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Mon, 30 March 2020

世紀末の英国を妖しく彩ったイラストレーター オーブリー・ビアズリーとはいったい誰だったのか

オーブリー・ビアズリー Aubrey Beardsley 21歳のオーブリー・ビアズリー

ロンドンの美術館テート・ブリテンで4日から大規模な回顧展が始まったばかりのオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 1872〜1898年)は、ヴィクトリア朝後期の英国に彗星のように現れた夭折の天才画家。活動期間は10年にも満たないものの、ビアズリーの挿絵によるオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」が1894年に出版されるやいなや、美術界はその大胆で独創的な構図を持ったモノクロのイラストレーションに魅了され、ビアズリー旋風が巻き起こった。日本の浮世絵やラファエル前派の影響を受けたとも言われるが、人を惹きつけずにはいられない妖艶な魅力に満ちたビアズリーの芸術はいったいどのようにして生まれたのか。ここではビアズリーが影響を受けたアーティストたちのエピソードを織り込みながら、一貫して完成度の高い作品を描き続けたビアズリーの、短い人生を振り返ってみよう。

(文: 英国ニュースダイジェスト編集部) 参考:Victorianweb.org など

オーブリー・ビアズリー展
AUBREY BEARDSLEY

2020年5月25日(月)まで
10:00-18:00(毎月1週目の金は22:00まで)
£16

Tate Britain
Millbank, London SW1P 4RG
Tel: 020 7887 8888
Pimlico駅
https://www.tate.org.uk/whats-on/tate-britain/exhibition/aubrey-beardsley

ケイト・グリーナウェイの挿絵を模写

オーブリー・ビアズリーは1872年8月21日、英南部ブライトンに2人姉弟の長男として生まれた。ビアズリーの父親が、金細工師だった祖父と不動産業者の曽祖父から受け継いだ遺産を女性関係で失ったため、一家の暮らしは軍医の娘であった母親が住み込みの家庭教師(ガヴァネス)として働くことで支えられていた。母親の世話を受けることができないビアズリーは、6歳で近隣の寄宿学校に入学する。しかし後にビアズリーの命を奪うことになる結核を発症する。

当時の欧州は、印刷技術の発達から本の挿絵の黄金時代を迎えており、英国では絵本や児童書の分野が大きく開花。ランドルフ・コールデコットやケイト・グリーナウェイ、ウォルター・クレインといった才能あるイラストレーターたちが次々に現れ、人気を博していた。そんな時代にあって病弱で屋内にいることの多いビアズリーは、英国の伝承童話「マザーグース」の挿絵で知られるケイト・グリーナウェイのイラストを好んで模写していたという。その才能はこの頃すでにほう芽が見られ、一家を援助していた裕福な友人から3枚のイラストの注文を受けたビアズリーは、グリーナウェイの模写を制作。11歳にして30ポンド(現在の金額にして約3580ポンド、日本円で約50万円)を稼いでいた。

アール・ヌーボーのスタイルで描かれた「シンデレラ」 ガラスの靴を履き花の咲く公園に立つ、アール・ヌーボーのスタイルで描かれた「シンデレラ」。
ケイト・グリーナウェイの影響が見られる

エドワード・バーン=ジョーンズがその才能に太鼓判

18歳になったビアズリーはロンドンで事務員として働き始めるも、結核の悪化によりすぐに休職。しばらくは自宅で療養しながら絵を描き読書をする生活が続く。1891年、当時流行していたラファエル前派の絵画に傾倒したビアズリーは、同派の中心的な存在であるエドワード・バーン=ジョーンズが、毎週末に自宅を開放し客を招いていることを知る。早速、自作のポートフォリオを持って姉のメイベルといきなり大画家の家を訪れるが、その日はある大事なゲストがお茶に呼ばれていたため、2人はバーン=ジョーンズの友人で工芸家のウィリアム・モリスに玄関先で追い払われてしまう。

だが、がっかりした姉弟が帰りかけると、バーン=ジョーンズが顔を出し、「こんな暑い日にわざわざやって来てくれたのに、作品も見ずに追い返すことなどできない」と2人を招き入れる。そしてビアズリーのポートフォリオを丁寧に見たバーン=ジョーンズはその才能を絶賛。ぜひプロの画家になるべきと断言したうえで、美術学校への進学を勧めた。こうしてビアズリーはロンドンのウェストミンスター・スクール・オブ・アートの夜間クラスに入学。これが生涯で唯一の正式な絵画の勉強となった。ちなみにこの時バーン=ジョーンズ宅を訪れていた「大事なゲスト」はオスカー・ワイルド夫妻だったという。

トマス・マロリーの小説「アーサー王の死」の挿絵 トマス・マロリーの小説「アーサー王の死」の挿絵。
出版社はバーン=ジョーンズのような作風でイラストが描ける画家を求めており、
最終的にビアズリーに依頼した

ウィリアム・モリスに嫌がられる 

世紀末の英国には退廃的な文化ばかりが流行っていたわけではなかった。産業革命の結果、大量生産による安価で粗悪な商品があふれたヴィクトリア朝の文化を批判して、「アーツ&クラフト運動」を推進したウィリアム・モリスのような人物もおり、耽美主義のビアズリーとの共通点は少なかった。1892年にビアズリーがJ.M.デント出版社に依頼され、トマス・マロリー作の小説「アーサー王の死」の挿絵を描いた時、モリスは、「ケルムスコット・プレス*のひょう窃だ」と文句を言っている。それに対しビアズリーは「モリスの作品はただ旧弊な代物を模倣したに過ぎないが、自分の作品は新鮮で独創性にあふれている」と返した。

