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Thu, 28 March 2024

先人が残した実例から学ぶ 日本人留学生が学んだ英国の大学

渡英直後のバタバタも一段落し、英国での生活にもようやく慣れてきた、と感じている大学生の皆様へ。これから勉強に遊びに全力で打ち込み、一皮向けた自分になってから日本へ凱旋帰国したい、との思いを持ち続けていますか。不安を抱えたり、理想とのギャップに直面し、英国生活を実りあるものにできるかどうか不安を感じ始めたりしていませんか。そんな皆様への応援歌として、今回の特集では、かつて英国留学を経験した日本の偉人たちをご紹介。彼らの姿を良き見本もしくは悪しき前例として活用していただくことで、皆さんの大学生活の助けになれば幸いです。(本誌編集部: 長野 雅俊)

白州次郎よく学ぶ以上によく遊べ
白州 次郎

実業家
留学期間: 1919〜1928年
ケンブリッジ大学クレアー・カレッジ 中世史専攻

1902年生まれ、1985年没。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下にある終戦直後の日本において、吉田茂首相(当時)の側近としてサンフランシスコ講和条約締結の交渉に随行し、当初は予定されていなかった沖縄の施政権返還を盛り込むなどの功績を残す。常に堂々と自らの立場を主張したことから、「プリンシプルの人」と呼ばれた。

留学前 島流しの憂き目に遭った良家の悪童
元禄時代から儒者として地元の藩主に歴代仕えてきた名家に生まれる。神戸で綿の貿易商を営む父が米国のハーバード大学、ドイツのボン大学で学んだ経験を持つインテリであったのに対して、少年時代の次郎の成績は中以下。「訥弁で、乱暴者で、癇癪持ち」な腕白ぶりで鳴らし、中等教育を終了後、「島流しになっちまった(本人談)」との理由で渡英。
   
   
留学中 学業
ケンブリッジ大学クレアー・カレッジで中世史を専攻する。入学当初は英語もままならず、最も出来の悪い学生の1人という位置付けであったが、2年後には最も優秀な学生の1人となっていた。在籍中は、ノーベル賞受賞者ジョゼフ・ジョン・トムソン教授(物理学)や、ジョン・メイナード・ケインズ教授(経済学)などの講義も聴講した。

その他

ベントレーとブガッティの2台のスポーツ・カーを所有。自動車競走に出場したり、英国人の友人を連れて欧州大陸の自動車旅行に出掛けたりしていたため、大学では「Oily Boy」というあだ名を付けられていた。実家が手掛ける事業の倒産を機に、26歳のときに本帰国。しかし、その後も渡英する度に再会していた当時の同級生との親交は、生涯にわたって続いた。
   
   
留学後 ジェントルマン精神で日本を動かす
英国紳士的な尊厳ある態度と英語能力が評価され、政治やビジネスの世界で活躍。また当時の多くの日本人が西欧人や彼らの文明に卑屈な姿勢を示す中で、当時のGHQ民政局長の「白洲さんの英語は大変立派ですね」とのお世辞に対して「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と返したとのエピソードは今でも語り継がれている。

夏目漱石孤独と窮乏生活に耐えた苦学生活
夏目 漱石

小説家
留学期間: 1900〜1902年
ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン 聴講生

1867年生まれ、1916年没。森鴎外と並ぶ日本の近代文学における文豪として、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「こころ」など、日本の文学史に残る名作の数々を執筆。とりわけ初期の執筆活動における、対象と距離を置いて描く独特の文学的傾向は、「余裕派」と呼ばれた。英文学者、評論家としても活躍。また講演の名手としても知られた。


留学前 抜群の英語力を発揮する超エリート
当時の学生が大学入学前に通った大学予備門予科では、抜群の英語力を発揮。帝国大学英文科では特待生だった。卒業後、高等師範学校や愛媛の旧制中学校での英語教師としての勤務を経て、文部省から英文学研究を目的とした英国留学を命ぜられる。当初はケンブリッジ大学への入学を希望していたが、学費の高さなどを理由に断念し、ロンドンへと赴く。
   
   
留学中 学業
聴講生としてユニバーシティー・カレッジ・ロンドンで英文学関連の講座に顔を出すも、「日本の大学の講義とさして変わった事もない」と判断し、出席は最初の数回のみ。代わってシェイクスピア研究家からの個人教授を受けた。やがて下宿に篭もって、本を読み漁るようになる。ロンドン滞在中に最低でも400冊の本を購入したと言われている。

