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Wed, 26 June 2019

若き日本人留学生を見守り続ける 日英関係の始まりに見る、ある英国人の無償の愛

日英修好通商条約が結ばれた1858年以来、150余年にわたり続く日英関係。
その表舞台の裏で幕末、密やかに、しかし脈々と続いた
日本人と英国人の交流をご存知だろうか。
近年、日本で映画化され、脚光を浴びた5人の若き長州藩士「長州五傑」。
伊藤博文や井上馨など、明治政府の立役者となった彼らのみならず、
他にも有名無名の多くの若者たちが、高い志を抱いてここ英国の地にやってきた。
今回は、ロンドン西部、アクトンにある三輪精舎の佐藤顕明師に、
こうした若者たちを見守り続けた一人の英国人の存在について、語っていただいた。

5人の略歴

井上 馨井上 馨(聞多)
天保6年11月28日(1836年1月16日)生まれ、大正4年(1915年)9月1日没。外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任する。通称、「外交の父」。

山尾 庸三山尾 庸三
天保8年10月8日(1837年11月5日)生まれ、大正6年(1917年)12月21日没。工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿などの職に就く。初代法制局長官。通称、「工学の父」。

井上 勝(野村 弥吉)井上 勝(野村 弥吉)
天保14年8月1日(1843年8月25日)生まれ、明治43年(1910年)8月2日没。初代鉄道庁長官。日本初の私鉄運営会社、日本鉄道の生みの親でもある。通称、「鉄道の父」。

伊藤 博文(俊輔)伊藤 博文(俊輔)
天保12年9月2日(1841年10月16日)生まれ、明治42年(1909年)10月26日没。初代、第5代、第7代、第10代と4回にわたり内閣総理大臣を務める。通称、「内閣の父」。

遠藤 謹助遠藤 謹助
天保7年(1836年)2月15日生まれ、明治26年(1893年)9月13日没。造幣局局長。同局本局に「桜の通り抜け」をつくる。通称、「造幣の父」。


若き留学生が集った大学

明治維新の直前、江戸時代の識者たちが、攘夷と開国の狭間に揺れていた1863年、西洋文明を学ぶために決然と母国を後にした5人の密航者がいた。後に「長州五傑」*1と呼ばれ、最近では英語でも「Choshu Five」として知られる、長州(現山口県)出身の若い留学生の一群である。

その5人とは、初代内閣総理大臣となった伊藤博文(当時22歳)、伊藤の生涯の友となって大蔵大輔や外務卿を務めた井上馨(同28歳)、日本鉄道会社を創設し、初代鉄道庁局長となった井上勝(同20歳)、帰国後に工部卿として後の東京大学工学部の基礎をつくり、明治政府の盲聾教育施設の設立にも貢献した山尾庸三(同26歳)、大阪にある造幣局の初代局長となって、有名な「桜の通り抜け」をつくった遠藤謹助(同27歳)。

これら5人の若き学生が学んだのは、オックスフォード大学やケンブリッジ大学ではなく、ロンドンのユニバーシティー・カレッジ・ロンドン (University College London(UCL))*2であった。その理由は、その当時の英国では、1827年創設のUCLだけが、信仰、人種、国籍の違いを越えて、すべての学徒に開かれていた大学だったからである。彼らの渡英から2年が経った1865年に留学してきた19人の薩摩の学生たち*3もまたUCLに学んで、長州五傑と同様に日本近代化の先駆的指導者となっている。

留学生を受け入れた一人の英国人教授

西洋列強による日本の植民地化への抵抗であった攘夷運動の一環として、1863年から1864年にかけて西洋の軍艦を相手に戦った長州と薩摩の2藩が、いずれもこれらの留学生をロンドンに送っているのは興味深い。西洋諸国の軍事力の強さを見聞したり、実際の戦いで打ちのめされたりした経験から、独立を維持して列強に伍していくためには、彼らの強さの背景となっている科学技術、特に軍事産業を学ばねばならないと目覚めたのであろう。

徹底した攘夷運動の末に始まった開国に向けての胎動、その先端を歩いた長州五傑であるが、そのうちの3人、山尾庸三と井上馨、そして伊藤博文は、奇兵隊を組織し、幕末変革の立役者となった高杉晋作とともに、1862年には御殿山英国公使館の焼き打ち事件*4にも加わっていたのであるから、実に懐の深い所業であると言えよう。