ビアズリーのスタイルは、画面から陰影や奥行きなどを排除し、画面の一定領域を何も描かずに白く残すか黒く塗りつぶすなどして、単純化された線を効果的に配することで成立している。ビアズリー以前の挿絵は銅版や木版で制作されていたことを考えると、印刷技術の向上でシャープな線の複製が可能になった事実を効果的に活用したと言える。また、ビアズリーが普段から描くモチーフが一様に退廃的であったり、弱い男性と魔性の女性の対比であったりと、保守的で偽善的な道徳観を持つヴィクトリア朝の中産階級を否定するものだったことも、真面目なモリスを苛立たせたと考えられている。

*ウィリアム・モリスが始めた印刷工房。名称はオックスフォード近郊の別荘の名にちなみ、中世の写本装飾やルネサンスの書物から影響を受けている

「ザ・レディ・ウィズ・ザ・ローズ・ヴェルソ」「ザ・レディ・ウィズ・ザ・ローズ・ヴェルソ」

「ヴォルポーネ」劇作家ベン・ジョンソンの戯曲「ヴォルポーネ」のために描かれた挿絵。
エロティックなイメージを多く描いたビアズリーは、ウィリアム・モリスに嫌われていた

オスカー・ワイルドとのコラボレーション

劇作家ワイルドとビアズリーの関係は、当初から穏やかなものではなかった。 1893年4月、発表されたばかりのワイルドのフランス語版戯曲「サロメ」に触発され、ビアズリーは美術誌「ステューディオ」の表紙に、「サロメ」の一場面「ヨカナーンよ、私はおまえの唇に接吻した」を自主的に描く。ワイルドは、ビアズリーがいかによく自分の芸術を理解しているかを知り感動し、英語版のための挿絵を依頼。ただし当時、浮世絵に影響を受けた米画家J.M.ホィッスラーの構図を研究中だったビアズリーが依頼された16作品を描き上げてみると、ワイルドは、「ビザンティン風の舞台を想定していたのに、これではあまりにも日本的」と評した他、グロテスクな性描写を含む4つの挿絵の描き直しを命じた。

その報復として、ビアズリーは新しい挿絵の中にワイルドの姿を風刺的に忍び込ませている。それは、フランス語で「サロメ」を書いているワイルドの側に、基礎フランス語の教科書が置いてあるというような他愛のないものだったが、ワイルドはビアズリーに対する怒りを募らせ、「オーブリー・ビアズリーを発掘したのは自分である」などと宣言する。ただし、あまりにパワフルなビアズリーの挿絵の魔力に、自作の意図が誤って伝わってしまうのではないかと恐れていたのはワイルドの方だった。その挿絵は戯曲の内容と完全に呼応するわけではなく、新約聖書が題材にもかかわらず設定はファッショナブルな現代という画期的なものであったのだ。こうしてヴィクトリア朝の保守的なイメ―ジを覆すモダンな挿絵により、ビアズリーは一躍美術界の時の人となった。

オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵「クライマックス」オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵「クライマックス」

「ピーコック・スカート」オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵「ピーコック・スカート」

「黒いケープ」オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵「黒いケープ」。
浮世絵をヒントにしたと思われる構図や着物の柄のようなパターンが散りばめられ、
ワイルドには「日本的すぎる」と評された

ワイルドの巻き添えを食った「イエロー・ブック」

イエロー・ブックは、1894年に英国で創刊された挿絵入りの季刊文芸誌で、19世紀末のデカダンな文化を紹介する雑誌として、美術担当の編集主任をビアズリーが担当した。寄稿者にはH.G.ウェルズ、ヘンリー・ジェイムズ、W.B.イェイツ、アナトール・フランスなど欧米第一線の作家たちが名前を連ねる他、才能あふれる過激な若手作家やアーティストの発表の場としても位置付けられた。保守的な新聞雑誌は同誌を酷評するが、おかげでこれまで美術界でのみ知られていたビアズリーの名が、一躍一般大衆の間に広まった。

ところが、1895年4月にオスカー・ワイルドが同性愛の罪で逮捕される。ワイルドはこの雑誌に関わっていなかったにもかかわらず、「サロメ」の挿絵以来、ワイルドと同一視されていたオーブリーは、英国の世論から強烈なバッシングを受け、同誌からの追放処分を受ける。ビアズリーは以降、好色な小説の挿絵を描いて暮らすはめになり、翌96年にはパリに居を構えるも喀血。健康状態の悪化により次第に借金がかさんでいった。97年にビアズリーは刑期を終えたワイルドとフランスで再会するが、自著の装丁を頼まれ拒絶する。ワイルドの醜聞のせいで自分の人生が狂ったと考えていたのだ。同年末に南仏のマントンに転地するが時はすでに遅く、98年3月16日、同地にて結核で死去。25歳という若さだった。

The Yellow Book「イエロー・ブック」第1号の表紙。
ビアズリーがワイルドの巻き添えで追放されてから精彩を欠くようになったものの、
同誌は1897年4月まで13冊が刊行された

 
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