その他

ロンドン滞在中の2年間で、家賃の高さや大家との契約トラブルによって5度にわたる引越しを経験。また物価高や人種差別に悩むなどの経験を通して神経衰弱に陥る。後に著書で「倫敦に住み暮らしたる2年は尤も不愉快の2年なり」との一節を残すほど、精神的に追いつめられた生活を送っていた。文部省より出された緊急帰国命令に従い、1902年に日本に帰国。
   
   
留学後 挫折を乗り越え華やかに文壇デビュー
東京帝国大学にて英文学の指導に当たる。帰国後2年目に発表した「吾輩は猫である」が好評を博し、後年は朝日新聞に入社し職業作家としての地位を築く。また英国での生活に関する題材を扱った「倫敦塔」「カーライル博物館」「永日小品」などの作品を発表。いつしか自宅には、芥川龍之介や野上弥生子といった文壇の寵児たちが集まるようになった。

藤原和博異国で見つめ直した父の役割
藤原 和博

著述家
留学期間: 1993〜1994年
ロンドン大学ビジネス・スクール

1955年生まれ。株式会社リクルートでの勤務を経て、2003年に杉並区立和田中学校校長に就任。東京都の義務教育機関としては初となる民間出身の校長となる。テレビゲームを教材として利用したり、自己紹介の仕方についての授業といった、実生活に根差した知恵を学ぶための「よのなか科」を推進。現在は大阪府特別顧問を務めている。


留学前 バブルの最前線を突き進む営業マン
東京大学経済学部卒業後、1978年に情報サービス提供会社の株式会社リクルート入社。自作の名刺や演出を凝らした接待などが顧客の評判を呼び、営業部門でトップセールスを達成する。営業統括部長などを経て、以後は新規事業を専ら担当するようになり、1991年には同社の出版部門である「メディアファクトリー」を創設、初代取締役事業部長に。
   
   
留学中 学業
リクルート社の事業展開に向けたマルチメディア & ネットワークの分野でのビジネスの可能性を探ることを目的として、客員研究員として研究活動に従事。また渡英前に行う留学の準備に際して履歴書の書き方についての助言を専門家に求めたときに、英国人と付き合うためには肩書きではなく、仕事の実績をきちんと説明することが必要との認識を持つようになる。

その他

妻と4歳の息子を伴い渡英。ロンドン滞在中は、次男を妊娠中であった妻に代わって、子育てに深く関わるようになる。現地の小学校に通った長男は同級生たちと折り合わず、入学後たった1日で退学。その同じ日に妻が次男を出産した。ちなみに次男の出産に当たっては、医者の手を一切借りず、助産婦との共同作業による自宅出産を行った。
   
   
留学後 子供の教育を真剣に考える良き父に
帰国後すぐにロンドンの情報誌「Loot」と提携関係を結び、リクルート社から日本で初の個人広告誌となる「じゃマール」を創刊。会社と客員社員が年俸契約を結ぶ「フェロー」制度を構築し、自らその第1号となる。ロンドンでの体験などを主に執筆した「父性術」などの著書を多数出版し、リクルート退社後は教育分野で活動している。

熊川哲也退学勧告を出された
熊川 哲也

バレエ・ダンサー
留学期間: 1987〜1989年
ロイヤル・バレエ学校

(写真:ロイヤル・バレエ在籍時の熊川氏)

1972年生まれ。日本を代表するバレエ・ダンサー。英国バレエ界の最高峰とされるロイヤル・バレエに東洋人として初めて入団した後、同団の最上位であるプリンシパルまで昇格。日本人離れした跳躍と鋭いスピンという高い技術に加えて、端正な顔立ちと自信に満ち溢れた物言いで人気を集める。自ら創設したKバレエ・カンパニーの芸術監督を務める。


留学前 名指導者の目に留まった光る原石
近所に住んでいた従姉妹の影響で、10歳のときにバレエを習い始める。中学3年生のときに、全国舞踊コンクールのバレエ部門に出場して4位。同年に地元の札幌で開かれたバレエ講習会に参加した際に、チューリッヒ歌劇場のバレエ監督を務めた経験を持つ講師のハンス・マイスター氏の目に止まり、ロイヤル・バレエ学校への入学を勧められる。
   