このような背景を持った日本の学生を迎え入れてくれたUCLの中心人物が、アレクサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授(Professor Alexander William Williamson)*5であった。朝日新聞記者、宮地ゆう著の「密航留学生「長州ファイヴ」を追って」には、「5人は当初、UCLの化学の教授だったウィリアム・ウィリアムソンの家に下宿していた。しかし教授自身が生活に窮していたため、井上と山尾が別れて暮らすことになり、新たに下宿先を紹介された。そこは画家の家だったという」とある。

もっとも、ウィリアムソン教授は1855年には既に王立学会員になり、「サムライ」留学生を迎えた 1863年には、39歳にしてイギリス化学協会の会長を務めていたのだから、宮地の記事は、同教授は5人の学生を置くほど裕福ではなかったという程度の意味であろう。教授はちょうどこの頃、「On the Atomic Theory」という論文を発表し、今では常識となっている原子の実在性を説いたため、学会に沸騰するような議論を呼び起こしたという。

ウィリアムソン教授は、日本からの学生を自宅に迎え入れただけでなく、そのうちの4人を自らの化学教室に受け容れて教育した。遠国より到来したばかりで、まだ言葉も喋れない学生たちに対する、教授のこのような応対は、実験中の大怪我のために実際的な研究から遠ざかりかけていた時期だったとはいえ、よほどの配慮と決断を要しただろうし、その奥には測り知れない人間的慈愛が、人種や国籍、信仰の違いを超えて働いていたものと思われる。

志なかばに散った若き留学生たち

薩摩の19人の留学生が来た1865年には、長州から新たに3人の若者がロンドンにやって来ている。高杉晋作の従弟に当たる南貞助、長州の戦艦「葵亥」の艦長だった山崎小三郎、そして竹田庸次郎の3人であった。この3人は、山尾庸三や井上馨の下宿先でもあったガワー・ストリート103番地(103 Gower Street)*6の画家クーパーの家を宿とした。

1862年に上海に旅行した高杉晋作は、西洋軍隊の強さを眼の底に焼き付けて帰国。ロンドンに留学したいと思っていたが、幕末の逼迫(ひっぱく)した政治的状況に巻き込まれて、自分自身は日本に残ることを余儀なくされた。そしてその高杉の身代わりに長州藩から送られたのが、「葵亥」艦長の山崎小三郎であったのである。

しかしながら、この山崎小三郎は、翌年3月、病を得てロンドンに客死する。彼の墓石は後に、ロンドン郊外のブルックウッド墓地(Brookwood Cemetery)*7で見付かった。1980年代に入り、セルビア人協会が自身の墓地建設のために買い取った敷地内に、山崎の墓とともに他の日本人3人の墓石を発見して、1983年12月、日本大使館に報告してくれたのである。ちなみに他の3基もやはり明治維新前後にロンドンで病死した若い留学生たち──佐賀藩の袋久平、土佐藩の福岡守人、徳山藩の有福次郎──の墓である。

歴史の表舞台に立ってそれぞれの分野で近代日本の指導者となった留学生たちの背後には、志なかばで斃(たお)れた若者たちがいた。筆者が初めて同地を訪れた1995年頃には、墓はまだ草深い藪の中にあったが、130年ほど前に客死した先人が英国に丁寧に葬られているのを見て、言葉にならぬ大きな衝撃と感動を覚えた。「ああ、俺もここで死ねる」と思ったことが、はっきりと記憶に残っている。

山崎小三郎の病死の様子は、伊藤博文から井上馨に宛てた書簡に、英国滞在中の井上勝よりの報せとして、実に悲惨な状況が伝えられている。

まず「山崎小三郎、南(貞助)同行のところ、両人とも無金にて着英の上、大ひに困窮にて、朝夕衣食のことも弁じ難く、昼夜とも衣服をも変えず、かつ居所に火爐もこれなき深冬を凌ぎ、誠に無窮の(窮まりなき)貧困を致し候由」とあって、その結果、「山崎は労廃の病を得、殊の外難儀致し候」という哀れな事態に至り、「それより、ドクトルウィレムソン方へ転居、同人夫婦至極親切に致し候由」と、瀕死の病人である山崎小三郎を前出のウィリアムソン教授夫妻が引き取って看病してくれたことを伝えている。伊藤は最後に、「山崎の病気、畢竟衣食不足、朝夕あまりの困難を経て、その上異郷言語も通じず、かつは自国の事を煩念して不休、遂にこの病を醸すに至る。これ已後は必ず外国へ人を出すなれば先ず金等のことを弁じ、その上ならでは、決して送り呉れ申さざるようにとの事に御座候」と、山崎の非業の死を見た井上勝の率直な悲痛と哀願を井上馨に伝達している。

