小布施町にある祭り屋台の天井に描かれた波や、赤い背景に描かれた龍や鳳凰の姿などは、日本画の絵の具に混ぜ物をして、油絵風に描いています。一つ思い出したのですが、今回のエキシビションにも展示されるオランダのライデン民俗学博物館所蔵の作品は、北斎が1820年代に長崎出島のオランダの商館長から委託を受けて江戸の風景や人々の日常生活を描いたものです。当時、出島の外国人は4年に1回、幕府へ出仕しなければいけなかったのですが、商館長が江戸へ行った際に北斎に作品を依頼し、4年後の江戸行きのときに出来上がった作品を受け取るということをしたようですね。その作品では北斎ができる限り西洋風に、遠近法や影の濃淡を付けています。そういった意味では、北斎が西洋に影響を与えただけではなく、彼も西洋から何かしら影響を受けたということもあるのかもしれない。一方通行ではなくてね。

─ クラークさんが北斎に魅かれる点は何でしょう。

彼は百科事典のように何でも描きました。現実の世界にあるものだけではなく、空想のものや歴史にまつわるものも。しかし、北斎が世界で人気を得ている一番の理由は、彼がヒューマニストであるからではないでしょうか。彼はどこにでもいそうな身近な庶民の姿を描きました。それが人々を魅了するのです。北斎の絵の中には、今も昔も変わらない、人間の日々の暮らしを見つけることができます。一般庶民を主人公にして称えた、それが北斎の魅力だと私は考えています。


 
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