   
留学中 学業
技術レベルが抜きん出ていたために、飛び級する形で年長のクラスへと編入。8カ月後にはロイヤル・バレエ学校の代表の1人として、ロシアのマリインスキー劇場の演目に出演する。同学校の2年目には奨学生となり、さらにその翌年にはロイヤル・バレエ団との契約を獲得。ローザンヌ国際バレエ・コンクールで金賞と高円宮賞を同時受賞し、卒業する。

その他

同級生からは、「熊川」という名前から「テディ」というあだ名をつけられる。たばこを吸い、耳にはピアスを着用した上に、真っ赤なTシャツに鉢巻きという恰好で通学したことも。指導陣とは頻繁に衝突。授業をさぼって、ロンドン中心部ピカデリー・サーカス駅の側にあるジャパン・センターでよく漫画を読んでいたという。一度は学校側から実家に退学勧告の手紙が送られたほどだった。
   
   
留学後 王女の前で主演、そして芸術監督へ
在学中にロイヤル・バレエと契約。すぐにファースト・ソリストとなった直後に、エリザベス女王とバレエ団の名誉総裁のマーガレット王女の前で、代役として「ラ・バヤデール」の主演を務める。99年にロイヤル・バレエを退団し、日本に帰国後、Kバレエ・カンパニーを設立。俳優として映画にも出演し、日本アカデミー賞の新人賞を受賞している。

大江スミ欧州各地で学校めぐり
大江 スミ

教育家
留学期間: 1902〜1906年
ベッドフォード大学

1875年生まれ、1948年没。女子教育の先覚者として、東京家政学院を創立した。長崎で貿易商を営む父の元に生まれ、文部省の派遣で英国留学。自立した女性を社会に送り出すための教育機関として東京家政学院を創設し、後に「家政学の母」と呼ばれるようになる。教育方針として、「女房(家庭)、説法(宗教)、鉄砲(平和)」から成る三ぼう主義を掲げた。


留学前 英語の授業が大好きだった女学生
東洋英和女学校在学中に、キリスト教の洗礼を受ける。同校では、とりわけ英語の勉強に熱心に取り組み、同科目では優秀な成績を収めた。卒業後、同校及び沖縄高等師範学校での教職や嘱託を務めた後、当時としては類稀な英語力が評価を受けて、文部省の派遣事業における留学生として任命され、1902年よりロンドンで家政研究を行うことになる。
   
   
留学中 学業
留学先として指定されたロンドンでは、家政研究を行うための適当な大学機関が見つからなかったため、ひとまず「バケイシー・ポリテクニック」と呼ばれる専門学校の家政科に3年間にわたって通学。渡英4年目からは、ロンドン郊外にあるベッドフォード大学の衛生科に入学し、衛生検査員の資格を取得した。同校を卒業した後に、1906年に日本へと本帰国。

その他

特にバケイシー・ポリテクニックへ通学している間、休暇期間などを利用して、英国ほかオランダ、ベルギー、ドイツといった欧州各国を周遊。各地で幼稚園から大学まで各教育機関の視察や実地調査を行った。これらの訪問を通して女子教育の重要性を改めて認識し、日本へ帰国した後に東京家政学院を創設するまでの知識や原動力を得た。
   
   
留学後 日本における女子教育の草分けに
女子師範学校の教諭や女子高等師範学校の教授を務めた後に、日本で初の家政学の専門学校となる家政研究所を自宅スペースに創設。その3年後に東京家政学院を設立し、同校の校長に就任する。また家政学に関する本を多数執筆。家政学を「知・徳・技」を学ぶための方法と位置付け、明治から昭和にかけて日本における女子教育の土台作りを担った。

日本人留学生が学んだ英国の大学

いまや毎年何万人という単位で、日本人学生が英国の大学に留学する時代になった。
語学の習得、大学での単位の取得、異文化体験など色々な目的を持つ彼らのキャリア・プランは様々。ここでは、先のページで紹介しきれなかった人物も含め、ロンドンでの留学生活を終えてから日本で大成した代表的な人物たちの名前を、大学別にまとめてみた。