ウィリアムソン教授夫妻の必死の看病の甲斐もなく、山崎は最後は病院で息を引き取る。1866年3月3日のことであった。明治維新直前の頃ということもあり、本国長州からの送金もままならない状態で、飢えと寒さのために不帰の病に罹った山崎を思うと、異国の苦境のなかでウィリアムソン教授夫妻の手厚い看病と温かい慈愛に出会ったことは、唯一の救いだったのではなかろうかとさえ思われる。古賀節子著の「英国留学生の墓標」には、「ウィリアムソン教授と12人の日本人留学生たちの見守る中、ウォーキングの墓地(ブルックウッド墓地)で彼の葬儀がしめやかに執り行われた、と現地の新聞は報じている」と、そのときの葬儀の模様を伝えている。

また、高杉晋作が木戸貫治に宛てた書簡には、「ここに驚くべき一事あり、義弟(南貞助)同行山崎生(山崎小三郎)、倫頓(ロンドン)にて病死す、これまた金なども少なく、寒貧よりして病を起こし候様子なり、悲しむべし、愧ずべし、これまた国家恥辱の一端なり、この事などを君上にお聞かせ致せなば、さぞさぞ御嘆息と察し奉り候。(中略)山崎も残念は残念に御座候えども、日本人にて西洋に埋骨候者は未だこれあらず、長門人の先鋒、これまた他邦に勝れる処、同人の薄命は悲しむべきなれども、かくの如きの名臣あるは国家の盛なるならずや、少々の遊学料を惜しむ位にては困り入り候」とあり、山崎が西洋に埋骨された最初の日本人であることは、他藩にも誇りうるのではないかと述べている。

ウィリアムソン教授との時空を超えた出会い

2007年10月、この4人の墓を護りたいという願いも込めて、在英日本人、広くは英国仏教徒のために、南无阿弥陀仏の仏塔をブルックウッド墓地に建立した。その落成式に飛来した正行寺(三輪精舎の母体)住職、竹原智明師は、「お墓というのは、単にご遺骨が埋められている場所というだけではありません。それは、足を運んで敬いを奉げる場所です。なぜなら、それは大慈悲心に会う場所だからです」と言い切られた。師の心中にあったのは、絶望のうちに亡くなったであろう山崎小三郎が出会ったウィリアムソン教授の無償の愛に他ならなかった。ウィリアムソン教授は、名もない異国の青年のために、立派な墓を作る手助けまでもしてくれたのである。恐らく、他の3人の墓が同所に建立されたのも、先生の助言と協力があったからであろう。

2008年には日英修好通商条約調印150周年を迎え、その後も様々な形のイベントが日英間で催されている。こうして脈々と続いてきた、文化的、経済的、政治的日英関係の奥底に、ウィリアムソン教授と日本人留学生の間に見るような、純粋な人間愛、無条件的慈愛の交流があったということは、何よりも大事なこととして私たちの記憶に留め、後世に伝えていかねばならないだろう。そういう日頃の思いを書き残したく、この拙文を認めさせていただいた。

最後に、ウィリアムソン教授のお墓に出会ったときの不思議な体験を一言付け加えることにする。

2007年10月の三輪精舎仏塔落成式の直前のことだったが、ブルックウッド墓地内の4人のお墓から遠くないところに、今や150年も前のこととなる時代に、日本人留学生を愛情をもって迎えて下さったこの偉大な教育者、ウィリアムソン教授の墓石を探し当てたときは、思わず墓前に体を投げ伏して、しばらくは頭を上げられなかった。そしてそのとき、私の心に浮かんできたのは、私自身の年来の友人、ジョン・ホワイト教授の笑顔であった。

およそ17年前のロンドン到着以来、その1年後の三輪精舎の設立、そのまた2年後の禅ガーデン建設等々、様々なイベントをともに体験する貴重な日々の中で、この身に受けてきたホワイト教授の変わることなき慈愛は、150年前のウィリアムソン教授のそれと全く同様、私にとっては仏陀の大慈悲心と同体であり、無条件的愛の顕現に他ならないと思われたのである。

身近な英国人との出会いをこんな風により深い次元から見直す眼を開くきっかけとなった、ウィリアムソン教授との時空を超えた出会いに、甚深の感謝を捧げて筆を置きたい。

 長州五傑

長州五傑
明治新政府の立役者となった「長州五傑」たち
長州ファイブ
2006年に公開された映画「長州ファイブ」

江戸幕府末期に幕府の禁を破って英国に来航、現地で学んだ知識を生かし、後の明治新政府下で活躍した5人の長州藩士。

当時、尊皇攘夷を掲げる長州藩(現山口県)にあって、敵に勝つには敵を知ることが必要と考えた井上聞多(馨)、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)の3名が同州藩主の密命を受け、英国行きを決意。後に伊藤俊輔(博文)と遠藤謹助がそれに加わった。5名は駐日英国領事アンソニー・ジェイムス・ガワーや、横浜に設立された英系会社のジャーディン・マセソン商会らの支援を受け、1863年に計画を実行。無事ロンドンに着いた5人はユニバーシティー・カレッジ・ロンドンにおいて、西洋の学問を学ぶ。

伊藤と井上の2名は、翌1864年、長州藩が英・米・蘭・仏の連合軍に攻撃されるという情報を得て帰国。遠藤は1866年、野村と山尾は1868年にそれぞれ帰国の途に着いた。

ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン

ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン
幕末から明治時代にかけて多くの日本の若者がこの大学で学んだ

1826年設立、2009年には「タイムズ」紙の教育専門誌による世界の大学ランキングで4位となったロンドンの名門大学。英国の大学としては初めて女性に門戸を開くなど、創立当初から性別、人種、信仰による差別を排除した自由な校風で知られた。当時はその無宗教という性質から、大学のあるストリート名をもじって「ガワー通りの無神論者(Godless Scum of Gower Street)」と呼ばれることもあり、反キリスト教的であるとして他大学での発表を拒まれていたチャールズ・ダーウィンの「進化論」もこの大学構内で発表された。夏目漱石が明治政府より派遣されたことでも有名。

19人の薩摩の学生たち

UCL構内の石碑
UCL構内には、
長州五傑を称える石碑がある
UCL構内の石碑

慶応元年(1865年)、薩摩藩の留学生19人が渡英、ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンで海軍測量術や医学、科学など、さまざまな分野の学問に勤しんだ。彼ら薩摩藩の留学生たちは、ロンドンの地で長州五傑とも出会い、交流を持ったという。留学生のなかには、後に関西経済界の重鎮と言われた五代友厚や、サッポロビールの前身である札幌麦酒醸造所を創設した村橋久成、初代文部大臣の森有礼、外務卿の寺島宗則など、近代日本の屋台骨を支えた錚々(そうそう)たる顔ぶれが揃っている。

御殿山英国公使館焼き打ち事件

文久2年(1862年)12月12日、急進的な攘夷思想の持ち主だった高杉晋作が、山尾庸三や井上馨、伊藤博文、久坂玄瑞ら10数名とともに、江戸品川御殿山で建設中だった英国公使館を焼き討ちした。

アレクサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授

ウィリアムソン教授

1824年生まれ、ロンドン出身の化学者。1849年にユニバーシティー・カレッジ・ロンドンで教鞭を執り、55年からは同大学の教授となる。同年には英国王立学会会員になり、63年には英国王立化学協会の会長に就任するなど、当時の英化学界における重鎮として活躍した。

日本人留学生を見守り続けたウィリアムソン教授(写真)

ガワー・ストリート103番地

103 Gower Street
多くの日本人留学生が暮らしたフラット

ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンの目の前という立地にあるフラットで、当時は画家のアレクサンダー・ウィリアム・クーパーが所有していた。山尾庸三や山崎小三郎、竹田庸次郎のみならず、先述の薩摩から渡英した留学生、村橋久成なども下宿したという。なお、向かい側には一時期、「進化論」を唱えた自然科学者のチャールズ・ダーウィンも暮らしていたと言われる。

ブルックウッド墓地

日本人留学生の墓
ロンドン郊外、ブルックウッド墓地に建立された
日本人留学生4人の墓
ウィリアムソン教授の墓
4人の墓のそばでひっそりと佇む
ウィリアムソン教授の墓

佐藤 顕明師 略歴
1939年生まれ、大分県出身。京都大学博士課程宗教哲学科卒。大谷女子大学教授などの職を経て、1993年、渡英。現在は正行寺ロンドン道場三輪精舎にて主管を務める。ロンドン仏教協会理事。ロンドン大学SOAS教授資格研究員。ウェールズ大学世界宗教経験研究所客員教授。

 
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