オックスフォード大学

オックスフォード大学1117年に創立。国王や首相、ノーベル賞受賞者など英国のエリート層を多数輩出してきた名門校として知られている。学生が専攻科目とは別に、異なるカレッジ(学寮)に所属して大学生活を送る独特の「カレッジ・システム」が特徴。個別授業を中心とした教育が行われている。

主な出身者:
皇太子徳仁親王(マートン・カレッジにてテムズ河の水運史を研究)
皇太子妃雅子さま(ベリオール・カレッジへ外務省の研修留学生として)

ケンブリッジ大学

ケンブリッジ大学オックスフォード大学における大学側と住民の闘争などを理由として、一時解散した同大学から分化する形で1290年に創立された。このため、オックスフォード大学と同様の教育システムを採用している。万有引力を発見したアイザック・ニュートンを始め、過去に輩出したノーベル賞受賞者数は世界一を誇る。

主な出身者:
北尾吉孝(経済学部、SBIホールディングス代表取締役執行役員CEO)
岩崎小弥太(ペンブロック・カレッジ、三菱財閥4代目総帥)
中西輝政(歴史学部大学院国際関係史、京都大学大学院人間・環境学研究科教授)

ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン

ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンロンドン中心部に本拠地を置くロンドン大学が初めて建てたカレッジ。ケンブリッジ、オックスフォード大学といった名門校が貴族の家庭出身者や英国国教徒のみの入学を受け付けていた時代に、人種や思想で学生を選抜することを禁じる方針を掲げて1826年に創設された。

主な出身者:
伊藤博文(聴講生、初代内閣総理大臣)
井上馨(聴講生、政治家)
夏目漱石(聴講生、文学者)
小泉純一郎(聴講生、元内閣総理大臣)

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス「LSE」と略されて呼ばれることの多い、社会科学の分野に特化した高等教育機関。欧州各国だけではなく、アジアやアフリカの首相職に就く政治エリートを多数輩出している。ジョン・F・ケネディ元米大統領に加えて、文学者のジョージ・バーナード・ショーや経済学者のポール・クルーグマンも同大学卒。

主な出身者:
麻生太郎(中退、前内閣総理大臣)

ロイヤル・バレエ学校

ロイヤルバレエロイヤル・バレエ団の傘下にあるバレエ専門学校。同校を卒業した世界的なバレエ・ダンサーは数多い。11〜16歳を対象とした「Lower School」がロンドン西部リッチモンド地区に、16〜19歳の「Upper School」が同中心部コベント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウス劇場横に校舎を構えている。

主な出身者:
熊川哲也(Kバレエ・カンパニー芸術監督)
吉田都(バレリーナ)

ベッドフォード大学

ベッドフォード大学英国では初となる女性のための高等教育機関として、当時の女性社会運動家らの支援によって1849年に創立された。20世紀初頭にロンドン大学の一部となり、現在はロイヤル・ホロウェイ・カレッジと名を代えて共学となっている。19世紀を代表する女性作家ジョージ・エリオットも同校の卒業生の1人。

主な出身者:
大江スミ(衛生科、東京家政学院創設者)

英国王立音楽院

英国王立音楽院ロンドンの広大な公園リージェンツ・パークの近隣に校舎を構える、英国随一の音楽学校。ロンドン・シンフォニー・オーケストラの指揮者を務めるコリン・デイビスなどの才能を育ててきた。また併設されている青少年部門コースの卒業生に、ポップ歌手のエルトン・ジョンがいる。

主な出身者:
川畠成道(ヴァイオリニスト)

セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート

セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アートアートやデザインの勉強を志す学生たちにとっては憧れの大学。卒業者名簿には、ジョン・ガリアーノやステラ・マッカートニー、ポール・スミスといった今をときめく一流ファッション・デザイナーの名がずらり。短期コースも数多く用意しており、日本人留学生の間での人気も高い。

主な出身者:
岸本若子(ファッション・プリント科、「イーリー・キシモト」デザイナー)
Rie Fu(ファイン・アート科、歌手)

ストラスクライド大学

ストラスクライド大学グラスゴー大学に続くグラスゴーで2番目の大学として、1796年に創設された。大学設立のために土地の寄進などを行った人物の名を取って、当初はアンダーソン大学と呼ばれていた。鉄工や造船が盛んな土地の事情を反映して、1964年に英国で初の工業大学に。この際に現在の名へと改名した。

主な出身者:
山尾庸三(夜間コース、工学者)

 

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